尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ の法会開示

2010年5月2日

尊き リンチェンドルジェ・リンポチェは尊き ガーチェン・リンポチェを台北寶吉祥仏法センターに迎えてきて、法会現場で参列した信者及び弟子達にとても重要な仏法の教導と開示を与えた。

法会が始まる前に、まずはマンダを捧げ供養する儀軌を行った。ナムギャル・ガムポ(Khenpo Namgyal)は代表として、寶吉祥仏法センター出家衆と寶吉祥仏法センターの理事長を連れて、尊き ガーチェン・リンポチェにマンダを捧げ供養する儀軌を行った。

リンチェンドルジェ・リンポチェは法会に出席する信者達に紹介して、今日私達がガーチェン・リンポチェを招請するのは非常に大福報であった。尊き ガーチェン・リンポチェはわが教派の中のとても重要なリンポチェであり、前生はかつて直貢噶舉教派の摂政王であり、つまり、前、後任の法王が教派を執る時期の間に、摂政王は教派の事務と仏法の教えを行うことに責任を負って、教派の伝統を維持した。この1世の尊き ガーチェン・リンポチェはもう70数歳であるけれども、やはり仏法のためにあちこち駆け回って、尊き ガーチェン・リンポチェの一生にも世の中の多くの苦痛をも経験したことがあるが、しかし 尊き ガーチェン・リンポチェは仏法と教派に対してずっととても固める態度を持っていて、これは私達のような仏を学ぶ者が学びがちである。あなた達は今日とても福報があって、尊き ガーチェン・リンポチェの教えを聞くことができて、これはあなた達が未来仏を学ぶことにきっと確かに助けがある。私達が大拍手で尊き ガーチェン・リンポチェを熱烈に歓迎しよう。

ガーチェン・リンポチェはまず、リンチェンドルジェ・リンポチェの招待に感謝する同時に、皆さんにとても福報があることを教えて、この殊勝な道場1位如法に修行してる尊き 上師に追随して仏法を学ぶことを大切にしてください。そして「zhaxidele(吉祥如意)」で、法会に参列した大衆に挨拶して、引き続いて切実に大衆のために貴重な仏法を開示して、そして中国語の通訳者を通して、1つ1つ口頭で通訳する。

衆生は善道に生れた比率はかなり低い。我々は今日この極めて得難い人身を得て、非常に珍しく難しい事である。また、十八種の完璧な人身を備えられた事は至極得難いから、心から歓喜を起すべきである。衆生は仏法住世の時代に生れたのは非常に得難い事である。一生に如法の上師に従って仏法を習える事は至極得難い。故に我々は累世の福報を大事にして、此の世に仏をしっかりと学べなければならない。

この世界に清浄な境及び不清浄な境を存在している。清浄な境とは仏の涅槃の境界であり、不清浄な境は輪廻六道の境界である。実は我々は全て仏と同じで平等無二、清浄無垢の本性を持っている。つまり、我々は共同の心性を具えて、所謂仏性であり、或いは如来蔵と呼ばれた。何故衆生は仏と違うだろう。それは衆生は無明を起して、我執があるから、輪廻の苦しみに堕ちた。

ガーチェン・リンポチェは一基、二道、三果で殊勝な仏法の実境を開示された。一基とは衆生が元々仏と無二無別であり、同じな根本を持って、全ては同じな基礎で同じな心性を持っている。二道とは世間に存在している安楽の道及び苦痛の道である。苦痛は衆生の執着から起した。執着があるから、六種の煩悩を起して、苦しい六道の中に輪廻している。安楽とは衆生は利他の心があって善を行った。善果を起したから安楽を得た。利他の心で慈心、悲心、菩提心を修める。菩提心は如意宝のように衆生に安楽を与える。そなたは慈悲及び菩提心を備えれば、暫くそなたにとって、此の世の安楽を得られる。例えば財、寿命など、永久から見ると、そなたは引き続きにこの貴重な人身を得て、善道へ往生して、更に浄土へ往生して、仏果に成って究竟勝義永久の安楽を得られる。衆生は六道に輪廻しても、清浄な涅槃を得ても、元々同じな基、同じな心性を持っている。つまり、輪廻及び涅槃は元々無二無別と言われる。

