尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ の法会開示 – 2010年9月

2010年9月4日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで、120名の信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

2010年9月5日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、台北寶吉祥仏法センターにて、殊勝な共修法会を主催した。

法会開始前、ある女子の弟子は先に公で皆さんに、彼女の甥がリンチェンドルジェ・リンポチェの助けを得たことを分かち合った。2008年4月末のある土曜日に、彼女は兄が台南から助けることがない電話を受け取って、彼の息子がICU治療室にいて、更に医者が既に危篤の知らせを出して、この2日間が肝心な点であると言った。彼は彼の息子がこの危険時期を過ごすことを助けていただけるように私達の上師に求めた。その時、彼女が涙が溢れていて、そしてすぐに寶吉祥宝石店へ上師に助けを求めに行くと兄に教えた。寶吉祥宝石店に着く時間が既に遅くなり、法照(上師の写真)に頂礼をすることしかできなくて、そして上師の写真に向かって、リンチェンドルジェ・リンポチェに報告した。兄弟子はずっと彼女に、兄と兄嫁が自ら上師に求めに来たほうがいいように注意している。彼女は兄に上師に会っていないことを教えて、彼らが上師が甥を助けることを求めに来るように要求して、この難関を渡る機会があるように祈って、もし甥の体はもう使うことができないと、三悪道に堕ちないように求める。この弟子は直接にリンチェンドルジェ・リンポチェを供養する機会がなくて、法会の時、前もって用意している供養を供養の箱に入れた。

その時、彼女の看護婦の経験があった兄嫁は息子が更に手術にて治療を行うことを望まない、なぜかというと、各種の薬剤のため──例えば抗生物質、既に子供の体が負荷できない分量を上回る薬を使って、兄嫁は子供が更に医療の苦しみを受けることを望まない。しかし彼女の兄は医者の提案を聞いて手術にて治療を行うことを堅持して、夫婦の意見が食い違った。彼女の兄嫁はついに自ら台北へリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しにくることを決定した。兄嫁の北上した日に、この弟子は既に先に宝石会社に着いて待っていて、リンチェンドルジェ・リンポチェがもうそろそろ法座を降りるところ、兄嫁はまだ駆けつけていないで、この弟子は先に口を開いて上師に願って、彼女の甥を救ってくださいと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは「誰か。彼の父親と母親はどこか。供養したかどうか。」と聞いて、この弟子はこう「甥である。兄嫁はMRTの駅からここに速く歩いてくる途中である。」と答えた。他の兄弟子は彼女のかわり、「道場で大供養したことがある。」と答えた。兄嫁は上師に会うと、すぐひざまずいて地上で上師に願って、彼の子供を救うように祈請した。リンチェンドルジェ・リンポチェは子供が事故が起きた前にどこに行ったのかと確認して、彼女の兄嫁は行ったあれらの宮や廟などを答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは「違う。更にもっと前にどこに行ったことがあるか。」と言って、兄嫁は「清明節(清明節に墓前で行われる祖先を祭る行事)に埔里家に墓参りをしに帰った。」と回答した。リンチェンドルジェ・リンポチェは「彼を連れて墓参りをしに行ったかどうか?」と言って、兄嫁の回答は「彼の父が彼を連れて行ったことがあるかどうか知っていないか?」である。リンチェンドルジェ・リンポチェは「子供が病気にかかるのは先祖を祭る肉など食べ物を食べたからである。その他に、子供の祖母が他界した時、彼の父は誰と喧嘩したか。」と開示した。兄嫁が客家の言葉ができなくて聞いても分からなくて、その時にどんな事が発生したのかと知っていない。この弟子は「確かに喧嘩したことがある。」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に子供を加持して、「子供が病気にかかるのは、福報を使い切れるからである。子供が病気にかかってから、やっと何が最も痛い事が何でかを知っている。今晩は肝心な点であり、もし熱が出る温度はずっと上昇していくと、もう間に合わなくて仕方がないが、上昇しない状況であれば、明日に私に会いに来る。」と開示した。

翌日、彼女の兄が兄嫁と一緒に金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しに来て、兄は上師に子供の状況を伺いを立てたり報告したりして、医者の話を聞いて手術を行うことを決定したと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に彼女の兄に2粒貴重な甘露丸をあげて、そして1粒は手術を行う前に食べて、1粒は手術を受けた後に食べなさいと開示して、同時に彼ら夫婦が喧嘩しないでくださいと要した。この期間に、子供の体重はずっと減って、兄嫁は子供にリンチェンドルジェ・リンポチェがくれた甘露丸を食べさせることを望むが、しかし兄はあれが最後の命を助ける丸であり、手術を受けてから食べさせることを堅持していた。しかしとても特別であるが、子供はずっと各種の原因にで手術を行ってないため、先ずは麻酔の医者が麻酔をかけると提案しないことや、病状は変化が起きて手術を行っていないで、甚だしきに至ってはその他の医者が子供が自分で元に戻すことができることを評価することが現れる。これらの情況のため、子供の手術の時間は何度も延びしなければならない。

それから彼女の兄と兄嫁は再度北上して上師に求めに行って、言い方を変えてリンチェンドルジェ・リンポチェが彼らの子供に手術を受けないで健康を回復することができるようにさせると祈った。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らにこの期間また神頼みや占いにすがるかどうかと聞いた。彼らが確かにしたと答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは厳しく彼らを責めて、仏菩薩が信じないからまた何を求める必要もないであろう。そして彼らが前回彼らに上げた甘露丸を返して、そして帰って自分が幼い時から大人になるまでどのくらいすべきでない事をしたことを考えてみると要した。彼らは聞いて大懺悔心が起きて、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に「大懺悔をすることも供養の一つであり、福報を少し累積できる。」と開示した。そして再度子供のために呪文を唱えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らがこの期間に子供の代わり、道場へ殊勝な施身法及び共修法会に参加しにくることを許して、しかも再度貴重な甘露丸を賜った。

リンチェンドルジェ・リンポチェの加持と加護にとても恩に感じて、彼女の兄嫁は法会に参加した後に、子供の状況はすこしずつ改善して、もとは危篤の知らせを受けた状況にあるが、そしてICU病棟に移すことができるように進歩して、さらに、医者が手術を行う必要はないと言ったようになった。というのは子供の肺の穴が既に自分で癒合したから、その後に普通の病棟に移動して、しかも全快した。この弟子はたいへん尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大慈悲力に感謝した。この事件のため、彼女に深く人生無常と因果の恐ろしさを感じさせて、ただ尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに従って、初めて彼女が輪廻を断つことができる機会があると思っている。

過去の数回の法会の中で、リンチェンドルジェ・リンポチェはガムポパ大家の開示で、心念で修行する方法を説明して、諭されたのはすべてただ顕教の範囲である。顕教は理論であり、あなた達がいかなる事をする場合と同じように、すべて事前にこの事の道理を知なければならない。しかし、一部の人が誤解して、理論が分かるともう修行していると思ったが、事実上、理論ができても、遣り遂げるとは限らなくて、やる方法がなくてはならなくて、金剛乗は方法である。

そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェがこの数週間の開示を聞いて、いくつかのことが分かっても、完全にやり遂げることができなくてと感じたが、これはそなた達が密法を修行していないため、密法は公に伝授しないのである。ある人は釈迦牟尼仏が密法を教えたことがないと思って、密法が偽なものだと思って、実はお経の中に密法があるのであるが、ただ見ている人が見付けなくて、法本さえもこの通りであり、昔、直貢チェ・ツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェに法を伝えている時に、法本の中の呪言も完備されていないで、上師の口伝に頼るしかできない。以前はリンチェンドルジェ・リンポチェは顕教を学んでいる時に、同様にも密法がないと思って、しかし毎日たとえ数時間読経しても懺悔しても、ずっと納得できないことがあって、どうして自分がお経の上に言かれた修行の境界に達することができないか。仏菩薩は間違っていないで、仏法も間違っていない。もし仏法が間違いがあれば、それは仏法ではないから、仏菩薩の教えた方法は、必ずやり遂げることができるが、顕教の方式を使ってなぜできないのか、それは金剛乗を修め得ないためである。顕教の方式により仏になるならば、3大阿僧仔劫に掛かる事が要るし、此れは長くて長くて時間が要って、人類の数字を使っても計算する事も出来ない。

もしかするとある人は、どうして釈迦牟尼仏は当初はっきりと説明したらいいではないと思ってるかも知れない。実は、仏の時代に仏法を発揚するのは容易なことではなくて、今全世界(欧米諸国とイスラム教を含む)もすべて多少仏法のことを聞いたことがあると違った。仏は初め法輪を転ずる時に、ただ自分に遵う6人のお付き者について仏法を開示した。その時、インド人は仏法に対して少しも認識して否いなくて、現地は2種類の宗教に盛んになった。1つは台湾人に信じられている拝拝教、つまりいくつか果物の供え物を持って拝みにいったら、全ての物事が欲しくて、神が彼らの心の中で思うことをやり遂げてくれてほしいと思ったが、その他に一部の人はヒンドゥー教の禅定を修行して、例えば、きわめて長すぎる時間を通して一本の足で立つ方法にて単に苦修しているのもある。

今日に至って、インドは依然として1つの古い宗教―ジャイナ教に広く伝わってきて、この宗教を信奉する出家衆は服を全部脱いで、彼らはすべて同じく菜食精進料理を食べている。ジャイナ教の中の出家衆は、仏教の出家が剃髪して出家して髪を下ろすと違って、上師が出家する弟子の髪の毛をつまんでの抜いてしまうことである。

インドは昔々よりカースト制度を伝えられていて、もしそなたの身分は賤民であれば、あなたの学問はどれなに高くてもどんなに金があるにも関わらず、そなたは何回も生まれ変わっても賤民であり、変更することができない。貴族の身分の人にとって生活するのはたいへん享受するが、しかし賤民にとってきわめて苦痛であり、だから仏は初め法輪を転ずる時に、これらの賤民に輪廻にある苦痛を開示して、彼らに生死に解脱するように教えて、そしてあちこちに回ってその他の宗教と論争して、たいへん苦労して仏法を発揚した。そなた達が気軽にテレビをつけて仏法があると思って、仏法に対して少しも恭敬しなくて大切にしないと違う。

実は、釈迦牟尼仏はお経にも密法に言及したことがあって、例えば、阿弥陀経の中に、「若一念、二念、乃至十念皆為阿彌陀佛、便可往生阿彌陀佛的淨土(もし一念、二念、乃至十念まですべては阿弥陀仏であれば、すぐ阿弥陀仏の浄土に往生できる)」という文がある。世の中の法師は経文を誤解して、臨終になる者が阿弥陀仏の仏号を10回唱えたらいいということを思っていて、こんなに簡単なことがないであろう。それ以外、そなた達は身内の人が他界したことにあったはずであり、人が臨終を迎える時に、呼吸の方式は変えて、吐く息が多くなって、吸う息が少なくなって、ふだん呼吸する方式と完全に異なっていて、臨終を迎える者がまたどのようにして自分で仏号を口にするのか。リンチェンドルジェ・リンポチェは亡者のため法を修めて済度する時に、亡者の神識が目の前まで呼んで釣ってきて、この亡者の最後の考えが分かって、彼の執着することである。固執を断つため刃物のような般若が必要である。、もし断ちたい固執はかなり難しければ、これもすべてのお経はそなた達に全て懺悔心を起きるように要している。実は、阿弥陀経に諭された一念、二念は、臨終になる者の考えはただ阿弥陀仏しかできないので、その他の雑念があってはいけなくて、しかしこれがやり遂げるのがとても困難である。

法会の現場で、リンチェンドルジェ・リンポチェは法会に参列する大衆に10秒間座り込ませて、試みて自分の考えの中に阿弥陀仏だけが存在してみる。終わった後に、皆はすべて自分の考えがとても多いことを承認して、やり遂げる方法がない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこう開示した。ただ今皆に静座させる時に、実はリンチェンドルジェ・リンポチェは考えがなくて、すでに禅定に入って、動かないため、みんなの考えがすべて乱れていることを知っている。多くの弟子は既に長年に皈依して、何回もの法会に参加して、リンチェンドルジェ・リンポチェが指示された仏法をこんなに多く聞いたが、自分の考えさえ制御することができないで、此れは素直に従わないで、密法をまだ習っていないためである。

お経に、明らかに釈迦牟尼仏は密法に言及したことがあって、どうしてみんなは見て取れないか。これで行者が密法を修行したことがないから、気づくことができない。例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェはこのように密法を修めた行者であれば、すでにこの程度まで証得することができて、この段階を通って、一目でお経の内の言われる密法を見分けられる。禅を修める行者は、彼たちが仏像でも要らなくて、禅房の中には何も置く事がない。然し、禅を修める者はこの世に仏果になる事が出来ない、此れは彼たちが禅座においても、然し、彼たちが依然として禅座の考えを存在している。

大蔵経の続部に言及されるのは、金剛乗が公然に法を伝える。たくさんの秘密があるためではなくて、根器がないと法を伝えることができないからである。事実上、東密、唐密、チベット密法も同じである。もし弟子の根器が間違いならば法を伝えない。いわゆる根器の最も重要なのは菩提心まで修め得る。金剛乗の上師が密法を弟子に伝えるのは非常に厳格であって、密法を修行して成就を得たら、そなたは衆生を助けることが出来る大能力が持たせるが、しかし、もしそなたの発心が正しくなければ、慈悲心や菩提心で修行するのではないと、貪嗔痴など念頭がまだあれば、そのように密法を修行して得た大能力はあなたにもっと多くの衆生を傷つけるかもしれない。金剛乗で法を修める力がとても大きいため、多くの衆生を利益できるから、相対的に、もし法を修める人の心は正しくないと、多くの衆生をも傷つける。悪人のように、もし手に武器がなければ、1対1で素手で人を殴ることしかできないが、もしひとつの刀があったら、彼は一人を傷つけることができる。しかし、もし彼はひとつの銃があれば、国外のあれらのキャンパスの銃撃事件のように、銃を持って掃射して、一回も10数人まで傷つける。いくつか強権の国家のように軍隊と先進的な武器を持って、いったん戦争を始めたら、死傷者が無数になる。そなたが武術を学んだら、もし使い道が正しければ、自分や他人を保護することができるが、もし間違ったら、他の人をいじめることに用いるのである。密法を学ぶ事とは根器が要る理由は、此の理と類似で、然し完全に同じではない。

そなた達のように、慈悲心が無いし、貪心で、悩みが多いのは根器がない、金剛乗を学ぶ事が出来ない。何故そなた達は改正する事が出来ないか、此れは仏を学ぶ事と生活を送る事が分かれるのである。リンチェンドルジェ・リンポチェと皆の最も間違いのはリンチェンドルジェ・リンポチェがただ一つの身元だけが持っていて、24時間が全て仏弟子である:全ての考えが三恩根本上師直貢チェツァン法王を思っていて、つまり、全ての考えが上師を思っていて、ただ上師の事だけで最も大切で、三恩根本上師直貢チェツァン法王が全て説いた話が仏法と深く信じている。そなた達と間違わないように、多重身元を持っていて、ただ法会に参加する時には弟子で、離れると他人の恋人で、帰宅と子供の身元で、仏法を以ってそれぞれの生活にを使わない、最近、ある弟子は家族と約束がある理由で、上師に謁見する事を拒絶した。そなた達は上師を拒絶するならば、自分が上師から与える加持力を断らせて、スイッチが閉じてしまうようである。

ある人は、何故リンチェンドルジェ・リンポチェが時間が掛かって僅かなようなに問題を修正させるのでしょうか?法本には説いた事があり、黄金が磨く事が要って、それから光芒がきらきらと輝く事が出来初める。そなた達の現代人の話とは、ダイヤモンドが磨く必要があり、この光芒がきらきらと輝く事が見えるのである。衆生は全て仏性があるが、悩みでごまかして現れる事が出来ない、誰かがそなた達に珠宝をきらきらと磨くか?それはそなたの上師である。そなた達は珠宝を持っているように、珠宝鑑査師を通して真偽を鑑査し、直貢チェツァン法王のこの世は珠宝鑑査師で、世間の大修行者を発掘する。宝石が磨かなければならない、だから金剛乗の教法も切ったり、打ったり、罵ったりする事を採用してそなた達に変わらせる。宝石の原鉱のもとは見た目が悪くて、顕教の方式によれば、大きい塊で切る方式により宝石を磨いて、そなた達はダイヤモンドを磨くなら修正の角度が極めて微かだ知っていて、金剛乗の教法がこのように、各々微かな角度によりダイヤモンドを磨く。金剛乗の上師は弟子にとってこのようにして、そなたの角を切らせて、自然に心性が現れて始める。

リンチェンドルジェ・リンポチェは昨日信衆を接見し、午後の4時半から夜の10時まで、凄く大変で、リンチェンドルジェ・リンポチェは、弟子の家族が死んで或は重病に罹って、或は弟子を接見する事をしない事を指示させた。ある弟子は最後に待って、また娘を率いて前に来て、リンチェンドルジェ・リンポチェに娘の来月の試験が如何するかのを問い合わせた。此の弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェが1、200人余りを接見して、疲れる程度がすでに倒れよう事を見ないし、娘が試験する事をずっと堅持して問い合せて、上師に少し慈悲心もない、ただリンチェンドルジェ・リンポチェだけで利用して、上師を乾かせる事だけである。慈悲心を修めない人はただ自分の事を考えていて、上師が倒れよう事を見る事が出来ない。

試験の結果はよいかどうか、これが福報、因縁と努力に関して、加持しても試験が良くなっている事ではない。加持とは本来ある業がそたに障って、そなたに排除してくれて、しかし加持だけ頼んで自分が努力しないなら、試験を受ける事が出来で、まさか加持を得ると、試験を受ける時にてがおのずから正確な解答を書く事が出来る事と思っているでしょうか?そうすると、仏菩薩がそなたに代わって試験を受けるでしょうか?仏は微積分を学んだ事がないし、如何にそなたに代わって試験を受けるのでしょうか?手は自分で書く事とは、鬼が体を付ける事ではないか?現代の鬼は全て古代の鬼で、彼たちがその時に幾何学、物理と化学がないので、如何にそなたの手をつかんで解答を書くでしょうか?

そなた達は、修行者が神通を以ってそなた達が欲しい事を助けはずと思っていて、そなたを助けないなら、彼が慈悲がないと話す。神通は子供に加持して試験を良くなっている事ではないし、神通も因果業力を変わられない。仏陀の身の周りの神通第一の目犍連尊者は最後他人が石で殴殺されて、何故殴殺されるか?此れは因果も返さなければならない、若し神通がそなた達がそのような何も出来る事と思っているなら、目犍連尊者がにげる事出来るはずである。然し、神通があっても自分の果報を消却する事も出来ない。

加持の意義はそなたたちの心を受電させて、エネルギーを持たせて引き続きに仏を学ばせる。ある大道場は試験シーズンにいつも二つ大きい足を用意していた。試験を受ける人は触ると、合格できる。このようなやり方は皆に仏法について、多くの誤解を持たせた。この弟子はそのような必死に娘のために加持を求める。このような強い心は反って用いて、仏をうまく習ったほうがいい。そなたは娘が受験する事がとても大事だと思ったが、子供は合格できるのは唯子供の問題だ。しかし、若しリンチェンドルジェ・リンポチェに過労させたら如何するだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは無数な衆生を利益するから、大勢な者、大勢な子供を助けられる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは感嘆したが、根器がいい弟子を見つかるのはとても簡単ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェのある亡くなった友達は昔毎回リンチェンドルジェ・リンポチェに会った時に「いい弟子に遇ったでしょうか。」と聞いた。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎回頭を振った。何故いい根器が無いと言われただろう。そなた達の心は全て変動で絶えずに変わっていた。仏法について、本気に決意して、しっかりに習うのはとても得難い。上師の話に従うのは供養である。リンチェンドルジェ・リンポチェは最近ある者を試したが、結局相変わらず、ある者は既に誰と約束したので、リンチェンドルジェ・リンポチェに会えなかった。上師が話した事は全て勝手に話せず、話した事は全て責任を持った。そなた達は家族が上師より重要だと思った。しかし、上師がないと、今のそなた達がいない事を忘れた。そなた達は全て利益ばかり考えている。事件がある時にリンチェンドルジェ・リンポチェが上師にして、事件が解決したら、上師がない、利己的な角度に立ち、仏を習った。このような事はリンチェンドルジェ・リンポチェに如何なる教えても、このような者を教えたと感じた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは長年に多くの仏法を開示されて、もう十分で、然し、そなた達は相変わらず聞き込めなかった。だから、今後、リンチェンドルジェ・リンポチェはが出家弟子達を任せて、そなた達を連れて読経すればいい。リンチェンドルジェ・リンポチェは本当に疲れた。今年6月6日大法会の後、リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王に今年で自分が引退したいと話した。しかし、直貢チェツァン法王は同意させなかった。

直貢チェツァン法王は2002年台湾で千手観音法会を主法した。当時ある退職した政府官員は主催されて、ある直貢噶舉のセンターを頼んで開催された。寶吉祥仏法センターは主催ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェはずっと自分が参加すればいいと思ったが、弟子を率いて会場に行った。当日法会が始まる10分前に、主催する責任者は急にはリンチェンドルジェ・リンポチェに「直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェを呼んでいる」と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェはチェツァン法王の休息室に行って入り口に立ったままに、直貢チェツァン法王は頭を上げてリンチェンドルジェ・リンポチェを見ると、何故法衣を着ないと叱った。若しそなた達なら、必ず「誰にも伝えなかったや知らなかった」など言葉を言った。つまり先に言い訳を言った。たとえ口から話さないでも心にも解釈した。それは上師の話に従わない。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは解釈しなくて、唯「申し訳ございません。」と言って、すぐ家に帰って着替えした。

上師はある時に各種な方法で弟子の心を試した。直貢チェツァン法王は絶えずにリンチェンドルジェ・リンポチェに試験をくれた。何故このようにしますか?此れは金剛乗の弟子は上師に対するこことが完全な緊密で少しの動揺をしてはいけない、だから、直貢チェツァン法王は数年前までに様々な方式によりリンチェンドルジェ・リンポチェが上師に対する心が変わるかどうかのを試験した。例えば、昔リンチェンドルジェ・リンポチェの生活習慣を分からない時、ある日リンチェンドルジェ・リンポチェに朝六時半を約束した。しかし、会った後何でもないと言って、リンチェンドルジェ・リンポチェに帰らせた。若しそなた達なら、必ず喜んでない。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは唯直貢チェツァン法王の指示なので、従って理由を聞かない。その後、直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェの生活習慣を分かった後、朝六時半ではなく、七時半を約束した。ある時にリンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王の指示を喜んで約束したが、直貢チェツァン法王は反って「暫く行わない」と言った。実は上師はそなたを試して、上師に完全に従うかどうか。リンチェンドルジェ・リンポチェは全て直貢チェツァン法王の指示に対して、素直に従って自分の考えを持ってない。

そなた達は幼い時大人の話しに従ったが、少し大人になってから、自分は分かると思ったので、他人の話を聞く必要がない。毎日独りよがりだ。二日前のニュースによれば、有る教師は生徒に遅刻大王と言った。結局訴えられた。その後4ヶ月刑罰を負わせる。現在の生徒は教師より立派なので、打たれなくて、叱れない。そうしないと、先生が何時か訴えられるだろう。現在の弟子も上師より偉くて、自分の考えがあって、上師の話に従わなくて行った。現代の者は本当に師を尊び、道を重んじていない。そうなると如何なる教えるだろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは先週に仏を習う極めて重要な法門-念で修行と開示された。今日は直貢噶舉の伝承説法大手印法門を開示された。しかし、此れはまだ顕教の範囲にいる。金剛乗仏法を習うのは必ず仏法の理論及び実修の方法をはっきりしないとできない。理論とは顕教経典の仏法の開示である。方法とは密法である。ガムポパ大師は以下に開示された。波羅密多の教法は心で執持した外境を捜して、「一」と「多」の分析とロジックを離れて、正しい考えをしなければならない。しかし、此れは完璧な修法ではない。此処の波羅密多は顕教の修行法門であり、知恵を修めて、心で推敲して、如何なる一切外在現象に連れた煩悩を断ち方法を探した。各妄念、煩悩は如何なる来るや如何なる断つ事を一つつづで捜す。木を穿孔して火を取る事と同様に、燃焼を助ける材料を探してはいけない、此れはかなり長い時間をかかる。その長さは数字さえ数えられない。

文殊菩薩は右手で剣を持つのは知恵の剣で煩悩を断つことを表した。金剛乗の上師が法を伝授するのは歴代伝承上師の修行して仏果を認め、仏を学ぶ成就の心要及び顕教の理論、更に上師の自らの実証の修行の経験である。だから、上師の加持はスイッチのように、そなたに早めに充電させる事が出来で、上師の知恵の説法はそなたにこの世に速めに成就させるのを助けるから、異常に厳しい。しかし得た効果も非常に速い。だから、そなた達に多くの修行の時間を節約させるを助ける。若し把握できなくて、この世に努力して修行して成就を得ないと、此の世に無駄して、無駄に生れた。しかし、ある本当に密法を伝授する金剛乗上師に遇う事は極めて難しい事である。

