尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ の法会開示

2010年7月3日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで、共修法会を主催された。

法会開始前に、ある既に皈依した少年は皆の前に出て発露懺悔して、彼はきわめて重要な道場の身元証明カードを破損した。3月の施身法法会が終わった後、彼はついでにその証明カードをポケットに入れて、家に帰って取り出していないで、衣服と一緒に洗濯機に入れて洗って、その証明カードを洗って壊れてしまって、故に、既にもう長い間道場に入って法会に参加して仏法を聞くことができない。昨日 リンチェンドルジェ・リンポチェにこのことを報告して、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に彼に道場で発露懺悔する機会を与えた。彼は同時に、自分がふだん家にいる時よくコンピュータゲームをやっていて、真剣に勉強しないで、両親にも親孝行をしないで、言うことを聞かないで、よく口答えをして、甚だしきに至っては家族と喧嘩することがあったと懺悔した。リンチェンドルジェ・リンポチェが開示された仏法を、彼が一心に聞いていないで、更に生活の中に用いない。リンチェンドルジェ・リンポチェの教える法門を、彼も真剣に修行していない。彼はもう一回道場で仏法を聞く機会を得ることができて、リンチェンドルジェ・リンポチェに従って、しっかり仏を学ぶことができるよう祈った。

そして、ある弟子は皆に分かち合った。彼はまず上師 リンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔して、仏法に対して十分な信心を持たない。リンチェンドルジェ・リンポチェは私達に、諸仏菩薩の教える真理を信じて、上師が私達に教えてくれる方法を信じて、私達がやり遂げることができるのを信じるのを教えたが、しかし私達が自分がやり遂げることができるかどうかを疑う時に、実は信じない。彼はいつもこの過ちを犯した。彼は2002年にリンチェンドルジェ・リンポチェに彼を帰依させることを願う時に、菜食料理を食べて酒を飲まないことに対して困難だと感じた。その時、寶吉祥宝石店へリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しに行って、案内する兄弟子は彼に菜食料理を食べてどのような利益があるのか、酒を飲んでどのような弊害があるのかと教えたが、彼がその時に聞いてから、非常になるほどそのとおりだと感じても、やり遂げにくいと思った。しかし、彼がリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した時に、リンチェンドルジェ・リンポチェはとても親切に彼に菜食料理を食べてどんな利益があるかを教えた。不思議なのは、彼が突然に心がぱっと開けて、すべてはそんなに自然に、そんなに簡単になった。そこで酒を飲む問題ももう聞かなくてもよくて、直接にリンチェンドルジェ・リンポチェに彼を帰依させるよう願って、その場でリンチェンドルジェ・リンポチェに慈悲に承諾してもらった。彼が事後に受付の兄弟子の話を回想すると、まったくリンチェンドルジェ・リンポチェの話を複製したが、しかし効果は雲泥の差であり、やっと理解するのは、あれはリンチェンドルジェ・リンポチェの大撮受力である。

皈依した後の数ヶ月に、ある法会の中で、リンチェンドルジェ・リンポチェは、ある者は菜食料理を食べていないで、臭気がひどくして道場に入ったと言った。その時に彼は菜食料理を食べていないのをかぐことができるのかと疑ったが、これはまた「信じない」ことである。不思議なのは何ヶ月以降に、彼も自分で同じくかぐことができて、甚だしきに至っては新荘体育館のような大きい空間でも、すべてはかぐことができる。ある時に他の兄弟子とこの事に世間話をし始めて、あの兄弟子は菜食料理を食べているから他の人が菜食を食べているのをかぐことが出来るのではなくて、実は リンチェンドルジェ・リンポチェの加持及び教導のためである。彼は再度にリンチェンドルジェ・リンポチェに自分が愚かで恩に感じることが分からないことと懺悔した。

それから、ある時に、彼は安坑(地名)にある事業廃棄物を埋める場所の水土保持計画に参与し処理しているところ、審査の大衆の抗争事件に出会って、暴動を抑える警察が千名以上の抗争する大衆と暴力衝突と近いように衝突する時に、業者が堅持し譲歩したくなくて、かつ審査委員がちょうど「無計可施」(なすすべもなし)の時には、彼は突然にリンチェンドルジェ・リンポチェが彼の頭のてっぺんにいることを見た。その後、この事件は意外にも紆余曲折があった後にまずまずの展望が開けて、業者は大幅に譲歩して、水土保持計画が原則的に可決されて、円満解決となった。リンチェンドルジェ・リンポチェの加持と加護に恩に感じた。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはあれがリンチェンドルジェ・リンポチェ本人ではないと言った時に、彼はびっくりして、なぜかというと リンチェンドルジェ・リンポチェの映像はそんなにはっきりしていて、特に被衣(かづき)の色である。リンチェンドルジェ・リンポチェはあれが歴代上師の変身で済度し救いにくるのだと言って、その時、彼はやはり不思議だと感じた。彼はまた信じないことに再度懺悔した。しかし、事後に考えてみて、安坑の住民と台湾人はこの福報があるはずかもしれなくて、ようやくリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲な加護の下に感化され、歴代上師が加持しに来ることを召致して、難題を解消したのである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、無常がいつでも現れて、そしてそなたが一番好きな物事を悪戯する、と何度も開示された。何回も聞いたが、しかしやはりとても抽象的であり、自分ととても遠く離れると感じた。彼は、父母と姉がすべて往生して、更に親戚ほど彼より年齢が大きくなくて、次は自分に番になるべきだと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェに従ってよく学べば、亡くなる時に苦しくないならばいい。決して思い付かなかったのは、2006年8月に彼の息子は大変な交通事故にあった。もし彼の息子は交通事故に遭わないと、彼は本当に息子が自分が最も好きなのだと見つけない。彼はずっとペットをかうという心構えで、息子を養っている。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲に難を救うことに恩に感じて、息子が死ななくて生き残させて、植物人の状態からゆっくりとはっきりとなって意識まで表現できるようにさせた。更にリンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲に彼の息子に皈依させて仏法を聞くことができることに恩に感じた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは法席で、幽霊はそなたと話をすることはできないと何回も言った。彼はいつも我がままで自分が幽霊を見ることはできなくてと思っていて、甚だしきに至っては幽霊が本当に存在するのかと懐疑している。今年3月にリンチェンドルジェ・リンポチェに従ってインドへ閉関修行を学びに行って、苗栗の大坪頂(台湾の地名)にいる衆生との際會で、彼に非常に驚かせた。彼は依然として彼らを見えないが、しかし彼らは助けを願う意識を伝達しに来て、向かい合って対話するより更に明らかで、彼が驚き恐れて回答することも同様にはっきりしていて、でもすべては言語を使うのではない。今、回想してまた疑うのは、彼とこれらの衆生はすべて口を開いて話をしてないのに、結局どのようにコミュニケーションを取るのか。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェさえ信じれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは私達に不思議な事をやり遂げるように連れることができる。

彼は自分の業がとても重いことを信じるので、学んだ専門と従事する仕事はすべて災難ととても深い。初期の炭鉱災変、高雄寿山の崩落、梨山の地層滑り、林肯大郡ビルの倒壊、921地震、小林村の全村消滅から今年の北部の第三号高速道路の順行する坂が崩落まで、彼はすべて参与したが、しかし心構えの上にすこし変化がある。以前は彼は自分が何をできるかと思ったが、しかし今彼は、自分がなにか手伝うことができるところがあるかどうかと思っている。この間、第三号高速道路の坂が破裂して滑りる時に、彼は2度記者からの取材したい電話を受け取ったが、しかしすべては婉曲に断って、マスコミは常に論争を目的にするため、あまり問題の解決に注意しない。しかし第三号高速道路災害調査委員会の召集人は彼を連絡する時に、彼は承諾した。この専門委員会の中で、彼は自分が順行する坂の災害予防や、甚だしきに至っては重大な工事と国家賠償法の関係を清めることに、多少役に立つかもしれない。

彼は100パーセント信受奉行をやり遂げることができる福報がそんなに十分ではないが、しかし少なくともに戸惑うため排斥しない。依教奉行さえすれば、ある日に効果が現れることができることを信じる。少なくとも努力して、命が終える一瞬間に、「リンチェンドルジェ・リンポチェが助けてくれるを言う」のを覚えていて、少なくとも、 リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の頭のてっぺんの上にいることを思っていて、そんなにもしかすると私達は次の世に再び来る機会がまだあるかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェは恩に感じる。

引き続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは法座に昇ってこう開示した。先週に開示された心念が定を修めるのに対して、とても重要である。禅宗も定を修めるが、人の心を目指す教法だとも言ったが、しかし金剛乗が心念にて定を修める方式と完全に異なっている。禅宗の修行する方式は簡単になって、中国の唐の時、禅宗を修めるお寺の大雄仏宝殿がそんなに大きくないくて、禅房の中で甚だしきに至っては仏像さえ放さないで、壁の上にただ1つの禅という字だけを掛けている。定は必ずそこに坐って動かないで定を修めるとは限らなくて、金剛乗の定を修める方式はそなたの念頭を検査することを通して、、そなたの起心動念を観察して修行する。しかしきっと一名の具徳上師に従って学ぶことができる。上師の教えた仏法に従って、全く如実にやって、仏を学ぶのはそなたの生活の中で何を捨てるのではなくて、何を変えなければならないのではなくて、そなた達にもともと持つものを利用して修行しにくるように教えるので、念頭を変わって修行することに対して役に立って、前に言ったように疾病を道用に転すると同じである。

