尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ の法会開示

2010年3月18日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台 北寶吉祥仏法センターで、殊勝な施身法を主催された。

リンチェンドルジェ・リンポチェは先ず、今日修めるのがチベット仏教の密法の殊勝つな法門であり、施身法を称すと開示された。もし人 は一生にこの法を専修するならば、この世に生死を解脱することができるし、更に即身で成仏できる。直貢噶舉派の不共護法であるアキ度母は施身法を修めて成就を修め得られたのである。施身法は 1200年前に、チベットの一名の在家の女ヨーガ士のマジラ尊者により創られて、主に大般若経に基づいて創作されたのである。し かし創作と言っても、釈迦牟尼仏所の教える仏法の法義の範囲を離れることではなくて、自分の悟った仏陀の諭した法を濃縮して施身法を 創立した。釈迦牟尼仏は49年間の弘法後期に約1、20年間を掛かって、大般若経の内容を開示して、大般若経は大蔵経の3 分の1を占めた。唐三蔵(玄奘大師)は当時に、「般若」という言葉をそのまま訳さないのを選ぶのは、その含まれている意味が深くて広 くて、一言で言うことができないからである。般若の意味が空性、知恵、仏陀の諭した一切の知恵を含んで、仏法の意味を理解し、体得 し、悟ることができて、そして衆生を利益するのに用いることができる。

衆生を利益する仏法を修行するのは慈悲がなくてはな らなくて、知恵もなくてはならない。慈悲があり知恵がないと、法があっても使えないからである。知恵があり慈悲がないと、同 じく衆生を利益することができない。同時に慈悲及び衆生を利益する知恵まで修めることができる者は、この世の中でもっと稀有である。

施身法を修める行者は、必ず菩薩の果位ま で証得しなければならなくて、空性と慈悲も修め得なければならない。この法の行者は極めて大慈悲心を備えなければならなくて、必 ず観想によって、自分の体を食物に変えて、仏菩薩を供養して、そして一切の衆生に布施して食べさせて、さらに彼らを済度する。そなた 達は施身法に参加しにきて、2時間の法会が終わった後に、法喜充満と感じて家に帰るが、しかし修法する人にとって、法会の前に多くの 準備をしなければならなくて、絶えず自分の福報を累積しければならなくて、これで衆生を済度することができる。例えば、あ る人が外国に出国することを助けると同じように、必ず1人の金持ちを探して彼に航空券を買ってあげるように助けなければならなくて、 お金がなければ、彼を助けることができない。法を修める人は金を儲けにいかなくてはいけないが、儲けるは世の中の財ではなくて、法の 財である。事実上、施身法を修めて行者の体に対してとてもすごく影響して、同時に行者の多くのエネルギーを消耗してしまう。

多くの者は読経したり、仏像に礼拝したりすることが できたら、或いは出家相を現れたら、済度することができると思っているが、実はそうでもない。どのように供養するのか、済 度するのかに関しては、釈迦牟尼仏の伝わってくる『薬師経』及び『地蔵菩薩本願経』の中で、すべて詳しく記録されておる。経典の記録 される如法な修行はまず斎戒して沐浴して、斎戒は精進料理を食べるのではなくて、八関齋戒を指すのである。つまり閉関をしなければな らなくて、毎日24時間の中に高床に寝なくて、体に香ばしいものを塗っていなくて、音楽を聞くことができなくて、享受する ことができなくて、殺生できなくて、言葉を禁じないなどの八種類の戒律を守らなければならない。沐浴は体をきれいにするだ けでなくて、最も重要なのは仏法にてそなたの心を清浄することであり、欲望がなくて、何かを求める心もない。

その他、仏菩薩を恭しく供養することをや り遂げなければならなくて、亡者のすべての最も大事にする財産をもって、最も恭しい心にて亡者に代わって仏菩薩を供養したり、或 いはご飯を食べるお金がなくて、病院に行くお金がなくて、本当に困難がある、必要とする人を助けたりして、しかもこの事を亡者に教え て、亡者のために福報を累積する。今多くの者はこのようにしないで、亡者の耳でどのように彼の財産を親族に配分するかと言って、そ して銅貨で亡者が賛成するかどうかを占って、こうすると、かえって亡者が憤慨する心を起きさせて、もしそなた達は如法にやらなけれ ば、本当に亡者を助けることができないのである。

地蔵菩薩本願経によると、亡者を助けるためには、南 方で必ず壇城を設置しなければならない。斎戒して沐浴して清浄な心にて供養した後に、24時間読経してさらに連続14日間を続けなければならない;薬師経での言い方ならば、 12座の薬神の壇城を設けて、どのように祭るのかについてすべて詳しい説明がある。お経の上で説かれた物事をそなた達は完全にやり遂 げていなくて、現在の台湾の仏寺さえもお経の説かれた内容をやり遂げていない。お経の中も私達にどのように修行することを通して生死 を解脱することを教えるだけ、しかし私達にどのように他人を済度するように助けることを教えていない。

台湾では、ほとんどの宗教団体はすべて助読経団を設 立するが、ただ寶吉祥仏法センターは設立していない。亡者の身の回りで仏の法号を唱えたら彼を済度して助けることができる と思わないでください。亡者の感じはとても鋭敏であり、もし済度者は亡者の気にかかることを理解しなくて、本当に彼を助けることがで きなかったら、かえって亡者が恨みの心が起きて、地獄道に堕ち込むことをさせるようになる。

もしそなたは自分の家族が浄土に往生することを望む ならば、表面上から見ると、とても慈悲で彼のためであるが、しかし、もし亡者が生前の時に念仏しなくて、仏法を信じなくて、浄 土に往生することを発願しなくて、福報が不足であれば、そなたの望みはすべてただそなたの欲求を持つ考えである。亡者がどのような助 けを得られるのか、4つの方面を見なければならない。第一は済度法会で諸仏、菩薩、護法と空行の護持を得ることである;第 二は金剛上師が法を修めることがある;第三は亡者に代わって法会に参加する眷属の心の力である、第四は亡者の福報である。もし阿弥陀 経の仰ったとおり、浄土に往生することができる者は必ず10善法を修めてしかも福徳因縁を備える善男子と善女人が発願して浄土に往生 するのでなければならなくて、もしそなたの祖先あるいは眷属はこれらの条件がないならば、どのように行けるのか?仏 菩薩は絶対に彼らに最も良い手配をしてあげることを信じるべきである。天道になるかもしれない、三悪道に堕って苦を受けることをさせ ないかもしれない。

ある者は一回や二回に法会を参加した から、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼を助けて、全ての問題や物事を完全に処理し、祖先を全て済度したはずと思った。この考えは 間違った。リンチェンドルジェ・リンポチェは更にうとうとしている信衆を叱って、法会の中にうとうとすれば、来世に畜生道に堕ちると開示された。自分があまり に忙しくて疲れていると言わないで、リンチェンドルジェ・リンポチェはどなたよりも毎日忙しく て過ぎているが、しかし、ご多忙中時間を使ってみなさんを助けて与えて、みなに法会に参加させても、いかなる費用も支払う必要が無 い。もし、そなたはただ聞いてみに来るという考えを抱いて、恭敬の心がないで法会に参加して、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示したのが自分との関係が無いと思ったら、それでは、今すぐここを離れて家に帰ったほうがいい。

リンチェンドルジェ・リンポチェは自分 の家族を例に取って説明された。リンチェンドルジェ・リンポチェの曾祖父は養蚕業を営んで大金を儲けた。しかし、養蚕の殺 業はかなり重い。兄弟の中にリンチェンドルジェ・リンポチェ以外は皆が手術を受けた事があった。伯父や叔父も早めに亡くなった。リン チェンドルジェ・リンポチェは18歳の時に、父は亡くなった。リンチェンドルジェ・リンポチェの一番上の姉はあの頃から菜 食していた。そなた達の中に多くの者と同じで家に観世音菩薩像を供養して、偶には焼香して拝んでいた。最近糖尿病に罹っる事を発見し て、医師は肉を食べて、そうしないと栄養が無いと勧めた。結局暫く肉を食べていると、2010年2月から毎日四時間の人工 透析を受けていた。二番上の姉は幼い時小児麻痺に罹った。弟は35歳から高血圧に罹った。家族の中に男性は皆心臓病及び高 血圧に罹った。リンチェンドルジェ・リンポチェ以外、姉、弟及び妹も脳部の手術を受けた。リンチェンドルジェ・リンポチェ の世代になると、男性は二人しかいない。全ての家族の中に、リンチェンドルジェ・リンポチェは一人だけ仏を学んだ。リンチェンドル ジェ・リンポチェは仏法で彼等を助けて果報を少し減少できたが、彼等を助けて、果報を消滅できない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはある親友の例を 挙げられて、皆に正しい仏を学ぶ心の重要性を開示された。この親友はリンチェンドルジェ・リンポチェに密法を学ぶことを薦 めて、チェツァン法王を紹介した。親友の父は中風で9年に寝床で病気していた。昔リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ密 法を習わない時、助ける力があった。親友の父は多くの鳥を殺したのを見た。親友に聞くと、彼の父は昔中国に居た時、とても大金持ち だ。常に狩猟や猟鳥して楽しんでいた。中風に倒れ、両手は鳥の羽のように胸の前に縮みこんだ。そなた達は鶏の翼を食べ好き だったら、以後彼の父のようになる機会がある。親友の母は常に仏経を唱えた。往生前数ヶ月に転んで骨盆を骨折し、車椅子さ え座られなく、地面に這うしか出来ない。鳥が負傷した後地に這う様に、地面に這う事しか出来なくなってしまった。リンチェンドル ジェ・リンポチェは親友に施身法の法会に参加する事を勧めた。しかし、親友は自分はリンチェンドルジェ・リンポチェを紹介して、密 法を習うから、参加しなかったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは自ら毎回施身法の法会に親友の母の名前をリストに記入して助け た。親友の母はいつも普門品などを唱えたから、往生する時にリンチェンドルジェ・リンポチェにポワ法で済度された。

