尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ の法会開示

2009年8月4日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009年8月5日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009年8月8日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009年8月9日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで共修法会を主催された。「菩提心」及び金剛乗の弟子が具徳の上師に依止する十条件を開示された。仏法を学ぶ者が「信」を生起させないのなら、外道に落ちやすい。現在、チベット仏教及び顕教も菩提心を発しなければならないと言われるが、実は釈迦牟尼仏が始めて転法輪なされた時には、菩提心及び慈悲心を説かず、まず、仏陀の侍者に対して十二支縁起および四諦について開示された。この部分が原始仏教、或いは、南転仏法、また小乗と称された。それから、菩薩乗及び金剛乗を説かれた。どうして初めにすぐに菩薩乗及び金剛乗を説かなかったのか。というのは、仏法を学ぶのには次第がなくてはならず、しかも衆生の過去世及び今世での背景が異なる故であった。しかしいずれにせよ、8万4千の法門はすべてただ一つの目的のためにある。生死解脱のためだ。出家者は十二支縁起及び四諦を修めるが、一部の法門を在家者は修めることができない。例えば比丘尼の守る戒律は2百余りあるが、在家者は五戒から始まる。厳格に言えば、すべての戒律は五戒を基礎とする。

それから、仏陀は菩提心を説かれた。私達は菩提心妙宝と呼ぶ。なぜなら、菩提心から修行するのなら、障害が比較的少ないからである。菩提心は全てを自分に利益する考えを他人に利益する考えに転換するのだ。今皆さんはすべて自分のためであるが、慈悲心の訓練を通して、徐々に菩提心を発することができるようになる。だから先に皈依から始めて、五戒、十善、慈悲心を修め、そして菩提心まで漸次修める。

菩薩の生活はすべて六波羅蜜の中にある。まず布施であるが、布施は一切を捨て去ることで、布施を学ばないのなら捨てることができない。顕教の訓練を通して、思想の転換を達成する。菩薩のすべての思想は衆生を利益することにあり、それから行動を生じさせる。菩提心は上師に頼らなければならず、上師があなたの菩提心が発きるのを助けてくれ、菩提心を増長するのを助けてくれる。

なぜ死の無常を修めなければならないのか。一切は無常で、絶え間なく変動しており、健康、寿命、伴侶はすべて無常であることを知らなければならない。もし無常を知らないと、仏法を学ぶことを決意できない。仏法を学んでいない者が死ぬ時は非常な苦しみで、どの道にいる有情衆生もすべて、死亡の時には四大分解(地、風、水、火)の苦痛を経験しなければならない。しかし、仏法を学ぶ者が死亡の時には、四大分解は比較的速い。ある者は死亡する時に、四大分解に1ヶ月掛かり、ある者は3日だけで、すぐに終わる者もさえもいる。これは各々の業力と関係がある。私達は、病院にいる患者のその側で扇風機が回っており、クーラーが強く吹きつけていても患者がまだ熱い熱いと言い、其の後、とても厚い掛け布団を掛けても、まだ寒いと言うことがあるが、これは「火大分解」の現象だ。このように突然寒くなったり突然熱くなったりする苦痛は、風邪の時に突然冷たくなったり熱くなったりする感じの100倍ぐらい強い。風邪も火大が均衡を失うので、リンチェンドルジェ・リンポチェは風邪を引かないように、ずっとみんなに氷のように冷たいものを食べないよう勧めている。

死が無常で、影のように付き纏っているものだと認めないと、仏法を修めても成就できない。というのは随時懈怠し、随時様々な理由で修めなくなるためだ。さらに、仏法を学ぶことは心の平静を求めるものだと思っている者さえいる。仏法を学ぶことは心の平静を求めるためではなく、自分の心がどのくらい悪いかをはっきり見ることにあり、更に今生しばしの楽しみ利益を追い求める考えを、永久不変の幸せを追い求めることに転換するものである。慈悲心を重要な道具とし、長期的な訓練をしなければならない。

