尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ の法会開示

2009年7月4日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

2009年7月5日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで皈依法会を主催された。また信衆41名の皈依を受けて弟子とされた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、皈依の儀軌は簡単に見えるが、その意義は奥深いと説かれた。人々は自分の体はとても重要だと思い、自分の持つ体を、いつも気にかけ、遂に自分に利益しようとする考えに至る。仏法では、体は業報身で、今世人身を得るは、ある過去世で、十善法をよく修めたからだ。故に、今世十善法を修めなければ、たとえ人体を擁しても人だと言えない。今世で人になれても決して次の世でも人になれるとは限らない。人が罹る病気の95%以上は、過去世の業のためだ。

人が人たる第一の条件は不殺生だ。肉を食べると殺生をする。ある者は自分の手で殺したことはないと言うが、他人にそなたのために殺生するように仕向ければ、罪は更に加わる。母親が菜食者故に、胎内に宿された時から菜食者ではない限り、胎内に居る時から既に悪業を積んでいる。キリスト教、カトリック教、イスラム教、道教などすべて斎戒がある。近頃、離婚率が高いのはすべて殺業のせいだ。雄豚を殺せば、雄豚と雌豚を別れさせ、雌豚を殺せば、子豚は母親を失う。その結果報いは自分が家族とはなればなれになる。同様に、切り傷一つ受けても、1滴の血を流しても、すべて殺生のせいだ。

不偸盗。自分の物で無ければ取ってはいけない。我々はこの事を犯しやすい。政府機構や民間企業で働いている者は、1本のペン、1枚の紙を自己のために使う事さえ、すべて偸盗だと言える。海賊版のCD或いは偽ブランド品を買うのもすべて偸盗に入る。コンピューターのソフトウェアを複製して使用することもこれに含まれる。野外でむやみに花を摘むのも偸盗だ。万物には全て主人がいる。以前、河辺で石を拾って持ち帰った者がいたが、後に、怪奇な病に罹った。それは石の上に龍が付いていて、龍が彼に報復をしたからである。昔古代の人は年に何回かしか魚や肉を食べられなく、日頃は野菜や豆腐類しか食卓に上らず、現在の如く毎日大量の魚や肉を食べることはない。これも今の離婚率がこんなに高くなる原因でもある。リンチェンドルジェ・リンポチェが香港に居られた時、ある者が時価より90%も安いサファイアを売りに来た事が有った。このサファイアの品質はきわめて良く、しかもこのように安いので、買い入れれば必ず大儲けをすることができる。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは、この宝石の出所に問題があるとお考えになられた。これは鉱山区の外国会社の従業員が組んで盗んだ宝石で、売り手はこれらのサファイアはすでに何回か売買されているし、領収書を作成する必要もなく、買い手が誰だか誰も知る由が無いと保証した。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは十善法を修めているので、他人が偸盗の戒律を犯すような事を助けはしない。だから買わないと決められた。よく此方で買わなくても他で買うだろうという者が居るが、其れは他人の事だ。この世で常に物をなくしたり、お金を騙し取られて取り戻せなかったり、訳も無いのになんとなく散財してしまう事が有れば、すべて過去世に犯した偸盗と関係がある。ある者はとても金持ちなのだが依然としてちょっとした得をむさぼるが、それも過去世から残された偸盗悪習のためだ。

不悪口。他人の気を重くする事を言わない事。友達の配偶者が、町で異性と一緒に立っていたり、一緒に食事をしていたりする事を見ても、友達に告げ口しない事。彼等二人が分かれるかどうかは彼等の事で、我々はこの悪縁に参与する必要がない。不悪口とはただ他人に罵詈雑言を掛けないと言うだけではなく、そなたの心掛けを言っている。心に嗔念が起れば、自然と他人を傷つける悪口を言うようになる。他人を罵らない事が不悪口だと思い、他人を罵りたくなれば、急いで阿弥陀仏を唱えろと教える。其れは間違いだ。いつ阿弥陀仏が他人を罵るときの言葉になったのだ?口先で仏を唱えても、心に嗔恨があれば、同様に悪口を犯す。もし慈悲心を修めれば、自然と悪口をしなくなる。なを、他人の業障が重いと言う者が居るが、これも悪口だ。そなた達は他人の業障が重いと言う資格がない。ただ上師だけがそれを言える。

不両舌。大企業で仕事をする者は、良く他人の良し悪しを論ずる者に出会うが、我々は他人が正しいか間違いかを言うべきではなく、「すみませんが、忙しいので」と避けるべきである。我々はそれを聞き、それに相槌を打つのではなく、主動的に他人に両舌する機会を無くさせる。他人の秘密を探らないだけではなく、それを聞くことも避けるべきだ。 我々は政治人物を批評してはいけない、仏経は、統治者の悪口をしてはいない、たとえテレビの画像に向かってもいけないと説く。それは彼は我等自身が選び出した者で、よしんば彼に票を投じなくても、最低我々の共業であるからである。汚職をした政治家が居るのは、それは、人の心に貪念があるので、そんな者が我々が生きている時代に現われたので、良き時代に生まれなかったのも懺悔をしなければならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェが上師になる前、ある仏を学ぶ女子より電話が掛ってきた。彼女は既婚の男性と付き合って妊娠していたが、この事に付いてリンチェンドルジェ・リンポチェの見方を伺った。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に自分したことは自分で責任を負い、子供を生んでよく育て、他人の家庭を更に傷つけないようにとお勧めになられた。その女子はその場で泣きぬれ、「もしあなたも他の人と同じく私が悪いと言えば、自殺しようと思った!」他の仏を学ぶ者は、仏法を引き合いにして彼女が戒を破ったと責めた。口では仏法を説くが、他人を傷つけ、危うく二人の命を奪う所だった。慎重に考えなければいけない。

不綺語。顕教では色っぽい冗談や、人の肉欲を引き起こす扇情的な言葉を言わないとする。男女がつきあう時、気の進まない、将来もする心算がない承諾はするべきではない。

不妄語。嘘をついて人を騙してはいけないばかりではなく、不用意に物事の約束をしてはいけない。そして約束した事は必ず履行しなくてはいけない。あった事を無いと言ってはいけないし、なかった事を有ったと言ってもいけない。上師が機根のある弟子に出会い、法を持っているのに持っていないと言ってはいけない。

不邪淫。仏法では一夫一妻を説かない。これは天主教、又は多数の文化環境では従っているものだ。此処で不邪淫とは、苦しい状態にいる女性と交わらず、既婚の女性或いは男性と、また監護人がある者と交わらない事を指す。これは囲われている者をも含む。主のある女性はこの男性に借りがあるからだ。体で借りを返すとは言えないが、彼女は必ずその男性に答えなければいけない。こんな女性と交わると、彼女はまたその男性に借りが出来、生々世々借りを返す事になる。動物や、男女出家衆と交わってはいけない(殊に女性の出家衆と交わるのはいけない)、これは極めてよくない。例えば母と息子の不倫はいけない。また同性が交わるのは顕教では邪淫と言うが、金剛乗仏法では、懺悔心を起こせばその皈依を受け付ける。女性が自分は男のようだと思うのは、彼女が前世にて強い肉欲があって得た悪果である。女性の体でお金をもうけた事が有る者は、今世では黄門身を得る。すなわち、古代の宦官であり、現代の性転換者である。例えばタイでは多くの男性が女性に性転換して、一生これに悩まされ、もうけた金は女体を保つホルモン剤に費やされてしまう。地蔵経には載ってあるが、情欲が強い者は死後地獄へ落ちる。リンチェンドルジェ・リンポチェも密法を学んで、始めてこの事を知った。この部分は気脈明点と関係がある。腎臓の問題がある者は過去世に邪淫があったからだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて男出家衆を1人助けた事が有る。彼は東方医学で滑精と言う病気がかかり、咳をすると、精が流れて出し、体はすごく悪く、治療しても修法してもなかなか治らなかった。 彼がリンチェンドルジェ・リンポチェに助けを求めた時、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼が以前ドイツへ行った時、地元の女性と交わったが、彼は完全に還俗してなく、邪淫を犯したので、彼のそばに中古のヨ-ロッパの女鬼が1人憑いていた事がわかった。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの出家衆の為に「施身法」を修めると、彼は完全に治癒した。この病は西洋医学では治療の手立てが無い。だから還俗する場合、必ず上師、仏菩薩の前で、確実に還俗すれば、戒を破る事はない。

