尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ の法会開示

2009年9月1日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009年9月2日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009年9月5日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009年9月8日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009年9月12日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009年9月15日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009年9月16日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009年9月19日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009年9月20日

台北寶吉祥仏法センターの共修法会で、信衆と弟子達は恭しく尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが2002年4月28日に開示された「皈依」の意味についての録音を聞いた。以下はリンチェンドルジェ・リンポチェの御開示。若し皈依の意味を解釈しなければ、多くの者は皈依が終れば、それでいいと思い、今生で修行をせず、自分の個性を変え様とはしないし、仏法にも接しようとはしない。この様な皈依は意味が無い。

なぜ仏を学ぶには必ず皈依する必要が有るのか?多くの者は、自分は学問があるので、本を買うか、仏経を家に持ち帰り、それで自習し、更に仏像を一体買えばそれで良いのではと思うが、この様な考えは絶対に間違っている。先ず知らなければいけないのは、釈迦牟尼仏が説く仏経は、既に菩提心を発した人々に説いている。菩提心を発した人々とは、上は仏法を学び、下は一切の衆生を利益する人々の事である。そなた達がまだ凡夫の段階に居る間は、人生の経験法則、即ち分別心で仏経を読んでいて、更に学問即ち文字で経典の意味を解釈している。昔の大徳曰く、もし文字で仏経の意味を解釈すれば、三世の仏が其れは大間違いだと言うだろうと。即ち、過去世、今世、未来世の仏がみな大間違いだと言う。経典の文字の記載はただ方便に過ぎない。我々娑婆世界の人類は、宇宙の中で、唯一言葉で意思疎通を計る有情衆だ。実は宇宙の多くの有情衆は言葉で意思疎通をしなく、第八、第七意識で意思を通じている。仏は我々人類に仏法を学ばせる為、止むを得ず文字とそなた達が聞いて分かる言葉でお話される。しかし、我々人類が、今生で所謂分かったとするものは書籍から来ている。つまり、我々の生活経験から来ている。これは仏の智慧や生死の解脱とは少しも関連しないものである。もし、そなたの学問、そなたが知っているもので仏経を読み、上師の教えを介さないのなら、そなたはすぐ執着し、すぐ脇道に入るだろう。

「皈依」、我々はこの文字の裏に有る意味を了解しても、それは仏の説いた一切の内容を了解した事にはならない。それゆえ、我々は必ず具徳で、皈依戒を破った事の無い上師に皈依し、其の方に付いて仏法を学ぶのである。具徳とは一切の修行功徳を備え持つ事である。修行方面では経験があり、果を悟った方で、修行を通して仏の説いた内容を了解し、それをそなた達に法の如く伝える。皈依とは必ず一方の上師に頼り、仏法を学ぶものである。「皈」の意味は「帰る」の「帰」である。だが、仏教で使う「皈」の文字は、そなたが決心して仏門に皈依した後は、暗黒から白に反転する事を意味する。

仏を学ぶ前になした事は全て黒業である。自分では人を騙さず、殺さず、危害を加えていないと思っているが、一生のうちで、肉を食した事が有り、他人と喧嘩したり怨んだりした事が有ると、この二つだけでもう十分である。地蔵経に記載されているが、凡夫が心を動かし思いを起こせば、其れは皆業であり、罪である。我々が行う如何なる事や、思いを起こす事々は、皆「我」を中心とする。すべて自分が危害を受けないように望むが、その結果他の有情衆が危害を受ける。肉を食するは自分の栄養が足らない事を恐れ、お金を儲けるは保障が無い事を恐れるからである。一生懸命上を目掛けて昇るは、名と富が欲しいからである。これ等は我々をして絶え間なく悪を行わせる。仏門に皈依した後、我々はどのような事柄は、自分でよく考え直し、気をつけて慎まなくてはいけないかを知る事が出来る。すなわち黒業を少なくし、白業を多くする。白業とは善業で、黒業とは悪業である。仏法を学んだ後、徐々に過去の生活習慣を変える。これは別に出家者の如く毎日何時間も念仏するのではなく、在家は在家の学佛の方法がある。上師の教えと導きを受け、徐々に改め、自分を変え、黒から白に転ずる。

もう一つの「皈」に関する解釈は、我々がまだ仏法の薫陶を受け、解脱の法門を学ぶ前は、ずっと六道(天道、阿修羅道、人道、畜生道、餓鬼道、地獄道)の輪廻の中に居り、六道輪廻は全て苦痛である。仏を学んだ後、始めて今世或いは未来世で生死の苦界を解脱する機会がある。苦界を離れると、目の前は見渡す限りの明かりで、これが「皈」の黒から白に反転する別の意味である。

華厳経の記載では、仏法は暗黒の中の一盞の明燈で、我々を光明な道に導く。この一生でどれだけの学問を学んでも、どれだけの権勢を得ても、どれだけの富を積んでも、仏法から見れば、それはただ過去世で自分が種を蒔いた福報が、今世に現われた果報に過ぎないのである。しかし、福報は使うと尽きる。これ等の事は仏法から見ると全て無常である。無常とは変動である。いい時を過していても、悪い事がすぐに現われ、悪い時でも、いい事が続いて現われる。今世で頂いた事々は、全て過去世で種を蒔いた福報と関連する。だがこれ等の福報は、そなたが真理を了解する助けとはならない。仏を学ばない者にとって、その未来は一片の暗黒である。

人々は一生懸命勉強をし、お金を儲け、子供を生み、家を買う。全て安全感が無く、将来何処に行くべきか分からないからである。故に別の道をたどり、自分の心に安定と安全の感じを得ようとする。この安全を買うために、手段を選ばず他人を傷つけ、悪因の種を多々蒔く。それでそなた達の未来は一片の暗黒なのである。

仏を学ぶ者は、何事はしていいのか、何事はしていけないのかを知る。凡夫は兎に角先ず取り、儲けて、問題が有れば後ほど解決しようとする。しかし、実際に問題が出ると大いに困り果ててしまう。仏法は我々未来暗闇の中の一盞の灯りで、我々に一筋の明るい道を指してくれ、我々に足が地に付いたような安全で恐れのない感じを与えてくれる。故に観音菩薩は別の名を無畏菩薩と言う。なぜなら菩薩は自分が現在行っている事の全ては善であり、未来の果報は絶対に善である事をはっきり知るが故に、恐れるものが無いからである。そなた達は何故未来を恐れるのだ?其れは自分が現在行っている事の全ては悪である事を知るからである。ただそれを承認しないだけである。其れはあたかもタバコは身体に良くない事を知りつつも尚続けて吸い、止められないと言っている者や、酒は身体に良くないと知っていながら未だ飲む者、肉を多く食べると脂肪が多くなり、身体には良くないと知っているが、尚いささかな欲望を満足させる為に食べ続けている。凡夫は自己の心を野放しにし、やりたい放題をやっている。凡夫は悪因を作るのを怖がらない。しかし悪因が現われると逃げ回る。故に仏を学ぶとこれからは悪因の種を蒔いてはいけないと諭される。一度再び悪因の種を蒔かないと意を決したその日から、善に向かう道を行く事を始め得る。

皈依とは仏法を通してそなたに指導と進む方向を与える事を求め、自分の未来が何処に向いているかをはっきり知るのである。真に発心して皈依した者は実に頼もしい。たとえ貧困であれ、病気に罹っていても、自分の未来は絶対に明るいものだと良く知っている。「皈」の文字は未だ解釈を続ける事が出来る。学問で以って仏の説く一文字を理解するのは非常に困難である。リンチェンドルジェ・リンポチェの如く皈依された後すぐ上師について仏を学んで、始めて仏の偉大さや慈悲、そして仏の説く真の含意を体得する事が出来る。驕り我慢して自分はもう理解したと言うべきではない。自分は理解したと言うのは分別心があるのである。何故ならそなたは未だ明心見性を悟っておらず、まだ多くの妄念執着があり、まだ分別をしている。