昨日ある信者が法会への参加を求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に菜食かどうかを聞いたが、彼女は、夫のせいで菜食出来ないと答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女の言い方はとても悪いと開示された。なぜかというと、自分が菜食をしたがらないのに、夫のせいにしたからだ。たとえ夫が本当に彼女に肉を食べさせようとしても、彼女は必ずしもそうしなくてもよい。実際は彼女の決心が足りないためだ。死の無常を心に刻んでいないので、いかなる事にぶつかっても悪念を生じさせる。このように自分の問題を他人のせいにするのは、「悪口」だ。あなた達は皆、輪廻の患いを信じていない。輪廻が自分の身に発生するとは思っていないのである。

『金剛経』には、自分が衆生を済度していると思うのなら菩薩ではない、とある。 それは自分が済度していることに執着するなら、自分と他人とをわけていることになるからである。そして慈悲を忘れ、行ったことは全て故意に作り出されたものとなる。これは有為法である。これでは衆生が得られる利益には限りがある。所謂、何にもとらわれる所無く、ただその心を生じる、と言うのは、なんの目的もなく行うことである。

菩提心は、「世俗菩提心」と「勝義菩提心」に分けられる。「世俗菩提心」とは、心の奥より、衆生を苦しみから遠離させようとする心を発こすことであり、考える習慣を利他に変える訓練をするためで、あなたは自分の意識で、思い、修め、実践していく。どんな法門を修めていても、一切の衆生を自分の母親と見做さなければならない。このような学びの習慣によって菩提心が発こされた後、あなたの考えには微塵の利己心もなくなる。「勝義菩提心」は、世俗菩提心が安定した後、上師が始めて教え導けるものであり、ただ考えを変えるだけではなく、空性まで修め、清浄の本性によって修じなければならない。日常の行住坐臥4威儀の中で心を修め、心が無罣礙になり、衆生を利益する力があるようになれば、それから菩提道を行なう力が持てるのである。

ガムポパ大師が弟子に開示された。上師に依止するには以下の10の条件を具備する必要がある。

第一、少しも疲れず、飽きずに善知識に依止すること。善知識とは我々が生死輪廻からの解脱を助けてくれる修行者である。ある弟子がある法王の開示を聞きに行った。殊勝だと思ったが、結局その内容は全てリンチェンドルジェ・リンポチェが話されているのと同じであることが分かった。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示では、リンチェンドルジェ・リンポチェが教える仏法は、チェツァン法王が教えられるのや、釈迦牟尼仏が教えられるのと、全て同じ仏法である。仏法は元々一つしかないのだ。所謂「法門」とは、ただ異なる修行方式なだけで、どの法門の方が殊勝であるとはいえないのである。

第二、少しもけちらずに依止する上師に財を供養すること。真の供養は息子、妻さえも供養するのである。供養を細かく計算してはならない。当初、チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェにディクンティ寺の金頂を作らせた時、リンチェンドルジェ・リンポチェはお金が無いのにもかかわらず承諾された。リンチェンドルジェ・リンポチェはその時、お金はなかったが、心があったので、必ずできると確信していた。リンチェンドルジェ・リンポチェは最愛の、その後二度と類似するものを見たことがない骨董家具を売って上師の功徳を成就された。チェツァン法王の予言の通り、リンチェンドルジェ・リンポチェが蔵経閣の金頂とドラブ・ワン・リンポチェが言いつけた本殿の金頂を完成した後、直貢噶舉教派は益々興盛した。金頂が出来上がった際、地元のディクンの信者、特に年配者達は皆、それを見て泣いた。それは、仏の宮殿は金で作られるべきで、それは仏法が金色の光の如く衆生を照らすことを示すものだったからである。しかも、仏光もまた黄金色であった。チベット仏教は顕教とは異なり、重要な寺院の頂には銅鎏金を使う。