不貪欲。去年の金融危機で、多くの者が損を蒙ったが、それは慾が深く、ファンドを買い、自身で努力をしないで他人任せで儲け様としている。これも窃盗を犯している。実はリンチェンドルジェ・リンポチェにファンドを買うように誘った者がいたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは不貪欲なので買わなかったし、影響も受けなかった。証券市場では、誰かが損して始めて誰かが儲かる。そなたが儲けたものは、誰かが損したからである。実はこれも窃盗を犯している。しかし株を買って株主となり、株の配当を貰うのなら、其れはいいだろう。株は投資するもので投機するものではない。情欲を貪るのも貪欲一つである。

不瞋恚。他人を怨まない。恋人が別れても、相手を怨まない。他人を怨む者は、顔貌が醜い。リンチェンドルジェ・チンポチェは他人を怨むことが無かった。たとえ他人の危害を受けても、リンチェンドルジェ・リンポチェは一笑に付し、恨みを残さなかった。故に、リンチェンドルジェ・リンポチェは近づき易い容貌を備わられる。

十善法の第十は不邪見である。

仏法は大宇宙論で、狹小ではない。観想の種字を見ると、それは時計の進む方向に逆らって並べられ、時計の進む方向に沿って回転している。それは宇宙の星のようであり、星雲でもある。人間としての條件を満たさなければ、どの法を修めても無駄である。十善法は最も基本で、十善法を良く修めれば、福報が現われ、其の後何を修めたり学んだりしても、障害が少ない。

リンチェンドルジェ・リンポチェの母親は丑年の方だが、去年、リンチェンドルジェ・リンポチェは母が今年丑年は厄年なのを知り、今年の4月に香港に赴き、母を台湾へお連れなされた。その時、母は風邪で間違った薬を飲み、体調を崩し、食事をする力もなく、よだれを垂らしていた。(リンチェンドルジェ・リンポチェは涎掛けさえ準備しておられた)手足は衰え、歩くことができなく、睡眠中に足がベッドから垂れ堕ちても自覚せず、垂れた足をベッドに戻す力も無かった。これは老人性認知症の現われで、老人が間もなく往生する前兆でもある。そこて、リンチェンドルジェ・リンポチェは母を台湾へお連れし、ただ漢方薬だけを飲ませ、また母のために法を修められた。四月から六月までのたった一ヶ月余りの日にちで、母親は完全に健康を取り戻し、順調に香港に戻られた。リンチェンドルジェ・リンポチェの母は、一生がまんの連続で、主人の良い所だけを口にし、たとえ主人が外で女を作っても(主人の顔貌は梅蘭芳に似ていた)、ぜんぜん怒らなく、批判しなく悪口も言わなかった、主人が他界した今でも、主人のいい事しか言わない。だから晩年の今は息子と娘が親孝行なのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは母が病気で苦しむのを見ると、とても悲しまれた。だが、母の「痴」の果報が今世で償われたのを見て、喜んでも居られた。

皈依はするべきでない事をはっきり知り、危難に面した折、福報を得て問題を解決するのである。十善法を修めて、始めて自分の間違いを知る。基礎を固めれば後は簡単だ。仏経で言う善男子善女子とは、十善法を修める男女である。阿弥陀仏の浄土に行くには、必ず十善法を修めなければならない。みんなが十善法を修めて、悪をしなくなると、他人にも悪いことをしないように影響する。これは金子を寄付するよりも役に立つ。全ての宗教は善行をするように勧めているが、仏教のように善を完全に説明していない。

我々の業報身は父の精と母の血が結合して生まれたものである。両親は我々に体を与えるが、業を変えることは出来ないし、未来の業に影響する事も出来ない。我々の身体は永劫不変の物ではなく、今世が終れば業力によって再び六道の輪迴に引かれて行く。本当に生々世々変わらないのは我々の仏性である。皈依は我々の法身が今世で生まれ変わったように貴重である。仏陀を学ばなければ、我々はただ業の海中で翻弄されるばかりで、皈依した後、上師と諸仏菩薩が加持された仏法の教えと導きを得て、始めてこの人生に於いて仏を学び、修行する機会を得て、一日も早く業の海を離れる事が出来るようになる。仏の助けで我々の法身が現われなければ、業海を離れる事が出来ない。リンチェンドルジェ・リンポチェはもともと寿が短かったが、上師と仏菩薩の教えを通して仏法に精進し、未来を変えた。真の重点は教えを聞く事である。

皈依すると8つの利益を得る。
(1) 仏教徒になる。仏教徒は仏教の弟子ではなくて、仏が教えた仏の弟子である。修行者が仏を代表して法を伝えなければ、修行が出来ない。三宝に対して強烈な信心を持たねばならない。皈依すると何ら悪い事があると思ってはならない。完全に上師を信じて、恐れてはならない。

(2) すべての戒律の拠所と成る。多くの者は菜食しているが、体が弱い。それは戒律の拠所と成る者がないからである。唯牛や羊など同様に菜食になるだけだ。皈依後一つの戒律を守る毎に、戒律の神や護法がそなたを守る。

(3) すべての非人は危害を加える事が出来なくなる。皈依後、善神及び護法の守りがあり、皈依戒を破らない限り、そなたを怨み憎む悪霊も危害を加える事が出来ない。悪霊などは見えないのである。もし弟子が悪霊を見たと言ったら、其の弟子は戒を破り、上師をも信じていないからである。

(4)すべての罪業が軽減し、消滅に至る事もある。

(5)心の中に広大な福徳資糧が増える。皈依前には善行をするとしても躊躇する。今日自分の経歴を話した弟子のように、皈依する前は、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女に菜食する事と、お金がなくて病気に罹っても診てもらえない人にお金をあげて助けなさいと説かれた。だが、彼女は信じなく、言う事も聞かなくて、更に肉食を続けた。もし彼女がリンチェンドルジェ・リンポチェの言った通りにしたら、その後人工授精や流産の苦痛に出会わなく、多額な出費も無かっただろう。

(6)死後、悪趣即ち畜生、餓鬼、地獄道に堕ちない。それでも必ず皈依戒を守り、上師と三宝に対し敬虔でなければいけない。

(7)心の中に殊勝の道が起こる。上師の加持を得ないと殊勝の思いは起こらない。

(8)引き続き無上菩提を悟るまで学ぶ。

皈依後、幾つかの事に注意しなければいけない。
(1)天神に頂礼してはいけない。皈依後仏教の善神、護法が身の周りにいるので、皈依後また他の宮廟へ祈願に行ってはいけない。一般の宮廟には、よければ福報のある霊、或いは祖先がいるが、悪ければ孤魂野鬼がいる。もし皈依後彼等に祈ると、皈依した故この霊や神は相手にしてくれないし、また皈依戒を破る事になる。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつてある金持ちに遇った。その者はある寺社へ戸建の件が順調に行く事を祈った。結局彼の願うとおりに成ったので、彼はこの寺社に何百万元かを寄付した。しかし金を貰ったのは霊ではなかった。霊は見返りを得ないので、祈った者の精気を吸って、彼の福報を損耗し、それで償わせた。皈依後は祖先を礼拝しても祖先に祈願してはいけない。それは先ず皈依戒を破るし、次に祖先に転生出来なくさせるからである。リンチェンドルジェ・リンポチェの母方の祖父は死後霊験あらたかであり、家には誰が病気に罹ると姿を現した。リンチェンドルジェ・リンポチェの父が他界する前、祖父が数日にわたって現れた。しかし父の他界を知ったとしても助ける事が出来なかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは幼い頃父に従って道教を学び、十歳の時には呪符を書いて病気を治し、のどに刺さった魚の骨を取り除き、止血などができた。それで神童などと呼ばれた。だが、十八歳の時父が死に面し、道教が究極の道ではないことを悟った。其の後すべての道教道具は仕舞い込み、一切使わなくなった。