菩薩と我々の差別は分別心が非常に少なく、執着が非常に少なく、妄念が非常に少ないのである。仏と菩薩では完全に差別がない。そなた達に分別心があるかどうか、自問してみるがよい。好き嫌いが有るだろう。他人がそなたによくしてくれると好きになり、何か小言を言われると嫌いになる、これが分別心だ。何故全世界でビュッフエが日一日と流行るのか?それは、各お客が大きな分別心を持っており、メニューを十分間見ても何にするか決まらないので、あっさり並べ出して選ばせるようになったのだ。これが分別心だ。あれやこれやを見て、好きなものを選ぶ、縁に随わない。

他人の子供が泣くと不愉快になり、煩くて仏法を聴聞するのを妨げると言い、それが自分の子供だとそうは思わない。これが分別心だ。

仏を学ぶとは、そなたに自分の小さな所から改めさせてゆく。もし、仏を学ぶのは神通を求め、感応出来、感じる事が出来、色々変化が出来ると思ったら其れは間違いだ。其れは嘘である。釈迦牟尼佛の大弟子目犍蓮尊者は神通の第一人者だが、生きながらに叩き殺されている。神通力は果報を変える事が出来ない。仏も仏でさえ業力を変える事が出来ないと申された。自分で変えるしかないのだ。仏は何故そなたが皈依する事を望むのか?そなたが仏を学び始めれば、成仏の道を行くことになり、或いはこの一世ではなく、百世または生々世々を費やすとも、絶対に好い方向に向いて歩み始める。決心をし、仏に一糸の疑いも持たなければ、必ずある一世で成就するからである。

「依」とは我々をして生々世々頼れる所が有る様にする。今我々がこの様に恐れるのは、頼れる所が無いからである。そなたに家があり、家族が有り、財産があり、地位が有ったとしても、頼れる所は有るのか?そなたが病に罹った時何に頼るのか?医者は我々の肉体を治すことは出来るが、心霊を治す事は出来ない。我々に事故が起こったとき、何に頼るのか?慈善機関が幾らか我々を助けたとしても、我々の心の中の恐れを除く事は出来ない。我々がこの一生で仏門に皈依しなく、仏法を学ばないとすれば、我々の果報が熟した時恐れ戦き、誰が助けに来てくれるのか分からない。だが、仏門に皈依すればそなたは頼る所が有る。仏菩薩に頼り、そなたの上師に頼って一切の助けを頂く様になる。皈依した後、上師はそなたに仏法を伝える責任がある。そなたが絶え間なく法会に参列すれば、上師は絶対この一生で学び、理解し、経験した一切の仏法を、この世を去るまでに悉く伝える。仏法は別の事と違って、我が学び得てそなたが学び得ない事はない。仏は衆生は皆平等だと説く。一切有情の衆生の本質は皆同じだ。ただ輪廻を経て、貪嗔癡慢疑の五毒の薫陶を受けると、我々は自分の良き本質を覆い隠す。故に仏を学ぶと言う方法を用いて、我々の悪い、未来に影響するものを徐々に捨てていくと、自然に我々の光り輝く境地が現われてくる。

師弟の身分は仏法の中では錯綜複雑である。例えば地蔵王菩薩は今未だ菩薩だが、既に11大劫修行をなされている。11大劫の時間は人類の時間では数えられない。簡単に言えば、3小劫は1中劫をなし、3中劫は1大劫をなす。1小劫は人類の寿命が8万歳から10歳までに縮み、また10歳から再び8万歳まで伸びていく時間が1小劫で、現在我々は減る劫に在り、この幾千年来我々人類の寿命は今平均100歳前後に在り、この次弥勒菩薩が来られて人類が8万歳になった時、其れが1小劫の出現である。故に11大劫とはとてもとても長い時間で、多くの仏はある一世では事実上地蔵菩薩の弟子であったのだ。しかし、地蔵菩薩の願力は地獄が空にならなければ成仏せずと言うものだったので、今日に至るまで未だ菩薩の果位に留まっている。だが、多くの本々は地蔵菩薩の弟子だった仏は、地蔵菩薩が仏教を説くと、未だ聴聞に来られる。つまり、リンチェンドルジェ・リンポチェが法座に就いてそなた達に仏法を説くのは、リンチェンドルジェ・リンポチェが過去世でのそなた達との因縁で、もしそなた達が真面目に法の如く修行し、教えの如く行なえば、未来世ではリンチェンドルジェ・リンポチェより早く成仏する可能性がある。なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェの願力は非常に地蔵菩薩の其れと近く、衆生が成仏せねば我成仏せずと言うもので、そなた達が悉く成仏した後、始めてリンチェンドルジェ・リンポチェに成仏なされる機会が訪れる。

これから分かるように仏法の観点は、他の宗教と全然違って、他の宗教は一人の個人が中心で、一人の主を中心とし、其の方は永遠に高き所にあり、そなた達は永遠に下に居る。其れは我々中国人台湾の民間宗教も同じである。仏教は学習と訓練の過程を経た後で、必ず成仏する日が来る。五祖慧能が六祖慧能に衣鉢を伝えた時、川を渡るに当たって先ず五祖が舟を漕いだが、次に六祖に漕がせた。六祖がなぜかと問うと、五祖は迷時師度と言われた。つまり、そなたが迷いに拘り悟らざる時は上師がそなたを渡し、悟りを開いた後は自分自身で渡るのだと答えた。そなた達が迷いの中に在るうちは上師が助け、方法と時間、また一筋の道を与え、そなたにゆっくりと悟らせるが、そなたが悟った暁には自分で自分自身を助けなければいけない。仏法は両親に対しての孝行、上師に対しての尊重を重視するが、それは礼節方面の事で、意義的には師弟の身分は変わる可能があり、或いは平等な可能もある。

今日そなたが上師を尊敬するのは、上師がそなたの未来世を助ける一つの宝をそなたに教えるからで、それでそなたは上師を尊ぶ。それはあたかもリンチェンドルジェ・リンポチェがチェツァン法王を尊ぶのと同じである。なぜなら、法王がリンチェンドルジェ・リンポチェに与えたものは、全て人の世では買えないものか、人の世の如何なるものでも換えられないものだからである。故に、リンチェンドルジェ・リンポチェは法王を尊重するのだが、リンチェンドルジェ・リンポチェが法の如く仏法を学べば、衆生を利益する日が訪れる。

リンチェンドルジェ・リンポチェが仏門に皈依されたその日には、上師になる日が来ようとは思ってもいなかった。他人の様に仏法を一二年学ぶとすぐ仏法を説きだし、兄弟子になるのとは違っていた。リンチェンドルジェ・リンポチェはそんな事はなかったが、因縁はずっとリンチェンドルジェ・リンポチェを押し上げ、自然と昇ってきた。これこそ過去世の因縁である。リンチェンドルジェ・リンポチェもかって法王に何故リンチェンドルジェ・リンポチェはこの様に多数の弟子がいるのかとお伺い立てた事が有った。これは前世に借りがあったのかと。法王の答えは、そうだ!前世ではそなた達を良く教え導かなかったので、まだそなた達を苦界の中で輪廻させている。だから今世ではそなた達が自然と門下に皈依する。よって、リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に厳格になる。それはそなた達が今世で生死を解脱する事を望むからである。