チェツァン法王が2001年、図書館を建造するに当たって、あるドイツ人が図書館外部の建築物の建築を護持することを願い出たが、蔵書部分には関わらなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェはチェツァン法王の希望を見てとると、自らチェツァン法王に、金剛舞のラマ僧団を台湾に招聘することを願った。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェがご自身にて金剛舞の台湾巡回公演を企画した。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日アキ・ドロルマを修める際、チェツァン法王のために二十万ドル集められるよう祈った。結局、公演が終わって、政府の税などの支出を差し引いたら丁度二十万ドル余りとなった。リンチェンドルジェ・リンポチェは一元も取らずに全額をチェツァン法王に供養した。このお金は丁度、図書館の内部の各ソフトウェアおよび図書館の落慶などに使われた。

三、汚れのない真心で上師に依止すること。リンチェンドルジェ・リンポチェは親孝行しない弟子を罰する。これが最も基本的な事であるからだ。両親にさえ孝行できない者は恭敬する心も持っていないので、菩提心を修めることはできない。長く皈依している者の中に、自分が信者を受け入れて助けることができると思っている者がいた。これは真の心がないのである。自分をすごいと思うことは、菩提心がないことになる。

四、愚かでない智慧で上師に依止すること。上師が与えてくれるどんな教えにも、疑いを持たず、考えず、あれこれと思わないこと。上師は見返りを求めずに弟子を教えによって導く。智慧は仏法を聴聞する時、使えるかどうかを考えない事。今日の法会の前に、ある皈依弟子が法会出席者の皆に説明した。自分の母親は先日、心臓血管が塞がって、大手術を行わなければならなかった。そこで、この弟子は手術の当日に、寶吉祥宝石店に行ってリンチェンドルジェ・リンポチェの写真に恭しく頂礼して、誠心誠意で母が手術の苦しみから解放されるようにと願った。その結果、母が手術室に入った3時間後に、意外にも医者は手術不必要の診断を下したのである。リンチェンドルジェ・リンポチェはこう開示した。何故私達がリンチェンドルジェ・リンポチェの写真に頂礼をすると役に立つのか?これはリンチェンドルジェ・リンポチェはすでにある段階まで修じておられ、上師が諸々の伝承を受けた上師と諸仏菩薩護法を代表するからだ。もし、私達がリンチェンドルジェ・リンポチェの写真に頂礼し、恭しく祈れば、伝承上師及び諸仏菩薩護法の加持が得られるのである。

五、恭しく、我慢のない心で上師に依止すること。上師を医王として見るのである。医王とは即ち釈迦牟尼仏である。一切の病は心から起きる。それは即ち、貪、嗔、癡であり、仏法は心の病を治すものである。自分を患者とし、心が病気なので、上師の法を最良の薬とする。普段、医者に敬意を払うのは、私達を救ってくれるからである。医者を尊敬する念がないのなら、自然に薬を飲まなくなるだろう。上師に恭敬心を持てなければ、上師の教える仏法は生活において使えない。現在、お経を聞く者は多いが、お経の内容を実践する者は少ない。もし上師の教授に基づいて行わないのなら、百万回聞いても役に立たない。

六、少しのためらいもない孝行の心で上師に依止すること。上師の教えに、少しのためらいもない深信は、衆生を利益する法門である。よって、多くを聞くこともない。多くを聞く者には孝行が欠ける。孝行とは両親の行為がどうであっても、常に恭敬心をもって孝行することである。自分が修行しているから父母より優れていると思ってはならない。たとえ法を犯す両親でも両親である。これはあなたが両親と共に法を犯すことにはならない。上師と両親のあなたに対する関心を疑ってはならない。上師と両親はあなたを害することはない。小さい頃、両親が言う事は90%実行した。今、大人になったら行わない。なぜなら両親が言ったことは道理がないと感じるからである。両親に孝行できない者は、上師にも孝行できない。

