尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ の法会開示

2010年4月3日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで、82人の信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

2010年4月4日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターにて殊勝な共修法会を主催されて、直貢噶舉教派の大手印五支道の意義及び前行(けぎょう)を開示して、仏を学ぶべき心構えを詳しく解説した。そして、仏法を学んだばかりの参列した大衆のために「大通方広懺悔滅罪荘厳成仏経」の抜粋内容を開示した。

大手印五支道は続部密法の精華で、実修の精華であり、直貢噶舉教派の奥深くて秘密の禅定修習法門である。大手印五支道は一、菩提心を発すること。二、本尊ヨーガ。三、上師ヨーガ。四、大手印禅修。五、菩提に迴向することを修習する。真に仏法を修行する前に、先は十分な仏を学ぶ資糧を累計しなければならない。いわゆる資糧は別に金銭を表さなくて、金銭が行ったり来たりするので、あまり重要ではない。重要なのは慈悲及び智慧などこの2種類の資糧である。四加法を修行するのは、最も重要なのが慈悲及び智慧などこの2種類の資糧を累積するので、ただ慈悲だけがあって、慈悲が学ばないと修行することができない。かえって、ただ慈悲だけがあって、智慧がないと上師の教導を理解することができないのである。仏法を学ぶ時に、もしこれらの資糧が不足するならば、学び続けることができないので、1つの考えはそなたに法会に引き続き参加したくなくなって仏法を聞かないことをさせる。大手印五支道を修習するのは衆生に最も速くこの2資糧を累積するように助ける法門なので、もし十分にこの2の資糧を備えたら、成仏して衆生を利益することができる。

知恵が増長す方式がる四種類ある。一、上師を追随し、服侍すること。二、上師を礼敬すること。三、上師を喜ばせること。四、上師の言ったことに専念するである。

上師を追随するのは、あなたが24時間も上師と一緒にいるのではなくて、まったく上師を信じて、ごくわずかの懐疑があることができない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの一世に一人の在家修行者から、リンポチェの果位まで修行し得て、漢民族の人がチベット人の体系の中でチベット密法を修めることができるのは、きわめて困難であり、漢人の身分をチベット人に受け入れさせることができるのはすでに容易ではなくて、まして更に彼らに1人の漢人の話を聞かせるのはなおさらである。リンチェンドルジェ・リンポチェがこの一世に修理し得ることができたのは、決してただこの1世に修行して得ることができなくて、代々修行してくるのである。

上師を服侍するのは、上師の言われた事と、すべての上師と関係がある事に対して、力を尽くして努力して完成しなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは気を配って時間かかって、日本に最も良い食品を探し当てて台湾まで輸入していて、まさかある弟子は自分の商売が忙しくてやりきれないから、日本食品を売るのを手伝いできないと言った。このような弟子は上師を服侍することではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェがしたすべては仏法であることを理解しなくて、まして弟子が日本食品を販売したら更にお金が儲けることができるから!ある年上の弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェの勧告の話を聞いてくれないで、必ず米国に息子を見に行くと思って、リンチェンドルジェ・リンポチェに心配をさせられる。

上師を喜ばせるのは、リンチェンドルジェ・リンポチェがずっと根本上師 チェツァン法王の角度から、上師に構想を手伝ったり上師の心配事を分担したりして、そして物事に対して最も円融の提案を出して、上師に決定させる。

それ以外、今年2010年に、チェツァン法王は間もなく台湾へ大法会を催しに来るから、2008、2009年の時に、チェツァン法王はかつて2度台湾に来て、それぞれ直貢噶舉教派の仏法センターが団結することができるのを望んだが、しかし各仏法センターの意見が異なっているため、大法会の準備の進度もチェツァン法王にかなり関心を持たせたられた。リンチェンドルジェ・リンポチェはチェツァン法王の心弟子であり、今度は閉関場所を出ると、チェツァン法王に今年台湾で開催する大法会の準備状況を報告して、チェツァン法王のかわり、すべての物事が既に考えておいて、チェツァン法王にとても楽しいことをさせる。

が、弟子達は意外にも道場が所在するビルの管理問題をもリンチェンドルジェ・リンポチェにやらせなければならい。リンチェンドルジェ・リンポチェが絶えずにどのように上師を服侍するべきであるかを見させたが、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子達はこれまですべての事がうまくすることができないで、リンチェンドルジェ・リンポチェに処罰されて、罵られることだけを心配している。事実上、罵られることを恐れるのが最悪であり、これまで上師の立場に立って考えることはできなくて、した事はすべて上師に怒らせて、完全に上師を喜ばせることをやり遂げていないで、これらの弟子達は失格ではないか。

ある時、リンチェンドルジェ・リンポチェは法会後弟子に「今日リンチェンドルジェ・リンポチェは何を開示したか」と聞いた。弟子すぐ返事できなかった。何も分からず、何も覚えなかった。それは上師の話に専念しない。また有る弟子は最近リンチェンドルジェ・リンポチェは今年の下半期が不景気という開示を聞いて、早めに部屋を売りたい。お金を持ったのに平時供養していない。そうすれば上師の話に選択的に専念する事である。

リンチェンドルジェ・リンポチェは法座で仏法を説かれ、生活の中に全ての言語、行為も仏法の示しである。上師の言った事を全てしっかり覚えなければ行けない。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達と同じで食事したり、寝たりするから、自分はリンチェンドルジェ・リンポチェの修行の境界が分かると思わないでください。リンチェンドルジェ・リンポチェは今回閉関修行を円満に終了した後、チェツァン法王に自分は閉関修行に証した境界を報告した。師弟の間に五つの話しか終わらなかった。チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェが確かに修め得た。それはチェツァン法王は既にこの段階を通したから、聞くとすぐ分かった。そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェの果位を修めないから、リンチェンドルジェ・リンポチェの境界が分からない。独り善がりで上師の言行を推測しないで、それは果報がある。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェは顕教と密法の差異を開示された。顕教は重要ではないとは言えないが、顕教の基礎を習わないと、密法を修められない。唯顕教の方式で修行し、仏の話言葉、大成就者の書かれた論疏を習って、歴代本尊及び上師の修行の経験により、或いは開悟見性の上師の教えに従って修める。成仏するまで、必ず三大阿僧祇劫の時間を修めなければならない。極めて長い時間をかかる。人類の数字で如何なる計算しても計算できない時間である。