皈依した後は、毎日必ず時間を取ってしっかりリンチェンドルジェ・リンポチェが説いた録音をよく聞き、真言を唱え、アキ護法を修めなければならない。誰もがこの様な時間はある。よく忙しくて時間が取れないと言う者が居るが、どんなに忙しくてもこの様な時間は誰でも必ず取れる。半時間、15分、5分でもいい、やれば好いのだ。しかし我々凡夫は怠ける。すぐ自分に言い訳を与え、明日やればいいだろうと。そして明日はまた明日になる。仏を学ぶにはそなたがどれだけ勤勉であるかではなく、どれだけ辛抱強く続け得るかである。何回も何回も重ねて行う事である。何故リンチェンドルジェ・リンポチェは怠ける事がなく、そなた達は怠けるのだ?それはそなた達が未だ慈悲心を発していなく、菩提心を発していないからである。今日皈依した者の多くは、以前皈依した者も含めて、皈依すればいい事があると知っているが、どんないい事かを知らない。或いは皈依すればお金が儲かるとか、彼氏が浮気をしなくなるとか、子供が良く勉強するようになるとかと思っているかも知れないが、これ等の観点は悉く間違っている。皈依はそなたに仏を学びだす機会を与え、我々に真に生死を解脱させる。皈依した後、我々のこの世での生活が良い方向に向かう。なぜかと言うと悪を断絶し善を行うからである。勿論、中には成熟する果報もある、其れは仕方が無い。仏でさえも業を転ずる事が出来ないからである。しかし果報が熟する事もまた良い事である。それで借りを返し、借りが無くなるからである。元々運はこんなに悪くなかったが、皈依した後運が悪くなったと言う者が居るが、其れは間違いである。この悪運はもともと15年後、20年後、或いは死の直前に現われるものだったかも知れない。その時に至ればもう厳重である。特に死の二三年前に現われるのはいけない。重い病気に罹るとか、家族に事故が起こるとか、兎に角とても重い果報が現われる。仏に皈依すると、その内の何れかが早めに現われ、重い報いも軽く受け止められる。死に至る場合、重い病気に罹らせて借りを返すようにする。それは例えば銀行から借金をして、利息を免除してもらい、元金だけを返すのと同じで、返すべきものはやはり返さなければならない。よって、皈依した後は必ず良いとは限らない。この考えは間違って居る。仏は我々の業を転じる事は出来ないが、軽くする事は出来る。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの事に対して多くの経験がある。リンチェンドルジェ・リンポチェが皈依された後、顕教から密法へと学んだ時、其の何年かは滅茶苦茶で、食事も出来ないほど貧乏だった。しかしそれでもそなた達のように仏菩薩がわざと我を苦しめているとか、保護されていないとか、法王が我を助けないとかを考えた事はなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは反って良かったと思っている。40幾つで借りを返す資格があり、あらゆる借りを返して、一から始めても構わない。

皈依する事をはっきり知らなくてはいけない。外で、皈依して間違った、皈依しなければ事は起こらなかったのに等と言われても、聞かなければいい。知らず知らずの内に仏を誹謗する事をしないで欲しい。ある者は仏門に皈依しなければ仏を誹謗する機会が少ないが、皈依の後、反って仏を誹謗するようになった。何故なら彼は心の中で考えている欲望が満たされなかったからである。仏は我々の欲望や分別心を軽くするように教える。仏を学ぶのは、そなたの欲望を満たす為ではなく、また心に思う事は成されるのではない。仏を学ぶのは真理を理解し、真に衆生を利益し、自身も生死を解脱する事が出来る、これが仏法である。仏を学んで富を求め、家庭を求め、健康を求めるのは外道の考えである。勿論、仏経では求めれば菩薩は何でも与えてくれる。だだし、それはそなたが本当に改め、本当に仏菩薩の御教えを完全にお受けする状態の下で、始めて与えるものなのである。

皈依した後、我々は仏法の聴聞と仏法の学習を始め、身、口、意から徹底的に自身を変え改める。自身を変えることは、世界中乃至宇宙中で最も困難な工事である。何処が難しいのか?我々がこの一生で吸収した人生の経験法則や習慣を突然変えるのは、其れが既に難しいのであるが、更に加え我々が累世から持ち越した習慣を変えるのは、尚更難しい。故に仏経では、十地菩薩を悟るまでは、未だ過去世から持ち越した習性があると説く。しかし、難しいとは出来ないではない。辛抱強く、弛まずに少しずつ改めてゆく。仏法に曰く、人道成りて始めて仏道が成ると。したがって人の条件、人の標準を良く成さないと、仏を学んでいるとか、仏の弟子であるとかを言う資格はない。人道は十善法の中にはっきり説いている。

教授である弟子が居た。よく多くの言い訳で法会に来なかった。そして去年から今まで、絶えず交通事故や、転んだり挫いたりで、足と手の骨をいつも折っていた。別にリンチェンドルジェ・リンポチェの護法や仏菩薩が罰したのではない、護法や仏菩薩は慈悲深いので罰など下さない。それは彼の冤親債主が彼を罰しているのだ。彼が彼らを騙して法会に参列しないからだ。誤解しないで欲しい、上師や仏菩薩はそなたを罰しない。仏菩薩は一切縁に従うだけで、そなた等構っていない。だが、法会に参列すると言って来なければ、そなたの冤親債主が怒るのである。それはよく済度していない歴代の祖先を含む。歴代とはこの一世を指すだけではない。過去の幾百幾千世の親族で、未だ良く済度されていない者達は、そなたが法会に来る事で法益を得る。それで彼等は良い所に向かって進み行く。彼等が良ければそなたも良くなる。よって、簡単に皈依が終ればもう事終れりと言い、それで良い暮らしが得られ、何か事が起これば、また行けばいいと言う無かれ。事が起きてからでは、もう遅いのである。

よって、学佛は薫陶するもので、ゆっくり、しかし長い時間を掛けてするものである。其れは1年、2年、5年、10年ではなく、さらに長期的である。皈依には何個かの階層が有って、ある者は随縁皈依と言い、大仏寺大沙門から名僧や法王が来られたと聞くと、群れを成して皈依するが、これは随縁皈依で、そなた達の縁に従って皈依するのである。この様な皈依はそなたに未来世で皈依する機会を与えるが、過去世で蒔いた悪業は変える術もない。もう一つの師弟関係の皈依はもっと丁重であり、皈依の意味をはっきり解釈する。チベット仏教で、特に寶吉祥の皈依はリンチェンドルジェ・リンポチェに依り、詳しく説明される。それは、第一歩を正しく踏み出せば、其の後は全てが正しくなるからである。もし、皈依の意味さえはっきりしていないと、今後は間違えが続くであろう。チベット仏教では、特に密法の皈依は多くを諭す。それは我々の皈依はこの一世に止まらないからである。顕教の皈依はこの一世だけであり、我々の皈依は生々世々で、我々が成仏せねば、皈依の願、皈依の効力は消えないのである。言葉を換えていえば、そなたが今世で生死を解脱せねば、次の世で、私は又そなたを見つけ出す事が出来る、何故ならこの責任が未だ有るからである。

我々は仏に皈依し、法に皈依し、僧に皈依する。現在の地球上で仏は釈迦牟尼仏である。釈迦牟尼仏が地球での法運は12000年あり、現在既に2500年過ぎている。この伝法期間で、今は末法時代である。正法時代は釈迦牟尼仏在世の時から涅槃後の初めの500年で、500年から1000年までが像法時代、現在我々は末法時代に入っている。正法、像法、末法時代に来た衆生はそれぞれ何処に居る?正法時代に仏に従って仏を学ぶ者は、必ず大福報、大修行者で、釈迦牟尼仏過去の弟子が仏に付いて来られた。仏経には、1200の阿羅漢が、仏に付いて仏が仏法を講じるのを聴聞したとある。現在は1200どころか、台湾では12の阿羅漢でさえ見つからない。末法時代であるからだ。