「仏法を理解するように聞きたい」も外境を求める。そなた達凡夫は肉身で如何なる目が見ても、耳が聞いても、鼻は嗅ぎでも、全ては真実の現象ではない。如何なる心で外在に現れた仮想を執着させないのは知恵が必要だ。般若は即ち知恵である。知恵は鋭い剣のように執着と妄念を断たれる。そなた達に執着を持たせないのは不可能だ。だから、上師と仏菩薩を唱える事を教えて始める。そなた達はこのようにすれば、清浄な心で、此れは心と考えが全て上師と仏菩薩で、悪念を納める空間がない。心は外境と繋がる結びが解ける。この結びは全てそなたは付けたから、必ず自分で解けられる。上師はそなた達に方法しか教えないが、そなたに解かせるわけではない。全てはそなたは自分を頼らないとできない。仏教は他の宗教と最大の違いは他の宗教はそなたに主或いは神の話を聞けばいい。しかし、仏菩薩はそなたに如何なる変える事を教えて、そなたは自分が行う。仏菩薩からそなたのために行うわけではない。

「一」と「多」を離れる修行とはそなたの分別心念を離れて、平等心を修める事だ。実は世間に一切の分別は全て心から起こった。中国唐朝時代に女性は太いなら、美しいと思った。若し唐朝の女性は現在の女を見ると、本当にびっくりした。食べられるのに食べる勇気が無い。細いのは美しいと思ったか?実は太いと細いや美しいと醜いとはそなた達の二分法だ。つまり分別心である。そなたたちは女として食べられるのに食べなくて、骨を見えるように痩せるのは餓鬼道に堕ちる相を現して、食べるのに食べられない。だから、もうダイエットのために食べない事を止めなさい。

実は仏法は最先端の科学である。宇宙の源及び動物の進化など理論について、現代科学は全て推測した。しかし、仏法は説かれた事は真実に存在する現象である。そなたたちは目で見た物はつまりその形、一があると思った。しかし、科学に於いてこの物の中に多くの分子を含めて、一とは言えない。たとえ一個の細胞でも、多くの細胞を分裂できる。この細胞の源も唯一つだ。実はこれは全てそなたたちの分別心だ。そなた達は自分は左手及び右手があると思って、しかし、そなたたちは鏡に自分を映すと、自分は右手を挙げたのに、鏡の中に挙げたのは左手だ。実はこれは全て分別心だ。そなた達ははが反射現象と思って、人の心もよのようで、心が全ての外在の現象を反射する。分別心から様々な念は起こったから、念があれば執着で煩悩がある。

釈迦牟尼仏は何のために地球に来ただろう。在世した時、40年に様々な異なる法門を説かれた。説かれた事は何だろう。全ての経典の中に始めの開経偈は「願わくば如来の真実義を解したてまつらん。」だ。ここに説いたのは文字の意味ではなくて、全ての人は仏法の本当の意義を知りたい。実は釈迦牟尼仏は地球に来た目的は唯一件の大きい事だ。つまり、世間の人々に生死輪廻を解脱する事を教えた。しかし、金剛経に仏は最後まで自分が説法しなかったと説かれて、その上、正法でも捨てる事を述べれて、まして仏法の以外のものである。多くの者はこの事について分からない。仏は明らかに長年に異なる仏法を説かれたのに、何故一法でも説かれないと言っただろう。仏法の法は方法ではなく、宇宙に存在した現象だ。仏は説かれた一切の法は全て因縁により説かれた。仏はこの世に来たのは衆生を助けて苦しみを離させる。仏は自分が既に苦しみを離れたから、仏法の助けを要らないだ。しかし、衆生はまだ輪廻の苦海にいるから、仏は衆生の様々な苦しみに対して、色々な異なる苦しみを離れる方法を教えた。一切の法は全て縁によって生じ、縁が滅して終わることで永遠ではない。例えばそなた達に仏、上師を念じて、そなた達の悪念を抑える事を教えたが、そなた達は最後まで修めると、この方法も使う必要がない。自然に悪念を起こさない。何故心の中には邪念があるか?此れは心の中には上師がいない、先上師が皆に自分の考えが阿弥陀仏だけでしてみる事を要求させても、皆もしたくない、心が如何に悪でしょうか!若し仏は一法を説法して、衆生はこの法を得て、輪廻苦海を離れれば、この法も世の中に存在する必要がない。だから、一法さえない。

顕教は教えた方法は念を一句の仏号に定める事だ。この法で修行すれば、そなたを助けて、三悪道に堕ちさせない。しかし、成仏できない。金剛乗上師の教法は上師、本尊、仏菩薩の真言に定める。真言は上師、本尊、仏菩薩の慈悲、功徳、願力であり、真言を唱えるとそなたの仏性を開いて、つまり全ての人が具えた仏性、法身を開く。金剛乗はそなた達に心が体から持っていく感じを断る事に助ける事が出来る。

リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子に今日の仏法の開示について、どんな感じを聞いた。ある弟子は嘗て他の所で別の上師に従って、長年に仏法を習っていたけど、今まで先上師が教えてくれて、真言を唱えると仏性を開く事を繋がるという殊勝な法門を聞いた事がない。誠に感謝して賛嘆した。

続いてリンチェンドルジェ・リンポチェはまた他の弟子に今日の法会に何か聞いたと聞いた。ある弟子はどうしても言えなくて、唯自分の状況を解釈して見た。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に何回も考えないで、唯先現れた念を話せばいいと言った。しかし、彼はまだ言わなかった。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは話せるのに言わなくて上師の話に従わないなら、寶吉祥のベストを抜いて出ようと開示された。

ある弟子は我々は生まれてから仏性を備えたけど、累世の貪、瞋、痴、慢、疑はとても重いから、仏性を覆われた。我々は諸仏真言を唱える時、妄念を減少できると言った。

ある弟子は今日の開示を聞いて、自分の体調が悪い事は無常だと思うと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ自分しか考えない。

ある弟子は上師に弁解をする事はずではないと言った。

ある弟子は「仏菩薩の真言を唱える時…」と言ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に別の言い方を換えさせた。しかし、この弟子はまだ同じな言葉を言った。結局リンチェンドルジェ・リンポチェも彼女に寶吉祥のベストを抜いて出ようと言った。

ある弟子はまた真言を唱える事を言った。リンチェンドルジェ・リンポチェも彼女に別の言い方を換えさせた。この弟子は自分がとても懺悔したと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェも彼女に寶吉祥のベストを抜いて、しかし残して信衆になれる。

ある弟子は今日上師念は起こった時消え始まったと開示された。昔上師は嘗て開示されたが、念は起こった時、追い駆けないで、自然に消えさせた。第二、弟子の業力は深く重くて、根器は足らないから、念はとても混乱して常に念を把握できない。今日上師の開示は心に上師を覚えれば、上師の加持を得て、決定的な瞬間に把握できる。

ある弟子は観心無我、観法無常、衆生を念じて、縁によって生じ、縁が滅して終わると言った。

ある弟子は元々死亡に対して、非常に怖いと感じた。今日上師の開示を聞いて、往生前に上師及び本尊を覚えれば、六道の輪廻から解脱できる。とても感動と感じた。

ある弟子は専念に真言を唱える事を言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは今日専念を話したかと言った。

ある弟子は常に仏菩薩、上師と仏号を覚えれば、ゆっくりに我々の本性、つまり仏性が現れる。

ある弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェが今後出家衆に皆を連れさせて、読経する事を聞いた後、非常に懺悔してまたリンチェンドルジェ・リンポチェを求めて、弟子を諦めない。弟子はもっと努力すると言った。

ある弟子は今日大礼拝した時に気持ちが悪いなので、衆生を利益する考えを完全に持ってない。更にリンチェンドルジェ・リンポチェが今日数人のラマを探して皆を連れて読経する事を聞いて、非常に懺悔した。六年半に皈依したのに、全て無駄だ。リンチェンドルジェ・リンポチェに我々を諦めない事を求めたと言った。

ある弟子は、すべての人は心念があり、貪瞋痴のような考えがり、リンチェンドルジェ・リンポチェは我々に如何に此のらの心念を起こさせない事を教えてくれる事と言った。

ある弟子は、上師がないと弟子がない、上師は何を説いたら我々に何をしていく事と言った。

ある弟子は、上師の話を素直に従って、上師は何を説くに関わらず、我々も素直に従わなければならない、弁解をしてはいけない事と言った。

ある弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェは自身を例を挙げて、法王が様々な方法をリンチェンドルジェ・リンポチェに試験して、リンチェンドルジェ・リンポチェに加持させて、リンチェンドルジェ・リンポチェが拒絶する事をしなくて、完全に受け入れて、此れは金剛上師が何をしても全て弟子の為に、弟子を珠寶にする。2、リンチェンドルジェ・リンポチェと諸仏菩薩は極めて慈悲で、衆生が仏を学ぶ過程には全ての困難に遭う可能を了解して、多くの対応する方法を教導させる。3、リンチェンドルジェ・リンポチェは開示させて、仏を学ぶ事とは時間と場合に分けない、道場に仏弟子で、離れると変わる事が出来ない。

ある弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェに報告して、弟子の体得が我々の凡夫の心が外在を簡単に率いて動いて、だから、上師から開示させる仏号を唱える事により、心をこの上に安ずる事が出来る事と言った。

ある弟子は、初めの考えはリンチェンドルジェ・リンポチェが全ての人が仏性がある事を言った事があり、真言を唱えるとは仏菩薩の心咒で、我々の心が仏菩薩と一緒にいて、つまり上師と一緒にいる事と言った。

ある弟子は不断に心に反省して、外に求めないと言った。

慧満師:上師が説いた話とは我々に自分考えを持たない、素直に従って、此れは私の問題で、私が極めて悲しかった。

数人の弟子は交替に自分は今日の法会に聞いた仏法を話した。リンチェンドルジェ・リンポチェは次の如く開示された。金剛乗の上師に遇うのは極めて難しい。若し上師は苦労に説法して、聞く人は幽霊のようにはっきりに仏法を認識できないなら、上師が仏法を伝授する縁がない。リンチェンドルジェ・リンポチェは本当にいい根器の弟子に遇って、金剛乗の密法を伝授する事はとても難しい。今回説かれた仏法はリンチェンドルジェ・リンポチェが再び開示していない。今後或いは来年に毎週説法しないかもしれない。長年に経って、リンチェンドルジェ・リンポチェは絶えずに繰り返して多く話した。そなた達は若し此の世に一心に仏法を習う事を決意せず、誠の心で上師の教法を求めないと、本当に習えない。

そなた達は、今日リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子に起きて問題を回答させる事を思えない、5年に皈依したのが全て起きて問わせて、必ず上師が此の方式を思ったことがない。以前から今迄にはこのようなした事がない、リンチェンドルジェ・リンポチェの方式が多いである。法会の初め、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に説いたり笑ったり、急に此の方式をする事を思ったことがないでしょう!俗語より説いて、笑いの中に刀を隠す、リンチェンドルジェ・リンポチェは笑いに智慧を隠す。そなた達は幽霊のように、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示させる内容がそなた達が聞きたい体の問題ではないし、聞きしたくない、心の中に自分の考えと欲望を満たしている。この震撼により、そなた達の心も既に安じて、他の考えがない。リンチェンドルジェ・リンポチェは次回の法会にそなた達が上師が言える事をもっと一心する事を信じている。

何故先リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子に別の言い方を換えるのを要求しただろう。どんな話しても真言を言わないで、そなた達は他人の話しにより続けて話して、然し、人々の体得が如何に同じでしょうか?それは仏法は一つしか話していないけど、所謂正しいや間違いのは無い。しかし、人の根器と因縁は違うので、聞いた体得も違う。仏法は衆生の心に応じて変化したので、決してフォトスタットのように複写した物は全て同じではない。全ての人の感じは同じのは不可能だ。たとえフォトスタットでも最後までインクは少なくて薄くなったどころ我々の人間である。その上、多くの人々が真言を唱えて、静座する事という自分に関する事を話して、また利己の考えで、仏法が衆生に利益する部分が心に置く事がない。

2007年リンチェンドルジェ・リンポチェは閉関を出た時、嘗て三恩根本上師の直貢法王に報告したが、リンチェンドルジェ・リンポチェは此の世に唯二つの気遣いだけがある。一つは母である。それは母は自分に人の身を与えた。もう一つは直貢チェツァン法王は自分に法身を与えた。他には弟子、事業、或いは道場でもちっとも未練や心配しない。

ある弟子は八位の数字の供養金を持って、リンチェンドルジェ・リンポチェを求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼にリンチェンドルジェ・リンポチェの開示に従って、父に説明したかどうかを聞いた。この弟子は無いと返事した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の供養を受けなかった。上師の話に従わないのはを敬わない。敬わないなら、供養が無い。供養がないと福報がない。供養とは必ずお金を奉じる事とは限らない。上師の話に従うのは供養である。

リンチェンドルジェ・リンポチェはある弟子に聞いて、弟子達は真剣に上師の仏法開示を聞かないのはどんな罪を犯したか。この弟子は仏経により什器で例を挙げて、什器が三種類がある。弟子は嘗て読んだ経論により、弟子が犯した罪が三つがある。第一種は器覆である。仏法に完全を受けない。仏法を聞く時居眠りする或いはぼうっとして聞き込めない。まるでカップは逆らって放置するように甘露水を入れない。居眠りする或いはぼうっとする事は最も厳重である。第二種は器汚である。仏法に正しくない知見を存在する。まるでカップに汚れがあって、清浄な法水を入れても混ぜて全て汚れになった。多くの人は仏を学ぶのは健康、財を求めるように完全に自分の利益で考える。こうすれば清浄な仏法を入れられない。ある人の心が清浄ではないように、自分の考えがあり、清浄な法水を入っても、汚れせた。一部の人のように、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示させた経済、土地建物などの市場の変動などの問題を一心する。第三種は器漏である。まるでカップに穴があって水が漏れるように、甘露水を入れても流れた。仏法を聞く時左耳から入ってもすぐ右耳から出て、何も残さない。リンチェンドルジェ・リンポチェは器覆が仏法を聞く時居眠りする或いはぼうっとして聞き込めない。器汚は執着のように心は清浄ではない。そなた達の心を静かにしても幾らの時間に掛かる事が分からない。器漏は仏を聞く時に聞いたら忘れてしまう。この三種類の方式で仏法を聞くのは役に立たないと開示された。上師は弟子に直に静かにさせる事が助ける事が出来るし、汚れせる水を段々に綺麗になって、先のようにリンチェンドルジェ・リンポチェの教法が弟子に一つの自分を検討する機会をくれて、自分を提示して今後仏法を聞くのが必ず恭敬をしなければいけない。

三宝に恭敬心を持つ。上師の話に従わないと、敬わない。敬わないのは供養がない。供養が無いのは福報がない。福報がないと、清浄な仏法を得ない。リンチェンドルジェ・リンポチェに従ってインド、ネパールへ行った弟子は全て見たが、リンチェンドルジェ・リンポチェはチベット語を聞けないけど、直貢チェツァン法王は法会に開示から最後まで、リンチェンドルジェ・リンポチェは恭しく座った。現場にいる弟子は経典を引用して、リンチェンドルジェ・リンポチェの専念な状況を話した。「極めて低い位置を座って、降伏の徳を起し、笑うような目で見て、甘露雨を飲む如く」でリンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王が主法した法会に下に座った恭敬を描いた。何故一時間に法会で開示されたのにまだ弟子は開示の内容を言えないだろう。此れは法に敬わなく、幽霊のように、法会が始まってから心は専念しなかった。

私たちは弟子として、従順にしなければいけない、リンチェンドルジェ・リンポチェが仏法を開示された時、全部よく知ることが出来ないかもしれないが、心が一番大切で、将来これらの仏法はわれらが必ず使って得ることが出来て、覚えば覚えるほど覚えない、上師、三寶に対して恭しい心があるかどうか、われらの回答が1つ言葉しかないさえも、上師が全て分かる。例えば、先程追い出された弟子、どうしても話すがしなくて、そなたは彼が驚かれたと思ったかもしれないが,リンチェンドルジェ・リンポチェが彼を話させたので、話さなければならない。なぜ話すことがしないか?一つは従順ではなくて、誤ちを犯したことに恐れた;もう1つは良く出来ないのが恐くてこれは外境を執着するとも言える。仏法には良く出来るかどうか、正しいと間違いとの問題がない、良いかどうか他人が決めて、自分が決めることではない。ある者は事をまだしないのに先自分が良く出来ないかもしれないと言った、一旦こう話したら良く出来なくなるのが準備して決った、それはそなたが既に自分が良く出来ないようにするつもりである。上師が話させたのに話す勇気がなくて、こんな勇気でもないんで、仏を学ぶ事が出来るでしょうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も仰ったことがあり、仏を学ぶのは自分の正しくない行為を直すのである、自分を変わるのは全宇宙の中に一番大きい工程で、勇気が必要で、立派な者である。

あの弟子がずっと執着して言う勇気がない、自分の弁舌がよくないと思っていい間違いことに恐れて、上師がなんにか聞きたいと推測した。そなた達は上師の考え方を推測しないで、そなた達が推測して得ないから!そなたが1つ字を話せば、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたが耳に入れたと感じた、まるで、以前、釈迦牟尼仏は花をつまんで大迦葉尊者が花を見ると笑って、仏は彼が悟ったこと分かったとの物語りで、弟子は一切上師のご指示に従ってすれば結構である。

2002年、リンチェンドルジェ・リンポチェのお願いの下、尊い怙主直貢チェツァン法王は台湾の桃園で第一回の万人大法会を行った。これも直貢噶舉派が台湾で始めて挙げた万人法会である。法会を行う前に、直貢チェツァン法王は香港で悪い物を食べたので下痢をした。台湾税関に入ったとき直貢チェツァン法王の側にいる一番な腹心の2人侍者ラマ僧はパスポ-トのわけで台灣税関に断れて入ることが出来なかった。こんないろいろな妨げ正法が台湾に伝えて来たとの表れであろう。幸いに、リンチェンドルジェ・リンポチェが既に後続くたくさん仕事を用意した。それに、法会する前の日に、壇城舞台を建て,壇城の屋根の部分を進んで来た時、工作員はどうやっでも建てることが全く出来なかった。前の日の午後4時から翌日朝5時まで、リンチェンドルジェ・リンポチェはずっと現場で見て絶えずに真言を唱えて加持して、壇城及び会場の配置が出来たまで離れなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェはあの頃現場で続けて真言を唱えて加持しなければ、全体会場が完成することが出来なかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは、この万人法会した後、直貢噶舉の法派は台湾でご興隆することを始めた事を知った。今まで見ると、確かにこのようである。

寶吉祥仏法センターの理事長はリンチェンドルジェ・リンポチェの同意の下、法会の参列者に先週直貢噶舉の外モンゴル仏法センターの責任者がリンチェンドルジェ・リンポチェの施身法と共修会を参加した後リンチェンドルジェ・リンポチェを讃嘆するのを分け合った。この責任者は東ドイツ人で、リンチェンドルジェ・リンポチェが毎週の土曜日に固定なこんなに多い重病者を面会して、また加持をしたのを見ると、リンチェンドルジェ・リンポチェが大慈悲心を備えて、一般なリンポチェならば、こんな状況で自分も重病に罹ったと表れた。それに、リンチェンドルジェ・リンポチェが信者を面会するとき全てまっすぐ直線で、脊椎側湾に全く影響されなかった。彼は面会を申し入れに来た者の中に一部が寶吉祥ベストを着て、一部の者は寶吉祥ベストを着ないのを気が付いて、理事長がベストを着ないものは信者だと解釈した後、彼はこれら信者が広告、宣伝のないの状況でリンチェンドルジェ・リンポチェの助けを願いに来るのを十分賞賛した。それに、毎年万人大法会も口耳で伝えにして万人さえが参加に来るのを聞いた後一層リンチェンドルジェ・リンポチェを絶賛した。

寶吉祥仏法センターのホ-ムぺ-ジの中に沢山の衆生はリンチェンドルジェ・リンポチェが修めた殊勝なポワ法を得て、火化した後、頭頂の梵穴に丸くて滑らかな小さい孔が現れた瑞相の写真を見た。特に1人信者がリンチェンドルジェ・リンポチェの修法を得た後、火葬をする前、アイス・ボックスの中に10日間あまりにいたのに、直接頭皮の上にあの丸くて滑らかな小さい穴が見られた。この外モンゴル仏法センターの責任者が非常に嘆賞した、この現象は彼が前ただある本の中に紹介したことがあったが、修め出来た者がいて自分がまだこの目で写真を見られるのを思わなかった。この者はまだ聞いた、直貢チェツァン法王のポワ法がとてもすごくて直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェはリンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修めた後瑞相の写真をご覧になったか?理事長は直貢チェツァン法王が全てご覧になったことがあったと回答した。この者はまた表した、彼の外モンゴル仏法センターの仏堂の上には三尊な仏像しか置かなくて、真ん中は蓮師で、左右には蓮師の仏母である。彼はまたリンチェンドルジェ・リンポチェの法照を壇城に置いて供えるように請い願った。

法会の参列者はこの時に全部で拍手をした。リンチェンドルジェ・リンポチェは申された、これはリンチェンドルジェ・リンポチェのためではなく、直貢チェツァン法王のため拍手した。それは過去、外モンゴルには全てゲルの伝承しかなかった、この数年間、直貢チェツァン法王の努力の下に、外モンゴルにて直貢噶舉の支会を建って、地元の条件は台湾のように良いことではない、直貢チェツァン法王はまたリンチェンドルジェ・リンポチェにこの支会を助けると指示した。直貢チェツァン法王は助けるを仰ったと、リンチェンドルジェ・リンポチェが出すお金はそなたが思ったよりもっと多かった。上師が言い付けた下に、リンチェンドルジェ・リンポチェは“はい”しか言わない、それはリンチェンドルジェ・リンポチェが信じていて、上師が言いつけたことは必ず良いことである。これも所謂善事をさせる。

実は台湾で直貢噶舉派がある因縁は直貢チェツァン法王から起こった。直貢チェツァン法王は始めて台湾に来たのは1983年である。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェは既に直貢チェツァン法王の弟子であ、台湾の初めの直貢センターの護法会会長を担任した。この前に台湾では直貢噶舉派が無かった。直貢チェツァン法王の光臨したので、台湾で直貢噶舉教派を設立した。その後、直貢噶舉教派の仏法センターは続々と設立し始めた。

直貢チェツァン法王が始めて台湾に直貢噶舉派を広大しなければ、そなた達は直貢噶舉派の法脈を接触するチャンスがない。最近台湾にあるセンターは共に直貢噶舉台湾総会を設立して、寶吉祥仏法センターはこの総会を参加しなくて、直貢チェツァン法王も嘗て台湾で直貢噶舉総会を設置する必要はないと表した。表面的に彼らはウェブ・サイトの上でも直貢チェツァン法王の法照を載せたが、実際に直貢チェツァン法王を利用した。直貢チェツァン法王は直貢噶舉教派の法の持主で、法脈の持主が仰った話さえも尊敬せず!上師が全て申された話について、確かにするべきで、表面的に恭しそうにして、私的にかえってこんな上師が認めないことをするのであらない。あるリンポチェは表に直貢チェツァン法王に対して大変恭しくて、個人的にこのことを主宰している。我らは法律てきに他人が総会などを設立するのを止める権利はないが、仏法の立場から見ると、これはすごく不適切で、適宜ではない行為で、その因果が起きた。

只、直貢チェツァン法王は寶吉祥仏法センターが直貢噶舉教派に属すると思えば、他人の話しを問わず、直貢噶舉教派である。

2008年頃、直貢チェツァン法王は自ら台湾に来てあらゆるセンターのリンポチェ達と会議を開いて、2009年に台湾で万人大法会を挙げようと思った。他のセンターの者は大法会を催す経験はないので、何回大法会を挙げた経験がある寶吉祥仏法センターがこの件の責任を負わせようと思った。しかし、他のセンターがいつも自分の意見があったこそ、2010年までに延ばして6月6日にこの大法会があった。しかし、他のセンターの者は寶吉祥仏法センターがこの機会を使って世に知られると思った、それで沢山センターの者は全てこの大法会を参加しなくて、中華仏教直貢噶舉共修学会(理事長徐瑜蘭)、中華藏密大手印五支仏学会(上師ガルナンロル・リンポチェ(Gar Namrol Rinpoche);理事長林逸士)、台北市直貢噶舉竹節仏学会(上師ドラーブジュー テンフェル・リンポチェ(Drubgyu Tenphel Rinpoche);理事長王信發)、台北市阿弥陀仏協会(上師チョーイージュ エーアン・リンポチェ(Choeje Ayang Rinpoche);理事長張國柱)、台湾藏伝仏学金剛乗法縁協会(上師チョフェル・リンポチェ(Chöphel Rinpoche))、直貢光明教法林(理事長徐瑜蘭)、高雄市密藏大手印五支仏学会(上師ガルナンロル・リンポチェ(Gar Namrol Rinpoche);理事長蔡朝宗)、藏伝仏教直貢噶舉五路財神寺(上師チョフェル・リンポチェ(Chöphel Rinpoche))を含む台湾にあるセンターでは、この大法会に参加するのを申し込む者は一人もいなかった。これらのセンターの指導上師:ガルナンロル・リンポチェ(Gar Namrol Rinpoche)、ドラーブジュー テンフェル・リンポチェ(Drubgyu Tenphel Rinpoche)、チョフェル・リンポチェ(Chöphel Rinpoche)、チョーイージュ エーアン・リンポチェ(Choeje Ayang Rinpoche)、ランイェン ヤルポー・リンポチェ(Lamchyen Gyalpo Rinpoche)も参与しなかった。特に、その時、台湾にいるのに、この大法会に参加しなかったのはガルナンロル・リンポチェ(Gar Namrol Rinpoche)とチョフェル・リンポチェ(Chöphel Rinpoche)である。ただ、トリサブ・リンポチェ(Tritsab Rinpoche)、ブヒューマン・リンポチェ(Bhumang Rinpoche)、センゲテンジン・リンポチェ(Senge Tenzin Rinpoche)、ラブサン・リンポチェ(Rasbsang Rinpoche)、イシ・リンポチェ(Yeshi Rinpoche)、パルンキェンツ・リンポチェ(Palme Khyentse Rinpoche)しか出席しなかった。これらの他のセンターの者は全部良く分からなかった、この法会の主催機関は直貢噶舉派で、主催者は尊い怙主直貢チェツァン法王で、リンチェンドルジェ・リンポチェではなかった。寶吉祥仏法センターは只協力して、「協力」との二つ字は幾らかかったか?理事長が1900萬元と表した。リンチェンドルジェ・リンポチェはこれがまだリンチェンドルジェ・リンポチェが自らでかかったお金を含まないと仰った。直貢チェツァン法王の安全それに、直貢チェツァン法王が台湾で割合に快適なところで休ませるため、リンチェンドルジェ・リンポチェはチェツァン法王に一家を見つけて、直貢チェツァン法王が台湾で全ての事務を手配した。その他の台湾での直貢信者達、ラマ僧、リンポチェが直貢チェツァン法王に拝見する因縁があるようになった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは名、利を求めない、他のセンターの者はリンチェンドルジェ・リンポチェが名利を求めるのを思えば、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子がこんなに多くて、少し者を捜せば、リンチェンドルジェ・リンポチェが毎日テレビメディアの上に現れるのを出来させる。直貢チェツァン法王が台湾にいた間に沢山メディアの取材を受けた、そなた達は全て見た、リンチェンドルジェ・リンポチェはメディアの上に顔出さなかった。司会者さえリンチェンドルジェ・リンポチェに一緒に取材を引き受けるのを要請してもリンチェンドルジェ・リンポチェは承諾しなかった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは有名になりたくない、黙って衆生を助けてもやはりある者はリンチェンドルジェ・リンポチェを攻撃して傷害して、リンチェンドルジェ・リンポチェを消えさせたい、それはそなた達のような弟子達をあったから、彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェが彼らを続かせない。現在外沢山者はリンチェンドルジェ・リンポチェがこんなに沢山弟子があったのを嫉妬している,何年前彼らも法を修めてリンチェンドルジェ・リンポチェをあるいめにさせたがリンチェンドルジェ・リンポチェは修法して返すのをしなかった。これはリンチェンドルジェ・リンポチェは菩薩道を修めて一切全部捨てることが出来て、若し彼たちは寶吉祥仏法センターが閉める事をみれば嬉しいなら、閉めよう!彼らは弟子が欲しいならば、彼らにやろう!なお,かつて1人若いリンポチェはリンチェンドルジェ・リンポチェと話す時公然的に表れた,リンチェンドルジェ・リンポチェが往生すればこれら弟子達は全部彼のセンターへ行くのが出来る。