顕教の修行とは垢だらけの容器を洗浄して、始めて甘露を受け入れることができる。つまり仏法である。そなたに教法を受け入れる法器と成せる。我々の心は貪・瞋・癡など累世の業で汚染されて、共四加行の修行を通して(加行とは加持の行為である)、無常、因果業報、輪廻が苦であること及び人身は得難いことなどを習って理解すれば、垢だらけの容器を洗浄できる。ある者は上師を敬わないても構わないと思う。それは因果を信じない。仏経には「人道に成れば、仏道に成れる。」と記載がある。それは好い人になる或いは孔子の道徳標準を行うと成仏できると言えない。若しそうすれば西洋人は成仏できないだろう。実はこの言葉はこの世に人道に生れて、仏法を聞く機会があって、始めて仏法を習い、始めて成仏の道に歩いて、最後成仏できる。

密法は不共四加行の修行を通して、黄金の精華を抽出し、本来の光りを放つことが出来るようにさせる。衆生累世覆われた本性は黄金のように密法修行の精錬を通して早めに成仏できる。大手印五支道の修行を通して、仏の四身:法身仏、報身仏、化身仏及び自性仏を見える。また即身成仏に至るまで修められる。此れは法身仏の境界を修める。もう一つの境界は自身は衆生と同じで本来清浄な仏性を具えることを悟るのを修めて、即ち即身成仏と言える。

大手印五支道の不共四加行を習う前に、必ず共四加行を修める。四前行は一、無常。二、因果、因縁。三、輪廻は苦しみである。四、人の身は得難い。人の心は貪・瞋・癡など累世の業で汚染されて、仏を学ぶ時に、累世悪業の障碍は我々に仏法を聞かせず、修行させないから、必ず仏菩薩、本尊、上師の加持に頼って始めて仏法を学んだ。若し生死を解脱し衆生を利益するためではない、自分の利益のために仏を学ぶならば、加持の力を得ない。また皈依は全ての加持の始まりである。皈依しない者は悪を止め善を行う事を決めない者で自然に加持を得ない。そなた達は何故此の世に生じただろう。それは過去世にうまく修めなかったから。若し上師に完全に降伏できないと、此の世も無駄に過ごした。

リンチェンドルジェ・リンポチェは「大通方広懺悔滅罪荘厳成仏経」一節を抜粋されて開示された。この仏経は釈迦牟尼仏は自ら伝授された仏経である。チベット文を漢文に訳したから、世間に広く伝えていない。実はどちら地域の仏法を分けないはずである。

仏経の記載されたように、経典を唱えるによって、罪業を消滅するのは勝手に唱えればいいとは言わない。「信じて恭しく書き、受持し唱える」が必要だけではなくて、また「香の泥で地を塗る」、「堂内に好い幡で荘厳に飾って、先に焼香してから仏を請う。」最上等の香を使って、勝手に市場に有る十数元の香を使わず、更に「香水で洗い清浄な服を着る」此処で香水とは甘露水であり、甘露水を撒いて体を洗浄して、服を三セット用意する。手洗いに行き、風呂に入り、読経する時全て着替えしなければ成らない。仏経が説かれた標準はそなた達はやれる者は一人もいない。やれないと自分は仏経を唱えるだけで、観音菩薩は夢の中に見せるわけではない。

この準備を行い、また「昼夜六時焼香、供養、礼拝、懺悔」、「心心不乱、心心不錯、心心不異。心心時進、心心日進。心心生信、心心歓喜。心心相次、心心相続。心心深重、心心不離、心心思罪。心心念仏、心心念法、心心念僧。心心念戒、心心念捨、心心念天」をしなければならない。そなた達は全てを行わない。更にある弟子は上師を揶揄した。此れは「心心念僧」ではない。此処で話した罪は罪悪感がある事ではなく、そなた達に仏を学ぶのを障碍させる事である。唯一つの思いはそなたに仏を習いたくないことをさせる。罪を消滅しないと、仏法を聞かせない。例え聞いても聞き取れない。聞き取れても行わない。

人は、このように読んで唱えて、仏を礼拝して、心より懺悔する。初一から六日目まで。また、、お香が燃えた灰で床を塗る。なお、甘露水でお体を散らす。色んな香りのよい線香を深い心より供える。こんな心でこの者の懺悔は十方を震動する。)」こんな程度まですれば、始めて至心懺悔と言える。

経分の中にまだ五つ種類の夢の内容を載せてあり、ある内容によってある意味をしている。「是人其夜夢見自身欲渡大河上大橋行。當知是人定得度脫。其人或時夢見自身人與洗浴天雨其身。當知是人定得清淨。其人或時夢見自身入沙門大會之中入次而坐。當知是人真佛弟子。其人或時夢見自身入塔寺中見好大像及見菩薩。當知是人得正門已。其人或時夢見自身自得果食而食。當知是人還得果報。(この者は夢で自身にて大河を渡すため大橋を歩いて行くのを見ると、この者はきっと離脱することが出来ると分かる。この者は自身が浴びている時に天雨で浴びるのを夢見ると、この者はきっと清浄することを分かる。この者は自身が沙門大会に入って座るのをみると、この者は真な仏弟子だと分かる。この者はご自身が塔寺に入って大像及び仏菩薩を夢見るとこの者が正門に入ったことが分かる。この者は自身が果実を得て食べるのを夢見るとこの者は果報を得ると分かる。)」ここの「得正門」とは、正しい仏を学ぶドアで、「果報」とは仏果である。夢とはぐっすり眠る時した夢ではなく、眼が間もなく覚める前した夢である。そなた達は今日帰って夜した夢とはいえない、それは、そなた達は前述したこれ等の条件がすべてしなかったから。 リンチェンドルジェ・リンポチェはこの経文に載せた諸夢の内容を見たとき、十分驚いた、それは、これ等の夢はリンチェンドルジェ・リンポチェは自分が既にした。例え、顕教へ皈依した後二日目に仏寺に入って大仏を夢見した。リンチェンドルジェ・リンポチェの修行方式は逆になり、まず証得した後、チェツァン法王及び仏経より証明した。

その後に、リンチェンドルジェ・リンポチェは詳しく「大通方廣懺悔滅罪荘厳成仏経」を開示した。この経文の内容はそなた達の初学者にとってとても役に立つ。そなた達は自分がどこが間違ったか分からないから。

実は観落陰との事がすべて不真実であり、地獄はそなた達が勝てに行くところではない、地獄へ行けるのは二つしか出来ない、1つは地獄の衆生を済度するの仏菩薩で、もう1つは罪業が重くて地獄に堕ちて苦しむ衆生である。彼らが観落陰で見たものはあれらまだ投胎しない鬼道衆生である。かれらは世間に多くとも1千年がいられる。リンチェンドルジェ・リンポチェは1人2、3百年前の鬼を見たことがある。