(2)有情を殺害するべからず。堕胎も有情衆を殺害する。

(3)外道に依止するべからず。

(4)三宝に会えば恭敬を尽くす。上師や仏像を指差すのは失礼である。チベット人は上師や仏像に逢うと、手のひらを上にして紹介すし、敬意を表す。

(5) 特別な事でご都合主義により皈依戒を捨ててはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは当時皈依するとすぐ戒律を厳しく守った。かつてある者がリンチェンドルジェ・リンポチェと商談をしていたが、リンチェンドルジェ・リンポチェに酒を勧め、一杯飲めば一千万元に相当する契約を結ぶと言った事があった。だがリンチェンドルジェ・リンポチェは戒律を守るため、それを断った。この者はリンチェンドルジェ・リンポチェは宗旨を守る者と思い、逆に契約を結んだ。リンチェンドルジェ・リンポチェも、法会前に話しをした女性弟子の例を挙げて、彼女は職を求める履歴書に正直に流産した経歴を書き込み、かえって会社に採用された。

(6) 決まった時毎に供養すること。それは毎月道場を護持することを含む。金がなければ一元だけ護持してもよい。まえにチェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェに直貢梯寺の金の屋根を作り終えるように言い付けた時、リンチェンドルジェ・リンポチェはお金がない状況でもお受けなされた。この仕事を完成するため、自分の一番気に入っている骨董家具一セットを売って惜しまなかった。その骨董家具の様式や材質はここ十数年経っても二度と見つける事が出来なかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に自分の持つ一番いい物で供養している。

若し次に述べる事柄があれば、加持を得る事は出来ない:上師と争う、上師に言い付けられた事を果たさない(上師からの指示をお受けしたにも関わらず、愚図愚図して他人に肩代わりさせ、それでも尚加持を得たいと望んでいる)、上師を敬わない、上師を讃えない、上師に頂礼しない、護法を軽視したり辱めたりする、上師の功徳を褒め讃えない、上師に親しく近づかない、上師に対して怒りを抱く。

ある弟子は法会に参列しないで、921震災の記録映画を撮りに行った。自分ではいい事をしたと思っていたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に帰らせなかった。若し帰るとすれば、再度皈依しなくてはいけないが、皈依したいからと言ってリンチェンドルジェ・リンポチェがすぐ皈依させるとは限らない。

ある皈依弟子は普段上師に親しく近づかなく、黙々と仕事をすればいいと思っていた。一度、レストランでリンチェンドルジェ・リンポチェが隣の食卓におられるのを見たが、食事代を全部払う事を心配するあまり、挨拶もしに行かなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の心を推し量り、一緒に食事をしている人に、後ほど勘定が終ると、この弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェに挨拶に来ると言った。果せるかな、食事の勘定が終ると、この弟子はびっくりした表情でリンチェンドルジェ・リンポチェに挨拶に来た。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子に供養心がないと開示された。たとえ他の人の費用は払いたくないとしても、率直にリンチェンドルジェ・リンポチェの分だけを支払い、供養すると言えばいいのだ。そしてこの弟子には永遠に供養させないと罰され、今後海外渡航の活動にも参加させないと為された。

修行者の傍には多くの護法がいて、有る者は世間護法であり、まだ人間の観念習慣があり、弟子が上師を怒っているのを見ると、警告を発し、何か事態を起こす。上師或は道場が好きではないなら、楽しく離れても構わないが、「自分は上師が好きだが、上師の側にいる誰某が嫌いだ」等と言うべきではない。これは非常に悪い心構えである。

【仏有部根本毘奈耶經】曰く、若し皈依弟子が因果を信じなく、怠けて、悪口(特に上師を誹謗する)、恥を知らず(再三間違いを犯す)、悪知識に近づく(悪知識は外道とは限らない。ただそなたに輪廻を断つ必要はないと思わせる)等五つの事をすると、上師は共に語らず、教授せず、共に享受せず、善事を許さず、同室せず等の五つ事で対応する。

それから、リンチェンドルジェ・リンポチェは41名の信衆の為に皈依儀軌を行い、また次の事を説かれた。壇城の仏壇の真ん中は釈迦牟尼仏であり、右側は金剛薩埵、左側は蓮師(とても重要、密法をチベットに伝えた)。壇城の右側仏壇の真ん中は四手観音であり(慈悲を表す)、その左側が金剛手菩薩であり(勇猛を表す)、右側は文殊菩薩である(智慧を表す)。慈悲があって智慧が無いのは事なかれ主義になり、智慧があって慈悲がないのは傲慢で尊大になる。更に勇猛な心で仏を学び、衆生に利益する。例えばリンチェンドルジェ・リンポチェ、昨日土曜日は珠宝店で絶え間なく信衆に会い、其れを助けて、5時間もお座りになったままで、その間水を何口か飲んだだけでトイレさえにも立たず、これこそ智慧、慈悲、勇猛の心で以って衆生をお助けになって居られるのである。左側の仏壇の真ん中はジッテン・サムゴン奉り、右側は四大教派共通の護法マハガラ、左側が直貢噶舉不共護法アチターラである。またリンチェンドルジェ・リンポチェは説かれた。皈依儀軌の中で髪を切るのは、一切の煩悩を断つ事を表し、未来出家の因縁を蒔く、これは剃髪して出家する事ではなく、輪廻の家を離れる事である。またチベット仏教の頂礼の方式は、両手は合掌し、親指をわずかに内側に曲げる。これは最も貴重な宝を捧げて供養する事を表す;手のひらの付け根はぴったり合わせて三悪道に落ちない事を表し、順番に頭、咽喉と心の上を軽く触れ、跪く時には両膝、両方の手の平、両肘と額を地に付け、上師を敬う事を表す。又自分の驕れる心を降伏し、身口意を以って供養する事を表し、5毒を抑えて、5智に変えることを表す。

2009年7月7日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

2009年7月8日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

2009年7月11日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

2009年7月15日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

2009年7月18日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

2009年7月21日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009年7月22日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターにて殊勝な「懺悔三十五仏」を主催された。当日午前中に今世紀最大の皆既日食があった故、リンチェンドルジェ・リンポチェは特別に、午前8時きっかりに高座に昇られ、「懺悔三十五仏」の法会を執り行った。

リンチェンドルジェ・リンポチェは次のとおり説かれた。チベットでは日食或いは月食に出会うと、上師は必ず修法する。まだ輪廻苦海の中に居る六道衆生であるなら、全て宇宙にある星の変化の影響を受ける。人間は修行していても、空性を証得する前には、年、月、日、時の衝撃を必ず受ける。言うなれば、銀河系のすべての星の変化は人に影響を及ぼしている。“衝撃”というからには、よくない事を表す。私達は何度生まれ変わってもすべて苦海の中で輪廻しているが、地球に生まれるとは限らず、かつて他星で生まれたことがあるのなら、その星が私達に近づくと、自分の健康、思考、運気などに影響を与える。科学の研究報告によると、日食または月食に出会った時、潮せきには変化が現れる。地球上の磁場と電子はすべて影響を受け、昆虫、動物の生理状態にも、ある程度変化が起きる。人類の体も自然に影響を受ける。