若し彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェに対して、リンチェンドルジェ・リンポチェが一切を彼らを任せて、退出して彼を嬉しい、然し、今日彼たちが教派と直貢チェツァン法王に尊敬しないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが簡単にやめる事をしない、若し彼らは事を大きくになって、リンチェンドルジェ・リンポチェも大事情をする人で、必ず譲る事をしない。チェツァン法王とリンチェンドルジェ・リンポチェがないならば今日の直貢噶舉がない、ここにはチベット人と漢人に分けることではなくて、仏法が民族に分けないで学ぶ事が出来で、わざと民族差異により紛争を起こすをすれば必要がない。

外でリンチェンドルジェ・リンポチェを傷害する者がいた,内にとってそなた達これ等弟子はあまり仏法を大切にしない,上師の話に従わなくて確かに自分の行為を改めない。そなた達が如実仏法を勉強して、自分を治せば,リンチェンドルジェ・リンポチェはどんなに疲れても続いていく,しかし、そなた達はそうしなくて、まだ加持を得て、保祐を願う考え方を持ってここに来た。こういう考え方で仏を勉強に来た者は来ないほうが良い。リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生を助けて苦しみも、疲れも恐れないが、弟子はそのままこのカッコであればリンチェンドルジェ・リンポチェは非常に疲れた,かつて何回も直貢チェツァン法王に自分が退職したいと言った、2010年6月6日直貢チェツァン法王主催の万人大法会が終った後、リンチェンドルジェ・リンポチェはもう一度退職のっ考えを表したが直貢チェツァン法王はまだ承諾してくれない。それで、リンチェンドルジェ・リンポチェはとても辛くて相変わらず仏法を広げて発展して宣伝する。1つ道場の興隆することは何人がいたかとかからなく本当に仏法の意味を知ってしっかり勉強する者がいるかと関係があるんである。

この数年以来,リンチェンドルジェ・リンポチェに追い出された弟子がとても多くて,理事長が千人を超えたと答えた。これら追い出された者は一部は其の他の直貢噶舉センターにいて、ひいてはある者がアメリカに行ってもアメリカの直貢噶舉センターにいるのである。それよりまして、リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢噶舉派台湾の総舵主とも言え、追い出した弟子は40位センターを設立させた。そなた達が行きたければ、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に紹介するのを助けることが出来る。

理事長はまた報告した、リンチェンドルジェ・リンポチェはこんな数年の阿弥陀仏無遮大済度法会を主催したが内政部のある官員はリンチェンドルジェ・リンポチェが既にこんなに何度も主催したことをまだ分からない。ひいてはある官員は表した。彼は6月6日直貢チェツァン法王が主催した万人大法会は順序立てて進んでいるのを見ると、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子だけに対してとても厳しく謹慎するのではなく、自身の戒律も良く守っているのを分かった。それから、理事長は1人の紅教ニンマ教派のンガパと知合って、彼も沢山法の持主である。彼は嘗て表した、直貢噶舉教派はこれ等数年以来非常に盛んでいるのはこの2人が現れたのである、1人は直貢チェツァン法王、とても辛くて各地へ仏法を発展させてもう1人はそなた達の上師リンチェンドルジェ・リンポチェである。

皆は全て直貢噶舉の弟子で、お互いに団結するべきで、常に各自で仏法を広げて発展して、用事があってやっと寄り合って、これらの混乱、名利を奪うのを作らないで、リンチェンドルジェ・リンポチェはこれ等のことがとても好きではない。今日、皆に公然的にこれ等ことを申されたのは、皆は事情の筋が良く分かって、それに、信者達が誤り導いたのを望まないのである。仏をまなぶのは衆生に対して見事だが、いつか現れたかそなた達が予想できないのである。それで、ある者が分からなければそなた達が彼らに教えて、政府の官員が分からなければ理事長もかれらに良く話す。寶吉祥仏法センターの弟子はもっと自分の外での言行挙止を注意しなければならない、不正当な言論を聞いた、見た時、理事長に報告して処理責任をさせる。リンチェンドルジェ・リンポチェに報告するのではなく,リンチェンドルジェ・リンポチェは法を伝える責任しか負わない。ある者は教派、直貢チェツァン法王、上師、道場に対して不利な行為があれば、そなた達はに抗争させる事ではない、仏法と教派を保護する。参列の弟子達も大声で遣り遂げる事が出来ると回答した。

リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に菜食させて、従順させる。菜食するのは只飲食習慣の変わりであるが、従順とは出来難い。そなた達は幼いから不従順で、母親はそなたが既にお腹いっぱいになったと言ったが、まだ食べたいと騒がしくした。あなたにもう遊ばないとさせたがやはり何回踊った後やっとやめた。小さい頃、殴られるのに恐れたので従順で、大きくなった後、従順になるのは一層不可能である。従順が出来るものこそ、そなたの未来を変わることが始めて出来る。

2010年9月12日

台湾寶吉祥仏法センターの弟子と信衆は、寶吉祥仏法センターで、恭しく尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが2004年02月15日に開示された仏法の録音を聞いて、その内容は「不共四加行」である。

法会開始前、2010年7月18日に新しく皈依したある弟子が大衆に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがどのように彼女、娘や家族を助けた経過を分かち合って恩に感じて、しかも、自分が恭敬心が持ってないこと及び、貪嗔痴慢疑に満ちる悪念悪業を懺悔した。

この弟子と夫は、2010年1月に子供の肝臓肥大しかも常に低血糖であるため医者に肝臓を移植する大手術を提案されて、内心が非常に慌てて恐ろしいと感じていて、兄弟子の紹介によって、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めに来た。初めて寶吉祥仏法センターに着いた時に、仏法センターがこんなに荘厳で厳かであることをを感じて、謁見することを待つ時に、涙がいつの間にか溢れてしまったが、しかし自分は慢の心と疑の心が重すぎるため、内心は本当に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを信じなくて、表面上、先生と一緒にとても恭しく跪いているが、しかし心が信じなくて疑うことが尊き上師に一目で看破されてしまった。彼女は始めて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会うと、非常に恐ろしいと感じるが、しかし娘の病気のため、やはり「娘は肝臓を移植すべきか?」と非常に愚かに聞いてから、すぐ尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに容赦なく「肝臓を移植するかどうか自分で決める。」と厳しく責められた。そして慈悲に「決まったら、肝臓を移植するかどうかには関わらず、私はきっとそなた達のことを助ける。」と言った。彼女はその時にリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲と苦心が理解することができなくて、意外にもまた「私は皈依する。」と言った。また尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに雷が頭に落ちる如く、容赦なく厳しくこう責められた。「皈依するか。要らないであろう。そなたが全然信じないで、そなたの子供はずっと私を見ているのに、そなたはまだ信じないか。そなたは皈依してそなたの娘を救うことができると思っているのか。そなたは盲信する。そなたは仏菩薩を利用しないでください!」と、そして「見縊るか。友人は好意にそなた達に1冊の本を送ったのに、あなた達はテレビを見る時間があるが、本を読む時間がない」と言った。(というのは、兄弟子が彼女にリンチェンドルジェ・リンポチェの珠玉の著作『快楽と痛苦』という本を一冊送ったのである)。当時、彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがこのような物事さえも知っていることに非常に怪しんだ。しかし当日に家に帰った後に、リンチェンドルジェ・リンポチェに叱責された内容を思い出して、とても苦しいことと感じて、深刻な間違っている事を犯して年長者に悲しませるように苦しい。

二回目に謁見する時に、彼女は口を開いて仏を学びたいと言って、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女にどうして仏を学びたいのかと聞いて、彼女は答えることができない。リンチェンドルジェ・リンポチェは再度彼女を責めて、「そなたは仏を学ぶと、そなたの娘を救うことができると思っているか。そなたの心は正しくない」と教えて、そして「そなたが仏菩薩を利用しないでください」と再度言った。それから、慈悲に彼女の娘を抱いて、彼女の娘がリンチェンドルジェ・リンポチェの胸にいる時に、意外にも全然泣かなくて喧しくなくて、その時、彼女も夫も感動して泣いた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女たちに『懺悔』との仏法録音テープを賜って、「家に帰って5回も聞き終わってからまたここに来なさい。」と言った。

第3回に謁見するのは、『懺悔』との仏法録音テープを聞き終わったからである。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女たちが懺悔心を持つことを確認してから、やっと自発的に彼女たちが娘を連れて法会に参加するように要した。

彼女の娘が法会に参加してから、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに絶えず加持されることを受けて、その上寶吉祥の漢方医診療所で心を配る世話を受けて、彼女の水腫の情況は徐々に消えてなくなって、精神も顔色もますます良くなって、とても活発で活動が生き生きとしてまた騒がしくて、多くの人は殆ど娘が滅多にない珍しい疾病「ムコ多糖代謝異常症(MPS)の第一型」に罹った子供であることと見えないで、ただ娘が鼻胃管チューブを挿入していることにとても可笑しいとと感じた。その上、娘のような疾病に罹った子供は熱が出ると彼女の血糖が100余りから30、40まで下がるから、彼女は熱が出ると、急診で診察を受けたり、入院したり、点滴注射してもらったり熱が下がるなどことをしなければならなくて、低血糖がショックや死亡を起こすことを防止する。しかし尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが絶えず娘を加持することを通ってから、彼女が熱が出る時の血糖は再び下がったことがなくて、とても安定する状態を維持している。

彼女と家族は最初にびっくりして、医師さえも血糖の安定することが不可能であると思っているが、その後に熱が出る場合には更に病院に行って点滴注射が要らないようになってしまって、それは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに恩に感じる。その上、彼女の腫れている肝臓がもともと腹の1/3のような大きさを占めて、胃と他の内臓まで圧迫しているが、しかしそれから肝臓は徐々に縮小して、腹囲は66センチぐらいから約53センチまで縮小するようになって、最近9月6日の超音波検査では、医者も検査して、肝臓が確かにたくさん縮小したことを発見した。慈悲で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに再度恩に感じる。

彼女は自分がまだ信者であった時のことを回想して、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが諭した話はすべてまっすぐに内心に刺すこと及び、彼女は自分がこのように盲信する人でありることが、リンチェンドルジェ・リンポチェに開示されたまで、やっと分かってしまった。その上、その時は確かに何も構わないで、一心にただ娘が病気を治れることだけを求めて、リンチェンドルジェ・リンポチェは娘の頭に触ったら娘の病気がよくなることができるように簡単なことを思っているが、完全に因果の恐ろしさ及び自分が負わなければならない責任が全然分からない。殊勝な『懺悔』との仏法録音テープを聞き終わったまで、はじめて自分の悪業がこのように深刻であることや、自分でそんなに多くの悪業を造ったことや、そんなに多くの衆生を食べたことが分かった。彼女は大学の時に短く5年間菜食精進料理を食べていたが、しかし、肉辺菜(肉鍋で料理した野菜、即ち肉辺の菜を食うこと)を食べたのである。それから特に海鮮料理が大好きで、夫と一緒に夜食としてよく焼肉や、「食べ放題」を食べに行って、身口意は更にどのくらい悪業を造ったかが分からない。彼女が『懺悔』との仏法録音テープを聞いて凄く泣き叫んで、鳥肌が立って、特に祖師 ジッテン・サムゴンがハンセン病に罹ったこと及び尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが筋萎縮性側索硬化症(略称:ALS)の患者を救ったり済度したりする事績を耳にして、病苦因果がこのように恐ろしいことが分かって、娘の病気による苦しみはすべて彼女たちの夫婦が悪業を造った結果のためであることも理解した。

彼女と夫は大学時代に、仏教の青年社に参加していて、また児童の仏学キャンプの活動に参与して、ボランティアや無償の奉仕活動をして、少し慈善事業をしてから、自分が良い人だと思って、甚だしきに至っては自分が仏教徒であり、仏を学んでいるのだと思って、今回想すると、本当にとても愚かで無知である。彼女は顕教に皈依して何度かの仏寺の禅七、仏学キャンプに参加したことがあったから、自分が仏教徒だと思って、とても誇らしい。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがかつて諭した「台湾で仏を学ぶ人は、何やら原因がわからなくて、すべて自分がとても誇らしいと感じる。」との話を思い出して、自分がそのような人であり、身の回りの親友は大体間違いなく、慈善事業をしたり、仏像に礼拝したり念仏したりすると、仏教徒であると思う。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの諭した「真に陀を学ぶ者は実修をしなければならなくて、自分の身口意をちゃんと改正するべき」と言う話を思い出した。このような殊勝な教法は、特に懺悔の法門が、自分が別の道場でこれまで聞いたことがなくて、これで始めて自分が真な大修行者である尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに出会って、今やっと仏を学び始めたことが分かったのである。

彼女が法会に参加したばかりの時に、自分の冤親債主に囲まれていることを夢見て、その数はすべて台北アリーナ体育館の中で座れないほど多くて、その上尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが法席の上で座ることを見て、尊き金剛上師ンチェンドルジェ・リンポチェが天界で説法して、側には天竜が回っていることを夢見たことがあるが、しかしこれが自分の心の作用で本当でないかもしれなくて、ただ尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの一切衆生への平等と慈悲を感じることができるだけ。甚だしきに至っては、自分で悪夢を見る場合、同じく尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法名を耳にしたため、はじめて目が覚める。1歳余りの娘は今彼女たちが尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ及び寶吉祥を言及することを耳にしたら、いずれも自分で合掌して、更に彼女はある時に自分でおひねりを尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに供養して、大人の心に比べて、心がもっと固めて清浄であり、これはすべて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大加持力及び比類がない撮受力のためである。

彼女と先生と娘は8月16日の京都阿弥陀仏済度大法会に参加して、法会に参加する当日に、非常に恭敬しない心を起こした。法会に参加しに行く途中には、また尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが懺悔心と恭敬心で衆生を代表して法会に参加するとの話を思い出したが、しかし自分で意外にもやり遂げていないで、また自分が今台北で毎週日曜日に法会に参加していて、よく聞き取って、もう仏を学び始めたと思って、しかし場所が変わると、京都の吉田道場に来たら、すぐ尻尾を出した。当日彼女は意外にも極めて大きな悪念を起こして、日本の信者がとても少ないと思って、殆ど我々の台北から来る弟子と信者達が会場で座って、会場の場面がよくさせたように思った。彼女のこの深刻な悪念の影響で、当日その娘が絶えず騒がしく、道場の安寧と尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが法を修めることに影響したため、 そこでその場で、リンチェンドルジェ・リンポチェは道場を追い払ったようになったのである。彼女は自分の深刻な悪念と本性を思い付くと、自分が本当に弟子とする資格がないと感じて、上師が大衆を度するため奔走する苦労に同情していないで、またこのように恭敬してなくて、このような考え方を夫に言って、夫もすぐ厳しく責めて、彼女がすぐ懺悔しなければならなくて、また引き続き思っているのか。本当に尊敬しないと教えた。その夫さえも京都の吉田道場が極彩色の美に輝くと感じて、1煉瓦も容易に得ることではなくて、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはどれだけの苦心がかかって、やっと道場を創ったことが分からないで、自分のこのように悪念があって、本当に地獄に堕ちるべきなので、その上、十八層の地獄も足りない。自分は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが諭したあのような恩を知っているのに恩返ししない人である。その上最近尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに子供によく配慮していないと厳しく責められて、自分がとても運が悪いと感じて、過ちを認めていない。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがなければ、自分の娘はもともと体を破れて手術して肝臓を移植しなければならなくて、肝臓移植したら、娘はどのくらい苦痛になるのか。その上間もなく亡くなるかもしれなくて、自分と家族ともはとても苦痛でとても悲惨であり、自分で意外にもこんなに悪くて、恩に感じる心がなくてさらに悪念を起こした。京都に行く前に、自分の悪念がこんなに重大であることを発見していない。

その上京都に行って食べるのも泊まるのもすべて最も良くて、自分が食べて泊まってとても感動して、とても恩に感じて、自分の返報することができるのが本当に少なすぎると感じる。娘の飲んでいる漢方薬もすべて最も新鮮で最も良くて、尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子にあげるのはすべて最も良い。よく尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが土曜日ごとに法席の上で5、6時間座って、信者大衆に接見してとても大変であることを見たが、自分で小さい事のため土曜日にも上師にお邪魔して、自分がどうしてもこんなに悪くて、なかなか直すことができなくて、娘は低血糖を恐れて24時間連続して食事をやらせなければならないため、娘を配慮して疲れる時にはとてもよく怒って、しかしどんなに疲れても、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェより、そんなに疲れることでないであろうと思い付いたが。しかし自分の嗔心が起きると、よく娘と家族に怒るのである。

例えば尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはおっしゃった通り、「凡夫は心を起し念を動くと、全て業である」だ。彼女は自分が何でもないと思って、上師が行えた事は自分はちっとも出来ない。衆生の苦しみに関して、自分は何も助けられない。唯出来るのはしっかりに上師の話に従って、依教奉行して、自分を改めればならない。再び尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大恩大徳に感謝しました。

続いて信衆と弟子達は恭しく尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが2002年2月15日に開示された録音テープを聞いた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、先週金剛薩埵観想の重要な4つの力を諭して、先週第2の防護力を言って、決心して、出した誓いの言葉はいつまでも再び犯さないように開示した。しかしそなた達はいつもひっくり返って再び犯して、毎回も陳謝に来て、陳謝するのは懺悔ではなくて、懺悔とは自分の間違ったことを知っているので、悔い改めて、更に間違うことをしない。しかしそなた達がすべてひっくり返って再び間違って、そしてまたひっくり返って間違って、だから何回も再び陳謝しにくる。どうしてこのようにするのか。そなた達は戒を守らないで、十善法を修めていないで、特に貪、嗔、癡など事を修行していない。貪、嗔、癡はすべての悪業の起源であり、多くの人は自分が全然間違わないと思って、1日中よくリンチェンドルジェ・リンポチェの前で手柄を横取りして、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼を重視しないことを恐れて、他の人に対して嗔の念が起きて、嗔はそなたが口を開いて人を罵るとは限らなくて、あなたは自分の顔色を他人に見せて、話す時に遠慮しないのはすべて嗔だと言えます。そなた達はずっと十善法を修めないと、それでは、どのように懺悔しても何も役に立たない。リンチェンドルジェ・リンポチェは金曜日に仏を信じることを言ったばかりで、仏菩薩が私達に対してしたすべてのことを信じて、仏菩薩はどのように私達に手配してもすべて受け入れなければならなくて、自分の欲求で事を思わないでください。しかしそなた達は1日中すべてそなた達自身の考えを達成することを望んで、あれは所謂貪念、妄想であり、これは悪業を犯す根である。

リンチェンドルジェ・リンポチェの誓い方式は身口意が永遠二度と犯さない、空虚尽くしても誓いが尽くしない。顕教の誓いは:盡形寿(じんぎょうじゅ)つまりこの一生が終わるまでである。密法の誓いは:仏になる前、この誓いがまだ存在している。我らは身口意が良く守らなくて、他人が自分を重視するとの考えを追いかけて、特に台湾にの沢山信者、そなた達も含んで全て上師がそなた達を重視するのを希望している、これこそ貪である。1人本当に具徳上師は、どんな弟子とも重視することはしない、この弟子が本当に法に従って五戒十善を修めて、修め得ない限り重視するな、彼は少々注意する。そなた達はまだ五戒十全を修め得なければ、リンチェンドルジェ・リンポチェの目の前にどんな表れでもリンチェンドルジェ・リンポチェは全部心を動かない。小さい事が出来で偉そうに自分の功労とするのはしないで、この考えを持つ者は全て戒を守らない、そなたはまだ貪、嗔、痴三毒に堕ちる範囲である。もし、他人の是非をあちこち言ったら、五戒を破る。戒律は我々の仏を学ぶ道具であるから、この道具が無いと、そなたがもっと精進する仕方が無く、もっと高いレベルへ修行したいと思っている者は、自分自身への要求も厳しい。

経典には曰く。有る比丘、比丘尼の徳行が良くなくて、或は戒体が足りないが、彼は他人の供養と頂礼を受け入れるならば、我々の俗人が彼を福を減らす事と言う。自分の戒を良く守らないならば、他人の供養頂礼を受け入れるならば、在世の時には様子が変わられて、醜くなって、面構えがすべて歪んでしまって、顔が肉がなくて、体が痩せてしまって、多く病気になって寿命が短くて、死ぬと地獄に落ちて、最も重くのが生まれから言語障害者と聴覚障害者になっている。だから、ある上師がそなたの供養と頂礼を受け入れる資格があるかどうか、彼の面相にて既に間違わなくなる。現在、一部の法師は、骨が残るような痩せてしまって、或は顔を歪んで、或は常に病気に罹って、夏でも帽子を被りなければならない、多くの病気、心臓が手術を行わなければならない、何故このようにするのでしょうか?これは戒を守らないのである。チベット仏教には法座を上げる上師は、彼の戒体が駄目ならば、これらのにより厳重になって、相が変わるだけではなくて、法座を上げても、地震も彼を下げる。最も厳重により、金剛地獄に落ちる。特に真言を唱えて衆生に利益する人は、この果位がオンアバと呼ばれて、漢語には咒師で、真言を唱えて衆生に利益する上師で、この上師の福報が特に大きくて、特に殊勝で、然し相対的に、彼は間違う事をすれば、処罰ももっと重くて、所謂法を知りながら法を犯すのである。だから、ある咒師の門下に皈依したあら、彼の福報が絶対に資格があってそなたの業力を抑ええる事が出来て、そなたにこの世で十分な時間を与えて修行していく。が、そなたは三昧耶戒を破るならば、上師に信じなくて、仏法に信じなくて、仏菩薩護法に信じないならば、それではこのような力がすぐにそなたの身から消えてなくなる。

若しこの戒は慎重に守らないなら、特に女の子、あのような嫉妬の心、邪推する心、戒を破る事を最もし易い。以前、釈迦牟尼仏のおばさんは出家したいし、釈迦牟尼仏が最初に同意しない、阿難尊者が3回目で求めいてから、彼が彼のおばさんに出家させた。だから、釈迦牟尼仏が制定させた比丘尼戒は340余りの戒で、比丘により100余りの戒を多くて、その上、釈迦牟尼仏は女衆が出家したら、正法時代が500年を少ない、ここに諭すのは外に言うの女が仏を学んだら多くの500年を修める事ではない、これは間違う。何故女の子は出家してから仏法の時間に短くなるでしょうか?これは女の子が戒を破る事をし易いわけで、戒がないならば仏法がない。女の子は何故戒を破る事をし易いのでしょうか?度量が狭くて、他人に侵犯させない、損をしたくない、嫉妬心が重くて、占有心が重くて、然し、彼女の夫ではないでも占有したい。この占有は実際にそうではなくて、心理の上である。何故多くの仏経ではずべてこのように曰く、来世に女身をしない、女の子が良くないではなくて、女の子がいないならリンチェンドルジェ・リンポチェもいない、女の子がいないなら釈迦牟尼仏もいない、女の子がいないならジッテン・サムゴンもいないし、チェツァン法王もいないし、が、このような女の子はそなた達のような女の子が同じではない。そなた達のこれらの女の子は迷惑をくれる女の子で、勘ぐって、嫉妬、けち、良く人を表現して、そなたの存在を知らない事を恐れない。何故女の子は化粧をすることが好きでしょうか?何故女の子は彼女を注意することが好きであろうか?仏経には総て諭す事がある。

出家弟子も意見の為に喧嘩し、だから、そなた達は自分の身口意を注意しないなら、この対治と防護の力が現れない、そなたは出した誓いがただ誓いだけで、境界を出現したら、心がすぐに動いていく。凡夫と聖人の分別は何処でしょうか?凡夫の心は環境に回して、聖人の心は環境を替わる事出来る。現在、男衆も段々に女衆になり、男衆が面子を重んじて、このような事と女の子が綺麗な事を愛するのが同じである。女の子は何故綺麗な事を愛するのでしょうか?面子を重んじる。男の子は何故面子を重んじるのでしょうか?良く人に尊敬する事を愛する。

昨日、有る医者とする弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェにある患者を謁見する事を求めたが、この時間が凄く遅い事を知っていたし、然し、この弟子は、彼は母親に同伴する事を約束したので、行く暇がなかった。彼は彼の母親に同伴した事ではなくて、彼の妻に同伴し、リンチェンドルジェ・リンポチェに簡単に解釈し、ひざまずくなら、問題ないと思ったいった。リンチェンドルジェ・リンポチェが諭した内容を心に込まなかった!これはリンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達の分別である。ただ直貢法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに何か指示させても、天が崩れても、リンチェンドルジェ・リンポチェもこのようにしていく。そなた達は?そなた達はただ自分だけを考えて、そなた達の利益だけ考えて、リンチェンドルジェ・リンポチェが説くのがそなたの考えが同じならして行って、間違いならしていかない、そなた達の懺悔の力が如何に出現するのでしょか?そなた達の業は如何に清算済みでしょうか?そなた達にとって恩がある人に約束を守らないならば、それでは、そなた達に仇が有る人に、そなたが彼を助けてくれる事を如何に信じているのであろうか?