昨日ある皈依の弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェの仏法の録音の中で宝積経に書かれた上師を点検する22ヶ条件をお願いしにきた。先週弟子がガムポパ大家が仰った上師の備えなければならない条件を言い出して、リンチェンドルジェ・リンポチェもはっきり開示したことがあるが、意外にも、また弟子は上師を信じなくて、仏法の録音を求めて帰って、リンチェンドルジェ・リンポチェがこれらの条件を備える稼動かと点検したい。宝積経には仰った上師を点検する条件は、上師が彼の弟子を検証してその弟子に上師をする資格があるかどうかと点検する。あなた達に聞かせると言うのではない。この弟子は必ず家の中のある人が彼女の悪習が直していないことを見て、彼女の上師は問題があるじゃないと思っていて、彼女が騙されるのを恐れて、そのため、彼女が自分の上師をはっきり見てくだいと要求した。リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も弟子に上師の重要さを警告して、特に金剛乗を学ぶ弟子は、必ず上師の教えたことに従って、ちゃんと確実して、この前に前回の法会にある弟子はやっとリンチェンドルジェ・リンポチェの経験を再び述べるが、この弟子は完全に聞き入れていない。

そなた達は今不共四加行さえも修めていないから、何に基づいて上師を点検するのか。リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も言ったことがあるが、リンチェンドルジェ・リンポチェの果位はただ直貢チェツァン法王に確認されたらもう十分であり、別に、そなた達の確認が要らない。リンチェンドルジェ・リンポチェの今の果位なら、まったく道場が要らないで、弟子が要らなくても同様に大衆を度することができる。そなた達はこのようにすると、本当にリンチェンドルジェ・リンポチェに十分飽きるようにさせて、飽きるのは弟子達が嫌いのではなくて、飽きるのはこのように長年にずっと繰り返してずっと繰り返して何回も何分からないほど言ったので、そなた達は耳に入らないで、今までも仏法が何を言っているかをはっきり分からない。疲れは本当に積み重ねて、更にそなた達を教えたくないほど疲れる。

金剛乗が他の乗ととても大きな変わったところは、金剛乗はあなたに輪廻させる条件を一つずつ一つずつ、皆の修行するツールに転化する。多くの弟子はこれらの修行のツールをわからないで、上師を点検しにくる。そしてただ今あの分かち合うン長く皈依する弟子は、今まですべて仏法が何を言うのかを知らないで、自分の感じ、事をやる態度を言っている。皆さんはすべて感じがあって、仏を学ばなくても感じがあって、そなたの経験や年齢の増加すると同時に、環境の変化、事をする方式或いは感じは異なっている。しかしこれは仏を学ぶことと関係がない。例えば、の自分が事の態度を感じることに対して、自分を改正するならば、仏を学ばなくて変えることができる必要がない。仏を学ぶのが重要なのは心から直すのである。

仏を学ぶのが悪いから良くなると思う者がいる、さらに、自分が全部読んで、宿題をやって、修めているわよと思う者がいる。悪いことをしなく、人を害することもしなく、物腰が柔らかくて、規則に従い、法律を守るさもする、これ等は仏法と何も関係があらない。仏法とは、そなたがなぜ世間で輪廻していて、輪廻する因を探し出して、ついでそなたが輪廻するこを断って、生死より離脱することを助ける。善行をするのは最大限に天道まで修め得るがまだ輪廻の苦海の中である。台湾人は仏を勉強すればするほど傲慢になり、生死より離脱する仏法を学ばなければ仏弟子とは言えない、仏法に対して堅い信者しか言えない。所謂堅い信者とは、深く因果を信じて、無常および輪廻が苦しいのを信じるのである。それは、もうとてもよかっただろう!そなた達の思いは全て貪、嗔、痴、慢、疑に満ち溢れる。仏を学んだ後、もう直して、勉強したと思えば、そなた達がこんな自満傲慢の心が起こると魔はこの機会につけこんであなたの口の中に飛びこんで、魔道になってしまった。

昨日、ある出家衆弟子が彼女の間もなく往生する母親のことを聞きに来た、沢山を聞いたが全て民間風俗ばかりで、仏法と関係なく、自分がどうすれば親友に満足させるのをしか考えなかった。既に出家して仏を勉強したのに、相変わらず、民間の風俗文化と習慣を下ろせなく、只他人の見方を気にして、亡者に対して本当に役に立つ仏法は全然聞かなくて、どう母親に福報を蓄積するのを助けるか聞かなかった。 仏経には人が往生した後、骨灰は納骨堂に置くことを言ったことはない、これは全く商売人が出来たことで、仏法と関係ない。古代、塔を建って、舎利子を置くことがあったが、仏法を広めることに貢献のある修行者を条件として、舎利塔に入れることが出来、一般な者が勝手に出来るのはない。仏法は只火葬が要求される。また、「福地福人居」(福のある者が住む場所は風水の良い場所となる)例え、福のない者であれば、福地を住ませても、相変わらず役割を果さない。

釈迦牟尼仏は仏になる時魔王は仏に言って、仏法は将来盛んになるである以上、以後、魔の子、魔の孫に仏弟子を化させて、仏教信者の衣服を着させて、仏法を敗壊するため来させる。獅子の身の上にの虱のように、獅子の全身につけて、彼が乾涸びるように死ぬまで彼の血を吸いこむ。仏が聞いてから止むも出来ないように涙が流れた!そなた達は見ろ、現在の状況は仏経に載せたように、仏に付け込んだ外道がますますどこでもあろう?

この出家衆は良く勉強しなくて、また民間風俗と仏法と混ぜに論ずて即ち仏法を敗壊する。仏は大智慧があり、例え、納骨堂が必要であれば、仏はもう予言して、仏が言わなければ自分が発明してすることは出来ない。何年前、台湾にある寺院は大金で仏指舎利を迎えに来たようで、リンチェンドルジェ・リンポチェがちょっと寶積経の中にの1つ記録を開いて、この事とそっくりそのままで、あの頃あって弟子に開示された、釈迦牟尼仏が予言した、仏が消えた後末法時代500年、ある者は事業として彼の舎利を迎えする、花、髪の毛で敷く等迎え方式さえも大変はっきり話された。 仏は経文の中にも仰った、仏の舎利は衆生に仏と縁を結ばせるためで、仏法事業として経営するものではない、例え、迎える者は生死より離脱する考え方で恭しく迎えしなければ、この事業をするより1つ如法な道場に行って、1人具徳上師の一句の仏法の開示を聞いた方が、そなたにとってもっと助けである。

あなた達は大部分在家衆で、在家衆とは、眷属のある縁を指し、家に隠して勉強するのではなく、テレビをつけて、仏法番組を聴いたり、見たりして修め得るものではない。テレビの科学技術の発達はかえって仏法を歪曲した。あの頃釈迦牟尼仏は法輪を回った時,一年中仏の側に従って仏法を受け取った阿羅漢は1200名であった。この1200名阿羅漢は全て一人前になった修行者で、相変わらず、終年釈迦牟尼仏に従って釈迦牟尼仏の教導を受けたのに、そなた達はテレビを見ることで修め得る事はありえないだろう。

現代な情報が進歩したが,人はかえってそのためとても悪事をしやすかった。 リンチェンドルジェ・リンポチェは先週1つメールを受け取った、ある者はかつてブ-タンで一人の法王を見たと自称した。どの教派の法王と聞いたが、答えることができない。法王がアキ・ドロルマを彼に伝授した、それに、アキ・ドロルマの法本を広めに探させた。そのため、手紙を書き、リンチェンドルジェ・リンポチェに法本を求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェはこれを見るとこの者が言った事は嘘だと分かった。直貢噶舉教派には2人法王しか居ない、一人はチベットに、もう1人は印度にいらっしゃる;其の他、アキは直貢噶舉の不共護法で、外の教派、ニンマを除いて皆全て修めない、それに、ニンマの修法方式と直貢噶舉派のと同じでは無い。そうして、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの方に返事した;彼は必ず先皈依して上師より法を賜って、不共四加行を勉強して、閉関をして、それに、本尊と相応した後法本がはじめて貰える。結局、一週間を過ぎてこの者はなんの返事もしない、現代人はコンピュ-タ-のスクリ-ンの後ろに隠れてどんな話もあえて言って、知っていた人がいないと思って、例えつかまえられるとしても何か月後のことである、それで、沢山口業を作った、これ等はとても良くないのである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは昨日午後4時から230名信者とあって、夜10時まで法席を離れないで休んだことはないんで,それは慈悲の力で支持することができた。毎一人信者が伺いに来て、リンチェンドルジェ・リンポチェは少しも自分を考えなくて、この者は今後また来るかどうか、仏を学ぶかどうかも考えなく、只どのように彼らを利益するか考えた。人ごとに一つケースで、違う状況である。どのように出来たか?それは、慈悲心があって、一心に伺いに来たこれらをどう助けるのをしか考えないのであった。あなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェは経験が豊富で様々状況が全部対応出来でそんなに難しくないと思わないで、実は、ある事情は、リンチェンドルジェ・リンポチェにとってもまったくあったことがない、全部現場で始めて分かって、すぐ衆生を助けなければならない、あるのは話で、あるのは笑って、あるのは叱りガ必要で、あるのは甘えて、あるのは加持が必要で、何時間を経つと、疲れるかどうか言ってごらん?例え、先話したような弟子にあって、また法テープを求めに来て、上師を検視方法を聞く。大慈悲心がなければ本当にとてもやり難いである。

懺悔が必要だ!そなた達はやはり地蔵経に説いた:「心を起こし、思いを動かすは、 全て業であり、罪である」の意味が分かり出来ない、菩薩の全ての考えは全部どう衆生を助けるのである?どう衆生を利益するか?自分のために考えることはない。しかし、そなた達は全部自分を利益する。リンチェンドルジェ・リンポチェは絶えずに、そなた達に懺悔、再懺悔をさせて、また、あるものは一体なにを懺悔するか分からない、どうやって懺悔するか分からない、なぜ懺悔が出来ないかと言う者がいる。それは、そなたが累世の考えは全て貪、嗔、痴、慢、疑に満ちて、全部自分のため利益して、既にこんな考え方に慣れて来て、今までよく自分を検察する考えはない、どこが間違ったか、どこが懺悔必要か分からない。人の思いは雪が降ってさかんに飛んだ雪花のように多くて、一つの思いがおきて消えようとして,もう一つ思いがまた従って現れた。毎秒にそなたはこれらの数百万個思いに気づくのが出来たか?これらは全て自分の考えを放任して利己的な者の考えである。また、あるすごく悪い者は仏菩薩に言った。自分のお体を良くさせてから始め善事をして仏を学ぶ。これは 仏菩薩を恐喝する。お体がよくなければ善行をして仏を勉強する必要はないか?こんな思いがある者は本当にとても悪人である。

思いに対する修行は、顕教は禪定の方式で思いが起こらせなくて業を作らせない、この方式は石で草を押さえるように、草がもう生えないが一旦石が移すと草はまた生えて行く、恒久な方法であらない。金剛乗の方法はまず草が生える故を分かって、草は衆生に安居する場所を提供して、一部のも人の健康にたいして役に立って、きっとそれを生えさせないか?金剛乗の修行ならば、草は何の故生えるか?検討するのである。これらの原因によって修め、即ちそなたの思いが何故起こったかよって、何に起こられたか?思いが押さえるのではなく、思いがよくわかって、それに、この思いは我らが仏を勉強するのを助けるひとつ工具である。まるで火の中に投げた木材で、火を燃やせば燃やすほど盛んになる!