この親友はチベット仏教四大教派の法王を全て拝謁 した。台湾では名前を呼べる法師を全て供養した。往生前12年に400回以上の潅頂を受けたらしい。平日彼の日程は毎週二 回に法会に参加した。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て彼に仏法を修める事を勧めたが、彼は納得しなかった。彼は人天福報を修め て、以後再び人となり幸せに暮らす事を思った。来世幸せに暮らす思いを起したから、仏を習う功徳は全て福報に成った。彼 に此の世の業を変えなかった。この親友は二年前中国に中風に倒れて、自分の問題さえ解決できない。リンチェンドルジェ・リ ンポチェの助けがあるから、帰られた。2009年に亡くなった。それは因果を信じない。拝んだから、守りを貰えると思う。此れは仏を 習わない、仏を習う及び仏を習うのに、方向が間違うと差別である。

上師と仏菩薩は引き続き手を出して、我々を助けて いた。しかし、我々は自分も修める事を決めなければならない。上師と仏菩薩はしのぎ時に助けられて、貧乏の時に助けない。上 師と仏菩薩は我々を助けて、暫く悪果を抑えて、我々に時間を与えて、仏をしっかりに学ばせる。しかし、我々に業を変えさせなく、業 を変えるのは自分に頼らなければいけない。2009年の時に、リンチェンドルジェ・リンポチェはある信衆の家族に言って、仏を習うの は守りを求めるではない。施身法の法会だけ参加する事をしない。施身法はしのぎ時に暫く助けるだけである。しかし、この信 衆は納得しない。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼等一家はこれ以上施身法の法会に参加しないと言った。そなた達はリンチェンドル ジェ・リンポチェが慈悲ではないと思って、彼等は法会に参加したくて、参加させない。実はそれではない。リンチェンドルジェ・リ ンポチェは年取ったから、もっと時間、体力が必要で、最も本当に生死を解脱したい者を助ける。だから、リンチェンドルジェ・リンポ チェの時間を無駄しない、リンチェンドルジェ・リンポチェは益々厳しくなってくる。

始めて苦しい時に、上師と仏菩薩はそなたを助け て、暫く苦しみから離れた。多くの者は苦しくないから、大丈夫と思って、始めて懈怠して仏を習わない。若し全ては上師の守 りを頼るなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはチェツァン法王の守りを頼ればいい、苦労に修行する必要がないだろう。上 師及び仏菩薩の守りはそなた達の業力を暫く抑えて、真の守りは自分の修行を頼って、自分は自分を守る。例えば、病気する時に、医者に 診察された。始めて医者から処方された薬を飲んで、病状を暫く抑えて、自分は既に治ったと思う。実は完全に治らなくて、唯 抑えただけだ。今後自分は引き続きに努力しなければいけない。全てのリンポチェはそなた達の問題を解決できて、病気を治せる。しか し、宗祖ジッテン・サムゴンの開示された通りに、衆生は仏菩薩の助けを受けた後、懈怠して、精進に修行しない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは商売が失敗して、お 金がなくて、離婚して一番辛いその年は相変わらず、修行することをあきらめなかった。衆生を利益する心はずっと変わりは無い、過 去した悪業を懺悔する心は変わりは無い、諸仏菩薩に対しての恭敬心は変わったことが無い。

施身法という法門は先ず仏菩薩、アキ・ドロルマ、空 行に供養して、続いて自らの身体を衆生が好きな食べ物に観想して、彼らに食べさせて、すべての衆生に布施する。大供養、大 布施がなければ、それが出来るものではない。

どうして供養をするか?供養するのは衆生 に諸仏菩薩と縁を結ばせる。仏菩薩は衆生に欠ける事はしないので、供養であれば必ず返す。供養は外供、内供、秘密供と三種類に分けて ある。外供とは、常にそなた達が果物、金銭で外在的な物質を供養し、内供とは、身、口、意の清浄な供養であり、あるものはそれが出来 る。、秘密供なら、密法を秘密で供養するのである。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて数回ただで沢山の漢方薬をチェ ツァン法王の仏寺の全て僧尼に提供した。全て1回で数十万元であった。そなた達は全部いろいろ計算して、お金を自分の一番 可愛がるる子供にやり、残ったわずかのを上師にさしあげる。これは供養とはいえない、これは施与である。

布施において、施身法を行うとき、主催者 は人の腿骨が作った法器で吹いたら聞いた鬼道衆生はすべて来る。主催者が観想し間違い、或は惜しみであれば、た鬼道衆生が食べること が出来なくなる次第に済度されられぬ。これら鬼道衆生は助けを得ないためきわめて恨む心が起こって良くないところへ行って修法者を害 することが出来る。寶吉祥仏法センターはなぜ法会を行い続けるか、これは、これら衆生が済度されてもう邪魔しに来ないから。そ なたは観想で本当に役に立つか考えるが、心は本当に外在を変えることが出来、ある諺のように、終日、不機嫌そうな顔すれば、運が良く ない。施身法の観想はそなた達が言う神話、物語りではなく事実であり、沢山弟子は法会の中に自分の目でリンチェンドルジェ・リ ンポチェの観想情景を見た。

リンチェンドルジェ・リンポチェは 1997年から施身法会を行い、最初およそ100名参加者より、今まですでに十数年になり、毎度法会は1100名を超えた。アキ・ド ロルマ、法王及び仏菩薩様のご加持でなければ、こんなに長く行い、成績があり出来るわけはない。毎回の法会は全部順調で円満で、リ ンチェンドルジェ・リンポチェは主催すればするほどお体は若くになり、施身法を参加する者も段々多くになった。それは、リ ンチェンドルジェ・リンポチェの一切修行は仏経の言う事とまったく合致するため、この法で空虚無数な衆生を利益することが出来るとの 表れである。

法会を行う前、一般的に、道場を守るため修法して、主 催者も護輪、仏像を身につけ、自らを守り、壇場にも八珍などものを配置する。しかし、法本には載せてあり、ただ施身法の法会前、修法 して道場を守る必要は無い。修法者は守りみたいな護輪あるいは仏像を身につけることは無い、壇場はきれいで、少しでも飾りつけはない である。

この世に自殺する者は累世必ずものすごい殺業をし た、殺の考えがとても重い次第に自分を殺させることになった。もう1つ原因は、こんなに重い殺業で自殺との果報を得た。顕 教によって、自殺は人を殺す。密法によって、自殺は自らで壇城を壊れ、こんな者はポワ法で済度されることが出来ない、悪業 が極めて重い、「施身法」しか済度出来ない。済度さえを得ても浄土へ行くことが出来ない、た浄土に来ることができなかった,多 くとも人道に至ってもう一度修行し、例え、生きていた時すこし善行をしたことがあれば、天界に来られ、天界にいる層次は後代子孫は彼 が福報を蓄積することを助け出来るかどうかで決め、意外死亡のも含んでおり。

リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に父母、目 の上人は自分の右手で、同輩は左手で、六道衆生は我らの後ろに、寃親債主は我らの目の前、壇城と相対面にいるのを観想させ、1回で結 構だ。それに、皆が助ける者及び亡者の名前三回を読んでから、殊勝な施身法を行い始めた。

修法終了後、リンチェンドルジェ・リンポチェはつい に開示され、今日の法会は円満で、来た衆生が多くて、たいへん乱れている,つまり来た衆生はとても苦しくて、あるは地獄より、法 会が始める時申されたように、済度は1つ簡単な事ではない、例え、皆は上師の済度を得る因縁がなければ、亡者の眷属は恭敬、懇切、清 浄の心で亡者のため念仏すれば同じ助けを得出来る。しかし、亡者はどこかへ行くか、まったく彼の因縁福報と関係があり、我等は聞かな い、仏菩薩は因果を違反することが出来ないから。

人は死亡する前後すべて非常に恐ろしい。仏経に所謂 無畏施とは、亡者を済度して、彼に輪廻の恐れを免除させるのである。眷属が懇切、清浄の心で亡者のため念仏すれば、亡者を 済度する事が出来ないけれとも、亡者の恐怖の心を少し静かにさせ出来る。鬼道衆生の敏感度は人道のより100倍以上であり、誰 が彼らを助け出来るか、彼らは良くわかる。漢民族は5000年前からお鬼をお辞儀する。鬼に対して、恐れたり、助けたくしたりする。 リンチェンドルジェ・リンポチェはこんな数年間、こんなに多い衆生を助け、鬼は人より可愛いのを知った。人は恨みがあれば必ず復讐 し、恩があっても恩返さない。鬼なら、仇であれば必ず復讐し、恩があったらきっと返し、だから、そなたと恩と恨みがなけれ ば鬼はやって来ない。

因果を信じてはいけない、因果は宇宙自然の法則で、仏 から発明ではない。仏教だけでは因果を言って、他の宗教が因果を言わなくて、お神様だけを信じる事もう十分だと言う。そな た達の多くの人々は仏を学ぶ希望が自分の現在の事が替わりたくて、良い生活を暮して、そなた達が現在に受けるのは過去で自ら蒔いた因 で、仏を学んでそなた達に良くなさせて、しかし、現在ではなくて、未来で、数十年後、来世でかもしれなくて、そなた達に去 る前に作用を発揮していくかもしれない。そなた達は現在に良くなる事を望むならば、法会を行う善果がリンチェンドルジェ・リ ンポチェの身にだけで現れる。仏を学ぶとすべての良くない事を現れないと思うべきではない、仏菩薩でもそなたの果報を消滅させる事が できない。累世の悪業が幾らあったところが、例えこの世でも、そなたは腹の中で何匹の魚、海老を食べてしまうのを正確な計 算出来ませんか。本省人は好物の蛤のスープで、一口の蛤のスープに何個の蛤がいるか。この世に様々なした悪業を懺悔しては いけない。