三昧耶は承諾である。我々は皈依した時に言ったが、特にある瑜伽士、呪師にとって、彼が言った事は全て仏語である。彼は毎日呪文を唱えていて、彼はそなたを指示して、如何なる動きをさせたのはそなたを助けて、福報を累積させて、業を消させたから。リンチェンドルジェ・リンポチェは勝手にそなた達に物事を要求した者ではない。若し、リンチェンドルジェ・リンポチェは言ったが、そなた達は断ると、アチ護法はそなた達を離れた。リンチェンドルジェ・リンポチェは今までそなた達に不合理の事を要求しなかった。しかし、そなたたちはいつも自分の豚のような頭で考えた。

ある弟子夫婦は不吉な夢を見た。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼等の姉と兄夫婦に言って、弟夫婦にリンチェンドルジェ・リンポチェを手伝えて、仕事させた。結局姉夫婦は弟は家で仕事する事が必要だと思ったから、リンチェンドルジェ・リンポチェの話を断った。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼を呼んで仕事させるのは彼を助けて福報を累積させる事を思わなかった。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に報告して、将来この夫婦は一生に食事するお金がなし、住む部屋がなし、運転するっ車がなし、子女は教育費がないと、彼の姉及び兄は責任を取る。リンチェンドルジェ・リンポチェはどんな事をしても、全てはそなたたちのためだ。しかし、必ず事前にはっきりに説明しない。何故だろう。それはそなたたちは自分は賢いだと思って、別の方法で補えると思った。そなたは間違った。リンチェンドルジェ・リンポチェは此の世に多くの苦しみを受けて、世間の事を多く見た。57歳になると、本当に何も求めない。まるでユンカ・リンポチェ及びドラブ・ワン・リンポチェはリンチェンドルジェ・リンポチェを教えたように六道衆生は苦しみを離れることを望んだ。六道衆生に苦しみを離れたのは、上師は用いる手段は必ず霹靂で、勝手に少し仏法を話すやそなたたちに喜ばせることを話すわけではない。

金曜日ある数十年を出家して、今は病気に罹った法師を運ばれた。彼女達は仏を唱えたと行った仏法事業は必ずそなたたちより多い。しかし、如何なる仏を唱えても苦しみを止めなかった。何故彼女は今日この縁があるだろう。それはある弟子の母は以前神経病に罹って、泊まる寺を捜した。条件はある出家衆に皈依しなければならない。だから、彼女はこの出家衆に皈依した。この善因があるから、今日この出家衆はこの善の報いを得た。ある日、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を加持した後、すぐモルヒネを注射する事を要らなかった。本来彼女は毎日苦しみを緩めるために、モルヒネを注射しなければならない。だから、あの日に運ばれた時、彼女も上師を感謝すると言った。彼女もリンチェンドルジェ・リンポチェが説かれた仏法録音テープを請求した。彼女は分かった。彼女は出家して十数年で清浄法を修めて、接触したのは全て仏法なのに、自分の業は解決できない。何故だろう。正しい法門を見つからないから。今日教えた法門はチェツァン法王が教えただ。リンチェンドルジェ・リンポチェは転じれたが、そなたたちも転じられる。転じられないのは上師の話に従わなく、独り善がりだ。自分は賢いと思って、自分はリンチェンドルジェ・リンポチェにいいと思ったから、間違いを犯した。リンチェンドルジェ・リンポチェは何とも繰り返して皆を提示したが、リンチェンドルジェ・リンポチェを模範として見せて、直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェを要求した事はリンチェンドルジェ・リンポチェは今まで断らなかった。更に考えずにすぐ約束した。そなたたちはどうだろう。先に考えるだろう。修行者の知恵はそなたたちの凡夫の頭で理解できない。そなた達は習ったのは世間経験法だ。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは本性の知恵を修めて、物事を遠く見た。何故そなた達は毎日拝懺して、仏を拝んでも出来ないだろう。それは戒を守らないから。戒を守らないと、今日例え第二の防護力を決意したけど、戒の誓いを引き続きに犯したから、累世の業の力はまだ存在して変わらない。

昨日百人余りの人はリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した。リンチェンドルジェ・リンポチェはまた病院を二軒入って、留まる時間がない。更にある弟子は病気を治療するためにリンチェンドルジェ・リンポチェに従って病院へ行くと言った。夢しないで。五年前に直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェがいつも病院へ行くことを知ってから、リンチェンドルジェ・リンポチェを守るために、すぐわざとリンチェンドルジェ・リンポチェにある法門を伝授した。何故リンチェンドルジェ・リンポチェに加持された者はすぐ気持ちいいと感じただろう。あの出家衆のようだ。それは彼達の身の業障はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼達を済度する力を持つのを分かった。だから彼達は彼を傷付いた事を止めた。加持とはそなたを与えなくて、そなたの業障-そなた達に傷付いた人を与えた。彼達は喜んだら、そなたを悪戯しない。だから我々は決心を決めた時、そなたたち現在の程度で決心を決めるのはとても難しい。それはそなた達は自分の考えは多いから。そうすれば如何しよう。上師を模範として、彼の方法を習った。法会の時、リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの事を話したのはそなた達に模範を見せた。そなたたちは聞き取って、従うと、この力は来た。

その時リンチェンドルジェ・リンポチェはある弟子が忘れたので、寶吉祥の赤いベストを着ないのを見た。彼達を離れさせた。リンチェンドルジェ・リンポチェは以下に開示された。この状況はリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に昇って法衣を着ない状況と同じだ。何故忘れただろう。うかつで、法会に参加する事を重要ではないと思った。何故今日入り口に数人は入られないだろう。此れは金曜日に遅刻したから。H遅刻なので、衆生を欠けた。そなた達は因果を信じないから、この防護力は固い決心を決めて、再び身口意の悪業を犯さないで、自分に如何なる理由を与えない。先の二人は自分に理由を与えて、忘れたからと言った。此れは理由だ。間違えば、間違ったから、解釈理由が無い。そなたたちは解釈すると、懺悔しないと現れた。懺悔しないと、そなたの事は決して転じない。我々は何故こんなに苦しいだろう。それは我々は過去清浄の誓い―四弘願を破ったから。衆生を利益するために、我々は仏法を習って、成仏しなければ成らない。そうすると、成仏する者は身口意は引き続きに悪を犯すだろう。若し、身口意は引き続きに悪を犯している人なら、如何なる善を変えるだろう。

第三は依止である。依止は頼りの意味である。我々は誰に頼るだろう。殊勝で極めて高い聖衆に頼って我々を助けて、輪廻の苦しみ苦境を除く。我々は依止する相手は諸仏菩薩、正法及び上師を含めた我々は前の二つの力によって、諸仏菩薩、正法及び上師を依止する。簡単といえば、公表に懺悔して自分の間違いと過失を承認して、永遠に犯さない事を誓った。若しまた犯した如何する?昔唱えた経、真言、発した誓い、守った戒、功徳は全て亡くなった。福報はまだ残したが、来世に用いる。自分は小さい間違いを犯しても大した事がないと思わないで、跪いて求めると、リンチェンドルジェ・リンポチェは許すと思わない。出来ないなら出来ない。そなたはどんな間違いを犯しただろう。貪、捨てられない、手を離さない。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に一語と言った。仏菩薩と上師はそなたたちを損なうだろう。そなた達は何でもいいけど、損なわない。

我々は発露懺悔した。つまり公表に懺悔する意味だ。公表に懺悔するのは仏像の前、上師の前、大衆の前に話した。大衆とは同じ壇城の上師のもとに、仏を習う大衆だ。そうすれば真懺悔である。若し心の中に隠して、黙って、毎日菩薩に「菩薩は私の深い罪を分かって、助ける」と言っても、無駄だ。そうすればまだ自分はどこか間違いをしたくない。ある者は懺悔を分からないといった。此れは分からないわけではない。懺悔したくない、自分の間違いを認めないから、自分は如何なる懺悔すれば分からないといった。仏経には我々は一日成仏しない前、我々は衆生を謝って、累世の父母を謝って、我々の累世の先生を謝る。だからこそ我々は懺悔しなければならない。我々は必ずそう行って、更に永遠に犯さない。永とは永久で永遠に再び犯さない。しかし、誓いは重いほど、そなたは自分に監督の力は強くなる。心を起して念を動くと、自分を検査する。経典にそなたは妄念を起すことを恐がらない。最も恐ろしいのは覚悟が遅いとある。自分を反省するのを分からないと、この者の問題はかなりひどかった。多くの人は問題を他人のせいで責めた。「そなたはリンチェンドルジェ・リンポチェに言ったから。そなたは言わないと、リンチェンドルジェ・リンポチェは分からないだろう」など常にこのような話を言った人或いは心の中に他人はリンチェンドルジェ・リンポチェが説かれた自分の過失の人と同じのと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達昔起こった事を全て分かるのに、そなたの念はリンチェンドルジェ・リンポチェは分からないわけではないだろう。

懺悔は諸仏菩薩殊勝の力に直接関わった。金剛薩埵はこの役をした。そなたたちは法会に参加しのに、懺悔したくないと、力が無い。地蔵経に多く話したが、「凡夫は起心動念は全て業であり、罪である」だ。それはそなた達は私利私欲で独り善がりなので、此れは業と罪がある。

加持はリンチェンドルジェ・リンポチェの福徳、功徳の力である。そなたを助けて、暫くそなたの業を抑えて、時間を与えて修める。仏菩薩は緊急の時に救ったけど、貧乏を救えない。そなた達は困難に遭って、現在救ったけど、後は自分しか頼らない。若し後は引き続きに間違っていると、仏菩薩と上師の力はそなたを離れた。それはそなたは仏が我々が教えた方法及び標準を逆らった。実はリンチェンドルジェ・リンポチェは毎日そなた達を助けて真言を唱えさせる事は必要がない。信じれば、また上師が説かれた仏法を行うと、加持がある。リンチェンドルジェ・リンポチェは最も貧乏で食事できない時、更に、リンチェンドルジェ・リンポチェは皮膚癌に罹った時も直貢チェツァン法王に電話を掛けず、直貢チェツァン法王に修法させる事も求めない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたたちを加持しないではない。それはリンチェンドルジェ・リンポチェは毎日外の人を助けたから。例えば昨日ある男弟子は母は小さい病気があるので、加持を求めた。この男弟子は昨日多くの人が来て、リンチェンドルジェ・リンポチェの助けを求めた事を気付かなかった。この男弟子は毎日母に代わって500回大礼拝を拝んで、母に代わって懺悔した。何回も話したがそなた達は怠け者だ。既にそなたを伝授した多くの法門を行わなかった。他の一人弟子はX線をかけて、肝は少し異常がある。緊張してリンチェンドルジェ・リンポチェに加持を求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に一日何回大礼拝をしていると聞いて、彼は五十回と返事した。上師はそなたたちに法を伝授したのはそなた達を教えて、行わせた。リンチェンドルジェ・リンポチェに余裕な時間が与えて、リンチェンドルジェ・リンポチェに会う機会が無い人を助けを得た。そなたたち数百人はリンチェンドルジェ・リンポチェを絞った。若しリンチェンドルジェ・リンポチェが教えた法門を修めると、多くの物事は既に解決した。

リンチェンドルジェ・リンポチェは決して事件がある弟子を助けないと言えない。唯弟子は自分が解決できる小さいことは自分は多く仏を拝んで、六字大明呪を多く唱えればいい。更に多く供養して、多く仏法録音テープを聞けばいい。既に長年に皈依した弟子は自分は仏菩薩からいい事を受けたのに、まだ信じない。信とはどんな意味だろう。「自分は出来ると信じる」である。何故リンチェンドルジェ・リンポチェは修められたのに、そなた達は修められないだろう。問題は何処だろう。問題は「信じない」だ。一つは因果を信じない。二つは仏を信じない。三つは自分は出来る事を信じない。事件があるとリンチェンドルジェ・リンポチェに探して問題を解決させた。そうすれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を多く話したのは馬の耳に念仏と同じだ。毎週の日曜日にそなた達と物語を話すだけである。

実は年寄りは年取ってから、体は多少病気がある。息子として、老人を助けて拝めばいい。我々は頼れるのは諸仏菩薩及び金剛薩埵である。しかし、そなた達は自分は行った。若し今日修行の道はそなた達は行う必要がないと、リンチェンドルジェ・リンポチェは閉関修行する必要が無くて、直貢チェツァン法王、ヨンカ・リンポチェドラブ・ワン・リンポチェに頼れないいい。リンチェンドルジェ・リンポチェはまだこの多くの事をする必要があるだろう。そなたたちは全て拝んだだけで、仏弟子では無くて、怠け者だ。そなた達は仏法を多く聞くとだめだ。それはそなた達はこのような怠けなら、来世絶対に世話されたペットだ。現在四川のパンダも必ず過去世にうまく修めた。うまく修めないと、このような多くの者に世話になって、死ぬ事を恐がるだろう。彼は必ず多く仏法を聞いた。そなたたちと同じだ。しかし、彼は怠けから、そなた達も同じで、毎日時間を捜して仏法の宿題をする決心を決めない。そなたたちの理由は私は仕事をして、帰宅するととても疲れたから、また子供を世話して、姑があって、料理を作るから疲れたなど、全てはそなたの理由である。

四番目は対治の力である。対治とはなんだろうか?我らは今日何故まだ輪廻して、まだ苦しんでいる、それは我らが過去悪行をしたから。それで私達は対治する、私達が善行するべきとの意味で、我らは実際的に過去の悪業を相殺する方法を従事する。「善」とはある公徳会にお金を寄付するのではなく、これは世間の善で、業を転化する事が出来ない、そなたが累世した悪業と相殺するのが出来ない。本当の善とは、前話した懺悔等一番大切で本当の善で、仏の標準により、自分を利益するのは「悪」である。皈依するとき、リンチェンドルジェ・リンポチェは仰った事があった、悪業は軽く転化して、ひいては消える、この方法で、即ち「善」である。善とは何の意味だろうか?「念念善念」とは どの考えでも、貪、嗔、痴があらないべきで、あると悪である。悪があるとは、過去世の悪が植えた種に芽を出て、大きくて、花を咲いて、果を出るチャンスをさせた。私たちの世々代々の悪は仏の知恵才能しか見ることが出来ない。昨日のことだけを考えてみて、そなたの考えにはいくつの悪念出たか?いくつの善念が起きたか?我らはとても一生懸命、積極的に自分の心念を変わる、仏は何故我らにそんなに沢山法門を教えてくれたか?それはわれらのこれ等の良くない習性、貪、嗔、痴、慢、疑この五毒を対治する、この業を転化するため、我らは自分の考えに対してすごく強い警戒心を備えるべきで、考えが起きたとすぐ検査する。良くないのを当時懺悔して、もう犯さない。繰り返して繰り返して、絶えずにして、止めることが出来ない。

どうしていつもあなた達の顔が黒いと仰ったか、そなた達の心まだ悪業があったから。何故そなたの顔つきはまだよく見えるように変わらなくて、やはり角ばかりで、それは心には悪念があって、比較するのが好きである。そなたの心が変わる次第に顔つきも変わり、お体の健康もついで良くなった。リンチェンドルジェ・リンポチェは腰はまだ良くならないが、リンチェンドルジェ・リンポチェの健康は去年の方が一昨年よりよくなって、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分がよくこの点を分かった、リンチェンドルジェ・リンポチェは只疲れた、毎日がとても疲れた。それではどうして良く変わったか?それは自分の悪が減って善が成長しているから。心はどう変わるか?「仏菩薩の心を学ぶ」仏菩薩の心は衆生を利益するのがしかない、そなた達が損を食うことを恐れないで、こんなに論争をしないで、あんなに計算しないで、終日計算ばかりするものは、最後まで運が悪いのは絶対にそなた自分である。そなたがそなたの子供に幼いよりどんなことでも損を食わないのを教えれば、この子は大きくなるときっと悪業をする。子供が他人にいじめられて、損を食うのが良くないと思わないで、子供が他人に叱れるのが良くなくて、先生が子供に対して厳しくするのが悪いと思わないでこれ等は全てそなたの子供に悪念を増えさせるのである。沢山者は良くここに来て、私、この息子はすごく難しく教える、それは子供に小さいごろより、損を食わないと教えた、子供が大きくなると変わることが出来ない。

直貢チェツァン法王はここに申されたのは、転心と禅定と一切仏法の修法で、全て我らの善の方面が増えるのである。なぜ、そなた達は毎日家に帰って必ずアチ護法を修めなければならなくて、きっとちょっと三分間を座って、是非大礼拝をして、これ等はそなた達の善を増やす唯一無二の方法である。しかし、世間の人は全てとても怠け者で、何百或いは二、三千元をある功徳会に寄付して、毎年光明灯を付ければ善だと思って、これ等は全部善であらない。年寄り者はなぜ痛くなったか?殺業であるから。そなた達は大礼拝をしない、痛みに恐れて、恐れれば恐れるほど痛かった、こうやって続けると脳充血して、死ぬか、高血圧で死んだか心配する者がいた。そなた達が死に恐れて、痛みに恐くて、そうすると、肉体をそなた達の寃親債主に返す、そなたが地獄を堕ちる苦しみをそなたの寃親債主に返す。仏を学ぶと地獄に堕ちないと思わないで;正しく学ばなければ同じで堕ちる、土曜日に現れた出家衆はまるで一人菩薩がそなた達を訓誡した、出家衆さえ業力が目の前に現れたとき、呪師、瑜伽士に遇わなくて、彼を助けなければ同じで苦しんで耐えられないのである。他人はどのくらいのことをやって、弟子も多くあって、彼女は念仏するのが出来ないか?彼女は既に寝るさえする勇気がないまで念仏した、リンチェンドルジェ・リンポチェが行かなければ彼女の悲痛を解決することがまだ出来ない、即ち本当の善を修め得なくて、1人本当に功徳の備えた上師に頼って、彼女に正しい指導をするのが出来なかった。

多勢者は直貢チェツァン法王の話を聞くと、沢山深奥な、聞いたことのない仏法を聞けると思った、リンチェンドルジェ・リンポチェが申されたのはきっと少し少なかったと考えた。前回ダラィ・ラマはヂャンチュウブリンで仏法を仰って、終った後、ある弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェにダライ・ラマが仰った仏法はリンチェンドルジェ・リンポチェが既に申された。そなた達これ等始めて発心する者にとって、上師が仰った仏法は全部同じで、それはそなたが資格がなく、条件がなくて密法を学ぶのである。そなた達は上師に対して信じなければ、どんな資格があって密法を学ぶ。密法のまなぶには、上師がそなたを死なせたら、そなたが死ぬべきである。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ信者であった時、直貢噶舉の1番目道場は二十万を欠けた、電話でリンチェンドルジェ・リンポチェに要求した、あの頃リンチェンドルジェ・リンポチェの身の上にあった二十万は用意した事務室の家賃だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは先道場にあげた、その後、頭を使って家主と話した。リンチェンドルジェ・リンポチェは既に出来た、なんでもかんでも仏法は先、教派は先、上師は先、リンチェンドルジェ・リンポチェは最後に、衆生はリンチェンドルジェ・リンポチェの前にする、リンチェンドルジェ・リンポチェは酷いのでリンチェンドルジェ・リンポチェが出来た。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分に対してすごく酷くて、そなた達は自分に対してどうだろう?自分を愛しすぎるだろう、そなた達の利害を考えすぎるだろう。それでそなた達は酷くない、命を惜しんで、死に恐れたから、密法を学ぶ者はすごく酷くて、衆生に対するのではなく、自分のである。

続いて直貢チェツァン法王は申された、特に有効的な、完備な金剛薩埵禅修と、百字明呪の唱えると加えると、我らにとってこの対治の力が一番強かった。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは修めるのが特に速かった、それはリンチェンドルジェ・リンポチェの本尊は金剛薩埵である。以前直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェに大手印の心法を伝える時、直貢チェツァン法王にはリンチェンドルジェ・リンポチェに特に要求はなかった、しかし、直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに心法を伝える前、リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王に申し上げた、十万回百字明呪を唱えてから、直貢チェツァン法王の心法を聞く勇気ははじめてあった。十万回の百字明呪はリンチェンドルジェ・リンポチェが二十日間でやっと関房にて読み終わった、食事する時間もない、寝る時間もなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは法を受け取る勇気がないのは、自分の業障が深く重いのを心配で、まず自分を一回酷く修理した。

どうして、直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに法座を昇らせて、リンチェンドルジェ・リンポチェに弟子を受け取らせるか、それは、リンチェンドルジェ・リンポチェが良く供養したのではなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェがチベット人さえも出来ない方法で、完全に教えに従って実行したのである。それに自分が良く出来ないと心配で、また倍増してした。以前、直貢チェツァン法王がまだリンチェンドルジェ・リンポチェが弟子を受け取るのを承諾する前、リンチェンドルジェ・リンポチェは他人に自分を頂礼させなかった、それは、自分の徳行がまだ足りなくて、他人が自分に頂礼すれば、他人に損を与えて、また自分にも害をするのを恐れたから。直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を登って弟子を受け取るのを許した後、リンチェンドルジェ・リンポチェは始めて頂礼を受けて、そなた達の供養を始めて受け取る。そなた達はどうだろう?まだ確認されないのに、威張って言った:「リンチェンドルジェ・リンポチェ私はあなたとお伴して診察しに行く、あなたとお伴して病を治しに行く」こんな傲慢な者はどのように仏を学ぶか?