そなたは思いを捨てるべきではない、たちは思いを放棄すべきではなくて,坊間がよくそなた達に下ろさせ、空にならせ、しかし、これらは出来るものではない、どうおろすか?どこにおろすか?リンチェンドルジェ・リンポチェ先週が開示されたように、達摩祖師が九年間入定面壁してもまだ思いがあった。そなた達はひと息さえがあれば必ず思いがあり、思いがなければ、即ち死んでしまった。一枚テーブルはここにこんなに長くおいでも思いがない、テーブルが入定しているか?そなたが言ってごらん?リンチェンドルジェ・リンポチェはこの一生に大手印を修めて、禅宗を勉強しなくて、しかし、以前顕教の座禅を修める説きも可笑しいと思った、どうして打禅と言われているか?禅は何故打つか?禅を打ったら、一心不乱になって、念仏して心が清浄になるか?あるものは下ろせば出来、実はこれは修禅の方法で、衣食に事欠かない環境の中で向い修行方法である。そなた達は禅宗の盛行の唐代を見て、あの頃は一つ豊かな王朝で人民は皆衣食に事欠かなくて、こんな修行方法で仏を学ぶのが出来、だから、古人の福報は我らのよりすごく多くて、末法時代の衆生のようではなく、業障が深くて重いである。食べるもの、飲みもの、着るもの全て毒である。住みを例として、現代人が住んでいるセメントで建築された家は健康にとって有害で、古人なら全て木で作られた家の中に住んでいて、そなた達は雨の日、骨董家具の店に入ると店の中の黄色いロ-ズウンドとセンダンの家具が発散したすがすがしい香りを嗅ぐことが出来、これは人の健康に対して役に立つ。

一般的な人は考えに対して二つの対応する方法がある。一つは重苦しいで、も一つは放任である。そなた達の各々考えを起きて自分を利益して、自分を保護して、自分を傷害を受け取る事を恐れるので、考えを抑え付けられて、或は放任するわけで他人と自分を傷つけられる。

今回の2回の開示した仏法はそなた達が分かるほどかどうか、根気に関係があって、根気は何処に来るのでしょうか?累世に持って来て、その他にそなた達が仏菩薩に対する恭敬心、及び仏法に対して渇望と希求の心により決められる。

そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェの面前で何を隠す事が出来ない、どのような話し方をすればリンチェンドルジェ・リンポチェに騙されられると思ってはいけない。昨日、ある信衆はリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して、彼が他人と一緒に商売をして、現在詐欺を訴えられた。前週、彼は妻と一緒にリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した時に、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼の自身が騙す事があったので欺かれた事があったので訴えられたように指摘させた。其の時に、彼は自分が間違いがある事を承認しなかったが、一週を経て再び来て、自分が確かに間違った事がある事を承認した。そこで、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼にその場で仏に100回で礼拝する事を指示して、彼も素直に礼拝して済んだ。然し、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らの夫妻の二人に菜食する事を開示する時に、二人がすぐに離れた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼が真に懺悔する事がない事をはっきり承知し、仮に彼は仏法に対して恭敬心と信心がないならば、ただ交換条件により自分を守る事だけ考えて、目の前の関所を通してから他の事を考えいていく。だから、菜食する事を説いて、すぐに原形を露出させた。あるところには益々人が訴訟を発起させれば、こちらに悪い影響がある事が有り得る。

一部の人々は商売をするので、菜食する事が出来ないと思っていて、実は違って、リンチェンドルジェ・リンポチェも菜食する事をして、友人と一緒に食事して、親友が親友なりの食べ物を食べて、リンチェンドルジェ・リンポチェが自分なりの菜食を食べて、何も問題がない。眷属もこのようにしていて、リンチェンドルジェ・リンポチェの子供は菜食しなくて、仏を学ぶ事をない、然し、リンチェンドルジェ・リンポチェも彼らを追い詰める事をしない、彼らを追い詰めるなら、もっと離れる可能性がある。家族はそなたと眷属の縁があるかもしれないし、そなたと一緒に仏を学び縁がある事を代表しない。嘗て、リンチェンドルジェ・リンポチェは一度ある肉食レストランで、ある菜食する女性の立法委員が菜食すると功徳があると思っていて、コックが食べ物に大蒜を入れた事に激怒して、コックから接待員まで、られた事を見た事がある。一部の人は菜食する事が何か素晴らしさがないと思っていて、実は菜食する事とは真に何かすばらしさがない、牛と羊も菜食して、然し、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたが仏法に尊敬する事があるかどうか、此れは仏経が我々に慈悲心を持っている事を教えている。他人の不注意の過ちにより、他人に当たり散らす事が要らない。今日、そなたは彼を準斤を食べて、翌日にそなたが彼に8両を返還しなければならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェの母親はお年を取って、毎日に沢山の薬を飲んで、実はこれらの薬が飲まなければならないでしょうか?必ずではない。飲まないでも構わない、然し、お年寄りは薬に対して依頼心があって、時間に至るまで飲まないと安心できない、それらの薬が彼女に身体状況を維持する事を思っていて、実は心理的な慰めだけである。なぜある人は不眠で睡眠薬を飲まなければならないでしょうか?機嫌が不穏定なので鎮静剤を飲まなければならないでしょうか?此れは薬に対して依頼心である。リンチェンドルジェ・リンポチェは子供から今まで、1粒睡眠薬を飲んだことがない、寝ないなら寝ない、多くとも翌日により沈み込んでいる。そなた達は寝た事を感じる事為に、睡眠薬を飲んで、翌日も同じ沈み込んでいる。

実は病気は此のなりの因果があって、多くのが業力により起こさせて、だから、病人が自ら懺悔しなければならなくて、然し、現代人がこのようにする事をしなくて、病気があって全て医者さんに頼んでいる。一部の子供は本来に白痴ではなくて、一部の子供が此れを装って、然し両親が彼を薬を飲まさせて、飲んだ結局が真に白痴になっている。前週の土曜日にある信衆はリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して来て、彼女の子供2歳余りで、ある日に急に発熱して一日まで往生して、医者でも原因を調べる事が出来ない。リンチェンドルジェ・リンポチェは此の信衆が妊娠する時に驚きを受けて、彼女に何かに仕事するか問い合せて、此の信衆の回答は菜市場で豆腐を売るのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の向こうが魚を売って、隣が鳥を売って、彼女も手伝う事をして行った。胎児は腹に魚と鳥が殺されることを聞いて、驚きを受けて、長く聞いてから生きている事をしたくないので、急に発熱して往生して行った。

何故現在の事もが過動児になるでしょうか?実は胎教である。ある両親は子供が過動する事を見てから、子供に連れで西洋医学の医者さんに治療して、子供に西洋医学の薬を飲まさせて、実も薬を飲んで子供の脳神経を圧伏する事だけで、子供に行動弛緩をさせるだけである。過動児になる事は母親をとして妊娠する時にあちこちに行って、古代に女性が妊娠する時に出来れば静養して、現在にそうではなくて、多くの妊婦が毎日にあちこちに行って、9ヶ月の大きな腹でもあちこちに行って、自分が素晴らしさと思っている。また、妊娠する時に滋養をして、鳥と豚の足を食べて、鳥と豚がとても走る事が出来で、子供が当然に過動する。産褥に就いた時、開腹して生産するので、傷口の治しが遅い事を恐れて、鰻を食べて、鰻がつるつるしているので、子供当然につかむ事が出来ない。

昨日、ある母親が子供に連れでリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して来て、子供が小学校の二年生なので、まだ常に故無く泣いて、医者の診断が神経の問題がある。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示は此れは胎教の原因で、彼女が妊娠する時に自分が不満であると感じて、常に泣いて、だから子供が影響を受け取った。此の母親はリンチェンドルジェ・リンポチェの開示を聞いてから否認して、然し側にいるの小姑が返って同意している。

経典に何故鳥を生まれて、犬を生れる事を全てはっきりに記載されて、一切が因果である。この世にそなたが大声で大喝する事好きて、事物に対してとても執着ならば、来世に犬に生まれている。過去世に我々はこれらの事に慣れるので、習気をこの世に持って来ている。ある科学者は此れは動物の本能で、動物が生まれてから自発的な食べ物を探して食べて、実には此れは過去世に「食べる」という考えがあるので持って来ている。何故魚が水の中に水泳して、鳥が空に飛んでいるでしょうか?これは衆生が過去世に持って来る業により起こさせて、仏経に動物が各々前世のある業をする故でこの報を得る事が記載される。

一部の人は病気に罹る時に仏菩薩に自分に病気に罹らせなくて、早く治して行く事を求める。然し、そなたの病気に良くて、命が却って無くなるかもしれない。時にはそなたの病気にこんなに速く良くなくて、そなたに時間があってゆっくり仏を学ばせる。病気の苦しみの為に仏を学ぶ事を分かって始めて、リンチェンドルジェ・リンポチェが自分の皮膚癌に早く治す事を求めない。そなた達は仏菩薩に頼んで自分に速めに病気に罹る事と思ってはいけなくて、そなた達があんなに偉大さを持っていない。