日食は太陽系の天体全てに影響を及ぼす。特に地球および地球上の衆生に影響を与え、餓鬼道及び地獄道の衆生への影響は尤も大きい。餓鬼道の衆生は陽気が盛んだと怖気て出て来ない。実際には、餓鬼道の衆生は朝四時以降に隠れ始め、午後四時以降に活動を再開する。比較的福報がある餓鬼は早めに出て来て、福報が少ない者は遅く出てくる。故に正午以降に出てくる餓鬼道の衆生もおり、それがかれらの生活時間となる。しかし、今朝起こった皆既日食では、時間がさかさまになることで、これらの衆生に恐れを生じさせる。歴史上においては、皆既日食の後、必ず大きな事件が発生しており、非常に良い事でなければ、非常に悪い事である。特に、今回の皆既日食の後は、更に百年が経過して初めて、同じような皆既日食に逢うことになり、即ち、この皆既日食の影響はほぼ百年継続されると言ってもよいだろう。それ故、常に悪行をしている者は災難に出会う。悪業の果報が早めに現れるからである。

今日の懺悔三十五仏の法会への参加が自分のためならば、本日の法会の目的とは異なるものである。法悦に満ち溢れた気持ちで、一切衆生の代表として礼拝し、衆生が日食によって災難にあわないように、国家にも災難がないように願うべきである。特に、今日の皆既日食は、インドから始まり、アジア全域にかけて大きな影響を及ぼすものである。様々な要素があるので、どんな影響があるのかまだ測り知れないが、皆が誠心誠意をこめて懺悔すれば、必ずポジティブな影響を与えることになる。利己的であれば、ネガティブな影響となる。なぜなら、利己的な者は利己的な者と共業を為すからである。仏菩薩は利己的ではない。そなたが衆生を助けるのであれば、仏菩薩はすぐに、そなたを助けに来られる。

“懺悔三十五仏”は宝積経において釈迦牟尼仏が自ら紹介された儀軌である。台湾の顕教では、この懺悔を礼拝するのを見た事がない。ほかの懺悔法には“粱皇宝懺悔”や“水懺悔”などがあるが、これらは後世の人が書いたものであり、ただ、“懺悔三十五仏”だけが、釈迦牟尼仏の説かれた懺悔法である。“懺悔三十五仏”は特に、菩提心を発し菩薩道を修行する者が修める法である。我々は生生世世、非常に多くの障害に遭遇する。よって、この懺悔法で、仏法を学ぶ障害を迅速に取りのぞく必要があるのである。

数日前に、リンチェンドルジェ・リンポチェはチェツァン法王に電話をかけて、今回の皆既日食には、どの法を修めることが、衆生を最大に利益できるかと教示を求めた。チェツァン法王は“懺悔三十五仏”が最良であると説かれた。リンチェンドルジェ・リンポチェもまた、懺悔三十五仏が確かに最良の方法であると教示された。

仏経には、今日のような特別な天象の日に行う仏事は、功徳が大きいと記載されている。台風の日も同様である。なぜなら、衆生が苦しんでいる時に法会を行い布施をするなら、得られる功徳は通常より大きいからである。先の台風の際、リンチェンドルジェ・リンポチェが法会を執り行うと、台風の力は大幅に減少し、衆生を傷つけることがなかった。天界の衆生ならば影響を受けないのではない、あらゆる六道の衆生が影響を受けるのである。しかし、もしそなたが常に善行を修めているのなら、星の変化は、そなたに良い影響を与えるであろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは道場後方に遅れて入場した弟子の誤った礼拝方法を指摘し、そして彼女に皆の前でその礼拝方法をさせ、また、皆を導く役の兄弟子に、模範として正しい礼拝方法を示させた後、リンチェンドルジェ・リンポチェは下記のように訓戒された。この弟子は既に2002年に皈依し、長年皈依しているにも関わらず、礼拝方法さえ分からない。彼女が上師の言ったことに従っておらず、心して仏法を学んでいない証拠である。まさかリンチェンドルジェ・リンポチェは教えたことがないというのだろうか?毎日家族の平穏無事ばかりを祈っている。彼女は完全にエゴで、上師の動作を見ていない。エゴでない者は上師の一挙手一投足を注意している。彼女の礼拝方法があんなに早いのは、彼女が礼拝を、ただの単純な動作だと思っているからである。上師が言った事を全く聞いておらず、耳に入れてもしっかり覚えていなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェはその場でこの弟子に寶吉祥弟子が着る赤いベストを返させ、すべての法に関する書物を回収し、以後彼女の布施を受けとらず、ただ信徒とすると語られた。

続いて、懺悔の礼拝が始まった。リンチェンドルジェ・リンポチェは、比類なき慈悲により、本日懺悔三十五仏法会に参加した信徒及び弟子達に、その場において大声で発露、懺悔し、自分の犯した過ちを全部話し、隠してはならないと説いた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、皆に、周りの人に聞かれることを恐れてはならず、心の中に隠している事を全部話さなくてはならないと語られた。並びに、発露、懺悔した後は、今後一切の悪事をしないこと、そうすることにより懺悔の力が発揮できると教示された。法会に参加していた皆はこの様な貴重な機会のもと懺悔した。多くの者は声を失うまで号泣した。リンチェンドルジェ・リンポチェの御恩に対する感謝の気持ちは言葉では表しがたいものである。その後、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆をリードして「金剛薩埵」の真言を唱えた。真言を唱え終わった時、空に殊勝な瑞相である雷が鳴り、法会は円満に終了した。夕方、リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店にて、信徒のために世の一切の苦しみを解き、仏法を説かれた。

2009年7月24日

尊いリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターの道場において、殊勝な直貢噶舉教派の「施身法」を主催された。リンチェンドルジェ・リンポチェは次の如く教示された。「施身法」は中国語の翻訳であり、チベット語では断つことを意味する。すなわち、すべての執着や煩悩を断ち切ることである。施身法は成就の法門で、成就とは、特に優れた機根を持つ者がこの法門を修めたなら今生で悟りに至ることができ、普通の機根を持つ者がこの法門を修めたなら中陰(中有)の時に成仏できる。施身法は、餓鬼道の衆生を済度したり、事故死した者及び重病患者を助けるのにとても効果があり、これはその他の済度法ではできないことである。

施身法は1200年前に、あるチベット人女性の在家者マッチラ尊が、釈迦牟尼仏の伝える《大般若経》に説く空性をもとに行った修法である。「般若」はサンスクリット語で、唐の三蔵法師がお経を訳す時に、三つの状況がある場合、翻訳しなかった。その一つの状況とは、1つの語句が種々の意味の結合で、ただ1つの言葉だけを使って表すことができない場合であり、その時は訳さなかった。よって、「般若」はサンスクリット語を漢語でその発音を表したものである。釈迦牟尼仏は、「般若」という2つの字を解説するのに22年の歳月を掛けた。それなので、今日私達はその意味を解釈することが出来ない事がわかる。だが、そなた達の理解できるように簡単な言い方で、般若は智慧であると言っている。しかし、仏法の智慧とは、世の中のいわゆる聡明や才能とは異なるもので、生死を悟り、輪廻を解脱し、衆生を利益する能力のことを言う。智慧は仏菩薩がそなたに与えるものではなくて、すべての衆生がもともと持っているものであるが、様々な欲望があるため、欲望が煩悩を生じさせ、智慧は煩悩に隠されてしまっている。文殊菩薩が右手に剣を持っているのも、智慧の剣によって煩悩を断ち切るためである。智慧の扉が開かれていないと、施身法を修めることができない。

釈迦牟尼仏も人から修行を始められ、悟りを開いて解脱なされた。神や仙人から化身なされたのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは信徒からリンポチェの果位を修められている。釈迦牟尼仏時代から現在、そして未来に至るまで、上師なくして修行するのは不可能なことである。チェツァン法王は幼少の時から転生を認められてさえも、尚3名の師の教えを要した。私達にとっても、上師の教えと監督がなければ、修行は不可能なことである。自分が家にいても仏法が学べて、上師は不要であると思うなら、これは非常に高慢なことである。