地獄は外道が言うようにそなたを懲罰するのではなく、地獄の一切は全て衆生がした習性で出来たものである。阿鼻地獄は地獄の中で一番苦しく暗い無間地獄で、瞬間の楽しいさえもない。「趣果無間、受苦無間、時無間、命無間、身形無間」である(すぐ地獄に落ち、絶えずに苦しんでいて、時が続き、寿命も絶えず、身体も全ての地獄にいる、隙間は無い)。憎みが重い者は死んだ後、火地獄に落ち、それは憎み、恨み、嫉妬心は我等の心の怒りを燃やさせ、人が一旦火地獄に堕ちると苦しんで5百萬年位経たないと出られない。また、貪欲重い者は寒氷地獄に堕ちる。賞に当たった者は全て1つ経験があり、深く1つ息を吸い込んだ。欲張り者は自分が好きで欲しい物を見たら全部深呼吸する。だから、貪欲する者は寒氷地獄へ行く。そなた達は回想して自分が貪欲が起きた時、欲しい物を執着するとき、深くひと息に吸い込んだではなかったか。

そなた達は地獄に堕ちるのが難しいとは思わないで、実は、地獄に落ちるのはとても容易で、地獄に堕ちるのは只瞬間のことで、1つ考えでシューと堕ちてしまう。そなた達はいつも怒って、他人を憎んだ。怒る或いは人を憎む時、心の中に火がついてるとは思わないか?そなた達が良く言うように腹には火がいっぱいのようである。よく火があって、そなた達は既に火の中にいるのに慣れ、往生するときも慣れたように火のところへ行き、火地獄へ行く。火地獄へ行く衆生は全部怒りやすい、よく人を憎み、羨ましい、嫉妬するものである。

テレビにはいつも、女はとてもかわいそう、男はどういうふうに女をいじめると言われて、それで女の憎み心を起させる。しかし、女が男をどういじめるか言うものはいない。実は、女も男をいじめる、ある女弟子は夫を殴る、テレビにはこんな新聞を報道する者はいない。テレビを見るのは全部女で、女はそれで、良く憎み心を起しやすい。

外道の間では数百年も戦っていて、それは彼らがすべて執着で傲慢であり、自分の神様こそ本当であり、驕りも1つ種類の悪行であり、この悪行は随分地獄に堕ちさせるのである。

済度とは亡者のため、人に経文を唱えることを頼んで、各仏寺へ寄付するのではない、こうすると仏事を広くすると思った、実はそうではない。亡者のため、沢山経文を唱えてあげると済度されることが出来るとはいえない。リンチェンドルジェ・リンポチェのある出家弟子は前亡者のため念仏する、ひいては20本余りも読んだが、このようにして済度が出来るか、自分まで生死より離脱することが出来ないのに、亡者が離脱することを助けるわけは無い。また「無明」の者は衆生が離脱することを助ける事ができない。昨日ある信者がリンチェンドルジェ・リンポチェに彼の家族を済度することを願いに来た。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に何故彼の父及び他の家族は一緒にこなかったか。この信者はこういう返事した。彼らはもう1つの道場へ行った。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に申された。沢山者は家族皆ばらばら各著しいお寺へ仏事をする、心には、この道場が良く済度が出来なかったら、またもう1つが出来ると思った。実は、こんなにあちこち道場へ行くのは役に立たない、それより彼は先家族と他の道場へ行こうか。また心が良く出来なくて助けが欲しかったら、一緒にリンチェンドルジェ・リンポチェに求めに来る。現在沢山者は全部沢山道場へ行くことに慣れ、これは仏事を広く作るとおもって、実は「廣」とは、そなたの心が広くなるべきで、「事」とは、衆生が輪廻の苦しみから離脱することを助けるこそ本当な仏事を広くするのである。

ある者は数百人が亡者に助念をして、此の亡者が非常に福報があると思っているが、此の数百人が悟って得たか?数百位の阿羅漢であるか?若し阿羅漢ではないなら、このような助念が真に亡者に助けて生死を解脱する事ができないか?或はただにぎやかな事を参加してしまって、結果が亡者の瞋恨心を起こさせるかもしれない。だから、家族が去れば、親族の自分が唱えるほうが良くて、これは亡者に何か助けがあって、少なくとも、親族の懇切な心と熟知する声が亡者に心がより落ち着かせる。

市中のある仏教の慈善事業の機構は彼らの会員を来世に再び帰って会員をする事が要らせて、住職も袈裟を身に着けていて仏法を説いて、結果が弟子に継続てきな輪廻させて、実にはこのようにすれば魔の法である。菩薩も世間に帰るが、それは果位まで悟った後で、願に基づいて大衆を済度して帰って始める。

我々は輪廻が苦しみだを了解するため、輪廻の道を認めて悟った上師に依止する。輪廻は死のその際のまでには輪廻を始めではなくて、我々の毎日の情緒の変化もある種類の輪廻である。が、我々は輪廻の道を知っていた上師に依止して、真に我々に輪廻を解脱する事を助ける。若し、未だ悟らなかった上師に依止すれば、彼の自分さえ生死を解脱する事ができないのに、如何にそなたに輪廻を解脱する事のを教えるか?これは無明を充たした盲人のように、その他の盲人達を率いて象を触って、上師が象牙を触るなら、大象が鋭いと思って、しかし、弟子が尾を触るなら、大象が細くて長いと思って、上師と言うのが同じくないのを発見し、結果、永遠に大象の模様がはっきり見える事ができない。

皈依は仏を学ぶ根本であり、皈依はそなたが決心して悪を断絶し善を行って仏法を学ぶ事を代表する。ある信衆はリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して、施身法に参加する事を祈って、リンチェンドルジェ・リンポチェがその者を法会に参加する目的かを問い合せた。此の信衆の回答は解脱のためである。然し、ただ施身法だけに参加して皈依をしないで仏法を学ばないなら、解脱する事が不可能で、だから、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼に承諾していなかった。