各々事をして、若し自分に対して利益があるかどうかを考えて、自分が傷害を受けるかどうか?此れは悪である。若し予め他人に対して利益するかどうかを考えるなら、此れは善である。損をする事を分からなければならなくて、最初、変わる事が難しくて、受け入れないで、然し、そなたが益々このようなすれば自分と他人に対して大きな利益がある。若し貢高我慢であれば、慈悲心が無いなら、損をする事を受け入れない。そなた達は仕事の方も同じで、何時間をよりすれば苦情していはいけない、上司が払う事を少ないなら計算してはいけない。仕事を探すと、自分が毎月に多少を持つ事を予め考えるなら、此れは正確しない考えである。

われわれの体は業報身であり、悪業は我々に輪廻をさせられる事だけではなくて、善業も我々に輪廻をさせられる。そなたはそうすると何故我々が善行をするかということを考えている。だから、仏は我々に教えて、他人を助ける時に、功徳を彼に廻向して、功徳でもすべてくれて、善業により輪廻する事を妨害してはいけない。廻向は極めて重用な法門である。金剛乗の全ての法は前行、正行と廻向の三つ部分を含めている。前行は発願と四無量心で、正行は本尊の願力、功徳と慈悲が衆生を利益させて、廻向は全ての功徳が一切の有情衆生をくれている。ある人は、若し全ての衆生が功徳を衆生に廻向すれば、他人の善業が自分の方に戻られて、自分に輪廻させるかということを考えている。此の考えは常に見ている。釈迦牟尼仏は弥勒菩薩の浄土――兜率天から世間に衆生を済度して来る時に、衆生に輪廻の苦海を解脱し、仏果になる仏法を学ばせられる。実はそなた達は此の心を廻向すれば、仏の心意に相応して、自然に仏を一緒に法輪を転じて、仏と一緒にいるなら輪廻を落ちる事をしない。そなたは何も求めない心によりそなたの善業を衆生を廻向すれば、他人もこのようにして、無私の心により善業を衆生に廻向して、法輪が絶えずに回っているときに、それゆえで善業の束縛が断つことができる。

最近、ある企業は労役から搾取することを批評されて、実は労役を搾取する事が以前からがあって、然し、嘗ての人が商売をしてもお客さんの立場を考えて、現在西洋の影響を受けて、一切が自分の利益だけで考える。リンチェンドルジェ・リンポチェは商売を経営して、お金を稼ぐ事を予め考える事ではなくて、赤字を予め準備しておいて、予め考えるのが如何にお客さんが利益を得る。各々事をして、若し自分に対して利益があるかどうかを考えて、自分が傷害を受けるかどうか?此れは悪である。若し予め他人に対して利益するかどうかを考えるなら、此れは善である。損をする事を分からなければならなくて、最初、変わる事が難しくて、受け入れないで、然し、そなたが益々このようなすれば自分と他人に対して大きな利益がある。若し貢高我慢であれば、慈悲心が無いなら、損をする事を受け入れない。そなた達は仕事の方も同じで、何時間をよりすれば苦情していはいけない、上司が払う事を少ないなら計算してはいけない。仕事を探すと、自分が毎月に多少を持つ事を予め考えるなら、此れは正確しない考えである。

続けてリンチェンドルジェ・リンポチェは申された、ガムポパ大師大手印の教法:初心者によって、目標的に仏を学ぶ或は縁観的な修行或は特に一生懸命に勉強すれば、こんな修学は全て空性の真実の立派な意味を悟ることが出来ない。

所謂目標的に仏を学ぶとは、自分は事前に配置した目標の中に執着して,例え、現在伝授した大礼拝、ある者は大礼拝、四加行を修め終った後ポワ法を始め学ぶことが出来て、生死より離脱する法門を修め得られると思った、これは金剛乗を学ぶ考え方ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは始めて仏を学んでからある日に上師になって、リンポチェになって、法座に昇って法を説くことを思ったことはない。そなた達の中に多勢者のように事前にたくさんの目標を配置するのではない、そなたが事前に目標を配置して、この目標に達したら,次の目標がまた生まれて、これは全て自分の貪欲と執着である。そなた達には大勢者が皈依して仏を数年勉強したが、まだなぜ仏を学ぶかよく分からない、全部自分の欲望で仏を勉強する、全て自分が事前配置した目標によって仏を学ぶ。金剛乗の修行は、上師がそなたに念仏をさせばそなたが念仏して、あなたに仏像に礼拝させるとあなたはよく仏像に礼拝する、そなた達は全て上師の教えに従って、勉強して習っていて、全部自らで修め出来ると思わないで、諸仏菩薩のお陰でなければ、リンチェンドルジェ・リンポチェが絶えずにそなた達に加持と保祐でなければ、そなた達は仏を学ぶと言わなく、命さえ無くなったかも知れない。

何年前、リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依したある女弟子は気立てが悪くてリンチェンドルジェ・リンポチェに追い出された。その後、彼女は直貢チェツァン法王のところへを泣いて訴えて、直貢チェツァン法王が彼女を出家させるように願って、そうして、直貢チェツァン法王は彼女を出家させた。彼女は自分が直貢チェツァン法王の弟子と思った、数年後、この女出家衆はリンチェンドルジェ・リンポチェに自分がすでに目標を配置して、何年後なにかをすると話した。これは目標的に仏を学ぶのである、現在、自分が間違ったことを気についた。かつて戻って懺悔してリンチェンドルジェ・リンポチェこそ彼女の上師であるのを分かった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは始めて仏を学ぶ時、自分がある日、上師になって、法座に昇って衆生を済度することさえ思わなかった。最初仏を勉強するとき、心の中に「これは見事だ」との思いがしかあらなかった。かつて、ある信者はリンチェンドルジェ・リンポチェに衆生を助けるために仏を学びたいと言った、リンチェンドルジェ・リンポチェはこれも考えたことは無い、そなたは何をよったか?直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェにどなことをやらせたら、リンチェンドルジェ・リンポチェは何も聞かずにすぐする。直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに法を伝授した時、リンチェンドルジェ・リンポチェもこの法を勉強して自分にどんな助けがあるかも聞かなくて学んだ。リンチェンドルジェ・リンポチェに閉関させたとき、閉関しに行って、閉関した後どうなるか聞かなかった。この女出家衆こそこの問題を犯した。2007年リンチェンドルジェ・リンポチェはネパールへミラレバ尊者がかつて閉関した聖地にて閉関した時、この女出家衆も従って行きたかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは仰った:そなたが死ぬことに恐れなければ行け!彼女はまた直貢チェツァン法王にお願いしても同じの回答が頂いた。

実は史書を開けると見られる、あの頃、帝洛巴、マルー・パ、ミラレバ等大成就者かれらは全て上師の言いつけの下に閉関しに行った。上師はそなたはこの因縁があるかとか、閉関することが出来るかどうか見るめがあった、それで、自分が何年後どこまでするかとの目標を配置するな。仏を学ぶには何の目標があるべきか?実は、上師、仏菩薩のご教導に従って生死より離脱が出来るように修める。リンチェンドルジェ・リンポチェは修め得たのは全て従順で、100%上師のお話を聞く。

縁観の修行方法により、そなたは因縁は業力を生じするのが分かったので、因縁を切って修める。仏陀様は始めて法輪を回った時、先ず十二因縁法を伝えた、皆にどんな因縁はどんな結果が出られる。因縁とはもともと空性で、縁が起きたり、消えたりする、しかし、この十二因縁法を学んですべての因縁全部を除いても阿羅漢果位までしか出来ない、仏果を成さない、ひいては菩薩の果位さえも修め得る事はいけない。それは、全ての因縁が全部切られて、そなたが衆生を済度の因縁も切ってしまってどのように菩薩道を修めるか?

ある者は特に一生懸命勉強して、不倒単のように修めて、関房の中に立って寝なくて、24時間で絶えずに念仏して、疲れたら壁にもたれながらちょっと休んで,また続いて念仏して、清浄心になるまで。しかし、金剛乗の修行はそんなにする必要はない、直貢チェツァン法王及び祖師ミラレバの伝記の中に全て開示された、苦行の方法で修め必要があるとは限られない。しかし、そなた達も言う、リンチェンドルジェ・リンポチェも雪山で閉関したん、これは苦修ではないか?閉関の修行することには深遠な意味をしていて、金剛乗を学ぶ行者の閉関する方法はそなた達にとってとても辛いが、これは修行するため、特に、苦労をなめるため似ているのではない。それは、閉関する過程の中に、環境の変化、生活習慣の変わり、人の群れと接觸しなくて、自分に直面して、一番簡単な生活を過ごすことは始めて私たちは自分の思いが変動、起きたのを体得することに役に立ち出来て、そなたの思いと慈悲心は始めて感じることが出来た。リンチェンドルジェ・リンポチェは二年前弟子を連れて閉関しに行って、毎日関房の中で六座持呪して、朝、昼、晩の三回食事を用意してくれる者はまだいるのでこんな閉関することは苦しいとはいえない。

ある人は「もし苦修する必要はないと、私もそんなに苦労して大礼拝をする必要もないだろう!」と思うかもしれないが、しかしこのような観念は間違っている。大礼拝をするのはどちらが苦しいか。どうして皆がはっきりとしっかりと大礼拝するように要求てしているが。というのは、大礼拝する過程の中で、皆はよく集中して自分が間違ったところがどこであるかを点検することができる。ふだん生活の中には、私たち自身の主観あるいは客観的な考えについて、比較的に注意することができなくて、ずっと同一の地方で生活しているから、自分の考えの変化に気づくことができない。すべての人は毎日起きる方式はすべて同じであるが、外国へ聖地を巡礼しに行く時に、他の人と一緒に同じ部屋に泊まる場合だけ、やっと異なった方式で起きることがあって、これは環境が変わったため、もともとあなたの直さない事ははじめて直す。だから大礼拝したり、閉関したりすることなど生活の方式を変えることを通して、私達に自分の念頭を点検する機会があるようにさせて、再び慈悲な、善の念頭で生活を過ぎる。