運命はそなた自身が運営で、占い師、冤親 債主の手中にある事ではない。人々の未来は自分の手中にあって、善因を蒔いたら善果を得て、悪因を蒔いたら悪果を得る。現在には良く なくて、将来が必ず変わって、現在がとても良いでも、将来も必ず変わる。その為に、修行者は自分の未来を心配する事をしない。

仏経は我々に殺業をしない、参列者の皆、誰 かが法会を参加し終わった後、肉食を引き続きすれば、来ないでください。菜食をして栄養がない事を懼れれば、同じく来ないでくださ い。リンチェンドルジェ・リンポチェは34歳から今まで菜食をして、肉食をしたり、葱と大蒜を食べたりする側の人々は、臭いを嗅ぐ事 が出来で、鬼神に供えた肉を食べたのはより臭い、多く香水を吹きかけても役に立たない。リンチェンドルジェ・リンポチェは 既に60余りで、体が参列の全ての男性に比べてより健康で、臭いもない。人々の体には臭いがあって、お年寄りになると臭いがあって、こ れは肉食をするわけで、そなたに食べられた衆生がそなたの骨、細胞になって、そなたの体を累積して取り除けないので、臭いがある。男 性は肉食をしたり、タバコを吸ったり、酒を飲んだりするなら、あれは真に所謂臭い男性である。彼氏はそなたが肉食をしないで、そ なたと結婚しないと言うならば、それなら結婚をしない。すべて冤親債主ですので、家族になって始める。

体がいるならば、始めて仏を学んで修行する事が出来 で、しかし、この体を養うの為に多くの悪業を作る。皆が毎日にこのように苦労して努力して働いているのはこの肉体の為であ る。人々は何故恐怖心を覚えるか。これは自分の未来を制欲する事が出来なくて、だから、勉強して良くなっていて、多く金を稼いで、体 が良くなっていて、家族と友達がいるなどを望んでいる。そなた達は毎日に忙しくて働いてお金を稼いで、早朝急いで外出し て、働き終わってから疲れてしまって、家に帰って、食事をしたり、休んだり、寝たりして、翌日起きてから、また一日が慌ただしくな暮 らして、休み日に享楽を手配していく。自分を死ぬ時、死亡の過程、死んでからとこへ行くかを静かって考えた事があるか?た だ仏法だけで我々が未来の方法を制欲する方法に助けて、未来はこの良いだけではなくて、生々世々である。現在科学の発達に対して、科 学者は宇宙が如何に起す事も推測するしかない、ただ仏法だけで宇宙の起源、変化と一切の現象を解釈する事が出来る。現代の 医学がこんなに発達するけれども、心臓がなぜ脈打つことを停止したり、呼吸を停止してから死亡したりする事にも分からない。た だ仏法の中に回答が探して出る事が出来で、ただ仏だけでそなた如何に死ぬ事を知っていて、死んだ後どこへいくかを知っている。そなた もう60歳、70歳になって、豊富な人生の経験があって、自分の人生を分かる事と思ってはいけない。そなた達は何も分から ない!

ある者は自分が幽霊にあった事と思って、そなたを食 べた牛、羊がそなたの細胞になって、そなたの体に住んでいて、これは動物の幽霊にあう。ある者は夢の中で仏菩薩に会う事が 出来る思って、真に会うのはそなたが夢の中にあって、見す見す見る事もではない。夢の中に見るのは意識的な現れる事で、こ の方面の状況に関して、上師にに伺いを立てなければならない、上師だけでそなたに夢が真か偽かを曰く事が出来る。

人身は得難く、仏法は聴聞し難く、上師とは邂逅し難 しい。上師はとこでもいる事と思ってはいけない、テレビ、ネットワークの上で探すと一杯な探して得て、しかし、ここの上師 とは真に衆生に利益する事が出来る上師で、このような上師が真に雀の涙で、これは名聞利養を難しく免れるわけで、利養を免れる事が出 来で、名聞を免れ難い。施身法法会に参加する事が出来るのも累世の因縁があって、仏菩薩は良い因を作ってくれて、そなた自 身が受け入れて、して、この縁が続けて始める。

仏法は迷信ではなくて、アイドルの祟りもではなく て、仏菩薩は我々が信じる事だけではない。釈迦牟尼仏は先生のように、我々にある方法を教えて我々の未来の人生が変わっ て、良い方法に向いて、我々が聞いて、して行く。先生が学生を教える時には、学生が家に帰って宿題をして良い成績があって 始める。そなたが仏の教える方法をもってするのは宿題をして、冤親債主側もそなたの心を直すかどうかを見て、それは試験で ある。心経には「夢が顛倒する」と曰く。仏が教えて、そなたに利益がある事はそなたがする事をしない、そなたに利益がないのはそなた がどうしてもする。例えを挙げて、リンチェンドルジェ・リンポチェが前に皆にお酒を飲まないのを勧めて、一部の人々がしょ うがないと思って、お酒を飲むならば多くの友達に付き合う事が出来る。人々は真に友達がなくて、真に友達が仏菩薩で、仏菩 薩は分分秒秒に衆生に助ける。ただ法会だけに参加して上師から教える方法を以って改正しない人々は、来ないほうがいい。

リンチェンドルジェ・リンポチェはまもな く弟子を連れで閉関をして行って、行く前に、リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子と信衆に非常に関心して、再び皆に今年が良くない 一年で、皆が注意しなければならない事の注意を促した。皆が法会に参加したり、仏を学んだり、修行をしたりする故に、良く ない事に巻き込まれることがない、良くない事に巻き込まれても、そんなに厳重ではない事を望んでいる。

2010年3月20日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは13位の弟子を率いて台北から出発してインドへ向いて、これはリンチェンドルジェ・リンポチェの第11回目の閉関で、これも第2回目に弟子を率いて閉関をする。

2010年3月21日

朝、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは13位弟子を率いてホテルからデヘラドゥンの(Dehra Dun)ヂャンチュウブリン仏学院に車で向って、閉関を行った。途中に、あるレストランで昼飯をして、その時、リンチェンドルジェ・リンポチェは袈裟を身につけていなくて普段着を着たが、あるインドの婦人がリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見する事を主動的に求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲許しを得てから、彼女は両手が合掌して恭しくひざまずいて、リンチェンドルジェ・リンポチェが金剛杵を取り出して慈悲的に彼女に加持した。加持し終わった後で、インドの婦人は直ちに身を屈めて手を軽やかでリンチェンドルジェ・リンポチェの両足を触れて、それから感恩をして立ち去った。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て開示した事がある:インド人は手をそなたの足を触れば、此の行為は彼が完全にそなたを信服する。これにより、リンチェンドルジェ・リンポチェの大摂受力が不思議なことを知っている。午後6時過ぎ、ヂャンチュウブリンに到着して、乗る時間が10時間近くて、旅程も疲れたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは休んだ事がないし、直ぐに服装を整えて弟子を率いてチェツァン法王に謁見に行った。リンチェンドルジェ・リンポチェがチェツァン法王に謁見すると、直ぐにハダを挙げて大供養を以って根本上師に供養した。随行の弟子達はリンチェンドルジェ・リンポチェが根本上師チェツァン法王に対して無比な恭敬心と真に尊敬を深く感じている。

それから、リンチェンドルジェ・リンポチェはチェツァン法王に報告して、今回連れて閉関する13人の弟子がすべて菩薩戒を受けた事があって、10万回のマンダを捧げる事も修めて得た。それから、チェツァン法王は仏像を取って寶吉祥弟子達に一人一人で加持して、また皆に閉関が順調で円満する事を祝福し、弟子達もチェツァン法王とリンチェンドルジェ・リンポチェに跪いて感謝し、それから、チェツァン法王は離れた。

伝法が完了した後、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲的にチェツァン法王から頂いた長寿仏甘露丸が弟子の一人一人に上げて、皆に直ぐに服用させる。弟子達に対して、リンチェンドルジェ・リンポチェが厳しい上師だけではなくて、その上、最も慈愛な父親である。

リンチェンドルジェ・リンポチェが関房を出てから、すぐに根本上師チェツァン法王に謁見しに行った。その後、リンチェンドルジェ・リンポチェは再度弟子を率いてチェツァン法王の応接室にチェツァン法王に謁見して、チェツァン法王が自ら弟子達の一人一人にジッテン・サムゴン祖師の仏像とハダを賜った。チェツァン法王は「この仏像の中に、ジッテン・サムゴンの心臓の小さい団子があって、これはガーチェン・リンポチェがチベット祖寺から持って帰って、全て百数粒だけがある」と開示した。弟子達は感恩して涙を流して、此の希有な聖物を賜って得た事に感恩して、また、自分が何徳何能で此の殊勝な賜りを得たのに恥ずかしく、これは全てリンチェンドルジェ・リンポチェの大福報の故で、この因縁がある!上師の恩、上師の慈悲、上師の加護は弟子が生々世々に心に深く覚えている。

チェツァン法王に感謝して、チェツァン法王が立ち去った時には、チェツァン法王が慈父のような目つきでリンチェンドルジェ・リンポチェに見ていて、眼中にまったく可愛がる事である。チェツァン法王はまたおでこでリンチェンドルジェ・リンポチェのおでこを触れて、おでこの加持をくれた。これは根本弟子の如法な修行と済度への賞賛だけではなくて、これも全ての法脈伝承の加持を賜って、リンチェンドルジェ・リンポチェによりに多くの力を与えて衆生に助ける。それから、リンチェンドルジェ・リンポチェは13位の弟子を率いて車でデリーに戻った。