ある女の弟子は2年前に重大な交通事故を出して、人事不省になる中で、一人の優しいお年寄りが見えて、彼女を彼に一緒に歩ませて、然し、此の弟子が引き続き行きたくないで、自分の上師を待って連れる事を思った。此のお年寄りは此の弟子が熟知する親友の様子に変わって、彼女を連れさせて、然し、彼女がリンチェンドルジェ・リンポチェに従って行きたいだけである。これは此の弟子が上師への信心で、現在、人世に良く仏を学んで続ける事が出来て、若し、そのお年寄りに従って、彼女がとっくにこの人世にいない。此の時に、リンチェンドルジェ・リンポチェはある男の弟子がこの女の弟子に見た事を一寸見て、リンチェンドルジェ・リンポチェが直ぐに厳しく責めて、現在にはリンチェンドルジェ・リンポチェが仏法を開示したが、此の弟子が変わって見て、これは彼が上師の言ったことを専念しない、さき、リンチェンドルジェ・リンポチェの言った内容が彼がすぐに忘れて、リンチェンドルジェ・リンポチェがその場で此の男お弟子に寶吉祥の弟子の制服のベストを返却させられた。

真剣に仏を学ぶ者は、積極的に人生に直面して、消極的に対応する事ではない。ある男の弟子は毎日に家にいて、全ての事を奥さんに引き受けさせて、問い合せられる時に、自分がすでに看破して、既に下げると回答して、これは怠けである!ある仏を学ぶ者は、仏を学ぶのが責任を逃げる口実にさせて、自分が負けるべきな責任に負けない。若し、彼が真にすでに看破して下げるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼にインドに行かせて、チェツァン法王の仏寺に出家させて、これはリンチェンドルジェ・リンポチェが出家した事がないので、比丘戒を伝えない。若し彼に2007年にリンチェンドルジェ・リンポチェがネパールの閉関の所に行かせて、出かける事が出来なくて、彼は我慢できるのか?一日中に家で仏を唱えるならば修めて得るか?

仏経には、皈依した後で、弟子は上師を3年間観察する事が出来る、が、上師も弟子を3年間観察して、そのため、現在、リンチェンドルジェ・リンポチェが3年に至りの皈依弟子に四加行に伝えて始めて、1日を足りないでも駄目で、ある弟子の家内、娘が既に四加行を伝えて得たが、彼がこの法を伝えた事が出来ない、これは彼がその時にくずくずして皈依しなかった為に、また多く見て、自分が知っていてから皈依して始めると思っていて、だから、今回の伝法機会を失った。

ある者は10万遍の大礼拝を完成したが、甚だしきに至ってはすでに第2回目の10万遍の大礼拝もし、けれども正確な心持を以って大礼拝をする事ではない、やはりただ回数だけを計算し、若し心持が変わらないなら、ただ運動をすると思って、効果がないで、礼拝をしない者により一寸良くなっている。大礼拝をする心持が極めて大切し、毎一回のは衆生に利益する事に礼拝して、毎一回のは深くて自分の悪業を懺悔している。悪業は衆生を傷つけたり、どれだかの肉を食べたりする事だけではなくて、自分が仏になって一切の衆生に利益する事ができないなら、これは極めて大きい悪業である。だから、仏を礼拝するのは、両親の健康、家の平和というのを求める事ではなくて、却って、一切の衆生の為に、仏に礼拝していく。大礼拝により、衆生の苦しみを体得して、慈悲心を育成させられる事ができ始める。

最後、リンチェンドルジェ・リンポチェは今回に閉関に連れて行った弟子に彼らの観想を表させられた。全ての弟子は非常に感恩し、これはリンチェンドルジェ・リンポチェが教派に絶えずに払って、ヂャンチュウブリンに絶えず護持しているために、弟子がこのような手厚い待遇を獲得した事が出来て、このような心地良い環境に閉関した。弟子も閉関の間に自分の妄念と悪念が極めて多く事を体得して、深くて懺悔した。チェツァン法王の侍者もこれらの弟子に話して、実は此処に来て閉関する者が来て行き来して、多くのが二日でも耐えることができないので、前倒しに終って関房を出た。リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を得たので、弟子が閉関が完成した事が出来て、弟子は感恩するほかに、また感恩している。

2010年4月10日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで、115名の信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

2010年4月11日

法会が始まったところ、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは先に高座の上で法会開始の40前に往生したある女弟子のためにポワ法を修めて、修法する過程の中に、リンチェンドルジェ・リンポチェは真言を唱えてある音を出すこと時、法事を観察するスクリーンも同時に何度も画面の脈打つ騒動が現れて、リンチェンドルジェ・リンポチェは法を修める時に巨大なエネルギーが出来ることに感嘆させられるを表した。

ポワ法を修め終わった後に、リンチェンドルジェ・リンポチェは直ちに亡者の姉と娘に病院に電話をかけさせて、現場にいる家族が亡者の梵穴の所に触ってもらって暖かいかどうかと確認するようにしてください。リンチェンドルジェ・リンポチェは亡者の側で法を修めるのではないが、しかし、すべて法を修めた円満な瑞相はまさに法本の云われるように少しも欠けなくて、家族は電話にて、リンチェンドルジェ・リンポチェが円満に修法した後に、亡者が遺体が柔軟で、微笑んだ顔をして、頭の梵穴が温かいなどの瑞相を現れたのが分かって、ポワ法を修めるのは円満に成功したことが確認することができる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは次の如く開示された。ただ今修めたのはポワ法であり、顕教ではこの法門がない。ポワ法はまた「遷識法」と称されて、死者を阿弥陀仏の浄土まで済度することができる。済度するのは死者のためちょっと読経したらいいのではなくて、済度を手伝う人は自分も浄土に行けるかどうかと確定していない場合、どのように死者を浄土に行くことを助けることができるだろうか?ポワ法は阿弥陀仏の伝わってきた密法であり、死者を阿弥陀仏の浄土に行くのを助けることができて、とても殊勝な済度の法門である。死者の遺体が柔軟で、顔が微笑んだら、もう浄土に行ったと言えることではなくて、実は外道を修めても、三悪道に行かないと、すべてこのようである。しかし「ポワ法」を修め、円満に成功した後、死者の頭骨の梵穴が暖かくて、梵穴には必ず一つ丸い穴が見つかることができて、これは医学、科学から見ると不可能である。仏経には、浄土に往生した者は、神識が必ず梵穴から出て行ったのである。人が死亡後の半時間に、遺体は冷たくなって、そなたが何回も火で焼いても同じに冷たいが、ただ梵穴の所に触ったらあたたかくて、これは本尊の願力及び修法者の力によって、死者の神識を梵穴から出して浄土に送ったから、この穴があって、そのエネルギーがその所をあたたかくさせるとができるのである。