子供がない者は子供がある時の心配をする。懐妊すれば、良い子が生まれないことの心配をする。生まれた後、良く育たない事を心配する。育った後、勉強が良く出来ない事を心配する。勉強を良くすれば、良い職につけない事を心配する。良い職につけば、良い嫁を貰う心配をする。良い嫁を貰えば、又子供が出来ない事を心配する。煩わしくないか?女には女の煩いがあり、男には男の煩いが有る。

故に我々末法時代に来る衆生は全て重い煩いを持っている。よって、末法の衆生は済度するのが難しい。仏も、そなた達が皈依した後、どれ位学べるかは上師の問題ではなく、仏の問題では更々ない。そなた達の問題であると説く。我々は常に随縁と言う言葉を耳にする。何の縁に随うのだ?そなた達の縁に随うのである。例えば仏が在世の時、仏法を説くと下座には多くの者が聞いている。たが、真に悟ったのは何名居るのだろう。少ない。六祖慧能在世の頃、其の弟子は多かったのだが、真に明心見性、悟ったのは高々四十数名であった。六祖慧能の時代は像法時代である。

仏を学ぶのは困難な事だと思うべきではない。困難なのは何処だ?其れはそなた達の業があまりにも重いことだ。よってそなた達に法会に参列せよと言付けるのだ。そなた達の業を消すのだ。何故毎週の日曜日の法会の前にリンチェンドルジェ・リンポチェは百字明の真言を唱える? そなた達の業を消すのだ。そなた達の業が重ければ、そなた達は2時間座って居られない。この様に混んでいる中で、そなた達は何故2時間も座って居られるのだ?それはリンチェンドルジェ・リンポチェが呪文を唱えるとそなたの累世の冤親債主が喜び、そなたの邪魔をしなくなり、そなたは2時間法を聴聞する事が出来るようになる。ある者は外で一本3千元や5千元もする講演の録音テープやビデオテープを買い込む。リンチェンドルジェ・リンポチェはその様な事はしない。末法時代の衆生は可哀相だ。正法に逢えなく、ただ無駄金を使うばかりだ。

故に、皈依とはそなた達に正法に触れさせるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの傍には行ったり来たりする者が多い。リンチェンドルジェ・リンポチェは自ら人を訪ねた事はないし、怒りもしない。これはそなたの縁で、縁生縁滅。しかし、そなたが今世で皈依した事が有れば、未来世でも続けて皈依する。ただリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依するとは限らない。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェはそなたを探し当てないからである。

皈依してから、我々には注意することがいくつかある。我々の皈依の対象は仏である。仏は悟りを意味し、よって、我々は仏に皈依し、この皈依という方法を通して、仏は我々を悟りの道へ連れて行くのである。

「法」に皈依するとは、仏の説く成仏の方法であり、修行方法である。修行の二字を、そなた達は誤解してはいけない。それは、毎日どのくらい経文を読み、どのくらい真言を唱えるかではない。修行とは、そなた達が仏法の助けにより自身の行為を改めることである。我々の行為には必ず誤りがある。さもなくば、我々はもう悟っているはずだ。間違いがなければこの娑婆世界にはいないはずだ。大勢の人は自分には間違いはないと言っている。しかし、「自分には間違いはない」と言うのなら、そなたには必ず間違いがある。その道理はどこにあるのか。そなたはこの一生で人を恨んだことはなかったか?この一生で人の物を盗んだことはなかったか?誰にでもあっただろう!誰がないのか?これこそが誤りである!利己心はないのか?ある!

我々中国人は一番利己的で、世界中で公共トイレが一番汚いのは中国である。これには台湾、中国大陸を含む。我々中国人はとても利己的で人を気にしない。この利己心が間違いだ。だから、そなたが自分には間違いはないと思っていて、懺悔心を起こさずに仏法を勉強するのなら、そなたの一生を変えるのは非常に難しい。よって、法に皈依することにより、智慧を起こし、自分の問題がどこにあるのかを理解したなら、再出発し、新たに過ちを改められる。それ故に、我々は「法」に皈依するのである。

「僧」に皈依する。僧という字は、出家者を示すのではない。多くの者は、僧に皈依するとは1人の和尚あるいは尼に皈依することであると考える。そうではなく、チベット仏教においては、ラマが三年間閉関をしても、弟子を受け入れる資格はない。台湾のように、五年間の仏教大学を卒業したら供養と礼拝を受け入れることが出来るのとは異なる。チベット仏教にはこのようなことはない!全ての仏寺のラマは、彼の家庭が養っている。食べ物、着る物、使う物は全部、家がくれるもので、信徒の供養を受け取ってはならない。しかし、台湾の信者はすでに慣れてしまい、出家者を見るとすぐ礼拝し、お金を上げる。これは迷信である。

チベット仏教の規定では、高座に座れる者は、必ず、顕教理論及び密法の実践においてある段階に達した者である。だからチベット仏教では、出家者が弟子を取るとはいえない。とても厳しい。ここ台湾ではそんなに厳しくない。台湾では多くの発明者がいる。この「僧」の意味は、「ある団体の中に比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷がいて、教法に従ってしっかり実践し、明心・見性を修める」ことであり、この団体を僧団(サンガ)と呼ぶ。そなた達は違う。そなた達はまだ見性を証していない。しかし、チベット仏教において、我々は僧団と呼ばれる。例えばリンチェンドルジェ・リンポチェは在家の上師であり、つまり優婆塞であるが、我々の宗派には出家の比丘、比丘尼がいる故、僧団である。

何故僧団に皈依するのだろうか。それは、彼がそなたの師であり、その仏法修行による経験をそなたに教え、助けてくれるからである。世間法、出世法を含めて、そなたを助ける方法を持っている。だから、僧団に皈依すると、我々はこの方法を得て、将来の人生を変えられるのである。よって、皈依は三宝の「仏、法、僧」に皈依し、一つも欠けてはならない。

言い換えると、現在台湾では多くの仏法を学ぶ者は皈依後、家に隠れて毎日読経している。自分は既に皈依したので、毎日仏と繋がっていればそれでよいと思っている。間違いない。それでもよい。しかし問題は、そなた達が仏を見られないことにある。そなた達の心がまだ清浄ではないからである。清浄心とは何なのか。全く自分の考えがなく、全く私の存在がなく、すべてが一切衆生を利益する心であるのを清浄という。このようであって初めて仏を見る資格を有する。そなた達の心はまだそのレベルに達していないのに、どうしてドアを閉めて仏を唱えることによって、仏が来てくれるのだろうか。

だから、多くの人は仏法を学ぶ方法を誤っている。多くの人は皈依後すぐに、これからどんな勤行をしたらよいのかと聞く。必ずこの事を聞く。まだ授業に出ていないのに、どんな課題があるのだろう。法会に参加するのは授業に出ることである。授業して帰ってから、初めて課題が出されるのである。

しかし、台湾人は傲慢だ。なぜなら、彼の考えは、念仏こそが勤行だと思っている。違う!必ず自分の悪い習慣を、仏法を通して改める事、これが課題だ。もし改めないのなら、どのくらい経典を読誦しても無駄だ。

よって、仏、法、僧の三宝を備える人に皈依してこそ、仏陀の弟子と呼ばれる資格が与えられる。皈依後、家にこもって経典を読誦しても、仏弟子と呼ばれる資格はない。なぜなら、この者は必ず高慢だからである、そして怠ける。六祖慧能は人が金剛経を読誦しているのを聞いて悟りを開いた。しかし、彼はやはり五祖について、心法を得るまで学んだ。自分の機根が良いと思っている者は、六祖とどの様に比較するのか?どうして家にこもり悟りを開くことができるのか?傲慢になってはならない。仏法を学ぶ上で一番悪い事は傲慢である。

三宝に皈依することは、釈迦牟尼仏が説いたので、釈迦牟尼仏は自然に我々の師となる。師の言う事を全く聞かないのに、そなたはどのようにして仏弟子となる資格を持てるのか?