2010年3月21日

台湾寶吉祥仏法センターで、弟子と信衆は 恭しく尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが2002年12月22日に開示された《仏法が聞き難い》の仏法の録音を聞いた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは まず一部の弟子を厳しく責めた。というのは先に何人かの弟子が道場に入って頂礼する時に、大衆を導く出家衆が坐っていることを注意し ていないで、出家衆の前に頂礼して、お尻が出家衆の頭に向かって、儀軌を合わなかった。在家衆が出家衆を見る時に、彼らの 前に立つことができない。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェの果位まで修行したら別にする。道場を離れる時にも、出家衆がお先に 離れるように礼儀正しくさせるべきである。出家衆は別に特別なことがあるのではなくて、彼らが既に一切の世間のものを捨てて仏法を学 びにくるから、そなた達は彼らにある程度の尊重をしなければならない。そなた達が道場に入る時に、目はただ1つの所だけを見て、別 の所を全然注意しないで、自分が心地良いかどうかということを気にして、頂礼をし終わってすぐ 所を探して座って、このような考え方で仏を学ぶのはだめである。いかなる所、道場に行って、私達は先に出家を尊重して引き続いて、年 上者を尊重して、それから子供達を配慮するのは、人とするやり方である。人とする礼儀はすべてわからないで、人道ができないと仏を学 ぶ資格がない。台湾が現在のように乱している原因は、尊卑を区別しないで、年の大小を区別しないからである。学生が先生を殴って、子 供が父母を殺すなどは、本当にとても乱れている。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェは子 供に仏法を聞きにくることをさせて、父母をするのはただ自分の子供だけを面倒することができなくて、隣の子供も配慮しなければならな い。リンチェンドルジェ・リンポチェはある弟子が卵で出来た食品を道場に持ってきて、子供に食べさせたことを厳しく責めて、と いうのは道場が清浄な所であるから。これらはすべて利己的な行為であり、自分の事だけを考えて、他の人の事も構わない。ただ自分の子 供だけを見て、他の人の子供を配慮せずに、他の人の子供はそなたの子供を邪魔すると、そなたは心が嬉しくない。小さい時か ら、自分の子供が他の人に闘って、争うように訓練する。もし仏を学ぶ人は人間関係を人間らしく処理しないと、どんなに多く の仏法を聞いてもすべて役に立たない。私達が人道に生まれて、人とする条件、標準があって、一切の人間の礼節、礼儀はすべて分かるべ きで、尊卑はよく知っている。もしこのような考えがない人は人ではない。

今日人の体を得られてこの因縁福報があって仏を学ぶ ことができるのは、すべてそなた達の代々の因縁である。更に、今日仏法を聞く機会があって、本当によく把握しなさい。本当 に多くの欠点を全部すっかり直さなければならない。この一世にまだ来たのは、過去世によく学んでいなくて、よく修行していないからで ある。しかし、過去世に仏法を聞いたことがあって、少し修行していたことがあったので、この一世にこの因縁がまだある。も しこの一世の因縁を大切にしないと、来世いつ来るかと知っている人が誰もいない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの一 世と過去の一世との違いは400年余りであり、そなた達の思うこの1世が死んだらすぐ帰って来ることではなくて、そうとは 限らない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの一世も37歳になって始めて仏法に接触し始めて、もし因縁がなければ、この一世もむ だになる。たとえ過去世にリンチェンドルジェ・リンポチェはどんなによく修行しても、この一世にこれらの善知識に会って、導 いたり機会を与えたりしていただけなければ、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの1世も浪費した。

仏を学ぶのは人生の大きな事であり、何よりも重要で ある。謹んで覚えてください。私達のこの一生のいわゆる功名及び利と禄、家庭、子供、すべては因果と因縁法である。そ なたが仏を修めるかどうかと完全に衝突していない。仏を学びにきて、家庭、事業に対してよくない影響があると思わないでください。一 部の人が仏法を聞きにくるのは日曜日に行きたい所がないためだと思っているが、それは正しくない。仏法を聞くのは完全にとても清浄 で、期待で、仏法を聞くことを希求する心で聞くべきである。今日そなたは一人で仏法を聞きにきて、あなたの連れてきた生々 世々の眷属、冤親債主が数えられない。もしそなたは一心に聞かなくて、ずっと上師があなたへの忠告を受け入れないと、あな たの代々の冤親債主と眷属はいずれもとても失望している。今もし300人が現場にいるならば、その100倍、1000倍の衆生がここ にいるかもしれなくて、更にそれだけではないかもしれない。だから一心に、懺悔心をもって、法を希求して、強く願い求める 心にて仏法を聞いて、そなたの事がよくなるようにゆっくりと転ずる。というのはあなたの冤親債主が利益を得たからである。もし、ずっ と仏法を聞いて自分が利益を望むならば、そなたの子供が大人しくなって、成績が良くなることができることなどのようなこころの考え方 はあなたに対して本当にあまり利益がない。なぜかというと、あなたの冤親債主が利益を得ていないからである。もし今日仏法 を教える人と仏法を聞く人の心はすべて同様に一切有情衆生を利益できるのを望めば、この法会の力も空虚にいっぱいになる。すべての六 道有情衆生、そして十方法界の一切衆生はすべて仏法を聞くことができる。しかしみんなは共同にこの心がなくてはいけない。ど うして釈迦牟尼仏が仏法を教える時に、十方法界の諸仏菩薩(六道の衆生を含んで)を仏法を聞きに来るように感動して呼び寄せることが できるのか?というのは、仰った者と聞いた者はすべて一つの心であり、衆生を利益して生死を解脱するのである。

この前、リンチェンドルジェ・リンポチェ は子供にパンを食べさせる母親に説教している時に、彼女の目はすぐとても大きく開いて、このように彼女を言うべきでないと思ってい る。「三十七頌」の仰ったとおり、たとえ公の場所で、ある者はそなたが間違いだと言っても、あなたは彼を菩薩と見なさなけ ればならない。だから彼女はこのような心で仏法を聞いても役に立たない。というのは受け入れないためである。もし「三十七頌」を 日常生活の中に運用できれば、あなたの未来には、絶対に面倒なことがなくて、敵がないと保証される。顕教か密法を修めるのにも関わら ず、「仏子行三十七頌」が最も基礎で、重要で、根本的なものである。もし、「仏子行三十七頌」を人とする指標としないと、必ず悪業を 犯す。たとえあなたが皈依しても、道場に通っても、拝懺しても、法を聞いても、すべては役に立たないで、必ず悪事をやる。別 に他の人を傷つけるのは悪ではないが、そなたの考えは不善であり、他人を利益するのではないと、すべては悪である。。この 標準までやり遂げるのはとても難しくて、少なくともそなた達はただ、もう自分が正しいと思わないでくださいという標準をやり遂げてくだ さい。。自分が正しいと思うのでさえすれば、相手が間違っているのを表して、相手の間違ってあるのはどこのか?彼はそなた のいくつかの考えを満足することができないためである。

先週の金曜日に、そなた達が道場のベスト 服を着ていないで来る者は15人があって、この15人はこれからの金曜日の施身法で皆キャンセル待ちになる。そなたは「私 が知らない、私がはっきり知らない、私が聞き分からない」を言うことができなくて、そなたが一心に聞いていないためである。もし1つ の道場は、儀軌がなくて、規則がないと、人がだんだん多くなる時に、とても面倒になる。

いかなる善知識はすべてそなた達が生死を解脱するこ とができるように望んで、あれは単に仏の法号を唱えたり、禅七という座禅を組んだり、多くの法会に参加したりすることに よって、解脱することができるのではない。これはただそなたのいくつかの福報だけを累積して、本当に生死を解脱するのは放 すことができて、先に自分の体つきを放し捨てて、もしそなたはまだ自分の考えが正しくて、体つきが放すことができないと思 うなら、そなたのこの生死の関を絶対に破れることが出来ない。そなたが放す事が出来た後に、あなたはどんどん輪廻の痛苦が どこにあるのかと分かることができる。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの理論がそなた達に教えても、しかしそ なた達が内心世界の中で本当に体得できることを代表しないで、そなた達がまだ放す事が出来ないから、そなた達は代々の習慣のため、 「私」の観念はまだとても重くて、やはり非常に執着して、それを変えやすくなくて、だから 釈迦牟尼仏は49年間説法しなければならなくて、そ して、こんなに多くの大菩薩、あらゆる大徳がこの数千年に絶えず仏法を広げて発揚して、衆生が聞き受け取ることができるよ うに望む。だから、四加行はチベット仏教を学んで、及びその後の密乗の方面を修めることにとても重要であり、四加行を修め てなければ、後の法を絶対にそなたに教えないからである。リンチェンドルジェ・リンポチェの持っている密法の法門は、チ ベット人さえもこれらの密法が漢人に伝えないと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェはチェツァン法王と特殊な因縁を持っているか ら、たくさん特別な密法について、リンチェンドルジェ・リンポチェはすべて習っていて、修め得たのは自分が良くなるためで はなくて、学んだすべての法は全部衆生を利益するためであるが、しかし衆生を助けるならば、衆生が助けを受け入れたい。受 け入れたくないと、なかなか相手にならないで処理も難しい。

リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続いて開示さ れた。私達がこの欠点なしの人の体を得られて、本当にとても得難い。もし過去世に十善法を修めていないと、この一世に、人 の体を得ることがあり得なくて、たとえ得られても、この体はやはり問題がある。だから仏はいつも、人のこの体はとても得難くて、六道 の中で、もっと厳しく言えば、すべての有情衆生の中で地球の人類だけ仏を学んで、仏を修めることができつと諭されている。東、南、 西、北など4部州の中で、ただ南部州─地球の人類だけが仏法を耳にすることができる。その他の3つの州にすべて人類がいる が、しかしあちらで仏がいない。だから私達がこの体を得る時に、この体も私達が過去世及びこの一世のすべての業力の現れである。こ の体は1つの宝に等しくて、この宝はそなたに楽しみをさせるのではなくて、あなたに威風が現れることをさせるのではなくて、あ なたに1つのツールをあげて、この一世に仏を学びにくるためである。