仏法を学ぶには因果を深く信じる必要がある。自分のおこなった良い事と悪い事は2本の平行線で、相殺することはできない。もし相殺できるのであれば因果というものは存在しない。悪い報いが起きないようにと望むなら、悪事を止め、一切の善行をするべきである。そうしてこそ、善の力が悪の力を抑えることができる。善行とは功徳会にお金を寄付したり、よい事をすることではない。善行は人としての標準である。真の善行とは、一切の悪を断ち切って、一切の善を行い、教えに基づいて行動し、生死を解脱することにある。

手印を結ぶのは密法を修めることではない。手印はただ、どの本尊、仏菩薩かを区別するためだけのものである。なぜなら、元来、我々は仏菩薩の御姿をまみえたことがないので、どの仏かを区別するために、手印をこの仏の信号とするのである。修法している時、仏菩薩の法名を言う時間がない場合は、その仏を代表する手印を結ぶ。実際においては、すべての仏の慈悲心は全部同等で、どの仏がどうであるかということは人間によって分けられたもので、衆生の異なる願いを満たすために、異なる仏、異なる菩薩の御姿に化身して、皆を助けるのである。密法の“密”は神秘、秘密の意味ではなく、それは仏法を修行することに対する決意が非常に堅固で緊密であり、内在または外在のいかなる要素の影響を受けず、動かし得ず、変更し得ない。顕教は菩薩道の修行であり、密法は仏の境地に至るための修行方法であり、また顕教の理論を実践する方法なのである。

仏法を学ぶことの初めは布施、放下、及び執着しないことを学ばなくてはならない。我々は一切を捨てなければならず、捨てることができてこそ煩悩を断つことができる。よって、六波羅蜜の初は、布施を修行する。布施は「財施」「法施」「無畏施」に分けられ、そなた達には後の2つの布施ができないので、まず最初に財施を教える。“財施”とは、物質、金銭から布施を始めることで、そなた達にも必ずできることである。寶吉祥仏法センターは1997年からスタートしたが、法会は嘗て定まった価格を決めたことがなく、功徳主もおらず、寄付金の多い者に前に座らせることもなく、百万元を寄付したらチャイナ・ドレスを着せるということもない。布施は金額の多寡を見るのではなく、そなたの心を見るものであり、恭敬心があるかどうか、見返りを期待しない供養であるかどうかを見るのである。

“法施”とは、経文を唱え、誰かに迴向することではなく、正真正銘の能力を持つまで修行をし仏法によって衆生を助けることこそが、法施である。“無畏施”とは、言葉で人を安心させて恐れがないように慰めることではなく、施身法の修法の時のように、まず、修行者が、地獄、餓鬼道の衆生に恐れを起こさせないような能力を持つまで修行して、自分の身体を彼らが好む肉に変えて先ず彼らを満足させ、彼らが仏法の助けを望んで受け入れるようにすることである。

この様な殊勝な因縁で「施身法」に参加できる事には、とても複雑な要素がある。「施身法」を修める条件はいくつかあり、一つも欠けてはいけない。まず第一に、助けが必要な他界者が居るかどうか。そなたが自分のため、家族のため、又は何故来たのかに関わらず、仏法の助けを必要としており、よって、この因縁が結ばれた。仏は縁のある者を済度する。そなたが助けを必要としないのであれば、阿弥陀仏がそなたの目前で手を伸ばしても救済は出来ない。徳を具えた上師がいなければ修法も出来ない。徳を具えた上師でいても伝承された加持と伝授した法がなければ、今日の施身法会はない。その他、特別な法器があってこそ、この法を修められる。「施身法」を修めるためには特別な法器が必要である。女性の腿骨であるが、これは一般人のであればよいのではない。法に関する書物の中に種々の条件が記載されており、順調に死亡した女子の腿骨を使うことはできず、事故で亡くなった女子の腿骨が必要である。それに、骨の形状や長さなどにも全て特別な要求があり、この様な法器は非常に得難いものである。リンチェンドルジェ・リンポチェの使用されている腿骨は、チェツァン法王が嘗て使われ、自らリンチェンドルジェ・リンポチェに授けたもので、しかも、チェツァン法王ご自身がリンチェンドルジェ・リンポチェに単独で灌頂された。直貢噶舉教派の施身法は非常に著名で、直貢噶舉教派の修めるこの法の加持力は極めて大きい。なぜなら、アチ護法神は実にこの法を修めて成就し、身体を虹色の光に化して自分の浄土へ入って行ったのである。よって、アチ護法神の仏像の腰部には人の腿骨を一本掛けている。

「施身法」を行う時は、一切の御守りのような法器や、身につけている仏像などを全て取り外さなければならない。そうすることで、餓鬼達は近寄って助けを受けることができる。それ故、これを修法するには餓鬼を恐れてはならない。そなたが餓鬼を恐れるのは慈悲心がないからである。慈悲心があれば、彼らを助けるのに忙しく、彼らが自分を傷つけることを恐れるわけはないだろう。慈悲心であれば、何も恐れるものはない。仏菩薩は何も恐れるものはなく、慈悲心があるからこそ、傷つけられることも恐れないのである。

修法の時に、この人の腿骨を吹くと、餓鬼道の衆生がやって来る。修法者は慈悲の空性を以って自分の肉体が甘露に変わるのを観想し、先ず仏菩薩に供養した後、これ等の衆生に布施する。もし、法会を執り行う者が観想で力を得られたならば、これ等の衆生が法会現場に入る時、彼らの生前に大好きだった食べ物を見る。彼たちはそれを食べて満足した後、仏法の助けを受け始める。他の済度法では、ある者がドマを作り、楽器の演奏をしてこそ、修法できるのに対し、施身法は一人で修める事が出来る。

リンチェンドルジェ・リンポチェは1997年より、「施身法」を修得してから現在に至るまで、「施身法」によって衆生を利益し、既に十三、四年を経た。この様な餓鬼道の衆生を済度する法において、もし彼らを真に利益する事が出来ず、希望を持って来た彼らを失望させたなら、主催者を恨む心を起こし、修法者に付き纏い、修法できないようにする。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは長年「施身法」を行い、法会参加者も益々増加し、施身法への参加者は毎回、千人を超えている。実際には、そなた方が自分のために来るのではなく、全て、そなた方が過去世で「施身法」と因縁があり、そなたの冤親債主、歴代の祖先らに後押しされて来たのである。ある者は1回の参加だけで、祖先は済度を得、ある者は何回も来なければならない。これは主催者と関係ない、参加者の考えと死者の福報と関係がある。

現在、このように施身法を行う修行者は非常に少なくなった。これは普通のラマ僧が修められる法ではなく、リンポチェだけが修められる法である。今後リンチェンドルジェ・リンポチェが年を取ると、体力がなくなり、恐らく施身法を常に修めることはできなくなり、現在のように修めることができるのもあと何年か分からない!あとで修法する時に、そなた達は修法者が非常に大きなエネルギーと体力を使うことが理解されるであろう。このような殊勝で貴重な法会に参加できる福報を大切にしなければならない。福報を大切にするというのは、お金を使わず、物を浪費しないことを指すのではない。即ち、私達が仏法を聴く機会があるのなら、徳を具える上師に従って仏法を学び、軽々しく放棄しないことを指す。仏、菩薩とリンチェンドルジェ・リンポチェがそなた方のために作る福田を大切にし、この福報を貴重に思いつつ仏法を学びなさい。