七、少しもだまさずに正直な心で上師に依止すること。いずれの虚妄の欺瞞なく、心に表裏なく上師に恭しく仕えること。リンチェンドルジェ・リンポチェに表面だけ恭しくする者がいるが、表と裏が一致せず、沢山の話で上師を騙す。もしどんな事も全くわからず、あなたに騙されたままなら、それは上師ではない。上師が語るいかなる事も、あなたのためである。上師の見ていることは現在だけでなく、遠い未来のことも含む。あなたの来世をも見ている。よって、上師は、予防の方法をあなたに教えるが、上師はあなたの聞き分けのなさを阻止することはできない。

八、少しも傲慢さのない謙虚さで上師に依止すること。粗野で無礼なことが有ってはならない。家が富んでいる者は、それを誇示し、その富み故に傲慢に陥りやすい。故に、リンチェンドルジェ・リンポチェは金のある者に対しては非常に厳格である。もし上師が話を始めるのなら、いかなる正式な事あるいは書き物をしているに関わらず、全てやめて、恭敬心を表わさなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、小さい頃から、両親が折檻しても、しっかり立って受け入れた。なぜなら恭敬心があるからである。真の供養とは完全な恭敬心である。特に金剛乗ではこうである。リンチェンドルジェ・リンポチェはこのように説かれた。ある弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェからの叱咤が最も多かった。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェが話を始めても、彼女はいつも他の事をしているからである。

以前、ある功徳会にいつも数千万元以上の寄付をしている信者がいた。しかし最近、悪い事が起きたので、功徳会の法師に会いに行った。結局得られた返事は「無常」であった。確かに無常である。しかし弟子が苦しんでいるのだから、上師としては助けてあげなければならない。弟子に苦難があったなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはまず懺悔を教え、適当な助けを与える。リンチェンドルジェ・リンポチェは恭敬心のない弟子に会ったなら、いつも話をしない。叱られてこそ、改める機会がある。叱られることを恐がるのなら、仏法を学ぶことをやめなさい。職場で上司に叱られるのは好いことである。それによって自分の問題点を知ることができるのであるから。叱られることを恐がる者は傲慢で謙虚でない者である。ある者は言った。あの兄弟子に言わないでほしい、言ったらリンチェンドルジェ・リンポチェに分かってしまうからと。リンチェンドルジェ・リンポチェに叱られることを恐れているからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは叱られる事を恐れる者は傲慢で謙虚でないと説かれた。が、リンチェンドルジェ・リンポチェは関心がないのなら叱らない。チベット密教では、伝授しないものが六つある。一つ目は、漢民族に伝授しない。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェが密法の伝授を得られた原因は、リンチェンドルジェ・リンポチェがチェツァン法王に対して、チベット人よりも更に恭敬心があったからである。チベット人は、リンチェンドルジェ・リンポチェが成し遂げたことは、チベット人にさえ難しいと言っている。これらを成し遂げないのなら、福報さえ起こせず、ましてや業を変えることは言うまでもない。チベット人に一漢人を崇拝させ、更にリンポチェと呼ばせるのは簡単ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェはすべての条件を満たしたのである。

第九、少しの怨みももたず、少しの憎しみももたずに忍耐に住する心で上師に依止すること。ティローパはナローパに崖から跳び降りさせ、女性に非礼をさせ、人を殺すよう命じたが、ナローパはその通りにした。例え殴れて半殺しの目に遭ってもちっとも憎まなかった。上師が弟子を叩くのはその傲慢を殺すためである。傲慢は仏法を学ぶ際の最大の敵で、悪魔の道に堕とすものである。自分の真言が他人より上手であると考えるのも傲慢である。リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの菩提道廣論を学んでいる者に出会った。彼らは菩薩道を修める多くの知識が得られるので学んでいるのであるが、これにより非常に傲慢になった。論を読むのは修行ではない。チェツァン法王もまた、読経、真言を唱えること、礼拝は修行ではなく、自分の行いを改めることこそが修行であるとおっしゃっている。