だから 竜樹菩薩は地獄、餓鬼、畜生、辺地に生まれ た者や、及び長寿天の、邪見、仏陀が出世しなくて、耳が不自由で、口が不自由な者はすべて正法を学ぶことが出来ると諭された。後 にも言ったことがあるが、いわゆる十円満は五つの自己の円満及び他人の円満を含んで、竜樹菩薩は5つの自円満を言ったことがある。一 は、人とする。二、中土に生まれる、三、諸根は全部備えて足りる、四、極悪なことを行わない、五、自信を備えることと開示された。

人身を得る時に、辺地ではなくて、仏陀、四衆、弟 子が居住できる地区に生まれるのは「生地地域円満」を称することが出来る;例えば、身がアフリカ、南太平洋のあれらの小島にいたら、 仏法を聞くことができない。すべての根、すべての器官は欠陥がないのは「諸根功徳円満」と称して、諸根功徳円満は過去世に修行して得 たものである。この1世に、外観が立派かどうか、背が高いか低いか、皮膚が暗いか白いか、太っているか痩せているか、すべ てはそなたと過去世にした布施と供養との関係がある。もし、この一世にそなたの様子が美しく見えることを望むなら、そなたはこの一世 に本当に如法に仏を修行しなければならない。だから経典が説かれたように、顕部、密法の中ですべて言うことがあって、もし この人はすべて教えることに従って遂行して修行するなら、彼の外在・内在もいっしょに変わってきて、それは私達は「相由心生」だと言 われる。もしそなたの今の写真は数年前の写真と比較すれば、見ると同じにこんなに嫌で、あれはそなたはよく修行していない から。見ると他の人はやはりそなたがちょっと聡明になるだけと感じて、慈悲、祥和がすこしもなくて、そなたはやはり修めて いないからである。他の人はそなたに接近する勇気がなくて、あなたと少し付き合ってもう付き合いしなくて、それもあなたが まだ直さないことを表す。事実上、真な修行者は、彼の外在が変わるだけではなくて、彼の内心も変わることができて、彼の体の臭ささえ ない。だから、ある人はまだ肉を食べていて、リンチェンドルジェ・リンポチェの傍で座ると、リンチェンドルジェ・リンポ チェは嗅ぐことができる;業がとても重いのはリンチェンドルジェ・リンポチェも嗅ぐことが出来る。心が恭しくないと、嗅い で分かることができて、坐るとすぐに分かった。彼の心が清浄でないため、すべての外在の顔立ちに影響する。たとえ占いはそなたがとて も福報があると言っても、あれは過去世から持ってきたものであるが、しかしこの一世に変化に行かない。だから私達のこの一 生受用する体は、すべて過去の一生に修め得たのである。だから、来世にそなたは相厳相を得ることを望むため、今修行しなけ ればならない。今は修行していないと、未来の一生の様子はやはり冷酷で、みっともない様子である。諸仏菩薩の相は必ず円満の相であり、それ は諸仏菩薩は福徳円満だから。諸仏菩薩の相は必ず頬骨が高くない。頬骨は大きいとは他人を支配することが好き、自分は一番偉くて、ど んな事も自分は支配したい。自分の意見に従わないと叱る。此れは全て過去世の心から連れて来た。リンチェンドルジェ・リンポチェの責 める方法を真似しないで、それはリンチェンドルジェ・リンポチェは自分のために、相手はリンチェンドルジェ・リンポチェに 優しく対応させたいから、人を叱るわけではない。我々は諸根円満になると、過去世で少なくともいい事を行い、少なく仏法を接触し、少 なくとも供養と布施した事があった。

第二、悪業を行わない。つまり一生に極めて悪い事を 行なわない。最も大事なのは五無間罪を犯せない。即ち父母を殺す、出仏身血、殺阿羅漢、破和合僧など。更にそなたは善業を楽しく行っ た。善業を楽しく行う事とはお金を寄付すれば善業を行うわけではない。善業を楽しく行う事は自分は自ら行なう事を含めて、最 も大事なのは随喜功徳である。随喜功徳とは一般人の想像する事は「いくら寄付した方がいい?随喜!」そういう意味ではない。全ての上 師、修行者は修行する過程、衆生を利益する過程を見れば、必ず心の中に賛嘆し、口で賛嘆するのは随喜と言われる。今そなた 達の一番欠ける事は随喜である。何故そなた達は人を責めるだろう。何故他人の子供を世話できないだろう。それはそなた達は はっきりに分別するから。善業を楽しく行う事も過去世から連れて来た習慣である。リンチェンドルジェ・リンポチェは近年は 多くの衆生を助けていた。ある者は特に言われなくても自分は皈依したいと言った。ある者はどんな観察しても皈依したくない。此 れは善業を行う考えを持ってない。皈依とは悪を断ち、善を行い始めなので、ある者は先に小悪を行っても構わない事を思うと、善 業を行なわない。

此れは「殊勝心識の円満」と言われた。仏 の教法は一切善業を生れる調伏所である。若しとても強い信心を起して、心は仏法に向ければ、円満を深く信じる。此の世に無瑕で円満で ある。過去世に持戒があり、戒律は清浄で円満が出来るのは一切善行を布施して供養していたから。それは何故仏を 習う者は必ず持戒して布施しなければいけないだろう。若し此の世に生死を解脱できないと、少なくとも来世に無瑕の体-円満無瑕の人身 宝を得られる。しかし、一般的にはそなた達を含めて、人身を得た後、戒を守るのはかなり少ない。皈依しても、仏を学んでも 仏法はそなた達の所謂日常生活と衝突する時にそなた達は仏法を忘れて、早めに戒を破る。そなた達に対して、戒律は制約だと思い、戒を 先に破っても結果は以後の話だと思う。つまり、常にそなた達の懺悔は唯謝りと言った。本当に自分は間違った事を思わない。尚更に間違 うと、間違った所さえ分からない。また、「何故リンチェンドルジェ・リンポチェは私を責めただろう。何処を間違っただろう。」と 聞いた。このような言い方は自分が行った行為は戒律を破らないと思う。

実はリンチェンドルジェ・リンポチェの見方で、諸 仏菩薩の見方により、そなた達の身、口、意はちっとも破戒すると、すぐそなたを訂正して、待つことをしない。そなた達は此 処に来たのはリンチェンドルジェ・リンポチェと友達になる事ではなく、自分の欲望を満足に来た事ではなく、仏法を徹底に習う事であ る。つまり、若し上師は毎日に監督していないと、本当に破戒しやすいだ。ある事をこそこそに行なっても上師は知らなく、構 わないと思わない。仏菩薩は知って、護法は分かる。だから、そなたは破戒すれば、自然にこの道場から離れる。

戒を守っても、清浄を得る者はかなり少ない。戒 を守って清浄を得る事は何だろう。つまり、彼はこの戒律を守るのは戒を守ると、未来に何か得る事を望んでいない。彼は唯戒律を守る と、第一は未来は人天の教師となる事。第二は自分に円満の仏の道に行かせる事である。戒を守ると未来は如何なる福報を得る 事、自分は褒められる事を望まない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分は菜食するから、偉いと思う者を多く見た。彼方 此方に自分は菜食する事、胎児から菜食し始める事を広く宣伝した。彼は牛や羊など転生するかもしれない。牛と羊は肉を食べ ないので、胎児から菜食し始めるかもしれない。特に誇示する価値が無いだろう。

戒律を守るのは我々個人の行為だ。最も重 要な戒は我々の心の中の戒だ。自分は自分の身、口、意が出る時に衆生を損害するかどうか、自分の利益のために瞋恚を起すかどうか事を はっきりで明朗に分からないとならない。若しあれば破戒した。自分の利益とは何だろう。自分は軽視されて、そなたの話を聞 かないと、面子を与えないと思って、すぐ怒って叱るのは全て戒を守る事ではない。戒を守るのは極めて難しい。更に我々は利益に遭った 時、外在の誘惑に遭った時に持戒できる者は尚更に少ない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ密法を学ばな く、顕教を学んだ時にリンチェンドルジェ・リンポチェは皈依した後すぐ酒を一滴も飲まなかった。ある日ある者と取引した 時、この人はリンチェンドルジェ・リンポチェは酒を飲まない事を分かって、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏教徒である事も分かっ た。若しリンチェンドルジェ・リンポチェは一杯のビールを飲むと、すぐ契約する。飲まないと契約しないと言った。金額千万 台湾ドル以上の取引だ。若し諸員なら、必ず先に飲んで帰ってからアチ護法に懺悔し、護法にまたお金を寄付するからと言う。しかし、リ ンチェンドルジェ・リンポチェは飲まないと強い主張した。この人に「若し今日酒を無理に飲ませると、例え取引しても今後我々は必ず敵 になる。今日取引しなくても、今後我々は必ず友達だ」とおっしゃった。この人は「そなたは強く主張するから、以後取引する と必ず私を損なわないのを現す」と返事した。結局すぐ契約を結んだ。

だから、そなた達は営業として小さいの利益のため に、自分の良心、人格を裏切って、更に人を騙して、そなたの所謂標準に達成した。更に自分の愛情の感覚を表すために、マ スコミの取材を受けないで、それはそなたの福報を損なうという上師の話を受け取らない。これは正しく、皆そうすると思った。そうすれ ば、戒を守らない。例えあっても清浄ではない。若し今日そなたは既に皈依したら、広東人の言った通りに、そなたの髪は既に濡れたか ら、洗わないといけない。仏を学ぶのはこのようである。既に仏門に入って皈依して、上師の間に誓いがあったのに、そなたの 生活は引き続きに上師の教えた方法を違反した。そなたは順調出来るだろう。絶対に順調できない。だから、戒を守れるのはとても難しい から、清浄に守るのは尚更に難しい。