大礼拝をするのはあなた達が工夫を凝らして苦しみに耐えることを要求するのではなくて、あなた達に集中することを学ぶ機会があるようにさせて、礼仏にて自分が間違ったすべてを懺悔する。懺と悔は二つの事であり、懺は自分が間違ったことを承認したり受け入れたりして、自分が間違ってあることがどこかも知っているのか。悔は過ちを改めて決して再び犯しないことを決心するのである。そなた達の念頭があまりに複雑で集中することができなくて、懺をするのさえできないと当然に直せない。そなた達の大礼拝をしてもどうして懺悔することができないか。一、心があまりやりたくない。二、大礼拝をして更に深い仏法を学んで自分を変えて、衆生を助けるつもりがなくて、だから自分が間違いがあると思わないで、懺悔することはできない。これを除いて、大礼拝この修行を通して、そなた達の体の状況に改善させる。そなた達の体の状況はすべてとてもよくなくて、自分が病気にかからないで、体がとてもよいと思わないでください。そなた達の体はこんなに弱くて、代々に持ってくる悪業以外、多くの人は母親の体にいる時から生臭物を食べることを始めて、そんなに多く食べたから、どうして体が良いであろうか。座禅を組むことと呪文を唱えることはすべて体力を必要とするので、体はよくないと、更に深い仏法を引き続き学ぶことができない。だから大礼拝おすることを通してみんなに比較的に良い体力が有らせる。体はよくなくて、衆生を利益する話を言わないで、自分さえうまく世話できないから。

一部の人々は出家人が三分病に身を持っていて、これは衆生の為に業を負担させるという話しがあるが、このようは話しが錯誤である。直貢チェツァン法王も出家するが、体が良くない事がない、そなた達も衆生の業を負担させる資格と能力もない、総て自分が体が良くないで、良く修める事がない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に座禅を組むことを教えたことがない、在席の一部の人々が毎日に15分から20分位に静座して、これらの人が静座をする事をしてはいけない。上師が教えない事は、独善的に行ってはいけない。最近、一部の大企業者は静座する事を流行して、毎日に1時間で静座して心に何か考えないので機嫌が良いので、自分が修行をする事と思っていて、実は心の中に明日に如何により多くのお金を稼ぐ事が出来る事を考えて、これらが正しくない考えである。

ガンポバ大師は大手印を始め学ぶ人に開示されて、一切がそなたが分別心の考えと確認して、前の三つ方式にて修行して、つまり目標性がある仏を学び、或は縁観を向いていく修行であり、或は工夫を凝らす苦しいで修行して、成辦する事が出来ない、つまり仏果になることができない。空性を悟るほどを修行に至っても、中根気者もあそこに止められないで、本体性の実相を観て修め続けて、無生法忍に至るのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは下記のように開示された。ここに曰く法性とは、般若である。仏法と曰く智慧とは、仏法が智慧を修めて、仏を学んで智慧を修め得ないなら作用がない。利他の心は菩提願を始め発して、つまり菩提心を培養していて、菩提心を発してから業を変われて始めて、菩提心がないならば智慧を開く事が出来ない、智慧を開かないなら生死を解脱することが出来ない。浩瀚な大蔵経には、三分の一の内容は般若を解釈して、釈迦牟尼仏陀は10年余りの時間にかかって般若を説かせて、この重要性が言うまでもない。智慧がないなら、宇宙の運行と事情の真実相が分からないならば、因縁因果の方式を以って衆生に利益する事が出来ない。

仏法は際限がないとは、仏法が如何に素晴らしいので際限がないではない、却って衆生の業が重くて広いので際限がないので、仏法を要って衆生に助ける事が出来で、縁により衆生を済度して、だから、仏法も際限がない。そなた達は今日聞いたのがそなたが分かるかどうか再開示する事を求めてはいけなくて、そなた達はただ一心に聞いて、上師が伝わる口訣がそなたの生々世々に仏を学ぶ正確心に対して必ず助けがある。

「不応住」とは止まってはいけない。自己満足をしてはいけない、最も精進しなければならない。真ん中階段の行者とは、無常、因果、人生が苦しみと共的な教法により了解する後、貢高我慢をしてはいけなくて、このような程度に止める事ができない。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て仰った、1日仏に成れなければ1日懺悔をする。何の故、上師の恩、仏菩薩の恩、衆生の恩を背負ったから。上師は自分のお体を問わず苦心にそなた達を教え、どう恩に着るか?仏菩薩は分秒絶えずに我らの世話をして、我らはどのように恩を返すか?衆生の恩もそうだった。毎日目を覚めてから始めて沢山衆生の助けを受けて、簡単に言えば、一つ地区に三日間ごみを受け取らないとすぐ臭い匂いがして、そなた達が耐えられるか?なぜ、そなた達に大礼拝をして懺悔するのを教えたか?只、そなたがこの一生の悪業によって、地獄が36階を全部降りようとしても足りない。リンチェンドルジェ・リンポチェさえ懺悔しなければならないのに、そなた達はまだ懺悔が必要のを知らないといった。

直貢チェツァン法王は説いた事があって、仏法が極めて自在である。真に仏を学ぶ者とは神経し過ぎではない、人とまったく付き合わない事がない、他人と付き合う生活を融かす事が出来る。仏を学ぶ人は外表により、他人と同じくないところがない、然し、内の思惟と対応する方式、仏法の教導により他人と同じくない。仏を学ぶ人は普通人が1セットの服装が若いから年寄りまで着ることではなくて、此れは以前の農業時代の方式で、現在の商業社会に適用する事ではない。世界では、多く人々は他人の消費により生活を維持して、若し人々が消費しないなら、多くの人が餓死になっている。実には、毎日に同じく服装を着るなら、ある場所へ向く事が便利ではない。若しある社長さんは毎回に同じスーツを着て全ての公的な場合に出席すれば、人々がおかしいと感じではないでしょうか?この作法もわざになっている。

在席の一部の出家皈依弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依しない前に、あちこちに死者に助念をして、ある人が固定して21冊の仏経を唱えて、このようにすれば死者に浄土に至る事を助ける事と思っている。実は、各々の衆生の因縁と福報が同じく無いので、ある人が1句真言も十分で、ある人が100句真言でも足りない。そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェが施身法の時には、六字大明咒の音調が同じく無い、此れは毎回に来る衆生の因縁と福報が同じく無い。法は定法がない。毎土曜日に、リンチェンドルジェ・リンポチェは信衆を接見する時に、信衆の同じく無い要求により、打ったり、あちこちに死者に助念をして、ある人が固定して21冊の仏経を唱えて、このようにすれば死者に浄土に至る事を助ける事と思っている。実は、各々の衆生の因縁と福報が同じく無いので、ある人が1句真言も十分で、ある人が100句真言でも足りない。そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェが施身法の時には、六字大明咒の音調が同じく無い、此れは毎回に来る衆生の因縁と福報が同じく無い。法は定法がない。毎土曜日に、リンチェンドルジェ・リンポチェは信衆を接見する時に、信衆の同じく無い要求により、打ったり、られたり、勧めたりするを以って、様々なおなじくない方式により彼らを助けていく。ある人はリンチェンドルジェ・リンポチェの加持を貪って、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼たちの願いを充たして加持させる。加持する時には、リンチェンドルジェ・リンポチェは此の信衆を加持する事ではなくて、此の信衆が傷害する冤親債主を加持して、彼らを暫く停止して借金を取り立てることに来てはいけない。何故リンチェンドルジェ・リンポチェは体力と心力があって午後4時から10時まで100位余りの信衆を接見する事が出来るか?此れは慈悲の力である。この人は再び来るかどうか、仏を学ぶかどうかを考えない。リンチェンドルジェ・リンポチェはただ「彼に利益する事が出来るか」という一つの考えがある。

仏を学ぶ根本を認識して、無常を受け入れる後で、一部の人は自分が既に知って学んだ事を思っていて、独善になっていく。一部の女弟子は数年で仏を学んで、自分が良く修める事を思っているので、夫も一緒に仏を学んでいって、すぐ怠ることを開始して、他人が間違って、自分がよく分かっていると思っていて、そうすれば停止すれば大変になって、自分にある枠を設定して自分を困る事になっている。此の前、リンチェンドルジェ・リンポチェはドマチームの弟子を処罰させて、此れはドマチームの弟子が自分が仏法を学んだ事と思っていて、自分が物を得た事と思っていて、このようにあそこに停止して前進する事をしない。

昨日ある女性の弟子は彼氏を連れで来て、自分が相手に変わさせて仏を学ぶ事が出来る事と思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは此の男性が此の女性に利用してリンチェンドルジェ・リンポチェに接近して、真に仏を学ぶ事ではない。若し心から仏を学ぶをしないなら、これから良くない事が顕れる。リンチェンドルジェ・リンポチェは此の男性が5時間に試験して、若し彼が受け入れるならば、彼が真に仏を学ぶ考えがある。若しこれにより分かれても、良くない話をいうまでもない。ただ在家の上師のみはこのような智慧があって衆生に済度する事が出来で、此れは在家の上師は愛情が分かって、衆生のこのような悩みを解決する事が出来る。愛情葉なんでしょうか。はっきり言うと条件交換である。そなたの条件と相手の条件は二人が受け入れれば、一緒に付き合っている。そなたは彼のお金が要らない事を言ってはいけない、そなたが彼の人も要るでしょうか?これも条件である。そなたと相手とはじめて手を繋がる時に、仏菩薩に聞きにくることがあるのか。ない。恋にて相手を変えることが出来ると思わないでください。リンチェンドルジェ・リンポチェの息子も仏を学びにこないから、そなた達は自分で何が変えることができるのか。

最近のニュースは報道して、常に台湾と香港の両地スターために間違った道を指示されている有名人は媒体により全身插管して治療中を報道させた。此の前には香港にある有名な占い師は人の顔色により此の人の運を知っていて、例えば来月に良くない事を会うかどうか、そうすると、此の人が出来れば避けた。彼は素晴らしいので、警察と黒道が彼に運を問い合せる事が好きである。其の後、此の人が急に喉癌に罹って、我々が喉頭を封じることを話して、彼に話させない、それから往生していく。此れはそなた達が天機を漏らす事ではなくて、此れは因果法則を違反する。此れは彼が此の人が良くない事を発生して、彼たちに発生する事を避けて、ではこれらの冤親債主がどうするでしょうか?人が探さないので、彼に探して話させない。