法本に記載されている通り、鳥が飛んでいける場所ならば、この法を修めることができて、別に遺体の側にあるとは限らない。先に法を修める時に、リンチェンドルジェ・リンポチェは道場の高座の上にいるが、死者の遺体が病院にいる。このような程度まで修行することができるのは、いかなるリンポチェは皆やり遂げることができるのではなくて、だから、この法を得られるのは、死者は必ず累世の福徳因縁を備えなければならない。

この他界した弟子は、8年前にリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依する前に、すでに結構深刻な口腔癌に罹って、皈依した後、ずっと法会に参加していて、癌はよくなって、医者さえも癌の指数を検査することができない。この弟子の体の状況があまりに余計な仕事をすることを許さないため、リンチェンドルジェ・リンポチェは更に彼女にリンチェンドルジェ・リンポチェの経営の旅行社でオペレーターの仕事を担当させるのを手配した。結局は、彼女は自分がよくなって、もう大丈夫だと思っていて、毎日出社時間にその他の社員と世間話したりして、会社の規定を守らない。更に、その後に、一部の弟子は上師を誹謗して、道場を暗黒状態にして、彼女も引き続き是非を言って、だからしばらくの時間を過ぎて、癌はまた再発して、今度リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を救うことができない。彼女が上師を誹謗して、リンチェンドルジェ・リンポチェが怒って、彼女を故意にすることではなくて、護法もそうではない。もし以前言ったことがある。弟子が上師を誹謗する時に、上師と教派伝承が彼女に加持する力がすぐに停止して、だから彼女の累世の業力はまた帰って来た。その上、過去に法会に参加したり供養したりすることで累積したわずかな功
徳が人天福報と変わった。

彼女の因果応報を転じることができないが、しかし、彼女はそれから自分が間違ったことを知っていて、心から懺悔して、しかも往生の前に毎週にリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して供養した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の家がお金はあまりないことを知っていて、しかし依然として彼女の供養を収めて、彼女を福報を累積させるため、その上、彼女の娘を毎週道場で彼女の代わり大礼拝させて、彼女の主人はこの前にリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依したことがあったが、しかし現実生活の要素のため法会に参加に来ることができないと言って、道場を離れた。リンチェンドルジェ・リンポチェは当然に彼を阻止しないで、あれは彼の自分の決定であるから。最近に至って、彼の妻がもうすぐ死ぬため、彼はまたンチェンドルジェ・リンポチェに求めに来た。死者はこの様々な因縁で福報を累積して、ようやく今日殊勝なポワ法を得られた。昨日リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子がもう死んだかと話及んだばかり、今日彼女は亡くなって、その上、亡くなった時間はちょうど良い。もし彼女はちょっと遅くなると、リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに今日の灌頂法会を始めて、修法し終わってから彼女を済度するように手伝うから、彼女はもう少しの苦しみを受けなければならない;もし彼女が早めに亡くなったら、午前 リンチェンドルジェ・リンポチェは灌頂法会の予備法を修めているから、同じく彼女に修法するように手伝うことができない。どうして、ちょうどこのような時間に死んだのか?なぜかというと、リンチェンドルジェ・リンポチェは自ら、きっと彼女にポワ法を修めるように手伝うと承諾したことがあるから、護法は彼女にいい時間を手配するように手伝った。

弟子とするそなた達はもし話を聞かないならば、ちょうど今度他界した弟子はいい例の一つである。あなたが死ぬと言うのではなくて、あなたの業力が解決することができないと言うのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは最も慈悲であり、この病気になった患者は毎日病者が食事することができないことと、苦痛な模様を見て、誰がこのような苦しみを過ごすことができるか?もしリンチェンドルジェ・リンポチェの加持がなければ、とっくに生きることができない。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子が病気のため苦しみを受けることに忍びなくて、この前にこの弟子に聞いて、そなたは主人及び一切の物事に対してすべて放したか?弟子が早く放すことが出来て、もう執着しないように望んで、福報が累積できてから、ポワ法で浄土まで済されて修行に行く因縁がある。

この事を通して、そなた達に見せたのは密法の殊勝な所である。若し仏法は人に助ける事は効果があるのを見せられないと、本当の仏法ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは修めたポワ法の瑞相は全てを遺族に確認された。口で唱えて、説けば仏法だと思う?ケーブル-テレビの法師は仏法を説く事を見ながら、自分は読経し、真言を唱えるのは修行だと思わない。ある者は自分が六字大明呪を唱えて、観音菩薩を修めるだと思って、準提呪を唱えて、準提法を修めるだと思って、薬師経を唱えると薬師仏を修めるだと思って、阿弥陀仏を唱えて浄土宗を修めるだと思う。実はそうではない。チェツァン法王は嘗て「読経、真言を唱える事は修行ではない。本当の修行は自分を収める。」と説かれた。またある者は自分が仏陀の転生であり、再び衆生を済度するためだから、突然現れて修行は必要がないと称した。法王となってもこの世に始めから修めて、また次第の閉関修行を通さなければならない。

若し潅頂を受けないと、いくら唱えても自分、衆生に対して役に立たない。灌頂は権限を与える事は現れた。上師の灌頂を通して、そなた達に未来にこの法を修めて、この法を伝授できる権限を与えるて、未来仏果を成す機会がある。多くの者は灌頂とはチベット人或いはチベット仏教は発明した物と思う。実は皆は気付いていないが、仏経の中に既に灌頂を記載した。古代で国王は子供を生んだ後、水を子供の頭に注ぎ、王子が王位を継いだ事を表した。仏法の灌頂とはそなた達は未来仏法を継ぐ事を表した。灌頂を通して、そなた達に凡夫の業報身から仏の清浄な報身に変えさせて、そうすると真言を唱える事は役に立つ。

リンポチェの果位に成れば、灌頂を与えられる。尚更にある特殊な法門は法王しか灌頂を与えられない。リンチェンドルジェリンポチェも三年前にチェツァン法王の許可を受けてから、始めて灌頂を与えた。

そなた達は今日灌頂法会を参列する動機をしっかりに考えなければならない。若し眷属のため、体の健康、家族の平安、事業発達、尚更に開悟し、苦海から解脱して浄土へ行くなど求めば、全て正しくない考えである。釈迦牟尼仏は四十九年に仏法を説いたが、最後自分は仏法を伝授しないと説かれた。釈迦牟尼仏の説かれた事の中に最も大事な事を理解した。一つしかいない。それは衆生を助けて、輪廻の苦海を解脱させる事である。浄土へ往生する事を祈るのは自分は輪廻の苦しみを避けて、恐がる事ではなく、自分は浄土へ往生してから、仏果を成すまで早めに修めて、再び一切有情を利益する事を望んだ。法会を参加するのは尚更に自分の参列を通して、ある法会を参加できない衆生に仏菩薩の助けを得させたから。