法会後に得た結果はあなたが予期していたものと異なるかもしれない。例えば病気や訴訟など、あなたの身に発生したことは、全て自分の果報の現れなのである。仏菩薩は因果に背くことはなく、後にあなた方のために後遺症を残すこともない。私達は心狭く自分の苦しみだけを思わないで、三悪道にいる衆生は更に苦しんでいることを考え、全ての苦しみを受けている衆生に代わって、法会に参加しなければならない。心を広げた時、初めて仏、菩薩の心と相応することができ、仏、菩薩の加持を戴けるのである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に、自分の年長者を右に、同輩を左に、六道衆生 (地獄、餓鬼、畜生、人間、天界、阿修羅道) を後に、一切の冤親債主を前におき、マンダラに向かい、共に法会に参加していることを観想させた。一度思うだけでいい。善念または悪念に関わらず、一緒にいることを思うだけで、効果が生じる。以前施身法に参加した者の中に、ずっと片方だけを思い続けて、次の日、肩の痛みを訴えていたものがいた。リンチェンドルジェ・リンポチェが皆に自分の名前を言わせる時は、大声で自分と在世の助けたい人の名を3回唱えなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェが皆に他界者の名前を言わせる時は、助けたい他界者の名を3回唱えなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは説かれた。“何故声を出して呼ぶ必要があるのかと疑う者もいるだろう。護法神は全てを知っているのではないかと。問題点は、三宝に対する恭敬心が不足しているのならば、護法神はあなたを見ることができないことにある。大声で名前を呼んでこそ、護法神を驚かし気付かせることができる。他界者の名前をよぶと、彼等はすぐに召されてやってくる。もし済度したい眷属が地獄にいるのなら、名前を聞いた時、地獄の閻魔王と看守は彼らを苦しめることを止め、地獄にいる衆生は仏法の助けを得ることができる。”引き続き、リンチェンドルジェ・リンポチェは殊勝な施身法を修められた。

修法が円満に終了した後、リンチェンドルジェ・リンポチェは次のとおり説かれた。“さきほど修法していた時、頭上に5つのどくろがある修法道具をつけていた。皆は、チベット仏教は必ずこのように人を驚かせる骨で修法しなければならないのかと思わないように。この5つのどくろは人間の五毒を代表しており、五毒を調伏する五つの智慧をも表わす。人間は、貪、嗔、癡、慢、疑という五毒によって、煩悩が生じ、絶えず悪を犯す。どうして不安を感じ、安らかさを感じることができないのか?それは、何に対しても貪り、一切をよくしようとし、その為に一生懸命勉強し、一生懸命働いて、一生懸命金儲けをし、その結果、精神上、健康上に問題を来たしてしまうのである。また、この5つのどくろは、人は死んだ後には骨を残し、何も持って行くことはできず、今生で為した業だけを連れていくことを表している。何に執着すべきものがあろうか?

リンチェンドルジェ・リンポチェは次の如く例を挙げた。今回の新型インフルエンザは日本で爆発的に流行した。しかも海外感染ではなく、ほとんどが国内での感染伝播事例である。日本はアジアに於いて医学は進歩し衛生面も一番いい。中国及びインドの人口は非常に多く、衛生、医学条件は日本とは比較にならないが、中国、インドでは新型インフルエンザの感染者は少なかった。青海、チベットの密法がある所には尚更なかった。それは多くの修行者が絶えず密法を修めているからである。これは、日本人の運が悪いのではなく、一方面では日本人の飲食習慣に関わる。多くの者は氷水を好み、朝起きてから氷水を飲む習慣がある。冷たいビールを飲む人さえもいる。食事の時も、氷水を一杯用意することもある。更に生ものが好きで、肺が冷えて風邪を引きやすい。香港も同じであるので、昔SARSが流行した時、感染があれほどひどかった。また、日本人は海鮮、刺身が好きなので、殺生業が重い。今は夏で、多くの者がかき氷を食べ、氷水や冷たい飲み物を飲んでいる。しかし、夏は肺が熱くなるが、このようにすると肺が冷えて冬よりも更にひどくなる。このような飲食習慣がある者は、冬になるとインフルエンザに罹り易い。

リンチェンドルジェ・リンポチェは在家の修行者である。仏法を教える外、商売もなされる。リンチェンドルジェ・リンポチェにとって、仕事も仏法の修行である。そなた達は在家者なので、もちろん在家の上師が仏法を教えのが適当である。普門品の中には、観世音菩薩は救う相手に応じて、それにふさわしい姿になって現われることが説かれている。皆は在家の身分なので、自然に在家の上師に出逢い教えを受ける。リンチェンドルジェ・リンポチェは在家の姿でかつて様々な災難、人生の種々の苦難に遭い、在家修行者の苦しみを理解した。出家の上師なら知る由もないことである。そなたが恋の悩みを尋ねたなら、出家の上師は既に男女関係を捨てているから、「手放しなさい」とだけ答えるだろう。しかし、どうして手放すことができるのだろうか?帰宅後恋人を思うと、愛するがために憎みも起きる。思い通りに事が運ばず出家の上師に聞くと、彼は「無常だから」とだけ答えるであろう。

もし今日、御主人がそなたを愛しているのなら、そなたに仏法を学ばせるのは無理なことである。或いは金持ちですべてがうまくいってるなら、仏法を学ぼうとする考えは起こさないだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェの道場は他の道場のようにすべて金持ちが行くところではなく、ここの者は何かあったから寶吉祥仏法センターに来たのである。これは、リンチェンドルジェ・リンポチェの発願の「衆生が苦しみを離れ幸せを得、仏の境地に至るよう助ける」と関係がある。

一緒に修める(同修)、共に修める(共修)と言うのは、法会に参加する者が同じ心を持ち、苦難にある衆生を助けることを望むことにより、仏菩薩の心と相応することを指す。我々と冤親債主、及び六道衆生はすべて衆生の内の一分子である。今日我々は、ただ一切衆生を代表して、慈悲心と懺悔心を以って法会に参加しなければならない。法会に参加して利益を得るかどうかは、法会に参加した時の心と関係がある。

法会に参加する者はすべてリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁を求めているのだが、法会に参加したい理由を答え、因縁や福報があって始めて参加できる。ある者はリンチェンドルジェ・リンポチェに何回も法会への参加を願ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは許可しなかった。なぜなら、これらの者達は法会に参加しないほうがまだいい。参加した後、却って仏を誹謗する。仏菩薩は霊験がないとか、仏菩薩は私を助けないなどと話すのであれば、仏を誹謗したことになる。

人生の苦しみを理解した後、生命を放棄するのでない。これは許されないことだ。ただどのようにしたらどのようになるかを知ると、心も比較的落着く。落ち着きとは財産、事業、婚姻により感じる落着きではなくて、この世の目標を自分が知っているということからくる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは再度皆に肉食をしないよう求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは再度法会の参加者に、菜食しないのなら法会に来ないようにと諫めた。密法の法会は一般の法会とは異なる。大福報がないなら参加することはできない。何故菜食をする必要があるのか?経典には、慈悲を持ち、衆生を傷つけてはならないと説かれている。これは衆生の肉を食べない事から始める。リンチェンドルジェ・リンポチェは、衆生の肉を食べれば、慈悲の種子を断ち切ることになると教示された。そなた達はまだ慈悲を修め得ないが、慈悲心の方向に向かって修練しなければならない。ほかの道場では信徒を菩薩と呼ぶが、菜食は徐々にさせるようにしている。リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に直ちに断ち切る事を望んでいる。リンチェンドルジェ・リンポチェは何故自分が今世で普通の信徒からリンポチェの果位を修めることができたのかを説かれた。我々と最も違うのは、リンチェンドルジェ・リンポチェには堅固な心があったことである。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法が自分と他人を利益できる事を知ると、その場でそれを行うことを決めた。菜食は、私たちの事業または男女の交際と衝突することはない。飲み食い友達で、菜食によって分かれることになるのなら、二人の関係はただの「飲み食い友達」だけなので、元々長く付き合うことはなかっただろう。