前世の業力がそなたを影響するので、人が呼吸すれば思いがあり、そなた達は区別心の思いはお体の神経を経て貪、嗔、痴、慢、疑との感覚を生じて、業を作った、善業か悪業か問わず、全てそなたを輪廻させ、累世の業力はまたこの世に連れてきて、だから我らのお体は一つ業報身と言われている。

過去世にした業に従って此の世に持って来るので、事物に様々な感じと好きがあって、胎児は母親の腹にすでに自分の考えがあって、妊婦は妊娠する時に腹にいる胎児が蹴ったことのある経験を持っている。此れはそなた達が児が活発であると考えてそうでなくて、精力があってそなたを蹴って、此れはそなたが食べる物が彼が好きではない、或はそなたが片寝って彼が気分が良くない事を感じさせて、だからそなたに蹴って教える。

再生もそなたの業力により行って、そなたは鳥になる事を祈るなら、来世に真に鳥になる事が出来る。だから、この世に再来人をして衆生を済度する事を祈るなら、来世に人身を得る事が出来で、さらに言うまでも無く衆生を済度する。再来人が衆生を済度する事とは、前世に菩薩果位を得た行者で、この世に再度来て、また菩薩果位を修められる行者ならば、再来人で、衆生を済度する事が可能である。そなた達は菩薩果位を修める事がなくて、遣り遂げる事が出来ない。勉強と同じように、幼稚園から、小学、中学、大学、全部一定の順序に従って、すぐに遣り遂げる事ではない。天才は飛び級を許されても、小学から大学に飛ぶ事も素晴らしくて、幼稚園から博士に飛ぶ事が無理である。仏を学ぶ事も同じ道理で、仏法にはそなた達が幼稚園の程度ではない。

そなた達は仏を学んぶのが仏陀と上師からの教導に基づいて学んで、自分が発明家にをしないてはいけない。若し悟りを得ない上師が弟子に連れで修行すれば、盲人のように、1群の盲人を連れで象を触る。人々がおなじくないところを触って、象の足を触れて象の様子が粗い柱ようで、象の尾を触って棍棒のようで、修めても修めでない。なぜ仏を学んで修行する事が上師が要るのか?此れは上師が経験があった人で、修行の経験があって、そなた達の遭う問題が了解してそなた達に適当な助けをくれる。此の中の複雑な因素はそなた達の人類の頭が考え出る事が出来ない。

ある出家者は発願をして、この世に1百万人に出家する事を済度する。此の願いは可能でしょうか?若し1百万人は出家すれば、台湾に1百万の家庭を少なくなって、どの位の家庭の破砕を引き起こさせて、またそうすると生育率が大幅に少なくなって、台湾の未来が人が無いでしょうか?直貢噶舉派の祖師ジッテン・サムゴンがいった時に18万位の出家弟子だけであって、貢高我慢をしてはいけない。阿弥陀仏は12大劫の時間に掛かって、自分が48個の願いが遣り遂げる事が出来る事を確認したから、発願して、そなた達が発願をしてはいけない。

考えは魔ではなくて、病気もではなくて、唯自分の考えを検討して懺悔する事が出来で、これらの有害の物が修行の工具になっている事が出来る。また、一部の出家者が自分が学んで修める事と思っていて、此れも執着で、法執である。後期に法執を起こすが、自分が仏を学ぶ事と思っていて、然し、最初が正しい認識があれば、間違い道を向く事をしない。そなた達は仏法により如実に修行すれば、真に上師に喜ばさせている。

此の2回の法会に開示する内容は我々の生々世々に仏を学ぶ心が正確な変わる事が出来る。分かるかどうかが重要ではない、大切なのは覚えていく。生死を解脱する事が簡単な事と思ってはいけなくて、地球に60億の人口がいて、仏を学ぶ人は幾らでしょうか?生死を解脱できる人が極めて少ない。そなた達は仏法の重要性を体得する事ができないが、リンチェンドルジェ・リンポチェが仏法がないならば、我々が命がない事をよく知っている。

2010年7月30日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで、共修法会を主催された。
多くの人は今日始めて施身法法会に参加するので、直貢チェツァン法王は嘗て、金剛乗では8種類の殊勝な成就法門があると仰ったことがあって、行者はこれらの法門を修行することを通して、この一世に生死を解脱し、仏果を証得することができて、施身法はこの8種類の成就法の一つである。

施身法は1200年あまりの前に、チベットの一名の在家の女ヨーガ士のマジラ尊者が仏法の原理及び釈迦牟尼仏の開示された大般若経により創られて、その中には多くの顕教と密法の精華を含む。大般若経はすべての大蔵経の内容の3分の1を占めて、釈迦牟尼仏は「般若」について12年間も諭されて、その重要性は考えてみると分かる。「般若」という言葉の意味は、世の中のある者が「知恵」で直接に代わるが、これは大雑把な言い方である。当初、唐の三蔵法師はお経を訳す時に、三種類の情況に会う場合なら翻訳しない。その一つは、1つの語–例えば「般若」–たくさん含まれている意味をある時に、翻訳しないのである。

施身法がとても重要なのは布施であり、修法者は自身の欲求、気にかかること及び悩みを放棄して、自分の肉体にて衆生に布施をする。般若経には、一切は無常であると説かれた。良いのも悪いのもすべて永久不変でなくて、世の中は永久不変なものがない。人間として、生・老・病・死、愛別離苦・求不得苦(ぐふとくく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、五陰盛苦(ごおんじょうく)など八つの苦しみがある。これらの苦しみはそなた達だけが苦しくと感じるのではなくて、そして数えられない衆生も同様にこれらの苦痛を経験したことがあるのである。

施身法のもう1つの意味は「断つ」であり、悩みを断つ。そなた達はどうして輪廻するか、苦しいか。それは、そなた達が執着することがあるから、いくつかのものを捉えて放さない。生きている時にとても執着する人はすべて、死ぬ前に非常に苦しい。リンチェンドルジェ・リンポチェが数年来も、助けた亡者は無数であり、今まで執着したのがない亡者がまだ会っていない。そなた達のすべての考えは私利私欲であり、そなた達がすべて会社のため、家庭のために多くの事をすると言ったが、しかし自分の良心に尋ねてみると、実はそれとも自分のためである。そなた達は地蔵経に説かれた、凡夫が心が動いて思いが起きるのが全て業であり、全て罪であることと信じない。

台湾にいる人は仏を学ぶかどうかを別にして、皆は「済度」という語を聞いたことがある。事実上、済度するのは仏教の特有な名詞であり、そなた達は嘗て台湾の道教が信者に瓦を踏ませて位牌を手に持つように所謂済度する儀式を見たことがあるが、しかし、これは亡者の家族にただ1種の慰めをしてあげる風俗習慣だけであり、本当に済度することができない。

現在台湾の道教もして済度する儀式をしていて、実はもともとは道教ではべつにこの済度する観念がない。リンチェンドルジェ・リンポチェの亡くなった父親は道教を修めるので、甚だしきに至っては元神出竅(げんしんしゅっきょう)まで極めて高い境界を修めて、リンチェンドルジェ・リンポチェは小さな頃から父親に従って学習して、父が道教のたくさんの法門を使って他の人を助けることに会って、だから道教に対してとてもはっきりと知っているが、しかし済度する儀式を一度も聞いたことがない。《老子》の中でも、これまで済度することに言及したことがない。

すべての宗教の中で、ただ仏教が済度する儀軌があって、その他の宗教は、例えば:カトリック教、イスラン教、道教などはすべて済度に言及していない。事実上、「超度(=済度)」は二つの字に成られて、二つの動作、二つの事である。「超(=済)」は衆生に苦海を離れるように超拔することができて、「度」は衆生に彼岸に到着させることであり、即ち仏陀の浄土であり、或いは少なくとも天界に行かせる。

そなた達は、済度するのが人を雇って読経しにくるのだと思わないでください、或いは自分が生前に助念団に参加したことがあったから、亡くなってから他の人がそなた達を助念しに来るとを思わないでください。或いは紙の蓮の花を折ったり、慰霊用の紙銭を燃やしたりすると、仏土に往生することができると思っている。このように簡単に浄土に行くことができたら、リンチェンドルジェ・リンポチェは最も先に手を挙げて修めないと言う。事実上、お経の中には、別にこのようにしたら済度することができることに言及しなくて、これは後代の人の自分の発明であり、もしこのようにしたら本当に済度することができたら、釈迦牟尼仏もきっと諭すはずであり、仏は諭すのを忘れることをしないから、お経の上に説かれてない事はすべて偽である。

読経ばかりしたら済度することができないが、しかし読経しないことよりいい。少なくとも亡者に静かにさせて、落ち着いて恐れないようにして、その上家族が自分で唱えたほうが最も良くて、或いは、供養を求めたくて自分のために唱えるのでない出家衆がとなえたらいいから。済度するため、必ず修行者に修法してくれるように願って、亡者の自身も福報、因縁を要する。所謂縁があるのは、前世に仏法を聞いたことがあるだけではなくて、仏菩薩の教えに従うことができるので、仏法を生活の中で実行して、かつて仏菩薩を供養したことがなくてはならなくて、このようにして縁がある。その他に、福報も必要であり、一人を別の所に送り届けていくと同じように、乗車券を買う金がなくてはならなくて、彼にようやく駅の改札口に進むことができるようにさせられる。第2は参列者の心が、信心を持つかどうか、懇切に亡者を助ける。リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生を利益するのは平等であり、分別して選択的に衆生を助けるのではなくて、どうして一部の人が役に立つのか、一部の人は役に立たないのか。それはすべて、参列者の心に次第である。第3は、修法者が本当に能力があって、しかも何も求めがなくて衆生を利益するかどうか。そなた達は我々がどのように修法者が本当に能力があるかどうかということを知っているのかと思うかもしれない。能力がないが済度を修める行者は、軽いのは病気にかかったり、そして寿が短くなったりして、重いのは更に自身の死亡を招く。リンチェンドルジェ・リンポチェは1997年から施身法を修めることを始めて、今なおすでに63歳、依然として世の中で大衆を度していて、その上法会に参加する者はだんだん多くなる。これは大手印の離戯瑜珈の境界まで修行した行者は、だんだん多くの衆生を利益することができるようになった。