因果が壊れない論理によって、若し衆生は悪を起して、人を傷付ければ、最後必ず自分を損害する。此れは悪果である。若し慈悲心があって、行為、言語、心意で人を助けると、同じで自分も善果を得られる。同様に父母に育てられたが、何故ある子供は生れてから安楽で世話しやすいが、ある子供は生れてから緊張しやすく、体調は悪い。また、生れないのに流産されただろう。此れは因果及び業力が異なるから。

仏の知恵は虚空を広めて、何にも分かっている。広がるとは虚空の知恵を円満に広める事である。世間の賢いと世間の知恵とは違い、宇宙の全てを仏は了悟して覚知した。仏は大知恵で世人に助けて苦しみから離れて、楽しくを得させる。我々は人間として色々な苦痛及び煩悩を持っている。人間だけではなく、極めて巨大な動物でも、極めて小さい虫でも苦痛がある。我々は現在小さい虫さえ其の苦しみを助けられない。仏しか我々に助けて徹底的に自分の苦痛を消滅して、また他の人を利益できる。

仏教は他の宗教と違いは仏法は衆生を利益する方法である。仏は世人に、如何なる執着を取り除いて、苦しみを解脱する道を歩いていると教える。仏は突然に仏と成らなくて、過去諸仏の経験、知恵を習い、三大阿僧祇劫の修行を経てて、五百世の清浄身及び五百世の不清浄身を通して慈悲及び菩提心を習いから、証道でき成仏できる。釈迦牟尼仏は我々の導師であり、仏は自分の修行の経験で世人に84000種の法門、苦痛を解脱する道を開示され教導された。

こんなに広大な仏法は夏に盛んに生い茂る大樹のように、多い枝と濃密な葉があり、数えない、ある者はこう聞いた。こんなに沢山法門があったことで、すごく勉強し難いだろう。我等はこの一生を尽くしても全ての仏法を学ぶことは出来ない、どう勉強すればいいだろう?しかし、沢山法門があって勉強が出来なくなるのではない、それは、これらの法門は全て利他の心であり、慈心、悲心、菩提心は基礎である。大樹のように、枝葉がどんなに盛んでいるか問わずに、大樹には1本幹しかない、との認識が必要で、樹の幹の下には根であり、根は水の灌漑があればたくましく生長出来る。ところが仏法の本は慈心、悲心と菩提心である。

衆生は本来、仏のように、同じの如来蔵があると言われるが、勉強しなくても、ある日、仏と同じであるだろう?我等は全部仏になる本性がそろえたが、やはり皈依を通して、絶えずに仏法を勉強して、受け取り、さらに、維持すれば、開発されることこそ出来る。まるで、1つ固くて冷たい氷が寒くて凍ったところにおけば、千萬年になっても永遠に溶けることは出来ない、只、日光の下に置いて日光の照らすを受けて、はじめて溶けることは可能である。

完璧な人身を得難く及び仏法のよいところが知った後、一番大切なのは皈依することである。上師善知識に依止して、仏、法、僧との三宝に皈依する。実は、上師善知識即ち僧宝であり、上師善知識の言葉は法宝、それに、上師善知識の心意は仏宝である。上師善知識は自身の修行、戒を守って、僧になる、上師善知識は自らで真実に仏法を体験した後、全て開示されたのは法宝である。上師善知識の心と仏の心のように、慈悲心、菩提心を満ちて、利他の心で衆生が苦しみより離脱することを助け、それで、上師知識の心は仏宝である。仏弟子は外内密三種類を分けて、仏法を皈依した者は外弟子と呼ばれ、仏法を皈依した後、慈悲心が起きたのは内弟子と言い、密弟子とは、全て仏になるの本性を揃えた衆生が上師に依止して、仏法を学んで仏果を成すまで修める。

法座に座られる上師は既に執着を破り、忍辱まで修め得た修行者である。上師の心は全て利他で自分のことはない。凡夫の心、心がは起こって心を動かすことは全部自分の利益のためである。しかし、1人上師は全て衆生のため、それに、忍辱を修め、衆生が無知と無明のせいで全てしたことに腹を立たない。

皈依した後、戒律を学び、受け取りと護持するべきである、行為、言葉と心意の層面により、心意の戒の守る事は一番大切である。皈依した後、上師善智識に依止して、よく上師善知識は空性の慈悲心で衆生を利益することを観想し修行する。上師の悲空双運の心意を学んで、上師相応法を勉強して、自分の心を上師のように衆生を利益させ、仏宝を得ることが出来た。三宝に皈依した者は、自らも仏、法、憎との三宝が得られる。しかし、皈依した後、戒を守らなければ、究竟安楽の仏果を得ることが出来なくなる。