不共四加行の中に、大礼拝と金剛薩埵はとても大切な基礎で、この2つ法門がよく学ばなければ、その後、どんなものを修めても役に立たない、そなたが献曼達さえを勉強するのが出来て、毎日10万回を唱えても福報が出られない、そなたが上師相応法を学ぶのが出来て、百万回を読んでも相応が出来ない。我らは仏を学ぶ者は、是非良く分かって、きっと「必死の心」を抱かなければならない。我らはきっと死亡して、我らはこの方向へ向いてする、そなたが必死の心を抱けば絶対に法衣を着るのを忘れて法会を参加しに走って来るのをしない。それは、必死の心を抱く者が良くわかった、私は今日生死大事のため法会を参加しに来た、だから彼は全ての細かい点を良く注意するべきである。もう一人男弟子は、法衣をタクシーの中に残った、彼に5千元の罰金をしたが、まだ用があった。

今日、どうしてリンチェンドルジェ・リンポチェは一人一人ずつ点呼を取るのか。なぜかというと、この男の弟子は、こっそりとリンチェンドルジェ・リンポチェの傍に跪いて、小さな声でリンチェンドルジェ・リンポチェに「リンチェンドルジェ・リンポチェ、私の道場のベストをタクシーの中に残してしまったから、懺悔する。」と言って、誰に懺悔するのか。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは一人一人ずつ点呼を取って、そなた達に公に残消させるためである。ちょうどこの時に、リンチェンドルジェ・リンポチェはある弟子が欠伸をしていることを見て、あの弟子に立たせて、そして、この弟子の父母はあまりに彼を可愛がって、彼に法会に参加させて、彼は欠伸をして、更にこの弟子は父母に対して、態度がとても悪いので、リンチェンドルジェ・リンポチェの仏法を聞く時、欠伸をしてつまらないと感じた。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に罰を与えて、彼に跪くままに法会に参加させた。

続いてリンチェンドルジェ・リンポチェは引き続きに直貢チェツァン法王の開示を皆に教えた。我々はこの四つの力-懺悔力、防護力、依止力、対治力を修める間に、我々は何も汚染或いは如何なる悪業、悪行が現れる事が出来ない。若しあれば、そなたの業を中和して、除けない。何故そんなに多くの者は拝懺して、多くの者は仏を習うのに業はまだ現れただろう。それはこの間に汚染があるから。汚染とは貪、瞋、癡、慢、疑の心、また悪の行為だ。

何故リンチェンドルジェ・リンポチェはいつもそなた達を叱って、是正して、そなたの欠点を指摘しただろう。それはそなた達の行為、言語はいつも汚染を受けて、悪を行っているから、そなた達はいくら修めても役に立たない。リンチェンドルジェ・リンポチェの出家衆弟子は二人とも多く叱られた。そなた達は彼等は出家なので、叱られないのを思わないで、同じで叱られた。だから、そなた達は多くの人は仏を習う事を見て、とても精進で、他人に助けて、仏事を行って、拝懺して、多くの事を行なったのに、問題がある。それは汚染があって、悪の行為、悪の業力があるから。

何故リンチェンドルジェ・リンポチェはいつもそなた達の細かい所を指摘しいただろう。それは全ての大きい事は小さい事から起こったから。そなた達は自分の小さい動作、思想、言語を注意しないと、出来ないだ。例えば、ある女の弟子はいつも他人に怒って、人と話すとき態度が悪くて、毎日口答えをする事が好きで、ポーカーフェイスで人と話した。此れは悪行だ。現場に居るそなた達は男も女も問わず、皆全てこのような行為がある。若し昔リンチェンドルジェ・リンポチェが話した時、そなた達はまだ信じなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェはとても厳しいだと思うかもしれない。しかし、今日皆は聞いたのはに直貢チェツァン法王の開示である。

そなた達は不断に自分を汚染している。汚染した後また引き続きに悪の行為が起こった。悪の行為が現れると、悪の業力が現れた。例えば、ある女出家弟子は昔バイキングに食事したが、食事した後、レストランの人はまだ残った料理を彼女に持ち帰させた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を叱った。彼女に聞いて、自分は他人の物を持つ資格がない。他人は食事をさせた事を十分感謝しないと出来ない。何故リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達にこの二人出家衆を供養させないだろう。それは彼女達は毎月の生活費は全てリンチェンドルジェ・リンポチェは与えたから。そなた達の徳行はまだ足りないので、供養を受けられない。

直貢チェツァン法王は此処ではっきりに開示された。リンチェンドルジェ・リンポチェが昔に話したことと同じだ。昔、ある女弟子は逆行して運転した事をリンチェンドルジェ・リンポチェに叱れた。此れは悪行だ。自分が便利のために、他人の事を無関心した。そなた達はバイクを運転した時、常に逆行して運転していた。此れは悪行、汚染だ。そなた達はいつも業を消すのを話して、仏号をいくつ唱えれば業は消えると思うだろう。確かに仏号を唱えると、業は消える。しかし、条件がある。それはそなたは一切悪の思想及び行為を止めなければならない。そなた達はもう止めただろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは既にそなた達に大礼拝を伝授したのに、そなた達は弟子としてまだ行い始めなかった。此れは悪だ。悪は何処だろう。依教奉行しない。何故行わないだろう?時間が無い?そうすると、そなた達は如何なる業を転じられるだろう。ゆっくり待つ!

以前リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の父に代わって、毎日八十八仏懺を拝んで。一年で拝んでいた。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の例を挙げて話したのに、そなた達は両親が病気に罹って、リンチェンドルジェ・リンポチェを探す必要があるだろう。両親に代わって、大礼拝すればいい。しかし、そなた達は怠け者で、拝みたくない。それは汚染の心、貪欲の心である。

リンチェンドルジェ・リンポチェは多年前に始めて衆生を助ける時、ある胃癌に罹った女に遇った事を覚えた。癌細胞は胃を塞ぐので、食べられなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を二回加持した後、食べられた。更に、医師も彼女の腫瘍も縮まった。この女は四人の息子が有って、その中に一人は日本で留学している。他の三人はリンチェンドルジェ・リンポチェに如何すればいいと尋ねた。リンチェンドルジェ・リンポチェは通常自分が何か出来ると聞かせると、反感を抱いた。更に必ずこの人に自分が出来ると思うのを聞いた。この話を聞く人は基本的には傲慢だ。だから、彼達は毎日六字大明呪を二万回唱えて、彼達の母を迴向する事を言った。結局彼達は三人とも忙しいから時間が無いと言った。

その後、日本で留学した息子が帰って来た。彼は三十歳以上なのに、社会に出て仕事をした事がない。本物の冤親債主だ。帰って来ると、すぐ反対して必ず治療しなければならないと言った。結局母は化学治療を受けて、半月に経って亡くなった。常にある者はリンチェンドルジェ・リンポチェに手術を受けるかどうかを尋ねた。リンチェンドルジェ・リンポチェは本当に言う言葉が無い。若し、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を信じる事を言って、例えばある弟子の妻の事だ。この前にリンチェンドルジェ・リンポチェは彼達の生れていない娘を助けて、娘に脳の腫瘍を治させた。最初医師は彼達に諦めさせなかった。胎児の脳部に腫瘍があれば治られないから。その後、、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼達に恐がらないで、必ず大丈夫と言った。結局生れた娘は健康だ。しかし、この母は最近検査を受けて、体内に腫瘍を発見して、恐がった。リンチェンドルジェ・リンポチェに自分は手術を受けるかどうかを聞いた。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子達を見たら、如何思う。唯血を吐くのようである。

何故血を吐くだろう。此れはこの弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェが保証させた。若しリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に手術を止めないといったら、リンチェンドルジェ・リンポチェに保証した。若し、リンチェンドルジェ・リンポチェは手術を受けなさいと言っても、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず彼女に無事に手術を受けることを保証しなければならない。このような弟子は如何なる悪だろう。昔リンチェンドルジェ・リンポチェは皮膚癌に罹って、身に二つの患部があった。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王を求めて、自分のために法を修めなかった。直貢チェツァン法王も問わなかった。自分の業を分かるから、しっかりに修めなければならない。反ってそなた達は如何する。ある医師の弟子は最もリンチェンドルジェ・リンポチェが皮膚癌に罹った事をはっきりに分かった。当時リンチェンドルジェ・リンポチェに癌細胞を除く事を求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは元々一つのほくろがあって、その後、突然灰色になって、固くなって、隆起した。此れは皮膚癌の前兆だ。現場にいる二位医師弟子もリンチェンドルジェ・リンポチェの言い方を確認した。ある弟子も嘗て昔リンチェンドルジェ・リンポチェの黒色の斑を見た。現在は明らかに消えた。現在リンチェンドルジェ・リンポチェの皮膚はそなたたちより綺麗だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは如何なる修めただろう。それは自分が間違って、仏菩薩、直貢チェツァン法王を信じて、自分は出来る事を信じたから。リンチェンドルジェ・リンポチェの顔の斑は実は肝癌の前兆である。

だから、そなたたちのような弟子は一人より悪かった。全て悪を行った。仏菩薩を信じないのは悪だ。上師は要望した物を与えないのは悪だ。まだ多くの理由を持った。夫として、妻を移した。また妻は夫を移した。このような悪の人は如何なる善を行うだろう。寶吉祥ベストさえ落とした者は如何なる善を行っただろう。だから、直貢チェツァン法王は此処で既に遠慮して話した。汚染が無い、悪業が無い、悪行がないと言って、そうすれば、そなた達は昔行った悪業を中和できる。何故リンチェンドルジェ・リンポチェできただろう。それはリンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王の教えに従った。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法に十分の信心を持って、死亡を恐がらなかった。例え死んでも死ぬべきだと思う。それは自分の悪業はとても重いから。しかし、そなたたちはどうなろう。最初リンチェンドルジェ・リンポチェは黒色の斑があったけど、修行によってすべて変わった。体質も変わった。

我々は自分の心に対して、非常に警戒して、自分を監督して、必ず緩めない。若しそなたは緩めると、累世の業は機に乗じて、そなたに再び仏法を聞かせない。ある弟子はそうになった。今日は彼女は法会に参加するを許さない。それは前日リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店を帰った時、明らかにリンチェンドルジェ・リンポチェは先に問い合わせる人に会って、弟子は後を並ぶことを指示した。それは問い合わせる人はとても苦しい。結局ある弟子は自分が供養するので、最も大切だと思った。ポンとリンチェンドルジェ・リンポチェの前に跪いて、おひねりを出した。結局リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を断った。彼女はまだ他の女弟子を頼んだ。この女弟子も余計な事をして、明らかにリンチェンドルジェ・リンポチェの指示を聞いたのに、彼女を手伝えて、リンチェンドルジェ・リンポチェにおひねりを渡した。結局まだリンチェンドルジェ・リンポチェは断った。上師の話に従わないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは何故彼女の供養を受けるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生を大切に思った。そなたたちは皈依弟子なので、勿論後ろを並んだ。始めてリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した人は最も苦しいだ。結局この女弟子は自分は立派だと思って、急いで供養した。

あの日他の女弟子はひと重ねのおひねりを持った。真ん中に一つは直貢チェツァン法王に供養する事を書かれた。結局リンチェンドルジェ・リンポチェはおひねりを全部返した。前回インドにいた時、リンチェンドルジェ・リンポチェは分別心で供養しない事を開示した。更に、リンチェンドルジェ・リンポチェは忙しいので、若しこのおひねりは直貢チェツァン法王に供養する事を忘れたら、果報は極めて重い。そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェを妨げただろう。リンチェンドルジェ・リンポチェにそなたたちを手伝えて、あるおひねりが直貢チェツァン法王を差し上げる事を覚えたのだろう。

如何なる教えても聞き取れない。既にそなたたちを言ったのに、若し供養すれば、リンチェンドルジェ・リンポチェを任せて、行うから。若し指名すれば、供養金も多くしなさい。二三千元台湾ドルくらいだ。若し二百万だったら、リンチェンドルジェ・リンポチェも此れは直貢チェツァン法王を差し上げる事を覚えた。法本にはっきりにラマを供養する時に少なく供養して、法師を供養する時多く供養しないでと記載した。そなたたちはいつも分別心で供養していた。誰はそなたたちのお金が要るだろう。

これこそ悪行で、悪業、汚染された心である。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗てそなた達に慈悲心で供養するべきを教えた、普門品の中にづ供養するのを教えたか?分別心で供養すれば、これはリンチェンドルジェ・リンポチェへ、もう1つは直貢チェツァン法王へ、これ等の供養は何の意味があるのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは因果を信じて、例えこの事を忘れたら、この件に起きられた因果は冗談ではなく、むしろ直接的に直貢チェツァン法王の代わりにそなたを断った。

直貢チェツァン法王はまだリンチェンドルジェ・リンポチェの身分を確認した前、リンチェンドルジェ・リンポチェは供養を受け取る勇気がなくて,他人が自分に頂礼をさせる勇気もない。なぜだろう?それは、直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェの業がすでに清浄したのを確認して欲しかった、上師は即ち本尊である。

それより、ある時修法後、例えある者は施身法を参加した後気分が悪くて感じた,彼らはこの法が悪いと思った、これこそ謗法である。法を行った後、そなたの業が整理したが、果報を転化する事が出来なく、相変わらず受けるべき、即ち重報軽受で、そなたに病気させた。まるである弟子が交通事故で足がちょっとぶつかった、こんなことはきっとあった。リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生を利益するのを決心したとき、事業が綺麗につぶして、食事するお金さえもない、なぜだろう?これこそ借金を返すのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは恨みもなく、悔しいもなかった。そなた達のように自分がよく読まなくて、観想がよくしないと思わなかった。これはまだ軽いのである。少しひどい考えは、早目に分かれば学ばない、学んでかえって不運な目にあった。とっくにわかったら読まない、読んだらかえって事故があった。これ等は全部ひどい悪業をした者である。

リンチェンドルジェ・リンポチェはよく一言を仰る:仏菩薩は絶対我らに害をしない。今日そなた達はどんな法門を勉強しても、そなたが本当に菩提心を用いれば、仏菩薩はそなたに害をするわけがあるか?決してない。またなにがあったなぜ?重報軽受である。そなたが借金を返そう、本来は100万元が現在50万に変えさせて、そなたがやはり返すべきで、返さないわけにはいかないのであろう。だから,いま身体にはまだすこし具合悪かった者はおめでとう!地獄にはあなたの分がないね! ある弟子は母親の体はちょっと気分が悪くなったら緊張して母親を連れて願いに来て、リンチェンドルジェ・リンポチェが厳しい声でこの弟子に聞いた:あなたの母親はいくら衆生を殺した?病気にならないわけがあるか?だから、我等はここで話した「清浄一切罪業と汚染」の表れをそなたがどんな事でも起こらないと誤解されないで。こんな観念をあらない。用事があったら、自分に対して、喜びこころが起こったべきで、仏菩薩、上師に対して、恩に着た心が生じるはずで、それは、そなたが累世の悪業をこの世で解決するのを助けて、この悪業を次の世に連れて行かさせない!業が清浄しなくて、債を返さないと生死より離脱することは出来ない。だから、仏を学ぶ時、思いの通りにならないことにあえば、決して避けない、決して後悔しない、決して悪念を起こらない。今日そなたがこんな考えがあれば、謗仏と呼ばれている!仏血を出る!この罪はとても重いである。皈依する前に、「知らない」と言えるが皈依した後、即ち「明知故犯」(分かったくせに罪を犯した)、罪がもっと重大になった。

以前嘗てあるリンポチェはリンチェンドルジェ・リンポチェに聞いた:あの頃あなたは食事が出来なくて、そなたは怨んだか?リンチェンドルジェ・リンポチェは答えた:ない。私の業、私の果報である。チベット人さえもリンチェンドルジェ・リンポチェは一人漢民族でこの程度までが出来たのを信じない。前、リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ信者で、直貢噶舉教派を護持して、護持の金額は八桁数であった。そなたであれば、以前そんなに沢山供養したのに、現在食事が出来なくて、早目に分かれば供養しなくて、直貢チェツァン法王さえも我の為法を行ってくれなくて、ラマ僧が我の為念仏してくれなくて…。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは全くこんな考えはない、自分は罪業が深く重くて、直貢チェツァン法王に、仏菩薩に大変感謝して、リンチェンドルジェ・リンポチェにこんな債の返すチャンスを賜った。

それで、今日仏を学ぶのは観念が正しくしなければいけないのである。仏を学ぶ過程の中に、従来夫が良くしているのに突然にそなたを殴った、お目でとう!元来そなたの主人はそなたと離婚するかもしれないが、そなたをなぐって無事になった。そなたたちならば、観音菩薩が役に立たない、毎日六字大明呪を唱えて夫がよくなると願ったのに、かえって悪くなってもう唱えるのをやめよう。すこし良いのはリンチェンドルジェ・リンポチェに伺いに来て:私は読み間違っただろう、そうして効果がないか?そうではなくて、そなたが夫に殴られた方が他人に殺されたより良いである。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェはある男を警告した、ある一ヶ月の前、夜時外へ出ない方が良い、さもないと彼がひどく殴られる。この者は考えて見ると、台湾で彼が沢山友達がいて夜出ないのが無理なので、彼がアメリカーへ走り行った。アメリカーである晩、バーで酒を飲んで、外国人に殴られて、病院でニッか月横になった。またある男にリンチェンドルジェ・リンポチェは端午節の夜決して外へ出ないで、そうでないと殴られると仰った。この男は本当に従順で、外出しなくて、ところが夜家に何杯のお酒を多く飲んで、ガ-ル・フレンドと喧嘩した、彼女に殴られた。それよると因果は転化することが出来ない。

この時、子供は言い争った声があった、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの子供を厳しく責めた:あなたはこんなに人を罵ることが好きであれば、以後舌には吹き出す物が出るはずである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて申された、因果はとても面白いで、リンチェンドルジェ・リンポチェのような修行者さえ見ても分かる、この者が懺悔心がなくて、仏法を信じなければ、やはり事故が発生する。懺悔心があって、仏法を信じれば、ことが軽くなろうとして、ひいては消えようとする。それで、そなた達は必ず直貢チェツァン法王と上師がそなた達に教えた法門を従って如実して、速くて一生懸命しなければならない。そなた達に「精進」を言う勇気がない。今日そなた達の問題が解決出来ないのが、とても簡単で、ずっと汚染されて、ずっと悪業があって、ずっと悪行があった。今日、そなたがどんな者に只嗔(怒る、恨む)が起これば即ち悪である。嗔はとても簡単で、「この人は私に面子をつぶさせた」、これは嗔である。「この者は私をリンチェンドルジェ・リンポチェの目の前に叱らせた」、これこそ嗔である。「上師が私を叱った、わたしは可愛そう」これは嗔で、悪習である。リンチェンドルジェ・リンポチェは経験のある修行者で、リンチェンドルジェ・リンポチェはチェツァン法王の方法に従って出来た、それはそなた達も出来るとの表れである。そなた達の福運はリンチェンドルジェ・リンポチェより良い、リンチェンドルジェ・リンポチェがあって、そなた達を監督していて、以前誰がリンチェンドルジェ・リンポチェを監督したか?法王前台湾にていなくて、アメリカーいらっしゃった。自分に頼りしか出来なかった。そなた達は現在、リンチェンドルジェ・リンポチェに叱れて、リンチェンドルジェ・リンポチェに打たれて、これはそなた達が累世の福報である。そなた達の心の中にわずかな不満があって、リンチェンドルジェ・リンポチェがそなたに無実の罪をきせるていて、リンチェンドルジェ・リンポチェがそなたを誤解したと思うならば、これらは全部悪行である。我らは1人修行者、1人仏を学ぶ者をとして、私達にとって、「誤解」との2つ文字があらない。そなた達は我らの目の前には透明で、そなた達の起心動念が良く分かった。

そのゆえで、チェツァン法王は彼の個人の修行経験でわれらに勧めた、「一切修法するの中に、思惟禅修で死亡と無常を修める」とは一番大切である。われらは「死」、「無常」をしるべきで、そなた達は如何して仏を学ぶことが出来ないか?それはそなた達は死なない、死にたくない、死にすごく恐れた;第二、無常を受け取らない。無常とはなんだろう?変わり。そなた達は全て良いものが永遠で変わらないと希望している。良い者が永遠で変わらなければ、悪いのも永遠で変わらないである。だから、そなた達は良いのが永遠で変わりがないと思えば、そなた達の悪いことも永遠で変わりがあらない。そなたが既にそれを肯定したから。そうして、仏が申された、一切法が変わらないとは、即ち一切事は全部変わる、変わらないのはない,自性がない、縁により生んで、縁によって消えて、永遠変わっているのである。

第二、どんな有情衆生は必ず死ぬ。六道衆生が天界に行って、最高の境界とも問わず、やはり死ぬ。だからリンチェンドルジェ・リンポチェはずっと強調していて、釈迦牟尼仏はこの世界に来て只一つ大事なことがあった:衆生が死よより離脱するのを助ける。(法のテープの中に説いた“離死”は“離生死”ではない)離生死ならば、我らはなぜ死ぬか考えなければならない、我らはなぜわれらが死ぬのを良く分かれば、そなたこそそなたが再生するのをもうしない、不生こそ死ぬのはない、死があればきっと生があり、生があれば必ず死があり、絶えずに循環するのである。我らに不死不生をさせるため、只口で言うのではなく、確かに止悪行善をするべきである。この善とは、世間に我らは他人に慈善事業をするのを教えるのではなく、これらの善はまだ我らに生死をさせるのが出来る。所謂善は、仏になる方法で、これは真の善で、単純な善で、雑じらない善である。我らはこの善までが出来たら、生死の力こそ発生しない。我らはなぜ生死出来るか?業力があるから、悪業、善業を問わず。我らは死亡との事実を受け取らなくて、ずっと色んな方式でそれを避けて、そうして我らは悪業を作る。それである者が栄養のある者を食べる、ある者が絶えずに沢山ことをして儲けないべきなお金を儲けて、悪業をした;それである者はリンチェンドルジェ・リンポチェに供養して福報があると思って、悪業をした。

本当な修行者ならば、必ず無常と死この2つことをよく見る、我らの世間、我らこの一生に一切の過程は全て因果、因縁である。これは全て生滅法で、重要であらない。一番大切のは自分の生死大事、衆生の生死大事である。所謂自渡渡他である。そなたは自分の生死大事が出来なければ、どんな条件で他人に念仏して済度するのを助けるか?自分を済度が出来なくて、どんな力で他人を済度するか?仏を学ぶのは神通を勉強して、感応を習って、名と利を学んで、病気の治すを勉強するのではなく、仏を学ぶのは我らが死亡と無常に対して、よく分かって、受け取るのである。我らは覚知が無常に死ぬのを分かれば、この全ての修行こそ意味があって、成功することが出来る。なぜそなた達は修め得ないか?終日「リンポチェは慈悲で、我に沢山お金を儲けさせて」、「リンポチェに良くすれば私の商売が順調になる」、「リンポチェに頼れば、我は福報がある」 これらは死亡と無常少し関係ともない。それで、そなた達の修行は全く意味がない、成功するのも出来ない。

だから、我々は死亡を我々の未来世を影響させない事を遣り遂げなければいけなくて、我々は必ず持戒しなければならなくて、十善を修めなければならなくて、如実に禅定をしなければならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはチェツァン法王の開示を次のように継いで開示された:「我々は了解しないし、或は無常で去る重要性を正確に体得しないならば、他法を勤めていても、大きな成就になる事が難しい」。チェツァン法王の意味とは、そなたは仏を学ぶとは何かという正確な観念が知らないならば、そなたが多くの法門修めても、大きな成果がない。金曜日にあの出家者のようない、彼は死亡と無常が知らないので、彼がこの世に仏を唱えるのが成就がない、無二な成就とはある人が彼を手伝って、彼の苦しみを減らす事だけである。此れは彼が「仏を学んで修行するとは自分の為に何か功徳があって、自分の為に何か福報があって、これらは無常と死亡に関わらない」とずっと思っていて、多くの人々もこのように思っている。何故我々はこの二つの件を重視しなければならないでしょうか?此れはそなたがこの二つの件を重視してから、そなたが世間で全ての事を放して放して、再び放していく事が出来始める。今日まで、我々はこんなに多くの苦しみがあって、此れは放す事が出来ないわけで、捨てる事ができないわけで、落とす事が出来ないわけである。だから、これらの馬鹿がいる。彼の娘を救った事をはっきりさせたが、またリンチェンドルジェ・リンポチェに手術する事かどうかと問い合せて来た。此れは死ぬ事を恐れる。問題はどこでしょうか?はっきりしなくて、思惟しなくて、無常で去る重要性を受け入れないのである。我々は此れが私の物で、此れが私に属して、此の品物が私の物で、此れは何でしょうか?「常」である。そなたは事が「常」と思っているなら、そなたが此れを失ってしまう時に苦しんでいく。さきあの子供の物を無くしまって、直に彼の母に。るという例をあげて、此れは彼があの品物が彼の物と思っていて、直に親孝行をしないで、悪業をして行った。子供の年齢が若いので許せる事が出来で、そなたのこれらの何十歳の人々はこれらの思いがあれば、間違うのである。

人生は従来無常で、良いが悪いに変わって、悪いが良いに変わって、繰り返して輪廻して止まる事は無い。我らは今日の苦しみがどこから来たか、それは我らは「常」を執着して、この観念があると苦しみのはじめである、そなたは自分が苦しみがないと希望する者は悪行し始めたのである。

だから、直貢チェツァン法王は何度も注意させた、そなたは死と無常の重要性を重視しなくて、分からなくて体得しなければ、そなたが其の他の法門をとても勤勉しても大成就になるのが出来ない。厳しく言うと、リンチェンドルジェ・リンポチェは大法を学んだことがない、沢山手印さえもできない、それはリンチェンドルジェ・リンポチェは正式の訓練を受けたリンポチェであらない。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは少し成績があった、それはリンチェンドルジェ・リンポチェは無常と死に深く受けて深く体得した。まるでリンチェンドルジェ・リンポチェは以前食べる物もないほど貧乏になった時、これは無常、無怨、悔しくないとわかった、他人のことを言わない、そなたのように:「これがもっと読めば早くよいに変わる」ある男弟子のように毎日大礼拝をして、良くなると希望したが、彼は現在すこし良くなって、少なくとも牢獄の災害はない。

1人大根器者は、とても自然にこの現象を受け取ることができた、我らはよく言う、攀縁をするな、逆縁をするな、この道理である、無常は全て宇宙の自然現象で、生、死も一切非物質を含んで有情世界の中に生じる自然現象のである。私たちはこの二点が出来て、この二点を避けるのはただ1つ方法―仏になるのである。仏になるため、我らは衆生を利益してから、はじめ仏になる資格がある、それで、我らは沢山法門を勉強しなければならない、六波羅蜜、三十七頌などを学ばなければならない、なぜ?そなたの運命を変わるのではない、しかし、こういうもんがとても不思議で、そなたが決心して、出離心があれば、そなたの運命がすぐ変わった、ちゃっと那洛巴大師が仰った通り:「そなたは菩提心を起せば、きっと菩提心を用いれば、そなたの業は自然に消えてしまった」どうして、菩提心を起す者は業を消えることが出来るだろう?それは彼が間もなく未来仏になる、それよると、彼の累世の業はもう彼を妨げることが出来ない、彼が仏になると彼らも彼に連れて仏になっていこうから。

そなた達は仏を学ぶのは、ある時は追いつめられたのである、ある男弟子の2人娘のように追いつめられたのである、それは彼女の母親が亡くなった時、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女のためポワ法を行った、彼女の母親はリンチェンドルジェ・リンポチェに、2つ娘が仏を学ぶのをさせると言った、彼女2人は心よりする気がなくて、大礼拝さえもしない。彼女達はリンチェンドルジェ・リンポチェが勝手に仰って、リンチェンドルジェ・リンポチェが嘘つきか思った、2名弟子を増えたか、減ったかリンチェンドルジェ・リンポチェにとって影響がない、なぜ彼女達の母親は彼ら2人に仏を学ばせたか?それは彼女が離苦得楽(苦しみから離れ、楽を得るとの意味)になったのは仏法が彼女を救ったのである。