今日伝授した観音菩薩の灌頂は釈迦牟尼仏が自ら伝授された続部密法であり、八万四千法門の要点である。密法はチベット仏教しか持ってないが、密法の修行は四部を分けて、「事部」、「行部」、「瑜伽」、「無上瑜伽」であり、密続はまた「父続」、「母続」と「不二続」を分けた。密法の修行を通して、成仏の時間を短く縮められて、最高なのは此の世に成仏でき、次は往生する時に成仏でき、或いは中陰身で成仏できる。最悪なのは十七世まで必ず成仏できる。顕教の修行で仏果を証するまで必ず三大阿僧祇劫を経たないと成らない。三大阿僧祇劫とは地球の成形から破滅までに経ち、再び成形して、破滅までして、何回も繰り返している。この時間は物凄く長い。若し顕教経論の修行を通して、せめて十地菩薩を修める。十地菩薩を修めると、諸仏は密法を修めて、早めに成仏して衆生を利益する事を勧める。浄土で仏果を成すまでせめて十二小劫の時間をかかる。三大阿僧祇劫を比べると、かなり短いから、釈迦牟尼仏は特に阿弥陀仏を紹介された。

密法を習う事は上師を頼って習わなければならない。先リンチェンドルジェリンポチェのポワ法で助けた弟子は自分が最後まで口で仏を唱えられないのに、如何なる修めただろう。しかし、上師の大能力を頼って、浄土へ行ける。更に彼女は亡くなった前に大懺悔心及び上師に完全の信心を起したから、阿弥陀仏浄土へ行くと少なくとも中品中身となり、十二小劫を経たなくても成仏できる。

灌頂が始まる前、先に皆に必ず持つはずな正確の心を教えた。以下六種類の状況を避ける。第一、傲慢。第二、不信。第三、法に対して懇切に希求する心がない。第四、外散。第五、内収。第六、疲厭。六種類の心で法会を参加すると、今回の法会は役に立たない。「傲慢」とは威張って、如何なる説法を見るの心を持つ。「不信」とは仏菩薩、上師、法本の説かれた事を信じない。「法を求めず」とは自分は法会を参加するのは必ず法の伝授を受けなければならない心で、完全に惜しまない。古代の大徳は法を求めるために、様々な苦しみを受けた。リンチェンドルジェリンポチェは仏を学ぶために何回も数千キロの遠いインドへ赴いて、チェツァン法王に法を伝授する事を求めた。現在ケーブル-テレビの番組は仏法を説いて、皆テレビをつけると、すぐ聞けるから、仏法を大事にしない。「外散」とは六根散乱させて、目は彼方此方に見て精神を集中しない。「内収」とは表面から見ると、入定して動かないと見えるが、そなた達の中に多く者はこの様子で、実は心の中に入り込めない。「疲厭」とは疲労と倦厭だ。聞き取れなくて、法会を参加する事はとても辛いと思って、説かれた仏法は自分に関わらない。いくら説かれても同じだと思って、始めて足は痛いと感じながら、動いてずっと心の中に何時終わるとか、子供はトイレへ行くなど考えていた、このような正しくない心は改善しなければならない。そうしないと、法会はそなたに対して役に立たない。何も求めず、衆生を利益する清浄な心を持って、法会を参加する。

全ての仏菩薩は慈悲である。観世音菩薩は諸仏菩薩の慈悲の代表である。だから、皆を教えて、観世音菩薩から修め始めた。仏経には「観世音菩薩は古仏から転生して、特に地球の人間と深い縁がある」と記載した。釈迦牟尼仏は人間に居た地球で第五尊仏である。つまり、人類文明の前に昔地球はまだ人類文明が存在した。観音菩薩は三十二種類の相があり、人類は伝えた観音菩薩の様子もかなり異なりである。中土の唐代以前の観音菩薩はひげがあり、唐代以後の宋代で多くの女性は常に出かけなくて、家に観音菩薩を唱えた。故に観音菩薩は徐々に女性の姿と成る。

今日修めた観音法門は密宗で「四臂観音」と称する。四臂観音は中の両手で青い如意寶を擁いて、そなた達を助けて仏法事業に求める事は一切如意である。如意とはそなたの思いに行い、そなたに願いを叶わせる。しかし、此れは仏を学ぶ事について、そなたに生死を解脱させて、衆生を利益させられることである。「普門品」には、誠心に観世音菩薩を求めれば、一切災厄を免除できる。しかし一つの条件がある。つまり、必ず常に観世音菩薩を思っている。全ての思いは本尊を憶念して、多くの事は求めなくても、自然に加持を得て解決できる。しかし、そなた達は現在常に貪、瞋、痴を念じて、全ての思いは貪、瞋、痴を離れなくて自分の利益しか考えない。

上師を区別しないように本尊と対するべき、上師の心と本尊のと区別しないようにこの法を受け入れて、なお、一緒に法会を参加者を眷属と見ている。そなた達が通常言っている眷属、実は、全て寃親債主である。一緒に上師に従う仏法を学ぶ兄弟子こそ、そなた達と一番親しい法界眷属である。そなた達は伝承する上師を凡夫と思えば、一般な者の加持を貰い、菩薩と見れば菩薩の加持を貰い、仏とすれば仏の加持を得出来る。

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆のために、この殊勝な得難い法を始め行い、リンチェンドルジェ・リンポチェは下記のように開示された:法本の中にこの法は依理依法締定甚深教法である、依理とは、所謂釈迦牟尼仏が説く仏法の道理で、依法とは、密法の実修の方法で、締定とは専一入定の法で、甚深教法とは、殊勝な仏に成る方法である。

リンチェンドルジェ・リンポチェは修法して法会の皆さんに身、語、意の灌頂をする:それに、申された、身灌頂を貰うと顕空双運を修めることが出来、累世に累積して身につけた垢を清浄して、化身仏を証悟出来る因縁を得る。凡夫の身体は1つ業報身で、業報身で唱える真言は役に立たない、必ず本尊上師の加持でこの身を清浄して仏の清浄本性を得て修行するには力を始め得る。語灌頂とは、聞空双運を学んで、累世に全て貯まった語の垢を清浄して、報身仏を証悟出来る因縁を得る。観音菩薩は耳根圓通で仏果を得、そのゆえここで本尊の聴聞証悟の加持を貰った。意灌頂とは、明空双運を習い、累世蓄積した意の垢を清浄して、法身仏を証悟出来る因縁を得た。明空とは仏の清浄本性を証悟するである。まだ凡夫地にいる衆生は往生する時化身仏が迎いにくるのを貰い、菩薩果位を修め得た修行者は報身仏が迎いに来てくれ;仏果を証悟出来た修行者は法身仏の迎いを得る