祖師ジッテン・サムゴンは「衆生の因果業力はこの世に成熟になる事を望んでいる」と仰った事がある。諸仏はすべて人道から仏果を修めてなっている。仏経には、来世に人生を得てから仏法を修行する事を求めるのが記載された事がある。人はすべて両親に生まれて養われるのですが、一部の子供は母胎で生まれていない時に仏法に接触する事が出来て、一部の人々が出来ない、これはその福徳因縁に関係がある。

その為、我々はこの世を把握するべきであり、上師善知識に皈依して仏を学ぶ因縁を大切にして、「諸々の悪を作すこと莫く、諸々の善を行い、自ら其の意を浄くせよ、是が諸々の仏の教えなり」に達する。苦しみは執着から起こして、「諸々の悪を作すこと莫く」を修めて習うのが、執着が消えさせなければならなくて、自然に苦しみを遠く離れている;安楽は利他の善念から起こして、「諸々の善を行い」を修めて習うのが、慈悲心と菩提心を学ばなければならなくて、善を行って利他をすれば、自然に安楽と幸福を得ている;自らの其の心意を清くする事が出来で、慈心、悲心と空性の智慧を修めて、菩提を行って衆生に利益して、このようなすれば未来が必ず成仏している。これらは仏陀が世人に仏法を教導なさる真義である。

仏の心は一枚の満開になる花のようで、凡夫の心は花の種のようで、看れば同じくないけれとも、然し、花の種が必ず同様な花が咲く事が出来る。自分が仏性と如来蔵がないと思ってはいけなくて、全ての人々が持っているのである。「仏子行三十七頌」には、「利楽の縁という諸縁覚、正法を修める事に従ってから生まれて、そなたもこれに依存して其の行為を知っている、そのため仏子行を仰る」と記載された。皆が上師という善知識に依止する事が出来で、如実に仏を学んで修行する事を望んでいる。各宗派は全て仏を学ぶ者ので、互いに批判してはいけなくて、さもなくば仏を学んでいるのではない、却って貪、瞋と痴を学んでいる。布施供養をけちけちする者とは餓鬼道に堕ちて、瞋恨心が強い者とは地獄道に堕ちる。

ガーチェン・リンポチェが開示された後で、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆を注意させて、尊きガーチェん・リンポチェが今日自分の知っているのを尽くして皆に開示されたと仰ったが、実はガーチェーンリンポチェが極めて謙虚である。今日開示されたのは唯一部の内容だけで、然し、そなた達のこれらの仏法の初学者に対して極めて重要なの開示で、最も重要な仏を学ぶ基礎である。仏を学ぶのは仏法の真義、三寶に皈依する重要性と仏を学ぶ因縁に大切して把握する事が分からないなら、修め得ないのである。今日、皆は因縁福報があって、尊きガーチェン・リンポチェの開示を受け入れた事が出来て、そなた達に将来の仏を学ぶ道を必ず助けがある。リンチェンドルジェ・リンポチェは参列者に指示させて、再度尊きガーチェン・リンポチェに恭しく感謝する。

法会には、ガーチェン・リンポチェが年を取っているが、依然として苦労を厭わずに衆生に懇々と諭す。ガーチェン・リンポチェもリンチェンドルジェ・リンポチェが如法な修行する事と弘法して衆生に利益する事に賛嘆し、其の上、リンチェンドルジェ・リンポチェの要請を感謝している。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェがチベット語が分からないけれとも、翻訳者がまた訳していない時に既にガーチェン・リンポチェの意思を知っていて、すぐにガーチェン・リンポチェの側に向いて転じて感謝している。法会が円満した後、リンチェンドルジェ・リンポチェがすぐに法座から下りて、自らガーチェン・リンポを支えてくれて法座から降りて、そして、一緒に休憩室までに支えて入って、其の上、自らガーチェン・リンポチェが寶吉祥仏法センターから離れる事を送った。ガーチェン・リンポチェは如法な修行して衆生を利益するリンチェンドルジェ・リンポチェの愛惜と尊重、其の上、リンチェンドルジェ・リンポチェは、ガーチェン・リンポチェへの尊敬と尊重は全て仏を学ぶ者の模範で、なおさら、参列の弟子と信衆がとても感動させている。

2010 年 07 月 27 日 更新