だから、直貢チェツァン法王は「我々に死亡と無常に関する基礎教法に専心し、此れを了解して、此れを受け入れて、深く心にとどめて、そうすると、修行が効果がある」と諭した。この話しは金科玉条で、そなたが遣り遂げなければならない、特にそなた達のこれらのお年寄りで、一日中に病気に罹る事を恐れてはいけないし、子供が親孝行をしない事を恐れてはいけないし、リンチェンドルジェ・リンポチェがそなたを罵る事を恐れていはいけない、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたを罵る事がそなた達の良い事の為に、何数十歳まで生きていて誰がそなたを罵る勇気がない、ただリンチェンドルジェ・リンポチェだけで大胆である。

リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生のためにポワ法を修める時には、衆生が来る時に極めて悲しくて苦しいで、此れは彼たちが現在に人身がないし、自分の未来が如何にする事と了知しなくて、誰かが彼に助ける事がない事と知っているわけである。此れはまだ厳重ではなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェは地獄道衆生を見えて、此れは真に苦しみである。

だから、直貢チェツァン法王は、真に大手印は如何なる状況の下、その場で仏法を修めてしている事と諭した。そなたは順境逆境にいる事に関わらず、そなたの毎秒に如何なる現象が総て仏法で、仏法が衆生に利益する。この意味は、良い時にはそなたの良い力よりもっと多くの衆生に利益して、そなたが逆境にいる時にも衆生に利益する事が出来て、衆生に果報の怖さを理解させる。そなたの病気の表れは、私は過去にした悪が現在承認しなければならない事を他人に知らせる。リンチェンドルジェ・リンポチェの嘗てのように、香港で珠宝店を経営する時には、社長の取引先のリストを持って個人商売をして行って、多くのお金を稼いで、自分が嬉しくて自分の素晴らしさと聡明だと思っていて、オーストラリアに来てから他人に欺かせた。だから、そなたは出勤する時には、社長さんに気をつけないならばこの果報がとても悲しいである。在席の皆は他人の給料を取る者が、そなたがどのぐらいの事をするかをよくに考えていて、国から給料を貰う人は、例えば、先生、公務員と銀行で働く者が他人からどのぐらいの利益を貰ったなら、総て果報があり、特に文章を書いたのが総て果報がある。だから、何故そなた達は果報が恐れないか?これはそなた達は無常を了解せず、また死亡の事実を受け入れないのである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは食事する事が出来ないでも同じように修めて、食事する事があってからもっと修めていく。貧乏の故で、仏を学ぶ事がゆっくりして、私がお金があるならさらに言う事をしない。ある男の弟子は嘗て多くの貧乏の友たちを紹介させて、現在、一人でも会った事がない、これは彼が彼たちに仏を学んでからお金がある事が出来ると言い、結局、長くて仏を学ぶとお金がないので、来ない。これは彼の観念が不正なので、自然に彼の友たちの観念が彼と同じようにである。チェツァン法王がここに諭した真に大手印にて禅修する弟子は、如何なる状況の下に関わらず、同じように仏法を修めていって、如何なる境界が彼にとって総て仏法である。そなた達は、仏を学ぶのは順調だけがほしい、これは間違い、仏を学ぶのは順調しない可能である。ナロバ大師が仏を学ぶ時には、多くの逆境があった。ミラレバもこのようにである。頭から最後までにはずっと順調する事が可能でしょうか?それから、彼の福徳が現われから、順調して始めた。何故福徳の現われの前に不順でしょうか?これはそなたの業が清算しないわけである。業が清算したいならば、直貢チェツァン法王と上師から教える方法に従っている。

直貢チェツァン法王は後で諭した事があり、我々は大手印を通して、行者が円満な仏果を認める事が出来て、この目的に至るために、修行が有効しなければならない。有効とは何でしょうか?修行が有効する為には、一切の現象は必ず相互に依存する事を了解しなければならない、この道理とはそなた達は見たり聞いたり感じたりする一切の現象が単一で発生するではなくて、総て因果と因縁がある。急にある事を発生する事が出来ない、急にある状況をそなたの身に付ける事が出来ない、前には必ず原因があって、前には必ず有る縁があって、今日縁が成熟して果報が成熟するので発生して始める。だから、この意味とは、今日若し我々はある悪の因をして、この因をしてからこの悪の果を現れるまで前に、この間には悪の助縁がない場合であれば、この種子が発芽しなくて、死ぬ可能性もある。だから、前にそなた達に善を以って対治することを教え、例えば、今日我々の過去に悪をして、そなたが懺悔して、善の開始である。若しそなたが対治する力が善の助縁であれば、この悪の種子が潅漑することを得ないので、芽生えない機会がない、芽生えなくて成長しないならば、この悪の果を現れない。だから、善と悪が相互に相殺ではない、相互に依止で、悪が善を替わる可能で、善が悪を替わる可能で、そなたのこの間の因縁法に基く。若し、この間には因縁法が正しいなら、ずっと歩いて善の果で、この悪の種子が芽生えても、そなたの善の種が多いし、成長した果も少ないので、だから重い報が軽い受けている。我々は「我々は一つの悪をし、一つの善をし、相殺する事出来る」という間違う観念常にがある。例えば、多くの人々は稼ぐべからずお金を稼いで、十分な一つ寄付けをしてから無事と思っている。無理である!我々は善を行う力がそなたの悪を行う力により何倍がかかって、善の果を替わって始めて、その上、これを現れない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは本来40歳余りに死ぬ予定人が、皈依したので、絶えずにしていて、この果がその時間で出現しない、リンチェンドルジェ・リンポチェは本来に癌に罹る人だが、絶えずに善行をしていので、この果を減らす事が出来る。だから、仏を学ぶのはそなたに神通、有名、官位が高くなり、お金持ちになる事をくれるではなしし、完全にこの心である。そなたは業を清算しないなら、福報があっても、そなたの業が重く過ぎて、相対的に果がよくに成長する事が出来ない。我々はこの悪果をを封じる事が出来て、その上滅びる可能性もあり、我々は善果をを封じる事が出来て、その上滅びる可能性もあり、相対的な、相互に依止する。今日は皈依してから、善が現れて必ず善果で、若しこの間の行為には汚染があれば、悪行があれば、悪業があれば、この善の果が現れない、これはそなたの因縁が悪で、これを封じて、その上殴殺する可能である。だから、善と悪が相互に依止し、相殺ではない。善は悪になる可能し、悪は善になる可能する。済度する時には、これらの死者は本来彼の業が地獄が落ちる事が要らない、けれども、彼に済度してくれる人が如法しない、例えば死者の前に喧嘩し、心が清浄しなくて汚染しない、すぐに地獄に落ちる因を作ってくれる。この死者は鬼通があるので、彼がそなたの心を何を考えているが知っているので、瞋念が起きて、瞋念が起きてから落ちって行く。

原因は、彼の子女はとても親孝行をしてずっと求めてきた。第三の原因はこの善知識がこの死者と過去世に因縁があり、この世に彼を悪をしても、が、彼が過去世にした善が厚いので、彼が一番需要する時に彼を助けてくれる。

多くの民間の話し方は運を変えると話して、仏法には変わる事を呼ばなくて、仏法「転」を諭す。若し運が変わっていたら、因果がない。アンダーウェアを持って、少しの端の髮を切って、誕生日八字、生人の墓を作って、これは変わる事ではない、これは奪るを呼ばれ、彼の未来の福を奪って現在に使って、これらは後遺症があって、彼は現在に良くなっているかもしれないし、これはもっと厳重な事柄を発生する可能である。かつてある弟子から紹介させる信衆は土地建物売買を担当し、台北県のある有名な土地神の所へ求めていって、この土地神求めて、そちは土地神ではなくて山神で、彼らは土地神が山神と思っていて、ある地を作って、求めてきて、真にこの商売を完成し多くのお金を稼いで、彼たちは多くの人を分けて、この分けるお金人は財産がないなら、家に誰かに死ぬ、ある弟子紹介される人は、一番愛する息子が死んだ。仏は転を呼んで、心から転じて、若し転じる事が出来ないなら、そなたの運がそなたに従って転じて、リンチェンドルジェ・リンポチェはある例である。リンチェンドルジェ・リンポチェは本来死ぬはず人で、心を転じるので、事柄も自然に転じる。

我々は一切の現象が決して相互に依存して、単独の成立した事情がない事をはっきりしていて、仏が曰くように、衆生がいないなら仏がいない、今日は衆生が済度が需要ので、仏がいて始めて、若し今日衆生が済度が要らないなら、皆が仏で、もちろん仏がいない。だから、我々は家庭にはそなたがお年寄りなので素晴らしさと思ってはいけない、総ての目下の人がそなたの話を従って、そなたがお金持ちので素晴らしさと思ってはいけない、これははずではない、これは総ての現象が必ず相互に依存する。だから、我々はこれにより諸法縁起を了解して、過去の諸如来がこの道理を経た事があって、彼の願を成功して円満なって、正等正覚に至って、この意味はリンチェンドルジェ・リンポチェは閉関した時に真に「縁起」を了解して始めた。我々は縁生縁滅という話しを聞いた事がり、大体この意味が分かっているが、真に体得がないし、そなた達は真に縁起を了解できない。今日、有る人はこの料理が美味しいと話して、そなたがこの香りを感じて、この色を見て、美味しいそうが、如何に美味しいでしょうか?食べないので分からない、だから、この悟りがこのように説明していく。仏菩薩は我々に如何に説いても、我々がこの真に味が分からない、如何に知っているでしょうか?自分で修めて行って、ある日に悟ってから上師が再度そなたに認めた。そなたが認めた前には、コックが料理を炒めている様にあなたは傍らに見て、美味しくて綺麗で、コックは料理が出で来ない食べて恐れて、熱さと辛さを恐れて、口に至ってから美味しいかどうか師って始めて、悟りがこのような説法を少し接近する。

仏法は最も重要で最も重要なのは縁起性空を悟って、彼は一切が縁起をはっきり了解してから、この人が空性を認めて、彼が執着しない、かれが生死を見抜いて、生死を了する事が出来る。何故そなた達はこんなに多くな問題があるでしょうか?これはそなた達は縁起性空を認める事がない、そなた達にこの境界に至る事為に、前に教えるのが法門で、何故そなたに貪、瞋、痴、慢、疑を放して、これは執着の人がこれらの物を悟る事ができない、これは執着し過ぎて、放す事が出来ない、そなたに放させるのは何か要らないではなくて、そなたの多くの正確しない観念と正確しない経験法を総て側に置く。だから仏を学ぶとはずっとそなた達に独りよがりをしない事を教えて、これはそなたの独りよがりの経験と縁起性空の真理と関係がない、そなたの学び、唱え、見、聞きは入門ではない、門外漢で、コックが料理を炒めて美味しいで、そなたのようにリンチェンドルジェ・リンポチェが素晴らしい、如何に素晴らしいがそなた現在知らない。だから、今日何故これらの人が悟る事が出来ない、多くの衆生が悟る事ができない、これは彼の行為がずっと汚染して、かれがずっと固く持つ物を放したくない、放すなら安全感がない、放すならお金を稼ぐ事が出来ない、だから、これらの人々がずっと生死大海に輪廻している。

直貢チェツァン法王が諭した一切の仏法は現在から益々早くになって、これは多くの衆生がリンチェンドルジェ・リンポチェが要るし、そなた達のこれらの百人がリンチェンドルジェ・リンポチェに面倒してはいけない、改正しないなら同じの癖で絶えずに出現すれば、一つはリンチェンドルジェ・リンポチェが行方不明で、もう一つはそなた達に一人一人で追い出せて、これはそなた達が仏を学ぶ資格がない、そなた達は続けて学ぶと仏を誹謗可能し、、遅かれ早かれ悪業を作ることができる。

仏を学ぶ人はある日に能力があれば、衆生の要求は我々が我々の能力範囲を尽くして彼を一部の満足をくれて、ましてある上師がそなたにとって要求である。ある領衆師はきたばかり時に体が揺らいで、彼女が現在そうしない、前は彼女の心が動いて、彼女は彼女が法を修めて、仏を学んで、真言を唱えて、感応が要る事と思っていて、これは執着で放さない、現在、彼女は放すので、揺らがない、然し、彼女は多くの事を放さない。本来、今回、彼女はネパールへ行くが、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女に行かさせない、何故彼女に行かさせないでしょうか?これは彼女は行く事をとても執着して、行くと功徳と福報があると思っていて、彼女に行かさせない。彼女は借金を得たが、リンチェンドルジェ・リンポチェは人々がお金を貸して行く事が好きではない。今回、ネパールへ行く、有る考えを持ってはいけない、リンチェンドルジェ・リンポチェが我々につれるので功徳と福報があって、今回は我々の直貢噶舉教派に盛んで行く、最も衆生に利益させて、我々に釈迦牟尼仏の出生地にいる事が出来る。我々の福報が薄いので、仏がいる時間に生まれないので、我々が衆生に代わって仏の出生地へ向いて仏法を延長して、衆生に代わって仏に謁見して、これは重点で、何か福徳と何か功徳ではない、これらの観念があれば間違い。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に行かさせない、彼女も素直に従って行かない、彼女は嘗て多くの悪習があったが、彼女がそなた達により速めて変わる。

縁起性空はそなた達によりある名詞だけで、そなた達は体得する事が出来ない、然し、そなた達はこれが修行で一つ極めて体得しなければならない過程で、この過程を悟る事が出来れば、その後が容易である。前に我々にしたの一切の修行は自分の多くの思想、言語などの変わり、何故でしょうか、これは我々の執着の心を棄てて放していく。例えば、ある女の弟子は自身の事を極めて執着し、彼女がする事が他人を触らない、これは彼女が他人を自分の事を触ると、彼女がリンチェンドルジェ・リンポチェの方が褒めを求めない、これは執着である。執着の心は我々に苦しませて、我々に生死し、我々に悪業を作らせる。

今日はここにまで説いて、その後には益々深くなっていて、深いと思っているのがそなた達の心が汚される、そなた達の心が叉悪の行為と悪の思想があり、そなた達は納得することが出来ない、だから、何故毎回の修法は皆に説いて提示させて、懺悔の心が要らなければならない、慈悲の心があって、菩提を発する心が要らなければならない、これはそのなりの道理である。私はこんなに深く学ぶがないを話してはいけない。仏法はそなたにそなたを信じていて、そなたが上師の教法に従って必ずやり遂げる事が出来て、ただ時間の経るだけ、必ず自分がし易い事を改正して、し易い錯誤、他人にそなたの間違いを訂正すれば、すぐに改正しなければならない、繰り返して犯してはいけない。他人の前に手柄を横取りしてはいけない。他人に良いのははずで、これは我々が仏を学ぶ人で、他人に良いし他人に知らないてもはずで、これは我々が仏を学ぶ人で、他人に良いし恩返し事も当然で、これは我々が仏を学ぶ人。若し他人によいで毎日に話して他人に知らせて、他人に恩返す事を望んでいるならば、そなたが仏を学ぶ人ではない。「仏子行37頌」には他人に良いで、他人に自分を恩返す事を説かない。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に拝懺してもそなたの累世の業を消す事が出来ない、ただ一つだけの助縁で、そなたに今後仏法を聞かせる機会を助けて、これはそなたが放さないので、この心構えにより、そなたは死亡、無常と縁起性空という事柄が永遠に体得できない。そなたはこいう程度を修めないなら、そなたの累世の業を変わらない。そなた達のこれらの人々は何回目も説いても聞き入れないなら、そなたがリンチェンドルジェ・リンポチェの身近に如何に重要に関わらず、同じように追い出される。リンチェンドルジェ・リンポチェは説いた事が必ず実行して行って、そなたが改正する事かどうか、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ずはっきりする。

今年の申年にはそなた達に冗談を言わなくて、何故でしょうか?現在、この大きな道場が出で来て、リンチェンドルジェ・リンポチェは特に去年の12月に三恩怙主直貢チェツァン法王を要請して、直貢チェツァン法王も特に寶吉祥の新しき道場の為に開光して来て、本来、チェツァン法王が閉関をしていく予定し、だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは今後寶吉祥の人が益々増えていく事を信じているので、そなた達にリンチェンドルジェ・リンポチェの時間を消耗されなてあげない。此れはそなた達のこれらの老皈依と何時もの癖がまだ変わらない人が、特にリンチェンドルジェ・リンポチェの身近にこれらの数人、他人に重くて影響させて、他人が誤解を招く可能で、だから、そなた達のそれらの何時もの癖を改正しないならば、随時に追い出される事を準備していく。

リンチェンドルジェ・リンポチェの一生には、一切な衆生を可愛がって、全ての皈依弟子がリンチェンドルジェ・リンポチェの貴重な人で、然し、そなたがリンチェンドルジェ・リンポチェの貴重な人に値しなければならない、如何に遣り遂げるでしょうか?此れはそなたが改正しなければならない、自分悪行悪徳を改正させて、毎日にリンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔していく事をしないで、余計な衆生が仏菩薩の助けが要るし、そなた達は毎日にICUへ行った事がない、リンチェンドルジェ・リンポチェが毎日に行っている。昨日の夜に、空軍総医院へ行って、ある年寄りがその中にずっと大声で叫んでいて、彼に助ける人がない、そなた達は、今日此の数世の因縁があって、直貢チェツァン法王とリンチェンドルジェ・リンポチェが絶えずにそなたに助けれくれて、そなた達がそれらの悪癖を改正しないなら、依然として自分が正しいと思っているなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関を完了して来てから処置して、数人の為にそなたを姑息なして寶吉祥のこの看板を壊れてしまう事をしてはいけない。寶吉祥のこの名前はチェツァン法王から与えて、寶吉祥がジッテン・サムゴンの名前で、この名号の下にいる弟子は如法に仏を学ばないなら、毎日に他人の良し悪しを言って、他人に嬉がさせて、此の影響が大きいがある。寶吉祥を影響して、リンチェンドルジェ・リンポチェに影響する事ではなくて、此れはこの道場の名前が寶吉祥で、全ての人々が寶吉祥の名前を唱える時に、つまりジッテン・サムゴンを唱えて、ジッテン・サムゴンの加持を得られて、もっと多くの人々が寶吉祥を唱えるならば、我々の台湾がもっと良くなっていく。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェの身近な人々は改正しないならば、リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関を完了して来てから、そなた達が見させる事を待つ!リンチェンドルジェ・リンポチェは説くなばら必ず遣り遂げて、そなた達の運が悪くて、ある金剛部を修める上師を皈依した。金剛部の上師は妥協しない、ただ仏法と関係がない事であれば、すぐそなたに切らせてあげて、却ってそれらの真に仏を学ぶ人を助けあげる。

余計な衆生がリンチェンドルジェ・リンポチェが需要し、時時に金曜日の法会の為に、リンチェンドルジェ・リンポチェが時間がなくて病院へ行って助けを需要人を助けないので、とても苦しいと感じる。苦しいのはそなた達のこれらの見込みがない人の為に、彼らをベッドに横になる人々に誰に呼んでも助けない、医者と看護婦が彼に苦しみを解決する事が出来ない。毎日にそなた達のこれらの人々を率いて、そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェと一緒に病院に患者をお見舞いに行く事を言って、何か行く事が要るでしょうか?そなた達は彼たちの苦しみを解決する事を出来るであろうか?

リンチェンドルジェ・リンポチェが今日に説いた仏法は自分の良い事が有り得なくて、直貢噶舉、寶吉祥とチェツン法王のために、この法脈をに永く在世を伝えて、何か良くない状況が出現することを求めている。我々は自分に厳しく要求して、他人に要求をしない、他人の短所を改正してみる事をしない、自分の短所が一杯があってまた他人に改正させる。人生は短い何数十年で在世して、そなたが仕事をする事であれ、事柄をする事であれ、全て因縁法で、時間に至ると皆が依然として戻って、何故此の多くの怨みを結んでいくでしょうか?一つの怨みを減らすと一つの善を増えて、全て相互に依止する事である。今日、そなたとの年齢がどれだけ老いて、そなたが間違うかどうかに関わらず、今日、リンチェンドルジェ・リンポチェが説いた仏法がそなた達の未来世に重大な開示があって、そなたが聞き入れるならば、そなたの未来世に良いである。そなた達は聞き入れないなら、またリンチェンドルジェ・リンポチェがそなたに誤解して、随意にそなたを・らせて、だれかが何を言うので、リンチェンドルジェ・リンポチェにそなたを面倒を引き起こす事を思っているならば、そなたの此の人が手に負えない。もしそなたがまだ一一分一厘の瞋恚の心があったら、そなたが「仏子行37頌」を学ばなくて修めない事を表示し、そなたが瞋恚な心がないでも、微かな悲しい心があっても間違う。

リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て説いた事があって、ある時、チェツァン法王と二人のリンポチェはチェツァン法王の応接間にいて、リンチェンドルジェ・リンポチェがもいったし、一寸チェツァン法王の侍者が不在なので、チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェにミルクティを煮させて、結局、チェツァン法王が一口を飲んでから「不味い」と説いた。若しリンチェンドルジェ・リンポチェはこのようにそなたを。るならば、そなたの初めの反応が必ずそなたに煮させてもまた不味いを言うか。此の話を言わないでも自分が無実の罪を着せていると感じている。然し、リンチェンドルジェ・リンポチェは何も話しなくて、一寸この侍者が戻って彼を求めた。チェツァン法王はこのようにリンチェンドルジェ・リンポチェに訓練させて、リンチェンドルジェ・リンポチェがこのような事をしない事を知ってるが、わざとリンチェンドルジェ・リンポチェにミルクティを煮させて、リンチェンドルジェ・リンポチェに面子をくれない、どうするかどうかを見て、そなたの反応はどうするか。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子に・る時に、弟子達は常に左右を見て、自分ではないと表示し、私と関係ない、他人で、何故私が・るでしょうか?このような如何によく改正する事が出来るでしょうか・リンチェンドルジェ・リンポチェは何を言わなくて、チェツァン法王に解釈する事をしない、「チェツァン法王、私が煮る事が出来ないので、私を責める事をしないでください」という事を必ず言ってはいけない。何を話しないと直に取って戻った。

2010年9月18日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで、140名の信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

2010年9月19日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台湾寶吉祥仏法センターで、殊勝な共修法会を主催した。法会開始前、ある女子弟子は、次のように分かち合った。彼女たちと母など3人は今年7月18日に新しく皈依した弟子である。母は既に8月27日の夜明け方に他界した。

先週リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法の録音の中で縁起性空を開示して、世の中のすべては縁によって生むのであり、すべても因果の法則にも離れられない。皆は世事が無常であることと、執着を下ろす重要性を理解するように要した。皆に、因果と上師と仏を信じること及び自分が教えに従って遂行する決心があることを信じて、必ず必死の決心を持って仏を学んで生死に解脱しなければならないと注意した。2週間の前、リンチェンドルジェ・リンポチェも法席で皆を震撼させて「話を聞き取ること」の重要性を教えた。その時、ある弟子は器漏(容器が漏れること)、器汚(容器が汚れること)と器覆(容器が覆ること)など三つの容器の比喩を分かち合って、弟子達は仏法を聞いている時にこの3種類の過失を免れるようにすべきなことを警告し励ました。

母を世話してから母が亡くなるまでのこの期間、彼女は何度もこの3種類の過失を犯して、自分の独りよがりなことに気が全然つかなかった。彼女は自分の人生経験を使って仏法を理解したり、貪りと執着の心を使って仏法を学んだりすることを意識した。母が逝去したまで、希望がだめになってから、苦痛が生んだ時、やっと思い出したのはリンチェンドルジェ・リンポチェのよく開示されたあの言葉:「凡夫が心を起こして念が動くのは全て業である」。

彼女の母は39年間の糖尿病の病歴が持つ患者であり、糖尿病のあらゆる合併症を経験したことがあった。10年前に既に左足を切除して、去年11月上旬、またうっかり打撲傷を負った右足は蜂巣織炎を引き起こしてしまって、リンチェンドルジェ・リンポチェが当時彼女たちを厳く叱責して、彼女たちにに菜食精進料理を食べて懺悔して仏を学ぶことをさせるように要することに恩に感じる。

毎週の法会と毎月に一回の施身法に参加して、母の治療過程も順調になった。病院の糖尿病の医療団の診断は、心臓に支柱を装置して、それに毎週腎臓血液透析治療を受けている母が生理状況が、決して足の切断手術を受けることに適しなくて、病院の方は比較的緩和する治療法を取った。2週間の後で、患部が改善を得て、退院して家に帰ることができて、自分で傷口を消毒して自宅療養するようになった。

母は糖尿病のため、ヒアリング能力が4分の1しかなくて、また眼球の網膜の病変で視力もとても弱くなって、ある距離以外の物がはっきり見えない。さらにこの一生ではこれまで仏法に接触したことがないから、最初に道場に来ることが別に心から望むのではなくて、また自分が一生一度も悪い事をしたことがないと自認して、ただ彼女と彼女の姉に誘われて、いやいあながら、彼女たちの姉妹に従って法会に参加した。仏法を理解しないでまたはっきり聞こえないで、その結果は多くの誤解を生んだ。いつも適切な時に母に解説しなければならなくて、彼女が法会の中で聞き間違っているところを訂正して、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示した内容の肝要を教えていただいてから、彼女の母の考えは子供と同じ単純である。受け入れた後に、急速に執着を手放した。間もなく、口を開いて、リンチェンドルジェ・リンポチェに一緒に皈依しましょうと求めた。