今日の施身法は約1250人が申し込んで、宣伝を経ていない下にこのように多くの人は参加しにくるのは、そなた達の冤親債主が、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼らを助けることができるを知っていて、あなた達に来させるためである。たくさんの者が仕事が終わった後に急いでやって来て、ご飯さえ食べていない。特に寶吉祥仏法センターの主催する法会はテレビの上で宣伝が見えないで、そなた達はふだんすべて他の人をあまり信じないで、他の人はあなたにこの法会があることを教えると、そなた達はすぐ信じて、困難を取り除いて来て、すべて冤親債主或いは祖先がそなた達が来るように要して、それも仏菩薩の加持である。

此の世に一回に千人以上の者を助けて、施身法を修めるリンポチェはもはや少ない。法を修める事は極めて苦労以外、施身法は極めて殊勝なので、修法者の心は殊勝ではないと、自分に大きく損なわれたから。

直貢チェツァン法王は嘗て次ぎの如くおっしゃった。古代に直貢噶舉の寺に全ての修行者は毎日必ず施身法を一座修めなければならない。しかし、今はもうしなかった。それは施身法を修める事は非常に苦労なので、特定な根器及び能力の修行者は長い間に訓練を受ければ、修められる。一方、施身法の法器を捜す事は難しいから。施身法の法器は人のすねの骨で作った。しかし、勝手に貰って作られる事ではない。すねの骨の形、特徴など全ては規定がある。また、法器を作った後、成就がある大修行者は使ってから、法器は作用を発揮できる。人のすねの骨を使う事も人生無常を表した。だから、「海が枯れ石がただれてもこの心は変わらない」を言わないで。そなた達は恋をする時、いつも「海が枯れ石がただれてもこの心は変わらない」と言って、愛情は永遠に変わらない事を望んだ。しかし、永遠に変わらない事はいない。たとえ現在見えないけど、いつか変わる。今の時代はどんな事でも発生するかもしれない。爆弾が一つあれば、石はすぐ破裂する。

チベット仏教に於いて一般に法を修める前に結界を結んでこの道場を守って、法会に妨げさせない。しかし、施身法を修める時、結界がない。更に主法者の身に例えば護輪など守る物を持つのが出来ない。一般的にはリンポチェの身に必ず自分を守る物を持っている。しかし、施身法を修める時必ず全部をはずしなければならない。若し守り物を一つ残すと、この法を成功に修められない。自分の全ての物を布施するから。

施身法は済度以外、疾病に役に立つ。本来修法の過程に患者は横たわる。しかし、人数は多くて空間は足りないから、リンチェンドルジェ・リンポチェは観想すればいい、そなた達は観想が役に立たないと思わないで。

二週間前にある信衆は裁判の問題があるので、リンチェンドルジェ・リンポチェを拝謁した。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの信衆は誠に謝って改めるかどうかを試練した。わざわざと彼に仏を百回礼拝させた。彼もリンチェンドルジェ・リンポチェの言ったとおりにした。しかし、彼に菜食させると、すぐ離れた。ある者は自分は菜食するのは不便なので、肉料理の中に野菜だけを食べる事を言った。そなたは六祖慧能ではないから、肉料理の中の野菜を食べる資格がない。現在台湾では殆ど全てのレストランは精進料理を料理できて、菜食する事は非常に便利である。そなた達は自分がビジネスをして、外国の顧客にあると思ったが、菜食できるかどうかはそなたの決心である。そなた達は相手と結婚する時にかなり決心したけど、何故菜食する時はないだろう。そなた達は妻、夫或いは彼氏や彼女が反対するのを言わないで、若し相手の反対のせいで分かれるなら、いい事だ。そなた達は同類ではないから。女性は綺麗が好きで、菜食すれば肌はよくなる。多くの者は老人の臭いを持っている。それはそなた達が食べた肉から漂ってきた臭い。リンチェンドルジェ・リンポチェは今まで老人臭いがない。そなた達は子供が菜食すると栄養がない事を思わないで、寶吉祥仏法センターに多くの子供も菜食している。更に胎児の時から菜食している。他の子供より健康だ。リンチェンドルジェ・リンポチェが飼った犬も菜食して、同じで体が丈夫に育てられた。そなた達は肉を食べない事さえ行えないが、完全に慈悲心を持たなくて、善人ではない。そなた達は肉を一口食べたなら、悪を行う人である。

放生とは海へ多くの魚を持って、多くの分からない呪文を唱えてから、海に入れる事ではなく。自分はいい事を行なったことを思わない。また、そなたは魚を海に入れた後、魚が本当に生きれるかどうかを確定できないから、放生とは言えない。本当の放生は殺生せず、肉食しない事である。

ある芸能界に親しく関係がある乩童は先日口腔癌に罹って亡くなった。東南アジアに専門の占い者があって、アジアに有名がある者である。最近風邪を引いて、全身に管を挿した。多くの者は彼を求めたが、若し彼は神通があれば、そなた達が言った通り偉いなら、何故自分が風邪を引いた事を知らなかっただろう。彼は事前にこの事を予知してある方法で防ぐべきだ。ちょっと風邪を引くと、全身に管を挿した状況を発生させない。だから、そなた達は相変わらず迷信しているだろう。自分は修めるはずである。

二週間前にある信衆はリンチェンドルジェ・リンポチェを拝謁した。彼女の子供は二歳の時に突然発熱して、一日後亡くなった。完全に病因を見付けなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の職業を聞いた。彼女は市場に豆腐を売ると回答した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に「隣の人は鶏を売って、向こうの人は魚を売る。妊娠した時、毎日鶏、魚を殺す音を聞いて、ある時も手伝って殺した。胎児は驚いたから、生きたくない。」と言った。自分の仕事ではないけど、例え側に見ても随悪だ。例えば、「今日売上はいいだ。多くの魚を売った」と言ったも随悪だ。随悪の果報はとても恐ろしいだ。しかし、随喜ならいい結果がある。常にある信衆はいくらを供養すればいいと聞いたが、弟子は随喜と返事した。此れは随喜ではなく、勝手にする事だ。だから今後この言葉を勝手に使わない。そなたは衆生を利益する事を行なう能力がない場合、他人は行った。そなたは嫉妬心を起せず、心から歓喜を起すと、随喜功徳である。

ある者はトラブルにあって法を修める者を捜した。法を修める事は役に立つかどうか。必ず役に立つ。特に密法だ。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはめったに法を修める。例えば今夜の施身法は一ヶ月に一回しか修めない。一年にある特別の状況があれば、法を修める。灌頂法会もめったに行った。大抵リンチェンドルジェ・リンポチェは勧める方式を使う。若しそなたは一人でリンチェンドルジェ・リンポチェを求めると、リンチェンドルジェ・リンポチェは通常に法を修めない。しかし、そなたを助けた後、そなたは多くの者を助けられるなら、そなたのために法を修める。そなたは懺悔心があって、改めたくて仏を習う後、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたのために法を修めて、そなたの果報を暫く止めて妨げさせない。しかし、此れもそなたの因縁福報を見る。

前ある女子、彼女のボ-イフレンドは各方面すべてとても彼女を満足させた,しかし、どうしても儲けに行かず、一日中に彼女に粘っていて,月日のたつ内に彼女がたまらなくて、数回もリンチェンドルジェ・リンポチェに彼氏を離れさせるように法を行うのをお願いした。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女が本当に苦しいのを見たので、彼女を助けるのを承諾した、唯一条件は彼女が本気であの男と別れて、以後もう会わないようにすれば、彼女を始め助け、彼女も承知した。リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女のため法を行った後、毎晩、彼女のボ-イフレンドは彼女の側に寝て、夜中、床の側にひとりの女子が彼を起すように来るのを見た、一晩に何回も繰り返して、彼を驚かしてすぐ彼女の家を出てもう会わないことになった。しかし、しばらくあと,あのお願いに来た女子が自分の誓いを違反して、またあの男と一緒になって、只1回だが、あの女子は事故があった。これ等は仏菩薩あるいは護法が罰した、しかし、彼女は自分の承諾を守らなくて、過去の業がまた彼女に戻って来た。

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは殊勝な施身法を始め行った。儀軌が第一段を進み終わり所、リンチェンドルジェ・リンポチェが特に止めて開示された、先行った法の中に主催者の発心、供養及び自分が諸仏菩薩、本尊と上師とは区別なし、衆生を助けるのを観想した。

こんな公然に挙げた千人以上の施身法法会は他のところに全く見られないのである、修法者は必ず大手印の第二階段離戯瑜伽を修め得なければならない。それに、直貢噶舉教派の大手印は四階段に分けて、第一階段は専一瑜伽、第二階段は離戯瑜伽、第三階段は一昧瑜伽、第四階段は無修瑜伽である。毎階段にはまた三つ階層に分けていて、あわせて12階層である。専一瑜伽は散乱している心はもう一度集中に戻ろうとして、離戯瑜伽を修めえた行者は世間を1つ芝居として見て、この世界中に全て起こった事は全部因縁因果の法則の中に運行していて、全て業力果報の現われで、執着することにはならない。子供が遊んでいるみたいで、このゲームが終るとすぐ次のを遊び、真では無い、永遠ではない。離戯とは、善悪に対してどんな執着もない、離戯瑜伽を修め得ないと済度することが出来ない。