経典には例えそなたは博学多聞でも戒を守らないと、同 じで悪道に堕ちる。例え多くの仏法を聞いても救えを得られない。何故三十七頌は極めて重要だろう。そなた達は多くの仏法を 聞いても、一つの瞋恚を起し、特に上師の話に対して反抗すると、すぐ以前仏法を聞く功徳を全て消えた。「功徳林が燃える」と はかんしゃくを起し、人を叱ったり打ったりする事と思う。実は違う。そなた達は上師の教えた仏法を忘れて、自分を指摘せず、自分に一 人の仏弟子を言わない。仏弟子とは何だろう。我々は仏の教えた方法に従って、生活を過ごしている。最近ある者は病気に罹り始めた。病 気に罹るのはリンチェンドルジェ・リンポチェの教えた事を忘れたから。僅か修めた功徳も無くなった。本当に早い。

そなた達は世間の者を見て、仏を拝んだ者、お 金を寄付した者はとても多いだ。仏経に説かれた通りに。彼等は行った行為は少なくとも自分を助けて、ある業を変えるはずだ。何故変え ないだろう。それは彼等はいつも間違い考えを持っていた。私は拝んで、お金を寄付して、既に功徳、福報があったから、僅か な悪を行っても構わない。それは我々は生々世々に多くの悪を連れて来たから。最も大事なのはそなたは皈依して仏を習い始めると、累 世の冤親債主はあの時点からそなたを妨げる事を止まった。彼等はそなたと一緒に成仏できる機会があると感じるから、止まった。しか し、そなたはまた自分、衆生、上師、仏菩薩を騙し始める行為を見ると、すぐそなたを妨げる。何故そなたを妨げるだろう。そなたの行い は騙すことだったら、何故そなたにいい生活を過ごさせるだろう。

多くの者はこの事を分からない。自分は毎日読経し て、冤親債主を回向しているのに、何故彼は離れていないだろう。それはそなたはまだ教法に従い確実行わないから、教法に従 い確実行わない者は永遠に凡夫地になる。此処ではとても簡単な方式でそなた達を教えて、多く聞くのは福報、功徳があるわけではない。だ から顕教には経を読むより、経を聞く方がいい。経を聞くより、経を行ったほうがいいとある。つまり行動して、経典の内容でそなたの生 活を過ごしている。

何故リンチェンドルジェ・リンポチェは今 週の金曜日にベストを聞かない弟子に来週金曜日の施身法法会に参加させないだろう。彼等は聞いた後にすぐ忘れた。この事はとても簡単 で大した事がなく、仏法に関わらないと思った。しかし、この事は上師は言った事である。若し上師は言った事を聞き取れない と、仏法を聞く必要がない。例え仏法を聞いても、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたは出来ると思わない。だから、リ ンチェンドルジェ・リンポチェに最も厳しく方式でそなた達をしつけさせた。そなた達は自分の生活を過ごす事を慣れて、自分 の王様にとする事を慣れたから、突然ある者はそなたをしつけると、かなり慣れない。

仏菩薩の前にそなた達は子供と同じだ。皆は腕白で悪 戯している。皆は自分の考えを持って、心の中に「一体聞くかどうか、行うかどうか。」という考えを戦い。だから此処で言った。多 くを聞いても、戒律を護持しなくて、守らないと、仏法も助けられない。だから受戒した後、戒律を損害しないと、この政教の法脈は益々 繁栄して、全ての魔軍を降伏できる。だから我々は必ず戒律を護持しなければならない。

この戒律とは我々在家であり、最も簡単な五戒を含め て、上師と間の誓言を含めて、本尊と間の戒律を含めた。出家者は勿論比丘戒、比丘尼戒、菩薩戒、菩提心戒、三昧耶戒など戒 がある。我々は必ず護持しなければいけない。若し戒律を護持しないと、この法脈は更に道場でもゆっくりに衰える。道場の盛んなのは、上 師は如何なる偉いを見るではなく、最も重要なのは上師自身の戒律を護持して、弟子に同じで戒律を護持する事を厳しく要求する。そうす れば、この道場は盛んだ。

盛んなのは金銭が多い事や多くの者はお金を寄付し て、多くの者は助けて寺の建設を護持する事ではなく、誠に用心に仏を学ぶ者は多くなる事である。教派の繁栄とは益々多くの 者は完全に仏法を習って衆生を利益するかどうか。若しあれば、この教派の法脈は盛んでいる。全て内魔、外魔を降伏できる。

前しばらくある弟子は、リンチェンドルジェ・リ ンポチェに申し上げた。彼は法会後、翌日、車で彼のお兄さんと連れて十八王公へ遊びに行った。彼の兄は業がとても重いのに、リンチェ ンドルジェ・リンポチェの弟子としての彼は、お兄さんに仏に皈依することをお勧めなく、また彼に従ってあれらの鬼を参拝し に行った。彼らはお辞儀した後、彼の妻を除いて、全て入った者は気分が悪くなった。気分が悪くなる理由は、あれらの鬼は彼 が法会を参加したことを知った。彼は仏菩薩の助けをもらっているのに、まだ聞かず、あれらの鬼に面倒を引き起こしに行った。実は、あ れらの鬼は彼を見ると離れなければならないのである。

彼が皈依した時、リンチェンドルジェ・リ ンポチェはかつて仰った。便利のため、外道に頼るこをしてはいけない。彼は仏法の偉大さをお兄さんによく言わなくて、現在ところに、ま だ仏法を神様のように参拝していて、大勢人がそうなっている。十八王公とは、台湾人ならば全て鬼を参拝することを知っていて、外道の 人がお辞儀するところと分かっている。

それより、この戒が破れたかそなたが言ってご覧。破 れると気分が悪くなった、彼はあの日緊張で飛んで来て、リンチェンドルジェ・リンポチェに高血圧なんでもかんでも伺った。これは、彼 がお兄さんを止まらなかったのである。彼が運転した、彼は道が知らないのせいにすれば行かなくなったはず。彼の兄は業がそんなに重く て、やっと一回施身法を参加しに来たのに、翌日、また彼を連れて遊びに行った。これは彼がまだ仏を信じないとの表れであ る。彼が信じであれば、あの日こんな行為をしたはずは無い。必ずお兄さんにお勧めた。彼はお兄さんをお勧めもなく、止まりもない、ま た彼のお兄さんに線香を上げさせた。仏にお辞儀せずに犬に参拝した。

なぜ、そなた達はあちこち勉強してもまだ 外でぶらぶらするだろう。これは心が固めない、信心が足りないである。どうして、リンチェンドルジェ・リンポチェは今日法 座に座る資格があったか。この点だよ、それで、そなた達とかなり差があった。リンチェンドルジェ・リンポチェは皈依した日から、幼 い頃より大きくなるまですべて学んだ道教のを全てしまった。沢山者は皈依するときは必ずリンチェンドルジェ・リンポチェに伺う、自 らお辞儀した神像はどうした方がいいだろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは九才か ら父親に従って道教を勉強して、符を書き、病気を治すこと、刀槍不入が出来た。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法がこん なに良くて、殊勝と知るとすぐあの物を要らない。そなた達はあちこち考えて、両方とも要る。もちろん、そなたが両方とも信 じるならば両方とも来なくなった。そなたが皈依した後、全て人ではないもの、鬼道の者がそなたを見ると必ず離れて行く。しかし、そ なたは皈依の戒を破れたら、そなたの護法様はまた離れる。鬼も離れ、護法様も離れて、そなたは空中の中でです。 しかしあなたの心になって違反してあなたは帰依するのて用心して,あなたはのは護法して神はまた離れました。 鬼も離れた,護法する神はも離れた,あなたははかけて空中で引き上げて、あなたの寃親債主はすぐ来る。

リンチェンドルジェ・リンポチェはあれこれ、全 てこんなにはっきり話したのに、そなた達はまだ耳に入れなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェの哀れで、前世そなた達に欠けたので ある。リンチェンドルジェ・リンポチェの友達は良くリンチェンドルジェ・リンポチェに聞いた。リンチェンドルジェ・リ ンポチェには根器の良い弟子と出合ったか、リンチェンドルジェ・リンポチェは無いと答えた。これ等の弟子は面倒をかけに来なければ阿 弥陀仏である。何ゆえ、根器が良くないか、上根器の者しか勉強得ないでは無い。そなた達が犯した一番大間違いは不信である。上 師と仏様が教えてくれた方式を完全に生活の中に使うのを聞かない。これは不信である。こんなに沢山仏法を聞いたのに、そなた達はまだ ぼやぼやしている。

例え、我等は離脱の戒が良く出来なくでも、そ の他の戒律は我等が全ての力を尽くして護持するべきだ。我等は戒を破るならばすぐ如法で懺悔し、懺悔とはそなたはこれからもう二度と することが出来ない。それで、戒を破れた後、後悔して、自らを恨むの者はあれら、戒を守って傲慢するのより良いだ。ある精 進料理を食べる者のようにすごく傲慢する、これは持戒傲慢であり、これ等者はあれら、戒を破って懺悔が出来るのよりまずい、持 戒傲慢するものは絶対魔道に入るから。

今日、そなた達は間違いで上師に叱れても う二度としないと懺悔すれば、そなた達はかえってあれらの持戒傲慢者より良いで、それは、そなたが間違いの分かりあれば魔道に堕ちな い。だから、われらは持戒するものに常に随喜して自分も持戒するように感じる。我等はいつも懺悔及び随喜するべきだ。我等 は仏になるまで懺悔するべきだ。リンチェンドルジェ・リンポチェもまだ懺悔し、まだ仏になれなくて衆生を利益することが出来ないのを 懺悔し、だから間違いがあった。どうやって仏様に恩返すか、完全に仏が仰った方式で仏を学んで衆生を利益する、衆生を利益 するため仏になり、これこそ本当に恩返しこころである。