皈依した後は、必ず幾つかの事に注意しなければならない。

皈依した後は、他の天神に頂礼してはならない。それは如何なる廟、神、他の宗教を含む。これは仏がお高くとまっているのではなく、仏がこれらの行動を許さなかったわけでもない。そなたが仏教を学ぶ理由は何なのか?生死輪廻を解脱することである。仏だけが我々を生死輪廻からの解脱を助けてくれる。その他の一切の、所謂、神はやはり輪廻の中にいるのである。例えばカトリック、キリスト教、彼らは天道の中にいる。道教の一部は天道にいて、一部は人道にいるが、これらは全て輪廻している。それなら、彼らは何によって我々を輪廻から解脱させてくれるのか?

だから、仏に皈依した後、そなたは、所謂外道に頼みそなたを救ってもらう必要はない。皈依した後、自然に、そなたの側に、上師の護法、善神が全てそなたを助けに来てくれ、護持してくれる。そなたが皈依した後は、そなたの誓言に違反すると、善神と護法はそなたから離れていく。そして、そなたが別の天神に頂礼すると、天神もそなたが見え、そなたは皈依しているのに、何故ここに来るのかということになり、天神もそなたを無視するだろう。よって、そなたは大変なことになる。

我々は二股をかけることが好きで、こちらをちょっと掴み、あちらもちょっと掴み、どちらがいいかによって、そっちに傾く。絶対に二股をかけてはならない。時が来ると傷をつくのはそなたである。よって、皈依後、我々は別の神社、他の宗派の中に行ってはならない。もしそなたは申し訳ないと思うなら、ちょっと会釈すればよい。礼拝する必要もないし、跪く必要もない。

皈依した後、神に求め、占いする必要もない。釈迦牟尼仏は運命判断を固く反対し、占いにも反対する。運命は自分の手中にあり、他人がそなたのために占うものではない。もし占いによりそなたの運命を変える事ができるなら、全世界でこんなに多くの占い師がいて、それでも何故まだ貧乏な人や、事故死する者がいるのだろう?いかにこの占いが非常に的を得たものであっても、そなたの事を変える事はできない。この世には、吉祥に向かい凶事を避ける方法はない。

ある者が祖先に礼拝してもよいかどうかを聞いた。祖先を祭る事はただ記念の一方法に過ぎず、宗教行為ではない。祖先になにかを求めることもない。我々中国人は祖先に加護を求める事が好きだが、霊はそなたを守ってくれるだろうか?毎日祖先にそなたに加護を与えて欲しいと言うのは、祖先を苦しませることにならないだろうか?

我々中国人には欠点がある。状況が順調である時は自分の運が良いと思い、運が悪い時には祖先を責めて、墓が良くないとか、位牌の位置が悪いとか、祖先が徳を積まなかったとか言い、自分の誤りを認めない。我々が祖先を祭るときには深い感謝の心、記念する気持ちを持たなくてはならない。宗教の行為としてではなく、彼に求める必要はない。仏に皈依した後は、これを覚えておきなさい。中に説かれているが、絶対に肉を祖先に供えてはならない。大乗経典にはこう説かれている。鬼や神に供えた肉や食べ物を、我々は食べてはならない。この食べ物が良くないのではない。後に、我々が別の法門を学ぶ時、そなたの気がまだ十分でない時に、これらの食べ物を口に入れてはならない。これには道理がある。仏は親孝行を重視しており、よって、祖先と我々の関係は、感謝の心、記念する心であればよく、宗教の行為とはしない。現実において、現在、多くの霊媒者がいて、特に家や道壇で人のためにお払いをする。それは全て家の霊が憑依する。もしそなたの祖先がずっと餓鬼道にいるのなら、この家がよくなることはなく、順調にいかない。

仏陀に皈依して、祖先との関係を断ち切るのではない。我々は密法を学び、毎日我々の生々世々の六道の父母を想う。どうして、仏法を学ぶ者、上師が、祖先は不要だと教えるだろうか?ただ方法は正しくなければならない。

法に皈依すると、有情を傷つけない。皈依した後は、一切の有情衆生を傷つけてはならないと教える。もちろん菜食しなければならない。菜食になると、自然に衆生を傷つける機会が少なくなる。残りは、蟻、蚊、ゴキブリの類だけである。菜食せずに常に肉食している者は、ネギ、ニンニクも食べることが多い。これではお経を読んでも役に立たない。一切の有情衆生を傷つけない最も重要な意味はどこにあるのか。自分の利益のために、一切の有情を傷つけてはならない。しかし、我々は故意ではなく、無意識に傷つけてしまったのなら、懺悔できる。経典にはこのように説かれている。もしも病気にかかり服用する薬が、効果を引き出すために動物のある器官を必要とするなら、それは許されることである。これは破戒とは呼ばず、開戒である。多くの者はラマ僧は肉食であると思っているが、我々の法王は菜食であり、インドの仏教寺院では、すべてのラマ僧が皆、菜食している。肉食は我々を地獄の道に陥らせる因となり、飲酒もそうである。家の中のアリ、蚊、ゴキブリには、殺虫剤を噴き付けてはならない。もし掃除している時、無意識にそれらを傷つけてしまったのなら、法会を通し、懺悔法門を通して、処理することができる。

第3、僧侶に皈依すること。上師に皈依した後は、外道の者に依止してはならない。仏法によって修行していない者は外道である。そなたが相手は仏法を学んでいると思っていても、その人の説くものが仏の教える方法でないなら、これも外道だ。そなた達の心は極めて複雑になっているので、もしもこっちに走り、またあっちにも走るのなら、益々複雑になってしまう。時が来たとき、誰の話を聞いたらよいのか分からなくなるだろう。それぞれの道場によって、法を伝える方法と次第は異なる。現在ディクン・ガジュは台湾において、リンチェンドルジェ・リンポチェのみが在家上師として法を伝え、他は皆、出家者である。

仏法は一つだけであるが、上師はそなたの背景に基づき、生活環境に基づいて、そなたのできる方法を教える。もし別の方法を説いてそなたができないのなら、この法門がいかに殊勝であっても、そなたの役には立たないであろう。

そなたが仏法を学ぶことで、そなたの夫に仏法を誤解させてはならず、そなたが仏法を学ぶことで、そなた達に喧嘩を引き起こさせてはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女にまず家に帰ることを勧め、自分を改めさせる。改めたのなら、夫は自然に行く事に同意してくれるだろう。

嘗て、法王が高座上で説かれたことがあった。ある弟子は、上師について仏法を学ぶのに問題があると思っていた。しかしこれは、上師の問題ではない。そなたの心に問題があるのである。なぜなら、そなたの心には貪、嗔、癡、慢、疑があるので、如法の上師を見ると問題があると感じるのだ。昔、釈迦牟尼仏が在世の時、ある弟子はお釈迦様を見て、やはり問題があると感じ、お釈迦様について仏法を学ばなかった。我々が三宝、お經、仏像、仏塔を見る時、我々は常に敬虔な気持ちを持ち、恭敬心をもって対応しなければならない。だから、いかなる法の本、仏像をも、いい加減に扱ってはならない。恭敬心をもってよい場所に置かなければならない。