彼女の母は6月29日にトイレに入る時につまずいて転んでしまったから、大腿骨の骨折の手術を行ってもらった。7月9日にまた腎瘻管の疎通手術を受けた。まさにリンチェンドルジェ・リンポチェが開示したように、皈依したら、かえって多くの事が早めに発生するかもしれない。7月18日に皈依した後に、あらゆる物事の歩調はすべて加速して、状況は取り扱う暇がないほど多い。7月30日の朝、もともと病状が安定している右足の傷口は突然悪化して、足裏の赤い腫れは輝くて恐ろしくて、蜂巣織炎がまた再発した。その時、彼女はただ早く法会を休まなければ成らないことだけと思い付いて、定員を占有したくない。電話の中で、彼女の姉は依然として施身法に参加することができると言ったが、彼女は早く高熱が出ている母を急診に送って行きたいと思う。

7月31日にリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見する時に、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に、お母さんに軟膏を拭くことがあるかと聞いた。が、彼女は全然この事を忘れてしまった。リンチェンドルジェ・リンポチェはその時に、「おや!私はそなたに頼む。」と言った。その後、積極的に医師を担当するある弟子と連絡したが、しかし病院は当時急診の病室さえもなくて、傷口の炎症を起こす時機を制御するため、しばらくその他の病院に転院するほかなくて、前回の成功した経験を通してその助けを借りて、傷口の炎症と週に三回の腎臓血液透析治療のコースを続けてしっかり維持することを望む。

大量に注射する消炎薬剤は、鎮痛剤及びその他の様様な口服する薬を含んで、腹は薬をいっぱい飲んで、それが薬を腹いっぱい食べていることは母の生活品質であり、そのため、彼女にいつも熟睡させて食欲がなくなって、一日ただ4茶さじぐらいの粥だけを食べられて、また胆管の拡大と肝臓の慢性炎症など問題を合併した。内科の医師はすべての緩和医療の要求に協力しているが:手足の切断手術をしないでいかなる手術をしないが、しかしやはり彼女に傷口に寶圓膏を塗らせないことを堅持している。医師の同意を得た後で、8月18日に自動退院の声明書に署名してから、ついに医師の兄弟子の勤める病院に順調に転院した。

彼女はとてもあの医師の弟子の与えた医療の協力に感謝して、もしこの治療コースを経過しないと、彼女は自分がどんなに間違っているのが分かることはできない。寶圓膏と医師の兄弟子の治療法は、すべて母が全快を得ることができる肝心な所である。この二つはすべて彼女がとっくに知っている物であるが、ずっと見落としている。だから上師が「おや!私はそなたに頼む」と言った。彼女はあの三種類の容器の比喩の過失を犯して、最も愚鈍で馬鹿な弟子である。彼女の懺悔するのは、もし彼女は話しを聞き取って信じて、自分の人生の経験法を使わないで、早めに寶圓膏を使ったら、母も別にそんなに多くの苦を受けることが必要ない。

彼女は医師の兄弟子の方式に従って、傷口を取り扱って、更に寶圓膏を塗って、ただ2日間を経って、既に足首まで蔓延されている暗紅色暈は足の底の傷口のへりに萎縮して、しかも更に鎮痛剤を飲む必要がなくなった。8月7日に母はリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して大供養をしてポワ法を求めにいって、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の母に「何かご用ですか」聞いた。仏法が分からなくて聴力障害の母は、恭しく両手は供養を差し上げる。リンチェンドルジェ・リンポチェは更に「まだ何かあるか」と聞いて、仏法をよく知っていないため、母は「私のために破身法を修めて下さい。」と言った。ポワ法の正しい名称さえ正しく言えない。リンチェンドルジェ・リンポチェは聞いた後に笑ってしまった。すぐ慈悲に長い間母を加持した。

上師が慈悲に加持して、当日の夜11時過ぎ、もともと熟睡している母は、突然慌ててベッドを高く設定するように要求して、頷いて恭しく合掌して90度の姿に座って、暫く沈黙に正座した後、また疲れて寝てしまった。その後、また同様な状況が発生したことがあって、彼女に聞くと、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女を見に来たと答えた。更に、リンチェンドルジェ・リンポチェは既に彼女を見に来たことがもう2、3回あると言った。熟睡中なのにまだ自分が正座するように用心することは、リンチェンドルジェ・リンポチェに恭敬心を起こしたのである。

重病は再び母を譫妄の状態に入らせたが、しかし病気になる中に急速に恭敬心と供養心を起こすことに妨げない。20数日の譫妄の状態中で昼夜を区別しないで、彼女はずっとポケットの中へ物を持ち出す動作を繰り返しして、絶えずにおひねりの袋をくださいと要求して、早く、早く用意して、もう間に合わない、準備しておかないとあまりに失礼すると言っている。たまに母が覚める時に、この弟子はすぐ彼女に早く過去に傷つけられた衆生に対して懺悔するように注意して、彼女の母もとても敬虔で恭しく合掌して懺悔する。恭敬心、供養心、懺悔心は、すべて母がきわめて短くてまた苦痛な病気に懸かる経過の中で急速に産んだのである。

上師は嘗て弟子達に警告して、ポワ法を得ることができるんのはどれだけの福報に累積するのかと見なければならなくて、しかも福報が累積するのがとても遅くて、とても難しいことを言って、しかし福報を消耗するのはとても速い。彼女の母が往生することに臨む時、この弟子は施身法に参加する身分識別の証明を戻した事が二度もある。この深刻な誤りは彼女を母が浄土に往生してポワ法を得る最大の障害にならせた。眠らないで休まないで疲れて母を世話するから、彼女の執着を深めて、考え方をなかなか考え直すことができなくて、一心に最後の事を最もよくやり遂げたいと思う。母は臨終を迎える4日間の前に、既に眠れなくて、足の傷口は好転したが、しかし心肺の機能が下がって、肺に水がたまって、呼吸が困難になった。

8月25日の昼ごろ、母はICU病棟に送り込まれて、もとは躁鬱病に罹っている母は、そして譫妄の現象を加えて、彼女に更に安全性が不十分にならせる。以前の治療経験によって、彼女の母のあわて恐れる心理の需要を落ち着かせて慰めるため、医者と看護婦はいずれも特別に彼女にICU病室の中に残して母に付き添うことを許した。8月26日の木曜日に、彼女の妹は彼女がこの時に施身法の法会に参加することに対して非常に不満だと思う。彼女はまた寶吉祥の兄弟子達がこう言った話を思い出して、いつも母にリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の頭の上で彼女を加持してくれることを絶えずに憶念して、更に上師はリンチェンドルジェ・リンポチェであり、自分の法名は慧晶卓瑪だと申すことをしっかりとしっかり覚えて、持続的に母親の耳の側で仏法の録音を再生しなければならないように注意する。

だから彼女は姉さんに「それぞれ行うようにしましょう!あなたは法会に参加しに行って、私はここに残って仏法の録音を再生しましょう。」と言って、心の中で、このようにすると、双方とも円満に進むことができるだろうと思う。それから、彼女の姉は寶吉祥の骨董店から彼女に電話をかけて、兄弟子がもう少し考えてみたほうがいいじゃないかと提案すると言ったが、彼女はどのようにしたら、円満に解決することができるのか。もう1人の弟子が婉曲に彼女に教えたのは、このような場合こそ、法会に参加することがもっと必要になるのである。法会に参加して、母を助けることができるだけではなくて、また母の代々の冤親債主に助けることができて、母に福報を増やすことができる。しかし、彼女は上師が嘗て仏を学んでも世の中の事をも円満に扱わなければならないと言ったことがあって、何度も両親に親孝行をすることを強調して、彼女は上師が彼女を責めないことを信じる。もし間違いをするならば、喜んで処罰を受ける。その時、彼女は決して彼女の犯した誤りは、最も親愛なる母にも巻き添えになったことが分からない。

臨終を迎える前に、母は連続4日昼夜も寝ることができなくて、彼女をとても苦痛だようにさせる。彼女は母に手放すことを教えることに注意してくれるあの兄弟子に感謝した。彼女はとても早い前に嘗て母親にこの観念を創立したことがあるように助けたが、しかし、彼女は突然母がなぜいくつの晩に眠れない問題点のありかが分かった。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て、人が往生する前に業力が現れて、業力になる最も可能は自分の息子と娘だと開示した。急いで母の耳に付け加えて彼女に教えて、「お母さん、手放しなさい。すべてを手放さなければならない。家はすでに居住することができなかった。この世間に未練を残らない。専念に上師 リンチェンドルジェ・リンポチェを憶念する。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたを助けることができる。恐れないでください。すべての人はいずれもこの道を歩いて、あなたはただ先に1歩進むだけ、後で私もお姉さんもあなたと同じような道を歩く。」母は聞き終わって、慌ただしくいくつかの感謝の言葉を言って別れの挨拶をした後に、両目を閉ざして一心不乱に帰途に向かった。

母は目を閉ざしてから一心不乱にせっかちに往生したいと思って、呼吸が非常に差し迫っていて、とても困難でありるが、しかし、頭を歪んでいて、ずっと専念にリンチェンドルジェ・リンポチェの諭した生死の仏法録音を聞き、二番目のテープを耳にする時、ちょうど夜明け方の2時46分になって、母は他界した。彼女はすぐ寶吉祥の骨董店まで電話をかけて、母の生まれ年、組別、他界した時間を伝言した。混乱する間に、彼女は母に甘露丸を食べさせることを忘れて、幸いにある兄弟子は午前3時に甘露丸を届けに来て、しかも彼女に母を服用させる方法を教えた。

8月27日朝、いつも落ち着いた気持ちを持って、全家族を連れて母のために六字大明呪を唱えた。自分は母が既に上師の約束したポワ法を得たのを思った。しかし、助念が終わった15分前に分かったが、彼女は施身法の参加カードを戻したから、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに信心を持ってない事が現れた。加持も全て無くなった。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも母の状況を関心していたので、母もリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子だ。現在母を三悪道に堕ちさせないしか助けない。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を指示して、午後五時前姉と道場へ大礼拝をして、施身法法会が始まるまでに引き続きしなければならない。この時葬儀社の納棺師は既に母に着替えさせた。彼女は急いで母に「お母さん、夜に道場へ施身法法会に参加して、リンチェンドルジェ・リンポチェは貴方を助けたので、必ず来てください」と言った。

彼女は母を葬儀場へ送った後、車から降りると涙は止まられなかった。帰っても号泣して、心の中に言えない懺悔があった。その時彼女はやっと分かったが、上師に依止する事は如何なる重要だ。何故四皈依であり、三皈依ではないだ。彼女はその前に落ち着いたのは全て上師の加持だ。最も恐がって怖ろしい時、上師を頼ってから、心は安定した。

父の如く慈愛の上師は嘗てある七年を皈依した弟子の父が因縁が備えてないから、ポワ法での済度を得られなくて、法座で咽び泣いた状況を思い出したが、彼女は上師は必ずまだ済度を得ていない母を心にかけた。彼女は上師に気の毒に思って、母に対しても気の毒に思った。道場で大礼拝をした時、上師の写真を仰向いて、心の中に懺悔及び感謝に溢れて、自分は改めないから、母にこのような多くの苦しみを受けさせた。更に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェを感謝して、また母を助けて、ポワ法を修めて母に生死を解脱させた。今後彼女はもうどんな人、物事に上師の信心を揺らせない。髪の毛は燃えて頭を救うような心で仏を習う事を決意した。因果、上師、仏を信じて、自分は依教奉行出来る事を信じて、必死な決心で生死を解脱して、上師の話に従って、仏を習う道へ努力する。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェを感謝して、その後に行う施身法法会の中に「施身法の中にポワ法があって、当日に参加した衆生は全て済度された。」と慈悲に開示された。引き締まった心は瞬間にほっとした。上師の無量恩徳を感謝した。火葬した後、母の骨粗鬆の頭蓋骨に穴があって、全身の骨も紺色、白色とピンク紫色が現れた。また少し点状の青緑色が有った。母の頭蓋骨に僅かで縁が整然として貫通された丸い穴が一つ現れた。多くの兄弟子は自分が慌てて混乱した時に手伝えたことを感謝して、また母の告別式に参加した兄弟子も感謝した。

法会が始まって、リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐ次の如く開示された。そなた達は元々激しい風雨に見舞われたと思ったが、結局あまりに出ていない。多くの道場はこのせいで今日行う法会をキャンセルした。唯台北寶吉祥仏法センターは相変わらず法会を行なった。経典及び法本に台風、大雨、地震、日食、月食の日に仏事を行なうと、功徳は極めて大きいとある。それは当日この異変が起こった時、ある衆生は災難に遭われた。この時に法会を行なうと、直接あの衆生を利益できて、功徳もいつもより大きい。

そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェは法会を行なう必要があるのを思わないで。実はそなた達こそ法会に参加する事が必要だ。ある所は天災が現れるとこの所の人は善くないから、共業が起こった。天文の見方で台風を見ると、台風は風と雨の組み合わせと言った。しかし、仏法の見方から見ると、台風の中にとても多くの悪い鬼とドラゴンがいる。皆に傷付けられた衆生の組み合わせで皆の共業から起こった。何故毎回この天災が起こった時、必ずある者事故に遭って死んだだろう。実は仏法から見ると、事故がなくて、全ては因縁及び因果である。この時に在らずして死ぬ人は累世に多くの悪業を行って、此の世に懺悔を知らず仏を習わないから、時に在らずして死んだ。

昨日リンチェンドルジェ・リンポチェはわざとそなた達に「法会に参加するかどうか構わないが、そなた達は自分が決める」と言った。実は如何なる構わないだろう。上師は色々な方法で弟子を試した。あの来なかった弟子は来る途中で危険を恐がるのは上師に信心がなくて、仏法を習うのを決心しなくて、平日上師の話に従わない。台風に遭うと自分は傷付けることを恐がって、上師は法会に参加しなくても構わないと言う話を聞いてから、すぐ従って参加しない。そなた達は来たときに雨に濡れた者は少ない。激しい風雨と言っても現在はないだ。若しそなた達は本当に衆生を利益するために法会に参加すれば、上師に信心を持たれれば、護法はそなた達を助けた。

2007年直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェを率いてラプチ雪山で三ヶ月間の閉関修行した。閉関の場所は完全に道がなくて、馬に乗って、山に登ると少なくとも一週間にかかって、ヘリコプターに乗ると一時間にもかかる。閉関修行が終わって、山から離れた一日前、山に極めて大きい雨が降った。高山に大雨が降ると、気流は不安定になって、ヘリコプターは飛べない。しかし、出発の当日の朝雨は止まった。ヘリコプターはカトマンズから山まで飛んだ。当時、直貢チェツァン法王は閉関が円満になって此処を離れると、チベット仏教に多く儀軌は進めなければならない。例えばお茶を供えるなど儀軌がある。操縦士は非常に天候の状況を心配なので、引き続きに催促していた。ヘリコプターに乗った後、目の前に全て真っ白で、飛行の途中に更に前に見えないから迷った。またはっきりに見えないから、もう少しで山にぶつかった。よかったのはぶつかる前に曲がった。過程は極めて危険である。

到着翌日に操縦士はわざわざ直貢チェツァン法王を感謝に行った。若し、ヘリコプターに直貢チェツァン法王を乗せないと、この飛行はもう山にぶつかった。何故そんな危険なのに当日に離れることを主張しただろう。それは直貢チェツァン法王は当日二百名余り寶吉祥センターの弟子はカトマンズで円満に閉関を出た直貢チェツァン法王及びリンチェンドルジェ・リンポチェを迎える事を分かった。事前に当日閉関を出る事を約束したから、命を損なっても、必ず当日にカトマンズに到着しなければならない。仏法を深く信じて、生きられる縁が有れば、此の世にもっと多くの衆生を利益できる。全ては仏菩薩に任せれば、自然に問題は全て円満に解決した。

法会前あの弟子の報告内容から見ると、彼女は相変わらず顕教を習った観念で金剛乗上師を見て、30分間呟いた。そなたたちは誰でも彼女が言った事を分からないと信じた。彼女は自分が多く習って仏経を多く読んだと思って、母は息を止めた後、側に部屋が壊れたから住めないと言った。このような比喩を聞いて、誰でも分かるわけではない。彼女は仏経で見た事を話して、万が一彼女の母は分からないと、自分が住んだ部屋はどうして壊れただろうと思った。却って彼女の苦しみが起こって、息を止めた後家へ帰って部屋の状況を見るかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の母と約束して、ポワ法を修めるだけど、彼女は独りよがりして、母の側にいて世話したいから、施身法法会の識別証を戻した。しかし、彼女は実際に何を出来るだろう。そうしたから、彼女の母は息を止める時にすぐリンチェンドルジェ・リンポチェを連絡できなくて、ポワ法を修める縁がない。また24時間に苦しんだ。何故彼女は施身法法会の識別証を戻しただろう。それは上師を信じない。識別証を戻すと、福報も一緒に戻した。彼女は医療しか母を救えないと信じて、上師は自分の母を助ける能力がある事を信じない。しかし、言い換えると、此れも彼女の母の業力で、自分がすぐリンチェンドルジェ・リンポチェのポワ法を得られなかった。

ある出家弟子の兄は数年前に癌に罹って、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した時、元々リンチェンドルジェ・リンポチェを信じない。数年間に経つと、病気はとてもひどくなって、リンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔した。リンチェンドルジェ・リンポチェの加持及び助けを得た後、苦しみを軽減した。これから信心を起こし始めた。しかし、彼の冤親債主はまだ彼を許さなかった。当時彼は肺水腫の症状があって、彼の子女は医師のアドバイスに従って、肺に挿管して積水から取り出した。元々彼は昏迷に陥ったけど、挿管を受けたから、彼に痛ませて人を叱った。そのような治療方法は患者によって如何なる苦しいと分かった。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは常に皆を警告したが、冤親債主は全てそなたが最も親しい家族であり、他人ではない。

リンチェンドルジェ・リンポチェも何とも皆を警告したが、そなた達は上師ではなくて、仏法を開示する資格がない。勝手に誰に仏法を説かれない。直貢噶舉教派の中にガムポとしても直貢チェツァン法王の許可を貰う前に昇座して仏法を説かれない。そなたたちは今の段階で上師の教えに従って、確実に行えばいい。この弟子は独り善がりの方式で母のために仏法を解釈して、医療方式を選んで、完全に上師の教えに従わなかった。また、漢方薬は母に副作用が少ないことを信じなかったから、結局母に多くの苦しみを受けさせた。実は漢方薬は既に医学界に認証された。毎年中国で生産している漢方薬は半分以上を日本へ輸出して、十分の一をアメリカへ輸出して全ては製薬工場に購入された。そなた達は漢人として、自分の祖先から伝えた薬を信じないのはとても可哀相である。

漢方薬は体に余り損なわない。しかし、西洋薬の中に使用された抗生物質、消炎薬は実は全ては毒薬だ。そなた達は信じないと、医師に抗生物質と消炎薬はどんな物と聞いてもいい。現場にいる医師弟子は報告したが、抗生物質はアオカビから抽出したが、メインの成分は細菌の毒と代謝物であり、毒性がある。消炎薬は炎症の傷に抑える作用を起して痛みを止めて、傷に速めに消炎させた。しかし、消炎薬は人体に多くの悪い副作用を起した。例えば胃病、胃潰瘍、水腫など、更に腎が壊死するかもしれない。消炎薬を使うと、唯一時的に抑えたから、実はこのような薬を使用すれば、患者に対して伴う合併症は利益より多い。

昨日リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥仏法センターで信衆に会った時、ある皈依弟子は家族を連れて、リンチェンドルジェ・リンポチェを求めて、重病で入院した父を助ける事を願った。その中に一人の姉はリンチェンドルジェ・リンポチェを一般の法師として見て、信心を起さない。リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐ彼達に言って、彼の父は肺部の毛細血管は全て断って、もう役に立たない。だから酸素は大血管に到着できなくて、心臓にも送られない。つまり呼吸できない。

一名のリンポチェとなって、五明学を修めなければならない。その中に一つは医療を修める。だから、リンポチェ果位の上師は人を診察できる。リンチェンドルジェ・リンポチェは医学を習わないけど、ある程度を修行すると、多くの物事を見ると相当の理解できる。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの前もこの病気を知らないが、彼女達はリンチェンドルジェ・リンポチェを求めた時、リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐ分かった。また、アチ護法もリンチェンドルジェ・リンポチェに信心がない姉を指摘させて、彼女に父の情況は確かにリンチェンドルジェ・リンポチェが言った通りかどうか聞いた。彼女はすぐはいと返事して、すぐリンチェンドルジェ・リンポチェを信じた。リンチェンドルジェ・リンポチェは加持した前、先に彼女達の母、つまり患者の妻に聞いて、夫を捨てられるかどうか。彼女の母は捨てると返事した。リンチェンドルジェ・リンポチェは始めて呪文を唱えて加持した。それはリンチェンドルジェ・リンポチェの加持を得ると、寿命があれば速めに治って、寿命がないと速めに往生できるから。その後、リンチェンドルジェ・リンポチェは既に皈依した姉妹はすぐ道場に父を代わって、各百回大礼拝させて、父を助けて福報を累積させたから、父にポワ法を得られた。結局昨夜加持した後、彼女達の父は今朝亡くなった。リンチェンドルジェ・リンポチェもちょうど時間があって、亡者のためにポワ法を修めた。若しあの姉妹はリンチェンドルジェ・リンポチェの話に従わなくて、百回大礼拝しないと、彼女達の父は福報が足りないから、ポワ法を得られない。例えリンチェンドルジェ・リンポチェはそなたを助けるを約束しても、福報が足りないなら、助けられない。

そなた達は多くの見解を持っている。家族は病気に罹る時、彼に治させる或いはもっと長く生きさせるのを求めた。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェさえ病気に罹って死亡するから、如何なる彼等を助けて死なせないだろう。患者の肉体は既に使えないなら、数日間生きさせても彼の苦しみを増やして、死んだ後地獄に堕ちるだけだ。この弟子の父は嘗て非常に多くの鳥を殺した。鳥を殺した方法は彼等の頭を捉まって悶死させた。だから、彼はこの病気に罹って呼吸できない。当時リンチェンドルジェ・リンポチェはこの事を話すと、その中の一人の娘は頭を頷いて納得して、父は昔に山に住んだ時確かに多くの鳥を殺したと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の父を加持して、実は彼に傷付かれた衆生を加持して、この衆生達に恨みの心を静めた。そうすれば彼はうまく離れて地獄に堕ちない。

そなた達は只目の前の瞬間な利益を求めるが、リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生を利益するのを遠くご覧になっている。寿命も1人の福報で、患者を早目に死なせるのは彼に苦しみを受けるのを少ない目にさせるのである。彼に生きる日を二日間短縮させて、このもともと生きられる二日間の福報を彼が地獄に堕ちさせないことで用いた。リンチェンドルジェ・リンポチェは二人姉妹に大礼拝をするのを要求して、彼女達は従順でするので、加持を始めて得た。護法は時間を選ぶのを助けて、彼女の父親が往生する時ちょっとリンチェンドルジェ・リンポチェがあいていて、そうして彼のためポワ法を行った。彼女達は願に来たとき供養するのを惜しんだが、リンチェンドルジェ・リンポチェは相変わらず慈悲で、彼女達がお金を供養するのを惜しむため、仏様にお辞儀することを通じて、彼女達に父親のため福報を蓄積するのを助けさせた。

法会の中に、亡者の1つ娘もリンチェンドルジェ・リンポチェに大体がポワ法を円満に終了した後現れた瑞相を報告した。もともと亡者は息が止まったとき口が大きく開けたが、その後、完全に閉じて、お体四肢も全て曲げることが出来て、極めて柔らくて、彼女達は亡者の頭の梵穴を触った時も梵穴が暖かいと感じた。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示された:本来亡者は仏を学ぶことがなくて、ポワ法を得て済度される福報がないが、彼の娘たちが既にリンチェンドルジェ・リンポチェに数年皈依して、多少も少し供養をした、その上、彼女達はリンチェンドルジェ・リンポチェのご指示に従って道場で大礼拝をした、それで、彼女達の父親にこんな福報を有らせた。そなた達に苦労をなめるとはじめて福報を得られるのではなく、金剛乗の教法のなかに、仏を学ぶには苦行が必要と言ったことはない、またある外道のように片足で立つ方式との苦行する必要はあらない。実は、彼女達はそれぞれ只100回大礼拝をした、しかし、従順で、上師に対して信心があってこそ、三宝に対して恭しくて、恭しいこそ福報が得る。

例え、善業の力は悪業のより大きかった時、悪業が作用を起こっても余り影響が大きくない。ある女弟子の年は既に72才が、前日転がって、手の骨にはある部分がちょっと裂け開けた,実はこれこそ重報軽受(重い報障なのに軽く受け取った)さもないと彼女の年によって、転んだ結果はこんなに微かなわけはあらない。

そなた達は何時も信じない、諸仏菩薩はそなた達を害しない、一切全部そなた達のため、諸仏菩薩、護法及び善神の加持でなければ、そなた達は現在今生活を暮らすことが出来ない。そなた達はンチェンドルジェ・リンポチェの門下に皈依して時々刻々上師に加護されている、そなた達が自らで修め得た福報で、生活が良く暮らそうになろうと思わないで。上師、仏菩薩、護法と天神がいつも加護をしなければ、そなた達は仏を学ぶの怠け心が良く起きて、決心して仏を学ぶのは全く出来ることはない。そなた達は大礼拝をするのをさせて、そなた達は終日良い訳をつけて、怠けた、しかし、なぜお辞儀をして止めた後、そなた達はまたはじめてお辞儀をするか、これこそ護法が加持しているのである。