リンチェンドルジェ・リンポチェは法会を参列者を引き連れ、祈願文を唱え、その中に、特に下記の事を仰った:全ての善根と財産、身、口、意を上師へ供養し、上師と本尊の加持のしたに、永遠上師に依持し、生々世々に弟子になり、上師が隨意に私を差し遣わして下さい事を祈っている。これは全て金剛弟子が灌頂を受け取った後願ったものである。未皈依の信者は後悔することが出来、もう来なければ結構で、皈依した弟子はまだどんな疑うか不信か、でたらめを言うならば今後も来なくても構わないである。

皆は今日、こんな殊勝得難い灌頂を受け取って、歓喜な心を起すべきである。灌頂法会は勝手に参加といって参加出来るのでは無い、今日、灌頂を受け取って既に法を得て、自分が家に帰って自らで読む出来ることとは思わない。これは只始めで、リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ法を伝承しない、これからまだ沢山の手続きがある。前リンチェンドルジェ・リンポチェは既に法を伝承した、自らは既に何万回唱えて非常に偉いとも思わないで。灌頂が受けなければ役に立たない、読む時考え方は正しくなかったら、口が破れたまでに読んでもまだ役にただない。仏法はとても簡単で、即ち’従順’である。

ある者は自慢で言った。神通者は観音菩薩が彼の体の後ろにあるのを見出来て、自分が良く学んだと思っている。実は諸仏菩薩の仏光がいつも我等を照らして、加持していて、我等はまだ六道に輪廻するこそ、仏菩薩はずっと黙って我等に世話をしてくれる。仏光は絶えずに全ての衆生を照らしているが、世間の者が気が付かないだけ。道場の中に沢山の子供は非難にあったとき全てリンチェンドルジェ・リンポチェが助けに来るのを見た。例え、転がるときリンチェンドルジェ・リンポチェが抱いてくれるのを見た。しかし、そなた達は所謂知識があり、学問がある大人かえって見えない、それは子供が戒を守るから。これ等は子供達、自らが言った。それらは子供の心が清浄なので、リンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲まで修め出来、慈悲力の化身が彼を救いに来るのを見られた。

法本の中にの一段、「生々世々に弟子になり、隨意に私を差し遣わしてくださる」。弟子としての我等は、生々世々に、上師がいつも我等に世話をしてくれ、我等が仏果になるまで。そなたは仏になる前に、一日にリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子であれば、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたを教える。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの一生に危険と災難にあった時も自分の生々世々の上師の祖師ジッテン・サムゴンが彼を救いに来るのを見た。

多いラマ僧は言った、リンチェンドルジェ・リンポチェの厳しい教え方はチベット古代の教え方で、とても良いである。以前、禅宗はどういうふうに弟子を教えたか?殴りと罵りをするんだ。仏経にも、釈迦牟尼仏が弟子に責めた、責めるは非常に厳しい教え方であり、殴りと罵りをした。法本の最後にも言及した、そなたが隨意に私を差しつかわして下さる、これは顕教には出来ない、そなた達が全部すごく傲慢するから。リンチェンドルジェ・リンポチェは今まで隨意に悪く弟子を差し遣わすことはしない、打ちの方式で弟子を教えるのもしない。現代人の伝統的な人倫道理は全て無くなった。現代人は全て教師を敬い,教育を重視することはしない、先生がちょっと子供を殴ったら、家長は訴える。

リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法と関する事をする前なら、全て、チェツァン法王に伺い、例え、リンチェンドルジェ・リンポチェがこうしたらチェツァン法王が必ず同意しても、リンチェンドルジェ・リンポチェは相変わらず、チェツァン法王に指示を仰いでからする。簡単に言えば、チェツァン法王は主、そなたは部下、従順さえすれば結構だ。そなたは自分の考え、意見があれば、自分でボスになれ。ある者はリンチェンドルジェ・リンポチェの会社に働き、会社の規定をしないと正しくない。まだ部下の間違いを誤魔化して、慈悲との言葉も濫用する。仏経の中に説いた慈悲を濫用すれば地獄へ行くことになれる。ある者は会社で、自分が社長で責任を負うことが出来ると思うのは傲慢との表れてある。

リンチェンドルジェ・リンポチェは灌頂法会おり、千名の参列者を一々上がらせて、本尊ドマで皆を灌頂した。皆があがって灌頂を受け取った動作により、皆は上師のことを大切にしないことを分かった。上師がどんなに疲れるか問わずに動作がのろのろした。毎人は零点何秒が早くすれば上師が少辛いを減られる。灌頂する時、ある者は子供を抱いて、どうしても子供の額を必ずドマにぶつけさせ、リンチェンドルジェ・リンポチェがすでにもう言いと申されたのに、是非ドマにぶつけなければならないと堅持した。現場には千人あまりがいて、リンチェンドルジェ・リンポチェはものすごく疲れるのに。前法会にリンチェンドルジェ・リンポチェは上師のことが気を付くと申されたのに、この子供を抱いた弟子は息子のため必ずぶつける。損をすることに恐れ、上師が本尊ドマを高く挙げる辛いを問わず、後ろに長い列を並びことも見なくて、こんなに利己的で、どう仏を学びか?現場、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の法本を取り戻すことを指示させ、以降も法本を受け取ることが出来なく成らせた。チェツァン法王はある年に火供を行った、沢山者がずっとチェツァン法王に近くしたが、リンチェンドルジェ・リンポチェはチェツァン法王がこんなに辛いを見ると自動的にそばに退き、皆と一緒に込み合わなかった。

法王も読経したり、仏像に礼拝したりする事が修行ではない事を仰った事があり、真に修行が自分の身、口、意と一切の悪習を直し、上師にとするのはそなた達の間違い所を是非して、そなたがよりもっと嫌いのが、上師がよりもっとしてそなた達に見させられて、そなた達の「我執」を破る為である。そなた達は受け入れないならば、離れる事が出来で、が、そなた達が離れないし、リンチェンドルジェ・リンポチェの教法も受け入れなくて、自分を改正しないで 、これはどのような心持でしょうか?全て上師を利用して、仏を利用する事である。そなた達は用事がある時、或は、病気がある時、リンチェンドルジェ・リンポチェに求めに来て、用事或は病気が好転してから、自分が法会にしたわけで、自分で礼拝してくるので、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示される仏法を聞いてくれない。又、用事があってから、再度リンチェンドルジェ・リンポチェに探す事を知っている。