台湾ではいま、仏陀カードが流行しており、男の子は革製の小銭入れの中にいれて、お尻のポケットにねじ込んでいるが、これはとてもよくないことである。これには、敬う心がない。第一に、たとえ彼が皈依していたとしても、彼の師父は彼によく説明しなかったのだろう。第二に、彼は何故仏のカードを持っているのだろう。皈依しているとすれば、皈依戒を捨てるべきではない。たとえ他人に贈られたものであっても、そなたの生命が脅かされたとしても、そなたの皈依戒を破ることはできない。一生の生命には限りがあるが、皈依の生命は無限で、そなたが今生で皈依戒を放棄すると、来世には仏法に触れる機会がなかなか得られなくなる。

今生得たこの人身は得るのが非常に難しく、密部では有情衆の人の数がどれだけあるかを解釈している。地獄道の衆生の数は、雪が降る時に、空中に漂う雪片のはっきり見えないほどに多いのであり、畜生道の衆生は、インドのガンジス川両岸の砂のように多いのである。人類の数は、一掴みのガンジス川の砂ほどだが、この世で人身を得たのは、そなたが過去世で善行を積んだことがあり、仏法も聞いたことがあるのだが、ただ生死だけは解脱しておらず、この世に再びやって来て、もう一度機会をもらうばあいがある。しかし、もし今生の機会を把握できないのであれば、いつ再び人身を得ることができるか分からない。皈依した後も教えに従っていないのなら、来世も人になれるとは限らず、もしかすると福報のある畜生即ちペットに生まれ変わるかもしれない。多くの人は皈依し、念仏して、福報を受けているが、それでも愚鈍であれば、来世は動物になる。法王とリンチェンドルジェ・リンポチェの飼っている犬などは、菜食で福報のあるペットである。

体が健全で、見聞きできて、精神を病んでいなければ仏を学ぶ材料である。病氣になると仏を学ぶことができないとは思わないこと。仏経に、幾らかの身体が不健全な者を、仏を学ぶ材料ではないと挙げている。目が見えないと仏像の荘厳さが見えないし、耳が聞こえないと、仏法を聴聞出来ない。しかし地球の衆生の最大成就法門は観音菩薩の耳根融通で、全宇宙でただ人類のみが耳で仏法を聞いて悟るのである。手と足が健全にして、身の気脈がはじめて健全になり、比較的に高い果位を修める事ができるのである。我々が人身と言う宝を得る時は、楽しみに来ているのではなく、仏法の修行をしているのである。三世仏は、すべて人の世で成仏なされた。ですから、この世に人身を得ることは累世の縁と福報で、大切にして無駄にしてはいけない。

仏経は、人身の貴重さを、1匹の大ウミガメのようだと形容している。百年ごとに海面を浮かび、四角い孔のある丸太を探し当て、其の四角い穴に鼻を入れて呼吸するほど困難なのだ、というのである。故に仏経では、人身は得難く、仏法は聴聞し難く、上師とは邂逅し難し、と説く。徳を備えた上師とめぐり合うことはさらに難しい。ゆえに、皈依した後に皈依戒を破らず、特別な事に遭遇しても、他の方便を求めようとはしないこと。廟で御籤を引くことや、他所で占うことなども、皈依戒を破ったことになるのである。

皈依後は上師、教派を時間通りに供養するべきであるが、それは上師がお金を必要としているのではなく、供養は福報を早く累積する唯一の法門なのである。供養金額の多寡は重要ではなく、供養する心が大切なのである。福報がないと、かつての業を転ずる事が出来ない。諸仏菩薩と上師はそなたに借りはなく、そなたが供養すると、仏菩薩と上師は福報を以って返される。リンチェンドルジェ・リンポチェは、毎年の閉関で多くの福報を累積され、衆生に報いる。故に皈依文ではそなたに供養することを薦めているのである。

リンチェンドルジェ・リンポチェが上師に成る事ができたのも、チェツァン法王から仏法を伝授られたからで、全て供養を通して来ている。リンチェンドルジェ・リンポチェは元々とてもよくなかったものも転換することができたが、それも供養を通してのことで、そなた達はそれを理解せねばならない。

今日、そなたたちが皈依したのはわれらチベット仏教の中の四大教派の一つ直貢噶舉である。カジュは白教とも呼ばれたが、白教と呼んではならない。それは、われらの寺院が白かったので、彼らが白教と呼んだのである。チベット仏教は四大教派に分かれており、黄教、紅教、花教と白だ。われらカジュ派はインドより直接入ってきた教派で、我々の祖師はインド人だ。ナロバの後からチベットの上師が現われ、ガムポパの後から出家衆が現われた。ガムポパ、パモヅバの後から直貢噶舉が始まった。直貢噶舉は今まで伝わって、合計37人の法王がおられ、リンチェンドルジェ・リンポチェの上師は37代のチェツァン法王である。リンチェンドルジェ・リンポチェのもう1人の上師は教派のテンジン・ニンマ・リンポチェで、チベット・ラサのディクンテイ寺の中の直貢噶舉の祖師はジッテン・サムゴンである。

現在、そなた達はチベット仏教に皈依したが、それはそなた達が密法を学んだことを意味するものではない。他人に、私は現在密法を学んでいるとは絶対に言ってはならない。いままで寶吉祥の弟子の中で、1人として密法を学んだ者はいない。どういう事なのか。チベット仏教は中国の仏教と同じで、まず顕教を学ぶ。顕は明顕、道理との意味である。それはリンチェンドルジェ・リンポチェがさっきまで1時間くらい、仏法の原理や道理を話されたようなものである。家を建てる前には必ず基礎をしっか作り、基礎がよくなったら高く、良く立てられる。顕教とは仏法のすべての道理である。それでは密法とは?道理を理解してから、我々はようやく実行することができる。自分の成仏であれ、衆生の利益であれ、言語によって変えられるほど単純なものではない。だから我々は密法を通して、衆生に苦しみを離れて、楽しみを得ることを助けるのである。多くの人は、リンチェンドルジェ・リンポチェが常に病院へ行って多くの苦痛の衆生を助けていることを知っている。密法の助けがなく、患者は既に病気で青息吐息なのに、どうやって理論を説いて聞かせることができるだろう。ただ自身が密法の力を学び、彼を助けて彼の冤親債主を引き離すのである。最近リンチェンドルジェ・リンポチェは何人もの医者が匙を投げた難病患者を助けてきた。ただ顕教経典の理論に頼って話をしても、聞き入れることができなく、すでに意識不明で、死は間近に迫っているのだ。顕教に頼ることがだめだとは言わないが、彼にはもう聞き取る力が無いので、密法を使うのである。密法とは修行者自身が、ある果位まで悟り、彼の力はある事を変えるに足りるのである。

密法に関するもう一つの解釈は、密法は我々の成仏する時間を縮める事を助ける、というものである。釈迦牟尼仏は在世の四十九年に密法を二回だけ説かれ、他には顕教を説かれた。それは正法時代の人は業が軽いので、戒を守れば、開悟できたからである。しかし末法時代にそなた達に開悟させるのは難しいことである。それは我々には雑念が多く、煩悩が多いからだ。ある密法上師に皈依するメリットは、密法の上師は力を備えており、そなたがこの世の生死から解脱することを助けられるからである。彼の大能力や大慈悲心は、そなたに多くの助けを与えるからだ。だから我々は今日、皈依する教派や歴代上師の伝承などをはっきりと理解しなければならない。そうしてはじめてそなたの皈依が有意義なものになるのである。皈依してから、ミラレバの伝記を買って読んでもいい。ミラレバは我々の祖師である。伝記には一人修行者の心、真の理念が書かれている。そなたたちの未来の修行に、役に立つことだろう。