だから、懺悔はとても大切で、そなたは自分がまちが なく、懺悔するのはいい生活をするためであれば、この懺悔は間違い、全く役に立たない。そなた達が懺悔をするのは寃親債主 がもうそなた達に面倒かけないように望んでいて、寃親債主に迴向して、彼らが離れさせるように望んでいる。リンチェンドルジェ・リ ンポチェはかえってかれらが離れないように願い、済度するならば、何故自分の寃親債主を先済度しないか?沢山人が解釈し間違った、業 を消えるため、寃親債主を追い出す、彼らを離れさせる。懺悔の力は只彼があなたを邪魔することが止まらせ、寃親債主はまだ いる、そなたがまだ仏になれないので、彼らはあなたと一緒に仏になる。そなたが本当に仏を学ぶことが発心すれば、これらの 寃親債主はかえってそなたの護法になる。もう金剛乗を勉強するならば、金剛乗は仏の心とのことをりかいしなければならない、衆 生のため苦労を苦っても構わない。それより、我等は病気になるあるいは情況を発せするのは正常で、それは、われらはまだ仏にならな い、これらの情況は寃親債主がそなたにくれたチャンスで、そなたが早く修め、そうでないと間に合わない。仏を勉強するとな にも発生しないと思わない、そなた達はまだ仏に成らないので、不可能である。釈迦牟尼仏はこの世に仏になってもまた九つ災難があっ た。彼は頭痛い、石を投げされて、馬の食糧を食べるなど、これは彼の果報の表れであり、そなた達が無事と望んでいるのは可能か。

それで、仏を勉強するのは我等が生死より 離脱することが出来させ、本当の道理を了解してから仏を学びはじめである。あるときそなた達は病気になった,リンチェンドルジェ・リ ンポチェは病気を良くならせたのは、そなた達がいい生活を過ごす、もっとお金を儲ける或いは子供のお世話を見るのではなくそなた達の 命を延ばすのであり、そなたが有限の生命でこの一生に生死より離脱することが覚悟させる。その故で、上師が毎日自分が長く 生きることを祈るのは生きて欲しいのではなく、悟って仏になり、衆生を利益し出来るように祈っているのである。人の寿命は 短くて無常なので、仏菩薩の助けが必要で、この一生に出来させて、もう来ない、また来られば必ず仏菩薩の身で降りる。

その故、そなた達が随喜懺悔するべき、持戒者に対し て随喜し、そうしたら、そなたは彼が守っている戒と同じ功徳大会にいる。何故、在家衆は出家衆に礼讓する、それは、彼らは 清浄戒を守っているがそなた達は出来ない、これこそ随喜である。随喜は他人に礼譲する、他人に恭敬心を持つことを含んでおり、だか ら、我等はよく懺悔及び随喜をするべきだ。

我等はこの一生にとても大福報を修めて、我 等が天道に生まれさせても、まだ生死より離脱することが出来ない。それで、華厳経が言った、人身を得る事はすごく珍しいで、清浄円満 あまり、更に珍しい。それより、我等は人身を得るのは讀書、卒業、結婚、子供を生み、事業を競争するのではない、それはただ人生の過 程であり、自分を生かせるためしなければならない動作であり、我等が必ず追求するものではない。眷属が多くて、事業が多い こともいい事ではない、修行は別々の因縁により、出家相を現れる事は本当な修行とは限られない。

ここに言う中土とは、インドの菩提加耶―釈 迦牟尼仏が仏になるところである。我々は五根が具えなければ、受戒の器になる事が出来ない、また聞思修の善縁もない。だから、戒の中 に沢山のは全て我等が仏を勉強させる。ある者は出生所がよくない、例えば、生まれると狩りをして、魚を取って、或いは養殖業である。 多くの中南部から来る信衆は、彼らを見ると、殺業が非常に重くて、彼らがしょうがないとよく話して、しかし、このように言 われれば、懺悔心がない事を表して、因果と因縁を受け入れない。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らをよくに説いて、この ように生まれれば、このようになる事ではなくて、そなたの過去世は多くの悪業をしたかもしれないので、そなたにこの世に悪 行を続けてさせて、しかし、そなたが変わる事が出来る。これは因縁が備えないならば、或いは善縁を不足ならば、悪地に生まれるわけで ある。青楼の子孫で生まれて、子供から外道を学んで、身口意の三門が仏法と違反するので、これらの人々が仏法を聴聞し難くて、五無間罪をやり遂げやすいであ る。外道が如何に殊勝して素晴らしいと話して、そなたに輪廻と悪道が離れる事に助けない。だから、我々は仏陀の教えに対し て完全に信じてはいけなくて、これは「五つ自円満」と称する。

また、龍樹菩薩は五つ他円満、仏出世及び四教法、教 え方が大衆に安く付いて、他人のため心が慈愛と説いた。これは、われらは仏がいる時に生まれて、仏を見ることが出来なくても、仏法が 残って、まだ沢山大徳が絶えずに仏法を発揚し、仏及びこれ等の大徳は一番慈愛の心でそなたを教える。我等は良く末法時代と 聞いた。それは、釈迦牟尼仏の教えは今現在より1萬2千年、1萬2千年後、また五十数億年以降、彌勒菩薩が出世始めである。も しこの50数億年間そなたがずっと来られても仏法を聞かれなく、ただ絶えずに輪廻しか出来ない。それに、そなたもこの一万二千年の中 に仏法が聞けることを保証することができない。

現在、そなたは闇世代にではなく、釈迦牟 尼仏の仏教法の時間に生まれた、これは明刧と呼ばれている。仏様が誕生しても、仏法を開示されないと利他することが出来ない、だか ら、我等は法輪がいつも回すことを祈っている。その故で、沢山の祈請文の中に七供養があり、その中に、1つは法輪が回すこ とを良く祈請する。開示され法を教えているが、教える方は世にあるのが得難しい、現在、教え方がまだ世にあり、それで世間 に安置して円満だと言われている。教え方が保存してきたが護持、解釈する者がなければ仏法を学ぶこともとても難しい。だから、仏 法を護持、解釈する者でいれば随順法教円満である。我等が仏を勉強始めから一切罣礙が捨てて下ろして、心が静かにして聞思修が出来さ せるのはさらに珍しい、更上意楽円満と呼ばれている。

所謂下ろすとは、在家衆に対してこの点がやり難い で、出家衆は全ての家庭、事業、心配を綺麗に切れたが、在家衆は死ぬまで、まだこれ等の心配がある。しかし、我等は人生が あるので、家庭事業を放棄しても悩みがないとは限られない、出家衆さえ、出家衆の悩みがあり、例え、仏法を発展する道場はない、聞 く信者がいるか否か、彼らが正法を勉強して、自らで生死を離脱事が出来させるか。

金剛乗にとって悩みは毒薬ではない、それにより、わ れらは仏法を聞き、正法を学ぶことを決心することが出来させる。それで、一切眷属、事業とも我らの道場である。我等は家庭、事 業の中に絶えずに仏法を使って生活を暮らし、自分を陶冶し、他人を影響してそなたに連れて仏を学ぶのも大道場である。だから、我等が 仏を勉強する道場我等が毎日過ごす生活である。ある日、我等は本当に帰りになるとき、自らは既に沢山仕事が出来て帰るべきと思う。我 はまだ残って欲しい、私はまだいくつか心配することがあるのではない。

若し家族の誰かがそなたに仏を学ぶ事を反対するなら ば、彼を騙されないてはいけなくて、また彼に大人しい話して、若し彼がそなたに来る事を許せないならば、暫く来ることをし ない。家族がそなたに来る事を許せないのは、そなたがよく直す事をしないわけである。これらのそなたに障害して仏を学ばない眷族は、そ なたが累世に他人を障害させて、彼がこの世にそなたに障害して来る。若しそなたは仏法によりよく改正されば、彼は必ずそな だが来る事を望んでいる。ある者は仏を学ぶ事が両親に知らせる勇気がないと言って、何故他の宗教が公的言う事が出来で、仏 を学ぶのがこそこそするか。これは仏を学ぶ事が俗っぽいか?外国人らしくないか?仏を学ぶのは俗っぽくない!そなた達の上師が俗っぽ くない!これはそなた達の心が正しくないので、こそこそしている心を以って仏を学んでいる。仏を学ぶのは公明正大な事で、わ れわれによい方向に向く事に助ける。現在、外に多く正しくない観念があって、子供に出家して勉強しない事を勧めて、しかし、寶 吉祥はこのようなではなくて、そなたが出家する事ができるかどうか、そなた自身の行為であり。そなた達はこそこそして仏を学ぶのは、唯 一の原因がそなた達が多くの問題を改正しなくて、まだ問題児童である。そなた達は仏を学ぶ心を改正しなければならない、他 人にそなたが仏を学ぶ事を笑う事を恐れてはいけない。リンチェンドルジェ・リンポちぇは仏を学んでから菜食して、友達が「そなたが必 ず多く悪事をしたことがあります」と言われて、リンチェンドルジェ・リンポチェがすぐに「そうです!私は多くの悪事をしたので菜食を します」と仰った。その後に、リンチェンドルジェ・リンポチェに評論する人が一人もない。しかし、そなた達が言う勇気がな い、仏を学ぶのは自分の悪さと錯誤を知っていて、直面の勇気があって、自然に他人がそなたが仏を学ぶ事を受け入れれる。

徹底的に何故仏を学ぶ事を他人に理解して、他 人にそなたが仏を学ぶのがとても高尚だと感じてはいけない、却って、他人に仏を学ぶ理由が自分が多くの錯誤行為があると感じさせて、仏 を学ぶならば、自分の錯誤の行為を修正する事が出来で、未来と家庭に対して良くなっている。姑はそなたに来させないならば、そ なたが姑に仏が私によい奥さんになる事を教えるので、学んでいくのを話す事が出来で、上師が私に罵って、姑に対して親孝行をしなけれ ばならなくて、私は現在親孝行をよくしないので親孝行を学ばなければ成らない。

《普賢上師言教経》には、若し我々は善縁 がなくて善知識の摂受を得る可能性がないなら、我々が法性をよく知っている事ができない、たとえ皈依しても役に立たない、だから、我 々が必ずある善知識の摂受に従わなければならない。この五つは我々が他力があって具え初めるので、「五他円満」と称する。