今日、そなた達は全て見聞を広めて、自らの目でリンチェンドルジェ・リンポチェが殊勝な得難いポワ法を修めた事を見えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは一昨年往生した親しい友人がいて、生前に1,000から2,000迄の灌頂を受け入れた事があって、多くの法王と修行者に会った事もあって、然し、一人の如法の上師に依止して法本に基づいてして、修行する事がないので、累世の悪業が変わらないで、急に脳卒中、最後にはリンチェンドルジェ・リンポチェに寄りかかって彼をポワ法を修めた。チベット仏教は上師を極めて重視し、上師の助けがないならあ、そなたが自らに依りかかって修めて得る事が有り得ない。

ある弟子は自分の子供に肉を食べさせて、結果、昨日リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した時に、リンチェンドルジェ・リンポチェが此の子供を抱いたが、此の子供が承知しないで、これは此の子供が肉を食べた事があるので、上師に抱く福報がない。実には、リンチェンドルジェ・リンポチェは此の前にこの子供を抱いた事があって、リンチェンドルジェ・リンポチェに抱かせるのが最高な加持である。この弟子は長年に皈依したが直していないで、自分子供にある既に離れた仏を学ばない人を世話させた。昨日、この弟子から連れた親友はリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した時に、自分がお金持ちと思って上師の前に自尊自大で、その上、上師の前に家族と口論し、これによりこの弟子が上師を完全に大切しない事を知っている。人を連れで上師に謁見してくる前にもはっきりと言わないので、彼女の友達も恭敬心が無い。仏法を軽視し、上師を軽視する事も地獄を下りる。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたに三悪道を堕ちさせない事を助けるゆえに、必ずその場で厳しくそなた達の間違いを指摘して直す事をする。

この弟子の親友はお金があったら仏法を買える事が出来るともって、仏法の貴重が如何にお金で買える事が出来るだろうか?お金で評価すれば、世の中の全ての財産は仏法が買えない!リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生を助けるのは、お金で考える事ではないし、さっきポワ法を得た弟子がお金がないが、リンチェンドルジェ・リンポチェが同じように彼女を修法してくれた。昨日、リンチェンドルジェ・リンポチェは道場に5時間で信衆に接見し、助けの人の中で一人がレストランの班長で、彼の妹がフィリピンで誘拐されて、リンチェンドルジェ・リンポチェに頼んで妹を加持させて、リンチェンドルジェ・リンポチェが本尊に彼の妹を助けさせる事を願って、若し彼女の寿命がまだ終らないなら、彼女に翌日に救われさせる。結果、今日の夜明けに彼の妹も放されて帰った。この信衆は弟子ではなくで、供養も無かったけれども、リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生が苦しみがあって、恭しく助けを祈れれば、彼を助ける。嘗てはある有名な建設商はリンチェンドルジェ・リンポチェの門下を皈依したくて、300坪の建物をリンチェンドルジェ・リンポチェに提供して事務室をして、何もくれて、ただリンチェンドルジェ・リンポチェが彼が肉食する事だけを許し、然し、リンチェンドルジェ・リンポチェが却って受け入れなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは必ずお金の為に仏法をねじまがる事を絶対にしない。ほかの一人の弟子は、嘗てSARSの時期に、危篤になって、命がリンチェンドルジェ・リンポチェから助けて、現在、リンチェンドルジェ・リンポチェが下後期の景気が良くないと仰った事を聞いて、直ぐに家を売っていた。

さっき、長年に皈依する弟子は上師に感謝し、然し、話が唯半分だけを言って、その上、上師の弘法が三段階に分けた。弟子は上師の果位を修めて得なくて、如何に上師の弘法の方式を知るのか?言うべき重点が言わなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥仏法センターの道場を創立して、完全に仏法を以って衆生に利益するためで、自分の為に少しでもでない。寶吉祥仏法センターは「社団法人」になって、「社団法人」と「財団法人」の差別は:「財団法人基金会」は外に募金することが出来で、然し「社団法人」は唯社員が寄付する事が出来で、外に募金して受け入れなくて、外の大功徳主或はお金持ちが入って来て操作する事がない、これも外の人が基金会を利用してマネー・ロンダリングをする事を防止している。その他、リンチェンドルジェ・リンポチェの本人にも協会から一部の個人の給料をを受領したことがない。寶吉祥道場は、最初リンチェンドルジェ・リンポチェが探して、個人の関係で非常に優待的で、市況の価格より低く価格で道場を買って、然し、此の中に何も利益を獲得しなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず仏法の名義でお金を稼がないで、お金を稼ぐなら、より苦労して、自分で商売をしている。この道場もリンチェンドルジェ・リンポチェの名義の財産ではないで、協会の名義で登録で、社団法人が終わる時に政府に手渡すのである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは何時でも去る事が出来で、去ればそなた達はどのようにするか?リンチェンドルジェ・リンポチェは既に真剣に考えて、未来に1ヶ月に一回の法会を行うかもしれない。時間が多くではない、例え皆が50年に時間があっても、生きる機能を維持し、仕事をして、幾らの時間があって仏を学んで修行するか?リンチェンドルジェ・リンポチェも時間があって、時間が多きではないと知っている。リンチェンドルジェ・リンポチェが去れなくて、そなたにポワ法を修める事と思ってはいけない、リンチェンドルジェ・リンポチェは何時でも去りたいなら去るのである。そなた達は此の世に成就する事かどうか、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの10年余りに、こんなに苦労して積極的な法会を行って、これは自分が往生した後い、10数名余り、甚だしきに至っては20数名の弟子が自分の力により浄土に修めて得る事を望んでいる。

そなた達はこの貴重な体があって、貴重な仏法を聞く事が出来で、その上、一人の名利に拘らないで、万事にそなたに考えて出る上師に出会って、「上師とは邂逅し難し」で、真に良く大切にして、機会をよく把握している。リンチェンドルジェ・リンポチェは時に弟子に離させて、これは弟子に覚めさせて、機会があって自分の間違い所をよく見て、心の奥からよく懺悔していく。かつて、人を批判し、口業をして、潅頂を得て清浄した後で、悪業を再びする事が出来なくて、さもなくば、これらの加持も役に立たないのである。

2010 年 04 月 22 日 更新