菜食と出家は別の事である。仏陀は確かに出家が良いと説かれたが、当時インドには大勢の人に出家の観念があり、仏陀も大勢の人を出家させた。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは在家者であるので、そなたに出家を勧めることはない。リンチェンドルジェ・リンポチェが菜食を始めた頃、友人は「そんなに海鮮を好むリンチェンドルジェ・リンポチェが菜食できるのか?」と笑い、また、「悪事を多く働いたので、菜食しなければならないのだろう。」と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐに「そう。たくさん悪いことをした」と返事された。自分が他人と違うのは嫌だと思い、肉食するのはいけない。実際には、人によって嫌いな食べ物があるし、もし他人が自分に無理やり嫌いな食べ物を食べさせようとするなら、必ず怒るだろう。何故菜食にはこんなにも差があるのか?これは自分の飲食習慣を変えただけではないか。リンチェンドルジェ・リンポチェは即座に「菜食しない者は、法会に参加してはならない」と語られた。別の道場に行ってもよい。現在は景気が悪いから、台湾の各道場も信者不足である。しかし、正しい仏法を学びたいのなら、菜食しなければならない。「台安病院」のようなキリスト教の病院でさえも、病院全体が菜食であるのだから、仏教徒は言うまでもないことである。リンチェンドルジェ・リンポチェは「施身法」の修法を終えた後、非常に大きな体力を使い果たし、説法する時の声さえ明らかに弱弱しくなったが、やはりずっと口をすっぱくして皆に勧めていた。62歳の一人の老人が見返りを求めずに皆に勧めるのも、皆の為だからである。もし耳に入らないなら、実に良心がないこととなる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは次のように説かれた。「法会の参加者も既に千人余りで、道場もまもなく入り切らなくなる。更に500坪、千坪の新道場を購入する経費も無いので、人を追い払っている。基準に満たない者は離れなければならない。今日は千人余りで、皆が千回の六字大明咒を唱え、全部で百万回になった。自分で家で唱えては成し遂げられないことである。」

明日(土曜日)の長寿仏法会はリンチェンドルジェ・リンポチェの根本上師チェツァン法王の誕生日に行うもので、長寿仏を修法してチェツァン法王に供養し、あらゆる皈依弟子も参加しなければならない。未皈依者も申し込んで参加できる。

2009年7月25日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで殊勝な「長寿仏」法会を主催なされて、チェツァン法王に供養なされた。リンチェンドルジェ・リンポチェは下記のとおり説かれた。今日、尊きチェツァン法王の誕生日にちなみ「長寿仏法会」を行う。本来、仏教徒に対して誕生日を祝う必要がないので、これは母が苦しんだ日(中文:母難日)の為であり、仏法をよく修行して母親の生育の恩に感謝する。今日、この法会を行うのは、上師への尊敬の念が仏に対してより更に重要であるからである。末法時代の私たちは自ら仏にまみえる福報がなく、仏の教えを直接受けることもできない。学び得る一切はすべて上師より出で、上師がなければ私たちは一切の仏法を学び得ず、修め得ない。多くの人は自分で経典を読めば学べると考えているが、非常に優れた機根の六祖慧能にしても経典を聴聞した後、五祖に従って仏法を学んでいる。チェツァン法王は何度も転生を遂げた法王であるが、今世でもやはり初めから学び、初めから修行しなければならなかった。法王は7才から三人の師による仏法教授を受けていた。そなた方は尚更必要なのではないか。夢で観音菩薩を見たというのか?それは全て自分の幻想である!そなた達がまだ世間にいる間は、必ず上師の教えと導きが必要である。上師なく、家で自分で経典を読んだり、自分で唱えたり、自分で修行するなら、常に間違いを起こすであろう。仏法は読書ではなく、人生経験だけで理解できるものではない。

今日の長寿仏の修法は、全てチェツェン法王に供養するためのものである。長寿仏は阿弥陀仏の報身仏であり、顕教では修めない。報身仏は既に菩提心を発し、菩提道を歩む修行者を助ける。長寿仏修法には、もし今世において仏法修行の為の寿命が不足しているなら、我々の延命を求めて、仏法を学ぶ時間を少しでも多く戴けるよう願う意味が含まれている。延命は楽しみに使ったり願を満たす為にするのではない。もし自分の子供の成長を見るために、自分の長寿を求めるなら、求め得ることは叶わない。多くの者は病気に罹って、リンチェンドルジェ・リンポチェに助けを求める時に、子供がまだ小さいと嘆き、子供が大きくなったら、まだ死にたくないと思い、子供が結婚するのを見たいと望み、それから、子供の結婚後は、子供達が孫を生むのを見たいと望む。思い切って、自分が死なない事を願えばよいのであるが、これは無理な事、世の中には死なない者はいない。しかし、もし仏法を学ぶ為に寿命を求めるなら役に立つことである。

法会の始まる前、ある皈依弟子が、肺癌末期の母親がリンチェンドルジェ・リンポチェの助けを得て、ポワ法によって浄土に往生した事を報告した。リンチェンドルジェ・リンポチェは次のとおり説かれた。この弟子の母親は、医者が6ヶ月の命だと予測したにも関わらず、数年長く生きた。これはリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女を延命させ、彼女に仏法を学ぶ時間を多く与え、ポワ法を得る福報を累積させたのである。もしこの様なことで寿を求めれば、寿を求め得る。

科学者はかつて、現在の医療水準をもって計算すれば、人類の平均寿命は200歳に至る筈であると言うが、実際はこのようにはならず、多くの人は老死ではなく、事故によって死亡していると報告した。人の寿命は8万歳才から始まり、百年ごとに1歳減り、10歳まで減った後、百年ごとに1歳増えて、8万歳に至る。この循環は「一小劫」と呼ばれる。現在、人類は寿命を減らす段階にいるので、「長寿仏」の助けを必要とするのである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、「今日の法会の功徳全てをチェツァン法王に供養する。何故チェツァン法王に供養するのか。それはチェツァン法王がいなければ宗派は存在せず、リンチェンドルジェ・リンポチェもいないからである。チェツァン法王の私達に与えて下さった仏法教育に感謝し、本日の法会においてチェツァン法王のこの世での延命と御健康を願い、チェツァン法王によってまた素晴らしいリンポチェが育てられる事を祈る。チェツァン法王ご自身はそなた達を指導する時間がないので、リンポチェを育てなければならない。一人のリンポチェを育てることは容易ではなく、二、三十年もなければ成し遂げることは出来ない。チェツァン法王の御身体が良くないのであれば、無理なことである。法を伝授するということは、あなた方が考えているように口で言えばいいのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎回、法を伝授する前、ご自身にて先ず1度修法するのである。

今日、私達はこの法を修めて、チェツァン法王の恩徳に報い、全部真言を唱えてチェツァン法王に供養する。しかし、これによってチェツァン法王があなた達に借りを作るわけではない。必ずあなた方を加持する。リンチェンドルジェ・リンポチェに叱られることが減るように加持して下さる。

日本の道場が落慶した年、リンチェンドルジェ・リンポチェはチェツァン法王を歓迎し日本に御伴した。ある日、リンチェンドルジェ・リンポチェがチェツァン法王に従って京都ホテルを離れる時、総支配人らの上層部のスタッフがホテルの外で慇懃に送ってくれた(通常日本の旅館、ホテルではVIPが離れる時はこうしている)。ホテルを出た車の中で、チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに仰った。「あなたがホテルを出たので彼らは楽になれるだろう。」と。リンチェンドルジェ・リンポチェはこう開示された。チェツァン法王は、かってリンチェンドルジェ・リンポチェの心は細かいと仰ったことがあったが、チェツァン法王の心はさらに細かくあられる。チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェが非常に厳格であることを知っておられたのでこう仰ったのである。チェツァン法王がおられる時、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子が過ちを犯すことがあると、リンチェンドルジェ・リンポチェはその場で叱責されるが、皆が以前チェツァン法王に供養したことがあるので、チェツァン法王はすぐに、「もういいだろう!」と仰り、リンチェンドルジェ・リンポチェに弟子の叱咤を減らせることがよくある。

チェツァン法王は「リンチェンドルジェ・リンポチェはものすごく厳しい。」と申された。そして「こころは非常に細かい」とも仰った。心が細かいのは生まれつきではなくて、訓練された結果であり、雑念、妄念が減れば心は細かくなる。心が細かいというのは、男性が女性の世話するとか女性が男性の世話する事を言っているではない。それらは相手から何かを得るためのものである。リンチェンドルジェ・リンポチェの細かいとは、衆生の心の動きをご存知であることによる。