第十、凡庸相ではなく本尊相で上師を見ること。上師は本尊を代表して法を伝授する。これは、清浄な本尊である。上師を本尊と同一視しなければならない。上師を凡夫相として見てはいけない。上師は仏のように見るべきである。上師が教えることすることはすべて、仏を代表して行なうことである。上師を仏のように見られたのなら仏の加持が得られる。チェツァン法王はかつて「上師が間違っていると思っても、実は自分が間違っている」と開示されたことがあった。それは上師として認証された者は必ず一定のレベルに達しているからであり、初めて高座に座る資格を持てる。資格がないのに高座に座ると護法神は彼を高座から降ろし、降りないなら死なせる。上師が戒を破ったと批判した者がいたが、上師が破戒したかどうかは彼の上師が判定することであって、あなたが判定するのではない。戒を授かる資格がない者は誰が戒を破ろうと言う資格はない。人が破戒したというのは妄語である。ましてや守戒、開戒、破戒の分別、根本戒、金剛戒もそれぞれ異なる。これらは凡夫にははっきり分からないものである。

ガムポパ大師の説かれたこの十の条件をリンチェンドルジェ・リンポチェは以前見たことがなく、今日初めて目にしたが、確かにずっとこのように弟子に教え伝えてきていた。そこから考えと、過去世でガンポパ大師に従って仏法を学んでいたと思われる。この十の条件をリンチェンドルジェ・リンポチェは過去世から持ってきており、自然に行なっていた。金剛乗の弟子は特にこの十の条件に注意をしなければいけない。上師があなたに論理を話さないのに、あなたが上師に論理を話すのなら、仏法を学ぶ必要はない。医師は出した薬について、詳しく成分及び効果を解釈しないのと同じだ。末法時代において衆生の業は重く、上師は激しい方法を使う。もしこの方法に耐えられるのなら、通過できる。上師が言いつけたことはすぐに行いなさい。ゆっくりやればいいのではない。あなたを待っている時間はない。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に生死無常を念じ、常に明日は死ぬかもしれぬと思う。甚だしくは今夜にも死ぬかもしれないと思う。あなた方は残酷だから、どんなことでも上師に聞く。上師は既にあなたに教えたのだから、自分で修められ成し遂げられるのである。上師を頼らなくてもよい。

ある者は唯一度チベットに行っただけなのに、帰ってからリンチェンドルジェ・リンポチェに、自分が感得したことを告げた。リンチェンドルジェ・リンポチェはこう開示された。もしそんなに簡単だとしたら、チベット人はすべて修めたはずだ。感得を得たいのなら、仏法を学ばなくてよい。他の宗教ならもっと早い。しかしそれは究極ではなく、業を変えることはできない。リンチェンドルジェ・リンポチェが道教を修じていた父の死亡過程から学んだのは、他の宗教は死に対して何も手立てがないということであった。人生で一番大切なのは死である。死の過程は自分でコントロールできないものである。例え心身の苦しみを軽減できたとしても、中陰の段階では同様に苦しい。よい修行ができたなら早く天に昇れ、悪を為した者は地獄に堕ちる。さもなくば中間にひっかかってしまう。

上師の心はいつも弟子を気にかけている。2日前、リンチェンドルジェ・リンポチェがチェツァン法王を思うと、チェツァン法王からの電話があった。今後一ヶ月の間ラダックに赴き、そこでは電話連絡ができないので、何か用件があるのなら、先に言いなさいというものだった。ここから、リンチェンドルジェ・リンポチェとチェツェン法王の心が繋がっていることがわかる。また、リンチェンドルジェ・リンポチェが金剛乗弟子が上師に依止するための十の条件を完璧に行っていることを物語るものであった。

あなた達は自分を点検しなければならない。表裏一体となっているか?自分は家柄が良いとか、学問があると考え傲慢になってはならず、自分を変えなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェはチェツェン法王の目の前で、自分を改める故、普段の上師としての気勢は感じられない。