仏を学ぶことは必死な心を抱かなければならない、人はもともと死ぬことになる、仏を学ぶのがどのように死亡に向かって、処理する、ある信者が聞いた後、自分の考えで、意外に仏を学んで死亡になると思った。リンチェンドルジェ・リンポチェが仏法を開示される時、そなた達が修行しなくて、仏法を聞く時、1つ空いている容器であれば、清浄仏法をはじめて受け取ることが出来た、自分が分かるか分からないか考えばかりのであらない、そうであれば、この信者のように、自分の考えを本来清浄な仏法の中に入れて、誤解が起きた。実は、誰でも死亡しようとする、福報が尽くすと死亡になる。仏法は本当に大変簡単で、人の一生はつまり善業悪業の作用で、善業の力は悪業のより大きくなると福報が現れて、そなたは満足幸せとの感覚があった;悪業の力が作用する時、そなたは病気にかかって苦しい感覚があった。

あの頃、リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ顕教を学んでいて、台北にはあの時余り少なかった輸入車を持っていた、結局、リンチェンドルジェ・リンポチェが決心して密法を学ぶと直ちに破産して小銭さえも持たない、そなた達ならばきっとあきらめる。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは知っている、この一切は全て因果業力で、かえって非常に嬉しかった、債を返すことが早く出来た。そなたが決意して密法を勉強する時、そなたの業力はすごく早く現れる、それは債が今生で返さなければ生死より離脱することが出来ない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続きガムポパ大師が教えてくれた「心」の修行法門を開示された、大手印の教法の中に、執着の心を尋ねて、分析して考量すれば、心と外境と固めた結びをはずす事が出来た。そなたが自分の心が執着するのを除けば、そなたの心が外境に執着する堅固で稠密な結びは一々外すことが出来た。

人には51個心所があり、我等の貪、嗔、痴、慢、疑こそこの51個「心所」のなかに存在している、51心所は執着心の作用で、形成した力は「心能」と言う、心は我らに善と悪業障を作らせて、六道で輪廻する。なぜ人が息を止める時1つリラックス気持ちがあった、それは心所はもう作用しなくて、心能の力は停止、断ってしまった、それでリラックスした、しかし、死亡しても心所はまだ存在している。

大蔵経に載せたのは仏法続部中の外密の部分を除いて、其の他は全部心を説くのである。そなたに心とはなんだか、心の作用、心の力を言っている、しかし、大蔵経の中に、そなたにどうあなたの心を控えるのを教えない、密法を通じてはじめて自分の心を支配することが出来る。リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ密法を学んだ前も良く疑惑を感じた、なぜどう修めても仏経の上に載せたのように衆生を利益するの力を得られないか?金剛乗教法の中に、上師は大変重要で、上師がなければ密法を学ぶのが出来ない、密法を学べなければ、今生は輪廻を離脱することが出来ない。金剛乗上師は彼の修行経験をそなた達に伝えて、弟子達の様々な過ちを直接的に直して、そなた達を教えて、そなたのために、沢山の修行の時間を節約した,あなた達にこの一生に輪廻を離脱する法門を習うチャンスを有らせた。そなた達は自らで仏経を見て、仏法には八万四千法門があって、そなた達はどこから学ぶか?例え修禅するとも、同じ直接的に人の心を示す教法である、しかし、そなたは自らで心の作用を見つけるのは禅修の方式で長い長い時間をして始めて効果がある。金剛乗大手印が直接的に人の心を示す教法とは、1人厳しい金剛乗上師に従って、何時でもそなたを監督して、直接的にそなたの心の過ちを指して、そなたをすぐ直して、直ちに訂正するのである。そう言っても、真に自分を直すまで出来たのが本当に大変難しいのである。真正の修行者は何時でも、毎分毎秒自分の考えを注意検査して、自分が貪、嗔、痴との過ちを犯したか、修行者でなくても、少なくとも寝る前自分当日の身、口、意は貪、嗔、痴の範囲の中にあるかを検討して、今後もう犯すことが出来ない。

此処を言うとそなた達は下にある者はきっとまた考えた、リンチェンドルジェ・リンポチェは何を仰っているか?あと、また我らを呼び出して聞くのをするか?また皆を叱るか?リンチェンドルジェ・リンポチェは笑いながら申された、今日そなた達を起こして聞くのをやめる、今日、全て開示される心の修行法門は大変な重要の基礎で、皆が大手印を学ぶことに対して、すごく役に立つ、非常に深奥な修行法門である、そなた達が心で聞けば、幾らを受け取ったか問わず、将来ある日必ずそなたの修行することに対してすごくすごく役に立つ。そなた達は今日虚心で聞けば結構で、虚心とは、謙虚ではなくて、空虚の虚である。例えコップの中に汚れの水を注いだら、綺麗な水はもう入れられない。仏法こそ綺麗な水である。仏を学ぶ、拝仏とは汚れ水を引き出す。虚心とはそなたの心は全く1つ物もなく、まるで1つ綺麗な瓶である、それで仏法の清浄な甘露を瓶の中に流れ込むのが出来る、これこそ虚心に仏を学ぶのである。

そなたの心はもう外在の現象に執着しなくて、影響を受けない時、ますます清浄な本性が現れる、そなたが夢境の中さえも修行するのが出来る、夢の中に貪嗔痴の考えがあると、直ちに目を覚めて懺悔する。そなたは自分がどんな考えの起心動念は何に執着するかを気が付ければ、またそれを一々切れ除ければ、そなたの清浄な本性は自然に現れて、従来垢抜け法性に回復して、即ちー真法界の境界である。

リンチェンドルジェ・リンポチェははじめてヂャンチュウブリンで閉関した時、夜夢境の中に貪、嗔、痴が現れた時、すぐ目覚めて懺悔した。夢境も意識の現われである、それは、リンチェンドルジェ・リンポチェの心が既に平静になったのである。執着を下ろすが出来ない者は閉関することが出来ない。人は執着して捨てられないため我らを苦しませた。そなたが貪欲があれば捨、布施で対治する。そなたは嗔念が起きた時、慈悲を修める必要である。そなたは仏法を信じなくて愚痴する時、知恵を使う必要である。ある者は必ず結婚することに執着して、ある者はきっと結婚しないことに執着して、これらは全て自己意識の作用である。

先日香港の観光団体はフイリピンで殺害された事件について、あるフィリピンの役人は顔をだしてこの事件を処理した時、終始微笑んだため公憤を引き起こした、この役人は始めから人に親和感覚をさせることに執着している、それで何時も微笑んで、人に好まれると思った、こんな執着心が強い過ぎで結局終始1つ表情で、時、地によって変わることが出来ない。ある信者はリンチェンドルジェ・リンポチェに伺いに来て、自分が死んだらどうするかと言った、以後この世に残らなくて済度することが出来なくなった。これこそ、仏法を全く知らない愚かな考えで、衆生を済度するの貪欲ことに執着してまた来る。仏法は生々世々、そなたが見た今生だけのではない。自分が出家して沢山仏経を読んで、多い法会を参加するこそ、仏法を分かって、修行していると思って、こんな考えも執着である。

そなた達は自分が思った真実の私を抱いて捨てて欲しくない、この肉体に需求を満足させるために沢山悪業をした。そなた達はこれが有利的で、それに満足することに執着して外の者に害をした。実はこの肉体はうそで、因果業報の現われで永遠のであらない。これも仕様がない、幼いより大きくなったまでそなた達が受けた教育は即ち自分に損をさせるのが出来ないのである、そなた達は何もかも食べて只損を食べない。し間違ったら、自分が分からない、他人のせいにして、責任を逃れる。そなたが他人に非難する時、他人に不愉快されたと思った時、よく考えて見て、なぜそなたがこの事で嬉しくないだろう?何の故、そなたはこんな好き嫌いが見分けるだろう?どうしてあなたは正しいと間違いとの考えがあったか?また何のため、そなたは傷害を受けただろう?そなたが一番好きと嫌いとも全てそなたの執着で、全部そなたに絶えずに輪廻させる力である。そなたは全ての執着心念を一々検査出すことが出来れば、リンチェンドルジェ・リンポチェのように何時も皆を注意させて、毎日寝る前自分の身、口、意を検査して、自分の貪、嗔、痴執着心を直すれば、そなたは仏法を修行する道の上に進むことが出来た。リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜ修行する道の上にとても速く進んでいるか?それは毎日寝る前自分がこの一日中にどんな執着があったかと考えて、これを引き続いてすれば、自然に執着が段々少なくなった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは国際有名なテレビ局のある番組を見た、テレビ局は三名お客様を招いて番組の中で生命の起源を検討した、1人はカトリック教徒、1人は科学家、もう1人は霊学の専門家である。結局彼らは生命の起源をめちゃくちゃ話した。世界中には生命の起源を良く解釈する学説とか理論はない。カトリック教は人が主に創造されたものと信じて、アダムとエバと禁じられた実を食べてから生まれた後代で、これはフェアリ-テ-リである。人が本当に創造されたものであれば、誰の思惟でも全て同じべきで、コンピューターがコピーした資料のようである。しかし、実は人々の思惟は全部同じではなく、動物さえも思惟考えがある。例え、リンチェンドルジェ・リンポチェの日本のスタッフは一回彼が養った犬の吠え声をまねて、あの頃皆が全部彼を笑った、しかしリンチェンドルジェ・リンポチェは彼に仰った、そなたの犬はあんな黒くて硬い物を食べるのが嫌い、それに彼のある足の具合が良くない、この従業員はすぐはいと言った。それで、狗さえも話が出来て、思惟もあって、彼の執着もあった。

人と動物は一体どんな差別があるだろう?人類は生存するため仕事をしている、これと動物が外へ出て食べ物を捜すと同じ意味である。動物も仕事を捜して、伴侶を探して、子供を生んで、仲間を誘って遊ぶ。そなた達と動物とどこが違うか?同じで仕事を捜して、結婚して、子供を生む、科学の場合より見ると、人も動物の1つ種類である。人の一生は一体何のため生まれたか?人生は動物のような生活を暮らすか。

世間に全てものは一切全部因縁、因果で、古代にある修禅の禅師が言った、万物は全て仏性があって、石さえも仏性があった,それは石があそこに存在するのも因縁法で、つまり仏法である。ジッテン・サムゴン祖師はかつて仰った、1つ石はあるところにあったのもそれの因縁で、随意に此処にあるのではいない、この意味である。仏経に載せてあり、衆生と仏と同じ本質を持って、全て仏になる条件があった。知恵は根本知と後得知と分けてある、根本知は仏になる条件で、後得知は衆生を利益する方法である、それで皆が全て仏性があって全部仏になる条件があってつまり根本知は人が生まれ付きである。後得知は仏を学んでから、法水で灌漑してはじめて開発が出来た、これこそ、百パ-セント上師に依止しなければならない、はじめて開発が出来た。根本知は条件で、後得知は方法で、条件だけがあっても方法がなければ仏になることが出来ない、条件がなければ只方法があってもいけない、両方が一つを欠けてはいけないのである。

「自利利他」とは、二つの件で、自分が生死を解脱する事を修める後で、他人輪廻生死を解脱する事を助けて始める。そなたは精進して修めてから「後得智」を得ると、「後得智」を以って衆生に利益する事が出来で、絶えずに衆生を利益する仏法を行うならば、自ずからそなたの「根本智」を啓く事が出来で、仏になる道に歩いて行く。金剛乗の上師は様々な方式を以って弟子に助けてくれる。実には、仏もある名詞で、仏法も因縁法で、仏は仏になったので仏法が要らない、衆生が仏に成らない前に仏法の助けが要る時に、仏と仏法の存在があり、衆生の皆は仏に成るならば、仏と仏法も需要がなくて、自然に存在しない。

昨日、ある信衆は主人の不倫の問題なので、泣き崩れて止まらなくてリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して行った。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示は世間には円満なる人生がない、あれは全て愛情小説の書き方だけで、そなたはどの夫婦が幸せでお年寄りになって、一緒に死ぬ事が出来る事を見た事があるでしょうか?一緒に死んでも、前後数秒の差異があり、同様に円満なる事が出来ない。今日、彼女がこのような苦しみのは、彼女の執着の心が彼女に放されない。実には、彼女が傷害を感じさせて、此の体が傷害を受け入れるでしょうか?或は心が傷害を受け入れるでしょうか?身体は何も傷害を受け入れない、また、心の感じを消えていって、これは総て偽者で、必ず存在しない事である。また、彼たちの夫婦は現在年齢もこんなに年を取って、何もする事が出来ない、人生が必ず円満なる事をずっと執着してはいけない、信衆は此の時まで泣き止めて笑って始めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは日本にいたときに、しばしば老い夫婦が見えて、主人が車椅子を座って、奥様が杖履を持っていて、心が苦しんでいる。そなた達は彼が凄く恩愛する事を感じるのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェの哀れはお年寄りの夫妻が依頼がないし、仏法の助けがないならば、二人の助けがただ苦しみにより一層に苦しんでいく。

そなた達の女の子は何故男の子の優しさを要求するか?男の子は女の子に素直に従うを要求するか?これらは執着である。リンチェンドルジェ・リンポチェは1回で香港空港にある50余りの夫婦を見て、奥様が前に歩いて、回ってからご主人が一目で他の女の子を見て、奥様がすぐ怒ったのでみなの前に主人を罵る事になった。多くの女の子は主人が他の女の子に一目を見る事を我慢できない、然し自分は他の男の子が一目とみるなら構わないと思っている。実にはご主人は一目だけで見て、なにも出来なかった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に考えが起こる前に善と悪を検視しなければならない。このようにしないならば、毎晩に自分が当日の言った事と行った事が悪をするかどうかを検視し、自分を利益する事が悪業で、懺悔して再びする事が出来ない。多年前に、リンチェンドルジェ・リンポチェは台湾に初め来る時に、最初最も学ぶのが中国語の三つ字の下品な言葉である。然し、顕教を皈依して仏を学ぶの7、8ヶ月後で、これらの下品な言葉が現れない事を急に発見し、これは仏を学んでから考えを段々に善に向いていく。

前回目の法会にはリンチェンドルジェ・リンポチェは精進を開示したばかり、精進とは絶えずに仏菩薩と上師の教導に一意専心で、何か中断があったら、精進がない。仏を学ぶのは極めて自然な事で、リンチェンドルジェ・リンポチェのようにおのずから下品な言葉を言わなかった。仏を学ぶのは良いし良くない事を学ぶ事とはいえない。自分がよくないする事を恐れるのでしない人が最も悪の人である。仏を学ぶのは開始しなければいけないのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に毎日で「仏子行37頌」の内容により自分を検視する事を教える。「仏子行37頌」を暗記する事ではない、却って此の教導の法則により自分を改正する事である。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に教えるので、そなた達が従ってするならば、上師の話を素直に従うのである。ただ教えるが生活に使わないならば、何回目を説いても仕方もない。直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェに教えるのように、リンチェンドルジェ・リンポチェが自分から修めて改正していく。もし素直に従うならば、そなた達は本来そなたに怒らせることはそなたに怒らせない。本来に、そなたに快楽或は苦しみ事はそなたが快楽と苦しみがない事を段々に発見し、それから開始して改正する。然し、そなた達は無感覚が変わる事になるのではない、衆生の苦しみを見ても感じが無い人が慈悲心を修める事が出来ない。

人の身体は悪と善業を集る業報身である。善と悪が差し引く事が出来ない。我々は多くの悪業をした果報を還らなければいけなくて、ただ我々が絶大な善業により果報の味が変われて、果報を抑圧して暫く出現してはいけない、然し果報が報わなければいけない。果報が出現する前には、努力して仏を学んで修行して自分が変わるならば、この悪が変わって始めてそれをこんなに苦しませない。リンチェンドルジェ・リンポチェは昔に絶えずに皆に開示されて、上師が説いた如何なる話がすべて仏法で、そのまましたら正しい、先開示したばかり昨夜に父親が往生した姉妹のように、上師の話を素直に従って大礼拝をしたので、父親がポワ法をえて浄土に往生していく事が出来る。仏法は定法がない、8万4千種の法門は上師が各々衆生の違う因縁で違う方法を開示していく。そなた達はただ素直に従うならば正しいである。各人の執着と因縁が知らないならば、仏法を以って適切な彼を助けてくれる事が出来ない。仏経には記載された。悪業が深くて重い下根気のそなた達にとって因果を開示しなければならない、中根気の人々にとって因を開示して、上根気の人々のは空性の重要性を開示しなければならない。ケンポスの果位にしても、直貢チェツァン法王の許可がないなら、法座を上げて仏法を説く事が出来ない。

直貢噶舉派はあるラマ僧は食事する事と水を飲む事が要らないほとを修めた。此れは彼が食事の執着を断り、唯宇宙の能量だけで生きていて、彼が仏になるかどうか?そうではない。食事が要らないのは彼に食事を探す悩みと排泄の悩みを節約し、もっと多くの時間を与えて修行し、然し、このようなする事ではあるまい。直貢チェツァン法王も彼に少しの水を飲んで胃壁は粘っこく起きないことを勧めていった。五行の中に胃が土に属して、五臟六腑の中に、胃が一番大切で、土が良くないならば四大不調になり、それから病気にかかる。胃が粘っこく起きれば、気脈に不順にさせて、他の器官に影響させる。此れも人が業報の体で、身体の影響を脱離出来ない事を表示する。金剛今日の教法は皆に此の身体を捨てて、此れを切り取る事を要求させない、却ってこれを順応していって、此の身体により修行の工具になる。もし修めるのはそなたに助けて生死解脱の仏になる方法ではないならば、それであはそなたが修めているのが邪説であり、「邪」はそなたがする事が間違うのではなないし、却ってこの法により修めるならば、輪廻生死を解脱する事が出来ない、仏になる正道を歪んでいく。仏法には正しいと間違い事がない、此れはそなたがこのようにすれば仏法に関係がないのである。

たとえ神通を修めえても因果と業力を変える事が出来ない。神通第一の目犍連尊者は自分の母親が餓鬼道を堕ちて苦しみを受ける事を見て、神通により食べ物を変え出して母親に食べさせたいが、母親が同じように食べられない。その上、目犍連尊者は神通はあるけれども、同じように生きながら殴殺される。また、目犍連尊者は神通により、釈迦牟尼仏陀一族を助けて軍隊の殺す事を避けたいので、目犍連尊者が自分の食事用の鉢が大きくなって、釈迦一族が鉢に放されて、また、空中に置いて、軍隊が離れた後で、再び鉢を放して来て、結局此の中に全て血水である。此れは神通が因果と業力が変わらない事を説明してくれる。

インドの三人の瑜珈士は彼たちが神通を利用して閻魔王を避けて欲しいである。一人は山の中に逃げて、結局に地震が発生して、二つの山が急に合併して、生きながら彼を挟んで死ぬ。もう一人は空中に於いて、結局に雷を打って同様に落下して死んだ。最後の一人は市場で人込みでに篭もって、結局象を踏んで死んだ。リンチェンドルジェ・リンポチェにとって、神通がただ修行した後の副産物で、衆生に助ける一つの方便法門だけで、時にはリンチェンドルジェ・リンポチェがいくらかが未来に発生可能な事を見えて、時に説いて、時に説かないのである。

そなた達は好きと嫌い事に会ってから、依然として反応が強いなら、これはそなたが完全に修める事がない。このような人は随時に悪をして、これは彼が何か嫌いなら自分が保護して他人を傷害させる。彼が何か好きなら、執着して得て占める事が需要し、同じように他人を傷害する。ただ人であれば、身体のる眼、耳、鼻、舌、体、意の影響と制御を受けさせられて、つまり仏経と曰く「六賊」である。この六賊の感じを満たすために、我々は悪を行い、だから、顕教の修行方式はこの六賊から生じる欲望を断る。南伝仏教修行者は食事でもしなくて、これは一切の悩みを断絶していくのである。然し、金剛乗の教法には一切の外境が心から生じる事を分かるので、そなたが六賊から感じる一切とはそなたの心の作用から生じるのである。例えばそなたが考えている事により例を挙げて、何故そなたがこのように考えているでしょうか?この考えは何処に来るのでしょうか?心から来るのである。だから金剛乗の大手印の教法は心から修めていて、金剛乗上師がそなたに教える様々な方法とは、そなたがこの身体の六賊から生じる感じにより心から修めていて、自分の総ての起心動念が何処から生じる事を確実な検視していく。他人から自分が凄腕で、良く対応する事という聞き好きなら、貪の考えで、自分が学ぶ事が出来ないし、遣り遂げる事が出来ないし、凄く困難なのは痴の考えである。

先月、一人の青海のリンポチェは電話が来て大法会を行う予定なので、リンチェンドルジェ・リンポチェに頼んで助けてくれた。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗てこのリンポチェに多くの助けを与えた事があり、けれども2年前に直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに暫くこの青海のリンポチェに助けを与えない事を指示させた。そなたであれば、必ず大法会を行うなら功徳福報があって、大きな助けを与えないが、少しの小さい助けを与えても構わない。然し、上師が説いた話なので、リンチェンドルジェ・リンポチェが素直に従って相手に如何なる助けを与えない。

そなた達は現在学生の身元なので、学生の誰が先生が罵ったことがないでしょうか?参列者の皆が手を挙げた人がいなかった。そなたの試験の成績がとても良くても、ある事柄が先生が罵られる事がある。あれらの上師に知らせないで罵る事を避ける事言う人は一番悪の人で、これはかれが自分を変えてほしくなくて、罵る事を受け入れたくない。金剛乗の上師は弟子に如何なる行為を改正する事をたすけを与える。直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェの最も大きな問題が傲慢を知っているので、だから、毎回にリンチェンドルジェ・リンポチェに苦しめるのは傲慢という部分から着手していく。リンチェンドルジェ・リンポチェがこの前に開示された物語の通り、事前照会がない場合には直接にリンチェンドルジェ・リンポチェに何故法衣を換えないかを罵った。また、ミルクティを煮たことがないリンチェンドルジェ・リンポチェにミルクティを煮てから、不味い事を罵った。リンチェンドルジェ・リンポチェは上師が説いたのを素直に従って、一関一関で過ぎた。2007年ラチ雪山で閉関し、関房を出る第一回目の昼食には、直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに間違う事を罵った。そなた達はこんなに辛労で閉関し、よく食事する事も出来ないが罵る事を必ず考えている。然し、リンチェンドルジェ・リンポチェは上師が自分の錯誤を提出してから、すぐに「申し訳ございません」と言い、叉その場で直貢チェツァン法王に頂礼して、上師の指摘が感謝し、これはこのよなすれば良い上師で、絶えずに弟子の錯誤を関心して注意している。

昨日、ある乳癌に罹った弟子は癌の痛みの故に右の手を腫れていて、苦痛に耐えられなく、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を要請して彼女に手が痛くないで大礼拝をする事が出来る。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に大礼拝をさせて、右の手が出来ないなら、左の手も出来るし、死ぬまでもしなければいけない。そなたはこんなに痛くて、こんなに可哀そう、上師が彼女にさせるでしょうか!リンチェンドルジェ・リンポチェの開示はそなたがしないならば、より痛んでいく。そなたは鳥を殺す時には、殺させる鳥が如何に痛むのでしょうか?ただ少しだけの痛みで受け入れない、この身体は大切にしすぎる。妹とするのは姉に代わって大礼拝する事を言い、普通に礼拝しなくて、有る人が病気に罹ると礼拝するのでしょうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは表面的にこの弟子を叱って、実には慈悲的な彼女に加持された。

リンチェンドルジェ・リンポチェの身体は何か病痛がないならば、そなたたちに責める資格がない。リンチェンドルジェ・リンポチェの全身は病気があり、皆が知るとおりに、脊椎が厳重な大きくS型の曲がっていて、痛まないのでしょうか?依然として痛むが、ただリンチェンドルジェ・リンポチェが果報を受け入れて、この痛みを受け入れなくて、この身体の感じを執着しない。この時、医者をする弟子は脊椎が厳重な大きくS型の曲がっている患者が少し動いても極めて痛んで、厳重なのは尿失禁はあるいは小便をすることが出来ない、内臓のある器官の変形腫脹などを引き起こすことができる。これは人々はあるスケルトンをを要して支えて、筋肉羣と隙間なく神経叢がこれらのスケルトンに付けて、だからこれが正常な姿勢に置かないなら、大きな圧力を受け取ってそれで傷害を受け取って、大礼拝をする事が無理である。その乳癌に罹る女の弟子はしたいならば大礼拝をする事が出来る。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの女の弟子に昨日するかどうか?何回目をするか?手が断るかどうかを話させた。この女の弟子はその場で、昨日数十回目で礼拝して、手が同様に問題ない。

そなた達の福報が足りないし、供養も惜しまなくはなくて、やむを得ず仏に礼拝し、だからそなた達に大礼拝をする事を説かせた。然し、そなた達は総て道場で大礼拝をする事を求める事をしないよ、現在、道場には人々が多いので、空間がない。今日、開示した内容は大手印の精要で、極めて重要で、そなた達が教導を行って、素直に改正して、完全に上師に信じるならば、大供養で、上師に信じるならば三寶に恭敬で、福報を累積する事が出来て、そなた達の未来世に変われる事が出来て始める。法会が完了する時には窓外に日光があって、リンチェンドルジェ・リンポチェは台風の日にこのような日光が見える事が珍しいのを開示させた。法会の初まったときには、黒い雲がすきまなく広がるので、終わった後に日光が出現した。人生は仏法を聞き、思い、修めて、暗黒から光明を得るように、これは今日の説法するとても良い徴候である。

2010 年 09 月 27 日 更新