修法し終わった後、リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて申された:今日来た者は1200名あまりで、先程、誰でも1000回六字大明呪を全て唱えれば、こうして合わせたら、今晩全部総計100万回以上を唱えた。 修法する前の開示は皆が今日法会を参加する心を比較的に懇切させたため、如法上師の引き連れる下に、一緒に善の功徳大海の中にいる。表から見ると、1人ずつ1000回しか唱えなかったが、貰ったのはかえって100万回功徳で、そなた達が家で自らで一億回を読むのより役に立つ。それは、そなた達は家で読むとき全てばらばら読むので、心は不集中で、こんな呪文を唱え方は累世業力がそなたを影響する力を変わることが出来ない、ただ読んだのは読まないのよりいいだ。法会上で呪文を唱え、上師と歴代伝承加持の下に、そなた達の心はせめて割合に散らない。そなた達の心は累世以来すごく散ることになれた、それで、沢山仕事を見つけてして、それより、ある者はとても退屈して、退屈になるわけは無い?それはそなた達は静かに慣れなくて、こんなチャンスがあった。そなた達は勉強が不集中で、出勤してもまじめではない,運転するさえも不集中である。同席の皆様はきっと全て認める、不集中であれば、どんな仕事もよくできない。直貢噶舉教派の大手印の第一階段は専一瑜伽で、つまり、我等が毎に集中するのを訓練させるのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは施身法を行ってますます多い衆生を利益するのは理由が沢山あり、その中にのひとつは禅定の腕前がますます良くなった。

そなた達は常にばらばら唱えていて、本当なのは、十年の顕教基礎を通じて不共四加行が出来て、つまり十万回大礼拝、十万回百字明呪、十万回献曼達供養及び十万回以上上師相応法、また上師が伝授灌頂した後、閉関している時読んだのである。例えば、閉関するの中に読み終わった百万回六字大明呪である。

リンチェンドルジェ・リンポチェは呪文を唱える時、一手念珠を持ちながら、もう一手は計数器を取ったのを非常に反対である。仏経の上には、計数器と記載しないが、全て後の人が発明したのである。なぜ念珠を使うか?その意味がとても深いが、一番簡単に言うと、念珠を動かすことで心が集中するのを助けるのである。そなたは口が呪文を唱える時、手が一個一個念珠を動かして、お体が念珠の上に集中して、心が更に呪を読むことに集中することが出来た。しかし、計数器が使えば、計数器を押すとまた音が出て、こうして、計数器を押す音と加えて、本来読んでいる「南無阿弥陀仏」六つ音は「南無阿弥陀仏、カザッ」になって、八つ音があった。

今日助けを受け取りに来た、そなた達が見えない衆生は非常に多かった、潮のように一つのなみに一つのなみに湧いて来て、数えなかった。如法上師の開示と引き連れるの下に、皆が法会に参加するの心は割合に懇切に衆生を助ける、それで、先ほど呪文を唱えていた時地獄が一度振られて開けられた、そなた達が先程真心で呪文を唱えれば、そなた達の地獄にいる祖先或いは眷属は全て地獄より離れた、まだすぐ浄土へ行くことが出来ないが、まず人道へ行き、修行を通じてから天道、浄土へ行くチャンスがある。皆は本当に懺悔、清浄、自分のためではない心で、呪文を読めば、今回の法会は利益した衆生が数えないのである。

こういう殊勝な密法を参加するチャンスを惜しむべきだ、法会が終った後、良くない事があれば、皆におめでとうはず、それは、そなたは返済することを始めたのである。家に帰った後主人に叱れたら、法会が役に立たないと思わないで、あなたはもともと殴られるはずだったが結局只叱れることになった。果報は消えない、果報は消えるはずは無い、しかし、我らは果の味を変わることが出来る、本来苦い物を酸っぱいにならせて、あんなに苦くないが必ず起こる。法会を参加した後、良いことがきっと発生して、良くない事が起こらないとすれば、こんな考え方は正しくない。悪い果が消えれば、今日そなたが法会を参加するとの善の因に対して善果が貰うことが出来ないか。

最近、地球は益々暑くなっていて、科学が多くの気体を排出する事と言われるのではなくて、それが一つの原因のみである。真に原因が人人の気性が益々怒りっぽい事で、両方が相互に影響させて、天気に暑くなる事を引き起こさせる。天性がより汚れる人は住んでいる所が必ずより汚れるようでである。此の数年には、天気だけではなくて、宇宙にも大きな変化を起して行く。地球環境とあおなたに関係がないと思ってはいけなくて、そなたの一人だけで良いでも、家族と周りの人が調和ではないなら、社会と国家が騒乱不安ならば、その上地球の変化を加えて、そなたがまた良いでしょうか?此れは「共業」で、共同の業力が相互に影響させている。地球には60億の人口があって、人々が余計なので、善悪の善報と悪報が来世に待ってくれるのではなくて、この世にそなたに現れる事を見させて、さえ直ちに現れて、翌日にすぎそなたに見させる事を現れる。このような時代には、そなたが悪を行う報いが倍にして、相反で、善を行う善報も倍にする。

皆は自分と家族がよいで、家庭が調和と言う事を望んでいて、殺すを戒することからしていく。菜食とは、一つが家族と自身の健康のため、地球暖化を緩める事も為である。肉食が好きな人は気性がよりよくないである。付き合う者は菜食しないなら、そなたと付き合う事ではないと言って、それなら付き合わない、此れはそなたと相手に同類ではない。菜食とは出家を代表ではなくて、牛と羊も菜食して、そなたが牛と羊が出家する事を聞いた事があるでしょうか?菜食とは何か素晴らしさではなくて、菜食はそなたに衆生を悪縁を結ばせない、菜食しないなら、慈悲の種を断っていく。菜食すれば、商売をする事が出来ないと思っていはいけなくて、台湾で菜食する事が極めて便利で、すべての食堂が菜食をする事が出来る。台湾のこの土地は多くの仏寺があって、多くのリンポチェと法王が此処に来ていて仏法を広めていて、まだ福報があるところで、然し福がある日に使用済みがある。

リンチェンドルジェ・リンポチェは皆にこの数年間が良くない年ということに予言させて、去年にさらに今年(2010年)が火山爆発と火災を予告して、水災も多くて、意外な災害も多いである。リンチェンドルジェ・リンポチェに特に皆に勧めて、水があるところへ絶対に行けてはいけない、例えば川岸、海辺へ遊べてはいけいけない。現在の夏休み期間には、両親として絶対に子供に連れで川岸へ焼肉をするなどをしてはいけない、良くない結果を起こしていく。一方、天気が暑いので、水にいる多くの微生物と汚染が多く増えて、接触すれば病気に罹りやすい。他方、海洋の魚類は人類が捕らえるので、多くのところが魚がない、水族類が逆襲している。ニュース報道の中に、沢山の溺れる事件を起こして、甚だしきに至っては一人の子供が魚塭に近いでも溺れた。2001年時に、リンチェンドルジェ・リンポチェはある子供を救って、彼がある病気にかかって、全世界の医学の記載には、この病気に罹る人が14日に超える可能性がない、が、この子供がリンチェンドルジェ・リンポyチェに救った後で、現在も成長していく。この子供は叔父と一緒に川岸へ焼肉をして、帰ると全身の皮膚が総て水泡を起こす。そなた達は焼肉をする時に、肉の上に1粒の1粒の水泡を起こあるでしょうか?誰かが中秋節に焼肉をする事を発明することが知らない。全世界の華人地区にはただ台湾人だけでこのようにしている。現在、何故多くの人々が皮膚の問題、癌の問題があるでしょうか?ずべて魚と肉をたべる殺業に基づいて来ている。

慈善団体に寄付金を募るなら、善を行う事と思ってはいけない。一部の慈善団体はすでにお金持ちで、団体に多くのお金があると、ある日団体のリーダーが不在ならば、必ず問題があるので、そなた達が彼たちに寄付金を募らない。仏教に記載されたのは衆生に助ける時に、自身から彼に手渡さなければならない。有る人がお金がないので、勉強できなくて、診療をうけなくて、棺を買う事が出来ないのはそなた達が自らお金を手渡して、彼に助けて怠けてだらしない、ある団体に寄付金を募る事ともう十分だと思ってはいけない。これはそなたが2千台湾円を募るなら、組織運営の需要の為に、真に用いるのがただ1百台湾だけかもしれない。何故自身から助けが需要する人に手渡すでしょうか?手渡す時に、自分の名前を言わないで、そなた達に自身からくれるのが他人にそなたに感謝させる事ではないで、却ってそなた達に世界にある人がそなた達により苦しみ事を見させる。だから、却ってそなたが彼を感謝していて、彼がそなたに仏菩薩に感謝して、両親に感謝して、世間にある人がそなた達により苦しんで、彼がそなたに衆生を助けさせる機会をくれることを知らせる。福報がない人は、有る人に助ける人が探さない。前にある例があって、お金がない診療を受けない患者に寄付金をくれたいでも、一週間に待っても、お金がない診療を受けない患者を助ける事も探さなかった。

修法が完了した後、リンチェンドルジェ・リンポチェは話す力が修法前により弱くて、然し依然として繰り返された忠告を皆に勧めた。仏菩薩は皆に追い詰める事が出来なくて、ただ皆にだけで勧めて、然し仏菩薩が皆に欺くことができなくて、皆に欺くのが仏菩薩ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に肉食をしな事をずっと勧めていた。法会に参加した後でまた肉食をすれば、来てはいけない、来ても後悔があって、これは法会に参加して開示を聞いてはっきり承知するが犯していって、罪が倍に加えて、そなたが傷害された衆生がそなたに計算してくる。善と悪が相殺する事が出来ない、二つの平行線で、ただそなたが悪を行う事を断ってから、善が絶えずに増えていって、それでは、そなたの未来が良くなっている可能である。リンチェンドルジェ・リンポチェは命を気にしないで皆に助けて、皆が自分の心と欲望を放任しない事を勧めている。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェが曰く内容は役に立つかどうか、そなた達が生活に使うかどうかに基づいている。悪を断って善を行い、善業を多く行って、悪業を行わないなら、未来のこれらの年を経て初めて、良くない共業に巻き込んでいない可能である。

2010年7月31日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで、130名の信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

2010 年 08 月 08 日 更新