また、皈依後我々は八つの利益を得る。
第一、仏教徒になったことだ。仏教徒とは燃香礼拝、果物を供物にするだけではない。徒というのは徒弟だ。仏に従い仏法を学ぶ者が徒弟である。ただ燃香礼拝だけなら、仏教徒ではなく、仏教の信者である。信者と教徒は違う。信者はそなたの存在を信じる。しかしそれは必ずしも仏法を学ぶとは言えない。では、仏教徒になる利益は何だ。仏弟子になると、学んだ結果、いつか必ず仏と同じようになる。それは学問のある教授に学べば、いつしかそなたの書いた論文は他人よりよくなるのと同じ原理だ。皈依後そなたは仏の弟子になる資格を得るのである。皈依しないと資格はない。なぜだ。それは皈依して、そなたは始めて黒から白に変わる決心したのである。また、はじめて悪から離れて、よい場所に行く事を知る。そういう条件があるから、仏の弟子になる資格があるのである。それではなぜ皈依しないとだめなのだ。それはそなたがまだ躊躇し、傍観しているからである。まだ良いか悪いか悩んでいる人を、仏は自分の弟子とは言わない。

では、仏の弟子になる利益は何だ。わたしたちは仏の弟子になったので、今世或いは来世に成仏できるかもしれない。また、そなたは仏の弟子ゆえ、善神はそなたを助け、守りにくる。そなたが仏の弟子ではなければ、善神はこない。だから皈依してからは、鬼を恐れることはない。多くの人は入り口に霊符を貼っているが、それは役に立たない。仏経の記載によると、すべての中陰とは肉体を失った動物や人間で、中陰になると、どこへでも行けるが、三つの箇所は通ることができない。一つは女性の子宮であり、生まれ変わる為に入ると、もう出られない。もう一つは仏法を説く為の法座である。第三は金剛杵で、その他はどこにでも行くことができる。だから、多くの人は鬼を恐れるとき、布団で頭を隠して、鬼からは見えないと思っているし、ある者は怖いので、門をしっかり閉める。しかし、これは全て自己欺瞞で、鬼は来たいと思えばどうでも来る。

第二、我々が皈依すると、一切戒律の拠り所になる。我々は皈依前も一部の戒めを守っていたかもしれない。例えばある者は生れてから菜食している。しかし、彼は仏を学ばない。例えば、ある者は一生にお酒を飲まないが、仏を学ばない。皈依し戒を守ることと、皈依せず戒を守ることの違いは何処にある?皈依し戒を守ると福報を得られる。また一つの戒を守れば五名の善神がそなたの側につく。だから五戒を守ると、何名の善神をつくか数えてみるが良い。何故リンチェンドルジェ・リンポチェは鬼を恐がらない?それは後ろに善神が数多く控えているからである。なぜそなたたちは恐がるのだ?そなた達は戒を守らず皈依もしていないからだ。皈依して戒を守るようになれば、仏法を頼ることができる。戒は仏が発明したものではなく、そなたが仏教徒だから戒を守るのではない。戒はそなたの行いを制約するものではない。戒とはわたしたちの思想、言語、行為を規範する基準である。この規範内で事を行なえば、悪い因も起こらない。戒の意義はここにある。そなたが戒を守らないと、誰かが罰を与えるのではない。罰を与える者はいない。そなたが戒を守らないと、自然に他人と憎しみを結ぶことになる。例えば口が戒を守らず、いつも批判していると、必ず憎しみを買うことになる。だから、戒というものはすべてそなたの生活行為を規範するものである。皈依すれば戒を守るので、自然と仏菩薩とそなたの上師はそなたを褒めるだろう。それでそなたの福報が起る。故に、皈依して始めて戒を守ることが有用になる。

第三、皈依すると、すべての非人が危害を加える事が出来なくなる。非人とはなんだ。人間以外のなにものもそなたを傷つけることが出来なくなる。皈依後、過去の業がある場合だけ、犬に噛まれたり、蛇に噛まれたりする。さもなければ、そなたに触れることもなく、そなたを見れば逃げてゆくだろう。皈依後、すべての鬼はそなたを害することが出来なくなる。皈依後も悪事を続けて、言うことを聞かず、懺悔しないなら話は別である。しかし皈依後、教えの如く行なうと、鬼たちはそなたを見て恭しくするだろう。そなたは皈依して弟子になったのだから。

密宗に我々が天馬を放つという儀軌がある。それは経文を布に印刷してある。チベットでは多くの五色幡が翻っているが、それを天馬と呼んだ。「天馬」とは供養と布施と言う意味である。即ちこの経文で以って供養と布施をするのだ。あるとき、リンチェンドルジェ・リンは十数名の人と一人のリンポチェとラマと共に福隆に行き、天馬を放った。天馬を放つのは、必ず山でなければならない。そこに到着してから、木に五色幡を掛けた。隣には廟があり、誰かが出てきて経幡を掛けるのを止めようとした。交渉している間に、廟の霊媒者が神がかりになり、廟の中の信者に止めないようにと言いに出さした。止めてはいけない、彼等は我々に布施をしているのだ、と言った。天馬を放すことは簡単な動作だ、経文を高く掲げるだけで何も唱えない。この故事は仏の説く事には間違いが無い事を我々に教えてくれる。何処に間違いがあるのか?間違いはそなた達の心に有る。疑う心、信じない心、それでそなた達には多くの疑惑を抱える。皈依した後は鬼を怖がらなくていい。そなた達が他人を困らせたり、弄んだりしなければ、廟に行って霊媒者と立ち向かっても怖くはないのだ。我々はあらゆる衆生に対しても恭敬心を持ち、傲慢になってはならない。実はリンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達が考えるように鬼を殺しに行ったのではない。利益を与えて助けることで、病気がよくなるのである。

第四、我々は皈依後、過去世の一切の罪悪が軽くなり、さらには消すこともできる。皈依さえすれば、黒から白に変わり、悪を止めて善を行うことがはじまり、過去の悪行に対する果報が熟して来ても、善行によって、因果応報の力が軽減し、重い報いも軽く受けることができるようになる。もしある報いがまだ熟成していない場合、そなたは皈依し仏を学んだことで、悪い報いは現れないかもしれない。しかし、善行で悪行を相殺できると誤解してはならない。そうではない。善と悪は二つ平行線で、相殺することはできない。だが、何処が違うのか?そなたが悪行やめ、善行を続けていれば、悪行は後回しになり、悪果が成熟したとしても、蟻や蚊がそなたを軽く咬む位になる。これを、お酒を売る人やロト籤の胴元が媽祖を祀って平安を祈ることと同じようだと誤解してはならない。そうではないのだ。我々が善行を始めると、意識田に悪の種は芽生えない。芽生えるにも因縁がないからだ。悪因が悪果に成熟するまでには、因縁が必要だ。つまり、助けがあって、始めてこの実が熟成するのだ。例えば、過去世で殺生が重いと、今世では必ず短命で健康状態も悪く、家族が円満ではなく、子供が言うことをきかない、といったことになるだろう。しかし、過去世に悪因があっても、今世で仏を学び、懺悔し始めれば、悪の因縁が無くなり悪果を継続して助けることがなくなるため、もし果報が熟成しても、それは少ないものとなる。釈迦牟尼仏が成仏された時も九つ難があり、九つ果報が熟成した。例えば、一ヶ月の間馬糧を食べねばならなかった等だ。しかし、彼はこれによって傷付かず、とりあえず食べ物もあった。ただ馬の飼料を食べはしたが、餓死には至らなかった。