古代インドにおいて、ある沙弥が阿闍梨(法を教授する和尚)にマンダを捧げて恭しく法を請った。阿闍梨は「私たちは前世の因縁が深くない」と説いた。そこで、沙弥はアティーシャ尊者について法を学んだ。それは沙弥とアティーシャ尊者の因縁が深かったからである。リンチェンドルジェ・リンポチェは下記のように開示された。上師はあなたの供養を見ているのではない。供養は昔から法を請う前の儀軌である。リンチェンドルジェ・リンポチェはある者には法会に参加させるが、ある者には、彼らが自ら願わない限り、話さない。これも前世因縁の深さの故である。アティーシャ尊者は沙弥に観音成就法を教え、この沙弥はその通りに実践し「見相、触相、声相」を修め、その後、アティーシャ尊者は彼に観音菩薩に法を請わせた。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子の境地については上師の確認が要ると開示された。リンチェンドルジェ・リンポチェは長い間、閉関する度に、修ずる本尊に相応する徴候が現われているが、チェツァン法王に報告し、リンチェンドルジェ・リンポチェが真に修めたかどうかを確認してもらう。菩薩は気軽に人にまみえさせることはない。これは慈悲故である。衆生に貪念を起させないためであり、あなたが五戒十善、慈悲心、菩提心を全て修め、加えて閉関実践を行わないのならば、見ることはできない。

沙弥は観音菩薩に下記の指示を仰いだ。一切諸法の根本は何か?修行の最大の障害は何か?どの方面に精進すべきか?見解の中でなにが重要か?神識は何種類に分けられるか?何に頼ることで円満な資糧を得られるか?観音菩薩は次の如く開示された。

一、菩提心は一切諸法の根本である。菩提心を発し、ただ世間菩提心を得たのであれば、勝義菩提心を始めたら、懺悔しなくてもよい。

二、最も微細な果報も修行の障害である。善または悪の果報は成仏と輪廻からの解脱の障害となる。善行をして見返りを求めるのなら障害となる。顕教では布施を行う時に「三輪体空」が必要であると解釈している。これは布施者、布施物、受施物の相がないことを指すが、それなら、「三相体空」と呼ばれるはずである。リンチェンドルジェ・リンポチェは次の如く開示された。ここに述べる「三輪体空」とは「頂輪」「喉輪」「心輪」のことである。私たちは話す時は「喉輪」により、何かしたい時は「心輪」により、何かする時は「頂輪」による。私たちは布施する時に身、口、意を使うが、この身口意は因縁により生じ、因縁によって滅する事を深く感じ取らなければならない。だから、布施する時に、本体も因縁生滅法である故、「三輪体空」に関する。よって、悪因は二度と作ってはならないのである。龍樹菩薩は嘗て示したことがある。外道が彼を殺そうとしても殺せなかった。業が既に滅していたからである。以前葉で蟻の頭を切った業だけが残っていた故、一枚の葉で自分の頭を切り落としたのである。

三、業因果面において精進すること。一切は善で行うこと。

四、見解の中には、正見が最も大切である。正見とは一切説法の総結であり、如何に輪廻を断つかをはっきり知る「見」である。

五、神識は6種類とするものと、8種類とする説がある。観音菩薩は、意識とは猿が城郭に閉じ込められる如く静かになれず跳び回っているものと説かれている。仏法を学ぶと、意識を智慧に変えることができ、あなたを象のように落着かせ、はっきり見せてから歩ませることができる。

六、円満な資糧は般若波羅蜜に依らなければならない。それはつまり空性である。「空性」の二字を仏は22年も説かれたが、普通の人が体得できるものではない。時が至り、因縁が備わった時に初めて体得できるものである。

今日、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示された内容は、私たちが若し自分で金剛乗の弟子が上師に依止する十の条件を見るならば、少しは理解できるかもしれないが、その後、リンチェンドルジェ・リンポチェが説かれた観音菩薩の教示内容は、もしリンチェンドルジェ・リンポチェが解釈されなかったなら、私たちは読めるけれども理解できないものであろう。

2009年8月25日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009年8月26日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009 年 12 月 30 日 更新