それ以外に、ある天体が「成、住、壞、空」の過程を 経て、一劫と称し、仏が出世する時に「明劫」と称して、仏が出世しない時に「暗劫」と称する。仏経では、昔々の劫が「現喜 劫」と称して、その明劫から現在まで、既に4つ明劫と1400個の暗劫があるので、こんなに長い間には、唯4つ劫に仏が在世して、仏 法を説いて衆生に利益した事があって、然し、此の中に仏法を聴聞する衆生もとても有限である。一劫の時間がかなり長くて、現在の地球 が「住」の末、「壊」の開始にいて、全ての天体が此の過程を経た事がある。地球の歴史は現在まで50億年余りので、一劫がかなり長 い、ある劫が仏がいないならば、衆生が如何に苦しみか!だから、そなた達の此の世は仏法が在世する事を会って、ある上師が 仏法を説いて、希有で珍しい機会である。

台湾の2100万の人口の中で、仏を学ぶ者が多い が、ある道場に毎日に罵るある上師を会えば、ないである!外には罵る勇気がなくて、弟子が離れる事を恐れて、リンチェンド ルジェ・リンポチェは多くの弟子を恐れる。リンチェンドルジェ・リンポチェは広告をしなくて、法訓を発行しなくて、テレビの訪問を受 けなくて、人に知っている事を恐れて、然し、そなた達が因縁があって道場に来て、また上師が追い払わないのは、リンチェン ドルジェ・リンポチェが過去世に生々世々にそなた達に欠ける事と表示していて、今後欠かないで、これはこの世にリンチェンドルジェ・リ ンポチェが既にはっきりと説いた。そなたは機会があって、リンチェンドルジェ・リンポチェが仏法を説くのを聴いて、予め聞いて、その 後時間があったらして、それならば間に合わないかもしれない!この世にそなた達に返済済んで、未来世にそなた達が必ずリン チェンドルジェ・リンポチェを探さない!チェツァン法王が帰れば、リンチェンドルジェ・リンポチェが帰って始める。仏法を 聴聞する事が宝くじの当りの確率に比べてより希有で、非常に容易ではない!

リンチェンドルジェ・リンポチェは自身を例を挙げ て、若し37歳の時に仏を学ばないならば、この一生が終ってしまうかもしれない;若し台湾に来ないならば、仏を学ばないか もしれない;若し20歳に真珠や宝石を売り払って金を儲けるならば、台湾に来ないかもしれない。ドラブ・ワン・リンポチェ とチョンツァン法王もリンチェンドルジェ・リンポチェの過去世と直貢噶舉の縁がとても深い事を確認した事があって、その力によりリン チェンドルジェ・リンポチェの後期を率いて、然し、普通の人々がこんなに深刻な因縁がない。だから、今回、因縁があって、 直貢噶舉教派の寶吉祥道場に来て、リンチェンドルジェ・リンポチェという厳格な上師に会って、皆がこの因縁をよく把握して、簡単に放 棄してはいけなくて、この一生を浪費してはいけない。

現在、我々がいるこの劫に千仏が在世して、「賢劫」 と称して、後で60個の暗劫があってから、一つの明劫があって始める。現在、釈迦牟尼仏から弥勒菩薩まで教え終る後に、60 個の劫の後で仏がいって始めて、それも長くて長くて、それが真に恐ろしいである。その明劫が「功徳荘厳劫」と称して、この劫の後で 10,000個劫を経てから一つ明劫があって初めて、「美音劫」と称する。明劫と暗劫が交替で替わって、14060個の暗 劫の間に、仏が世間に現れる時間が7個の明劫を超えなくて、確率が極めて小さいである。だkら、リンチェンドルジェ・リン ポチェが常に皆に直ぐに悪を断絶し善を行う事を勧めて、然し、そなた達が聞かなくて、少し福報をすれば、無事に過ごす事が出来ると 思って、これは無理で、必ず直ぐに悪を断絶し善をおこわなければならない!リンチェンドルジェ・リンポチェが顕教を学ぶには分からな くて、密法を学んだら、一切の悪を断絶して、よく修める事を知っていて、さもなく一切に間に合わない!

釈迦牟尼仏が成道したばかりで、衆生が教化し難い為 に、仏法を説く事をしたくない。仏は元々行きたくなくて、説かなくて、気丈が激しくて、改正し難い地球の人類を済度したく なくて、却って他の最も苦しみの世界に行って、衆生が苦しみの時に却って済度し易い。蓮師は現在に羅刹国で国王をして、羅 刹が特に人を食う鬼で、ある者が突然に可笑しい病気に罹れば、一部のが羅刹鬼が彼を食って、蓮師はこれらの衆生を引き続き 悪事させない為に、人道に助ける為に、そこへ行って国王をして、それらの羅刹鬼を管理している。

帝釈天と大梵天は釈迦牟尼仏に祈請して、法輪を転じ て始めて、だから、仏法を聞きたいならば、祈請をしなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェからの仏法の助けに求めれば、必 ず自分が言わなければならない。ある者はリンチェンドルジェ・リンポチェにお問い合せて、上師に頼んで、私が何か問題があるか?リン チェンドルジェ・リンポチェは必ず取り合わない。人であれば、必ず問題がある。仏法が必ずそなた自身が言わなければならない、第一、そ なたが言わないならば、縁がない;第二、全ての上師、仏菩薩も含めて三昧耶戒を違反する事ができないで、そなたが言うならば、上師と 仏菩薩が必ず助ける。仏法に祈請する遺教はずっと今まで伝われて、甚だしきに至っては未来までである。

諸仏から教える方法の中で、密乗の教法が極めて希有 である。顕教がとても容易くて、文字を通してそなたが少しの意味を推測する事が出来で、然し、密法が上師の解説と教導がな いなら、学んで得る可能性がない、密法が保存するのが極めて希有で、だから、顕、密が同時に世にいるのが一層に希有である。仏 が過去に教える仏法は既に失ってしまって、未来仏が来る前に教法がない;教法が世間にかもしれなくて、学んで得る人々が少ない;外道 教派が非常に多くて、正法が背離する。釈迦牟尼仏が出世しない前のように、全世界が全て外道で、中国のように5000年前 で鬼に祭っていて、今迄に中国人がまた鬼に祀っている。

正法を聞聴して学ぶ事が出来ても、大部分 が現世の安楽果報だけを求めて、そなた達のようで、生死解脱の果報を求めるのではなくて、これは正法を違反して、外道の思想である。 リンチェンドルジェ・リンポチェが常にそなたに注意を促して忠告し、そなた達が絶対に間違いなく出世法を修めれば、世間法 が障碍がない;何時も現世報と現世の良さを求めて、そなたの出世法を上手く修める事が出来なくて、世間法も出来ない。簡単に言って、 何故仏を学ぶか?生死に解脱する。肯定して生死に解脱して、衆生に利益して、冤親債主もそなたに助けて、自然に世間法も順調して行 く。若し出世法を学んで、しかし、世間法の心を以って学んで、冤親債主が利益を得ないために、そなたに出世法を上手く修め る事に助けなくて、そなたの世間法が自然に多くの障碍がある。

今日、法を耳にする事が出来で、しかし、心 持が間違いのも多くて、多くの人々は仏が説く仏法の意義を捨てて、真に法理を了解する事が出来なくて、傾く教導と論理な論 争に陥って、この状況を堕ちる人が多いである。それらの名相を重視して、理論を説いて、実修をしない人は、生活に真に仏法 を運用しないで、自分が一切に執着する事を変わらない人である。一部の教授は番組に仏法がよく説いて、しかし境界に現れて から直ぐに駄目で、彼がただ理論で仏法を推測して、文字で文字を解釈して、生活に仏法を以って修行して、それから、仏が説 く仏法の意義を体得して、修行により如実にそなた達に教える事ではない。しかし、多くの人々は名相を聞く事が好きで、仏法が学問と 思っている。

仏法学問ではなくて、我々の未来を変わって、我 々に生活を教導する法門である。そなたは名詞を知っている事が出来で、しかし、名相の中に回転して出で来なくないでください。多 くの人々は奥深い仏法名詞を言う事が好きで、一冊の仏学辞典に、名相があって、全て了解するまでに、どの位時間がかかるか?難しい! 数千年から、その中に一部が仏が説く事ではなくて、その後の大徳から言って、各宗派が同じくない名詞もあって、その上に勉 強して時間を浪費している。真に仏法を了解して、生活に使って、自分の執着心、分別心と妄念が段々に減らして、これが実修である。執 着心、分別心と妄念がおなじように強い人は、例え大蔵経の全て暗記する事が出来ても、仏法を学んで得る事を代表しない。

以前には広欽老和尚と六祖慧能が文字が読めないで、直貢噶舉の祖師ディロバ、ナロバ、ミラレバが文字も読めない。多くの台湾信衆は法師 が法師が博士と望んでいて、博士或は仏学院を読み終わって、仏法を知っていて始めて、これは錯誤である。文字、言語がしょうがない工 具で、真に仏法は心から散らしてくる。仏法を論理の論争のになるのは、仏法ではなくて、生活に使えるのが仏法である。仏法 が世間法を離れない、釈迦牟尼仏は人間で、彼が説く仏法と一切の法門が必ず人間が出来で、或は説かない。釈迦牟尼仏は天道に説く仏経 があって、しかし、人間が見えない、これは人間が出来ない。リンチェンドルジェ・リンポチェが説く三十七頌が必ず生活に使えて、使っ てから必ず段々によくなっていく。三十七頌が難しくない、そなたが出来ないのはしたくない、そなた達がわからない仏法を学ぶ事と思っ て、実は仏法が知っていてから、とても簡単で、しかし、そなたの心が複雑過ぎるので、問題が絶えずに現れる。だから、仏を 学ぶのは最も重要な上師で、くれぐれも間違いの道を行って、仏の意義を忘れてはいけない。

2010 年 04 月 22 日 更新