だから、我々は仏を学ぶ過程において、もし何か不調の事があれば、仏を学んだから不調になったなどと誤解してはならない。そなたは仏を学ばなければ、この事はこれに止まらず、尚更深刻だったかもしれないのだ。そなたは神通がないので、過去世に自分がした事を了解する智慧がない。しかし、そなたは一つ極めて確実な観念により、仏を学べば、必ず良くなってくるので、不調等は心配せず、誰かがそなたを処罰しにくるなど考えなくてもよい。どの仏菩薩、護法、上師も我々を処罰しない。全てはそなたの業が引きつけたものだ。言い換えると、もしそなたの考えが善念で、ずっと善行を積み、ずっと仏法を聞いていれば、そなたがひきおこした事はすべて良い事である。そなたはだんだんと気に留めて、確実に仏を学ぶなら、そなたは以前の良くない友達とあうこともなくなる。護法がそなたに代わって遮るのだ。もしそなたはが如法に仏を学ばなければ、護法のほうからさようならと言って、そなたのことを相手にしなくなるだろ。だから、我々は軽減さらに消しさるまで、自分の努力によるもので、もし自分で努力せず、皈依すればそれで問題がなくなると思うのは間違いだ。やはり如法に学ばなければならない。

第五、皈依後の利益として、心に広大な福徳資糧が増える。皈依後、仏法の薫陶を受け続ける。此処で言う心とは我々が事を考える心ではなく、我々の真心で、我々の本性だ。我々の心、衆生に利益する心は増え続け、我々の福報と功徳が累積し続ける。福徳は福報と功徳で、福報はどのように来るのか?布施の供養か?功徳はどう来るのか?修行だ!多くの人は慈善団体に参加すれば功徳が得られると思っているが、功徳が無ければ福徳しかない。そして修行しなくなる。お金で功徳を買えたと思っているからである。以前、梁武帝が達摩祖師に会った時分、多くの事をしていた。梁武帝は多くの仏寺を建て、多くの出家者を助けて、全国に仏教が広まった。彼は達摩祖師に自分は功徳があるかどうかと問うたが、達摩祖師は彼に「あなたには功徳はな、あるのは福徳だけだ」と答えた。彼は怒り、達磨祖師を構わなくなった。多くの慈善機関の方は、功徳は無いと言えば怒る。彼等は多くのことをなし、多くの貧者を助けたというのに、まだ功徳がないというのか。もし、ほかの人を助けたことで功徳があると言うのであれば、カトリックやプロテスタント、ヒンドゥー教、回教にも多くの功徳があるのか?これ等は全て福徳で、功徳は仏法の学習を通して、自分の行為を改め、仏の道を一筋に行って始めて功徳と言えるのだ。福徳はそなたの累世の業力を変えることは出来ない、だが功徳は其れが出来るのだ。其れは何故なのか?そなたが修行して自分を改め、懺悔心、慈悲心などを持てば、そなたが過去世でなした業がそなたに影響する力も存在しなくなり、そなたは変わることが出来るのだ。福がないとだめだ。そなたが仏を学ぶ事であれ、仏法を聞く事であれ、資糧による助けが必要だ。だから、我々には福が必要なのだ。だから、福があっても徳がなければ事をなせないし、徳が有って福が無くても駄目なのだ。だから、福徳ふたつを修めねばならない。

第六、死後悪道に堕ちない。つまり、そなたが皈依した後、仏を学んで、如法に修行すれば、そなたは必ず三悪道に堕ちることはない。つまり「地獄道」、「餓鬼道」、「畜生道」のことだ。しかし、それは教えに従う者のことである。もし相変わらず肉食し、お酒を飲み、タバコを吸い、人をののしり、殴るような者はやはり駄目だ。ただそなたが皈依した後、そなたが今世で「明心見性」しなく、開悟しなく、生死を離れることを決めなくとも、この三悪道はそなたと関係がなくなる。もし、我々が三悪道に堕ちれば、それは苦しみだ。そなたは地獄道の苦しみをみた事はないが、そなたが現在いかに苦しくとも、地獄道の苦しみの万分の一にも及ばない。

第七に、皈依の後、私達の心には殊勝な道が生じる。これはそなたが皈依した後、始めて仏を学ぶ事ができ、自然と我々が過去に於いて累積した善根を開く。この殊勝は成仏の道となるのだ。事実、我々の過去世は仏と同じであるが、ただ一寸した不謹慎で無明が起り、苦海で輪廻する様に成ってしまった。しかし、皈依した後に、我々が真相を知れば、我々の無明は減り、我々の成仏の心が再び起きてくる。そなた達は今世で仏法を聴聞できるのは、過去世においても聴聞いた事が必ずあるはずで、そうでなければ絶対に来ることはない。しかし、どの様にしてこの縁を延ばし続けるかは仏菩薩の責任ではなくて、上師でもなくて、そなた自身にある。だから、互いに注意を促すのだ。

第八、最後に無上菩提の証を得て、有情に利益する。皈依した後、学習を通して薫陶を受けた後、遂に仏果の証を得、一切の有情衆生の利益を図れるようになる。だから、皈依は極めて殊勝な事なのだ。

物語をもう一つそなた達に話そう。親たるものは真に留意せねばならない。最近、リンチェンドルジェ・リンポチェはある子供を救った。この子どもは「天疱瘡」と呼ばれる二週間で死んでしまう病気に罹ってしまった。これは何の病気なのか。全身に水疱が生じるのだ。この子供は栄民総合病院で既に百万元の治療費を費やしたが治癒せず、最後にやっとリンチェンドルジェ・リンポチェをたずね当てた。なぜこんな病気にかかってしまったのか。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に加持した後、彼の母親に「彼が病気に罹る前、おじさんが彼を川辺に連れて行って焼肉をしただろう」と聞いた。母親は「はい」と答えた。

リンチェンドルジェ・リンポチェが彼を加持したとき、子供の腹部から龍が一匹飛んで行った。河辺、谷川、森林、海岸に龍がいるので、家の子供がもしすでに皈依しているのであれば、何があっても焼肉に連れて行ってはならない。家の中でもしてはいけない。焼肉はこれらの龍を傷つける行為なので、龍は必ず報復をする。幸いこの子供はリンチェンドルジェ・リンポチェをたずねたため、危険な時期を脱することができた。また、液汁も流れず、皮膚も生え始めた。其の前までは誰が見ても痛ましい状態だった。この小学3年生の子供の皮膚は、全身火傷で爛れたみたいになり、目も閉じられず肉がむき出しになって、全身包帯で包まれ、まるでミイラのようになっているのを見て、誰もが可哀相にと思った。これは仏を学ばなかったためなのだ。

この子は過去世でリンチェンドルジェ・リンポチェと縁があったので、今世でもリンチェンドルジェ・リンポチェを捜し当てたのだ。だから、そなたの家に子供があって、特に現在皈依している場合、学校側が時として子供を連れで魚を捕りに行くかもしれないし、どこかに焼肉に行くかもしれないが、両親であるそなた達は、まずはっきりと聞き出すことだ。行っても誰も問題を起こさないのに、自分の子供だけそんなに運が悪い事は無いだろう、などと思ってはならない。そなたも皈依しているなら、自分で注意し、気を抜いてはならない。近頃、多くの子供が脳瘤に悩み、皮膚の問題をかかえている。奇妙な病気に罹ったのは、いずれも親の不注意によるものだ。だから、彼らをエビ釣りに連れて行ったり、魚釣りや魚捕りに連れて行ったりしてはならない。これらは子供にとって良くない事だ。良く覚えておくように。

2009年9月29日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009年9月30日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009 年 12 月 30 日 更新