仏には三身がある。すなわち、法身仏、報身仏、及び化身仏である。そなたが菩薩道を歩むことを願い実践できたのなら、報身仏が迎えに来る。我々は凡人なので、化身仏しか迎えに来ない。生死からの解脱を発願しないのであれば、化身仏さえも見られない。願ったら必ず仏菩薩を見るとは限らない。願力によるのである。仏菩薩は毎秒、三昧の中で衆生の苦しみを見ている。三身が不存在あるいは特に意味がないのなら、仏は話さない。仏に会いたいと思うのには二つの状況がある。一つは既に清浄である場合、もう一つは既に死亡している状況のもとである。この二つ条件があるかどうか自分に聞いてみなさい。自分が夢の中で観音菩薩様を見たというのなら、自分の勝手な想像でないならば、鬼に出会ったのである。我々はどうやって観音菩薩様の姿を知る事ができるのか。実は、観音菩薩には32相あり、一つに定まってはいない。阿弥陀仏の報身仏を修め、成就すれば、阿弥陀仏の浄土へ往生するチャンスは高い。

続いてマンダを献上する儀軌に進み、出家弟子が代表してリンチェンドルジェ・リンポチェ及び諸々の仏菩薩にマンダを捧げ、数名の女性信者が空行母の歌を献じた。更に御茶の供養が終了した後、リンチェンドルジェ・リンポチェによる殊勝な長寿仏法の修法が始まり、皆を率いて長寿仏の真言を唱えさせた。リンチェンドルジェ・リンポチェは法会参加の全弟子と全信徒にマンダラのところに上がらせて、長寿仏甘露の宝瓶で千余りの参加者を一人一人加持され、加持した甘露と甘露丸を賜れた。

修法が円満に終了した後、リンチェンドルジェ・リンポチェは次のように説かれた。先ほど皆に賜った甘露は、一見して水のようであるが、実は本尊の功徳と願力が積集したものである。仏の血を代表すると言ってもよいだろう。人間は、父の精と母の血が結び付いて生まれたものであるが、甘露はそなたの損耗した精と血を補うことができる。トマは長壽仏の体で、宝瓶は損耗した四大(地、風、水、火)を補うことができる。修法中、リンチェンドルジェ・リンポチェは彩色旗を振った。これは顕教にはない法門で、宇宙一切のエネルギーを示す。リンチェンドルジェ・リンポチェは先に本尊のエネルギーを受けて、それを皆に伝えて行く。リンチェンドルジェ・リンポチェは本尊のエネルギーと自分のエネルギーを全て出し切る。自分には何も残さない。何もないのである。慈悲心と菩提心がないならば、成し遂げられないことである。しかし、そなた達が発心して仏法を学ばないなら、エネルギーをそなた方にあげても無駄である。

法本にある「無死」と言うのは、肉体が死なないことではない。輪迴の中では必ず死があり生がある。どのようにしたら不死が可能となるのか?生まれなければ死ぬことはない。今世で仏法を修行し浄土に往生すれば、二度と生死もない。よって、長寿仏に我々が浄土へ往生するよう助けを求める。もし無死の甘露を得ないのなら、念仏だけでは浄土へ生まれることはできない。今日、皆が加持を得たのであるから、この一生で生死から解脱することを決意し、上師と仏菩薩に絶対的な恭敬心を生起させなければならない。それによって、長寿仏は生生世世、我々が成仏するまで加持を授けて下さる。そして、上師も生生世世、我々を助け護ってくれる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは次のとおり説かれた。この法は表面的にはチェツァン法王のために修めているようだが、実際には、皆のためでもある。長寿仏法会の中には非常に重要な一部があり、それは、今日のこの法会に参加し、真に発心して菩薩道を修行する修行者でさえあれば、生生世世、長寿仏は本尊となり加持して下さり、十分な福徳と寿命で、仏法を学ばせてくれる。さきほど、法会の中で、そなた達は供物を受け取り、しかもリンチェンドルジェ・リンポチェは皆と共に供物をいただいた。これは、薈供(皆が集まり、仏菩薩、護法、上師と共に供物を食する)である。仏菩薩に供養することによって、仏菩薩と食物を共にいただける大福報が得られたのである。どうして仏菩薩と共にいただくことを福報と言うのか?そなたに特別な貢献あるいは才能がある以外は、一介の平民が大統領と一緒に食事をする機会がないのと同様である。よって、仏法では、福報がなければ、仏と共に食することはできない。仏が差別しているのではなく、因縁がこうなのである。仏はあなたの供養を受けて、縁が結ばれてこそ、助けに来ることができる。

今日もまた皆に深い因縁を作らせた。将来、仏菩薩と共に供養を受け入れるまで修めることができる。つまり、将来、そなた方に供養する衆生を救う能力を修める因縁を与えたのである。仏菩薩はそなた方の供養を受け入れるだけである。実際には仏菩薩は仏法で無限にあなた方を助けているので、衆生に借りを作ることはない!

祈請文では上師の吉祥無碍の加持を願う。もし仏法を学ぶことが事業発展の妨げになると言う者がいるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェの面前では完全に翻される。リンチェンドルジェ・リンポチェは普段、事業をしているが、こんなに多くの弟子もいる。しかし、チェツァン法王が一旦、リンチェンドルジェ・リンポチェに閉関するよう言い付けると、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ずすぐに言葉に従う。事業にも問題は出ない。ここから分かる通り、仏法を学ぶことで事業を妨げる事はない。なぜかというと、リンチェンドルジェ・リンポチェは三宝に絶対的な恭敬心があり、供養し続けているからである。

供養する心は極めて大切である。貧しい人は供養の心が比較的不足している。もし今世が貧困ならば、過去世に供養をしていないからである。重点は金額の多寡ではなく、供養の心にある。供養するものがないとは言わずに、身に付けた一着の服しか残っていないほど貧しくても、1本の線を引き抜いて、懺悔心を以って供養すれば役に立つ。

ある弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェに自分の周りに突然多くのキリスト教徒が増え、主を信じさせようとしていると言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは、これは、いわゆる逆縁であり、もし三宝に恭敬すれば、護法神が妨げてくれると説かれた。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を学んで以来、主を信じるよう勧められたことはないが、元々主を信じていたキリスト教徒、カトリック教徒がリンチェンドルジェ・リンポチェに会ってから仏法を学び始め、リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依し弟子となったことはある。

祈請文では長寿仏を修めれば無量の衆生に不時の死を免れさせられると説かれている。不時の死とは、事故死である。実は、どんなことも事故ではない。すべて悪縁が共業に巻き込まれるのである。他人のなす善を見て随喜し、他人の成す悪を見た時は随悪してはならない。例えば、ある者が豚を殺す。あなたが側でどんな方法で殺すのかと見ることは随悪である。共業が重過ぎると、不時の死を遂げる。それは間違った薬を飲み、医者に間違った治療をされることも含める。更に最近発生した看護師の点滴投与ミス事件も、あの看護師がわざとそうしたのではなく、この様な縁があったからそうなったのである。そなた達は結婚披露宴に参加しどのくらいの魚や海老を食べただろう。すべて償わなければならない。故にいわゆる八大災害がある。良い国へ行けば、必ずいい生活が過ごせると考えてはいけない。ただ時間の要素だけである。もし悪因の種を植えておらず、三宝に絶対的に恭敬するなら、護法神が逆縁を妨げてくれる。

祈請文には、寿財を祈り求めることは、上弦月が増えるが如しと説く。財はいい生活を過ごすためにあるのではなく、仏果を成就するためのものである。米や花を買って供養するにも財が必要だ。つまり財はなければならない。前世で布施や供養をせず、細かく詮索していたので、財がなくなったのである。

自分が成就する前、生々世々如来を本尊とし、本尊の常なる加持を祈るが、もし成仏することを決意したならば、この祈りは必ず役に立ち、上師が捨てることはありえず、生々世々、そなたを助け護るだろう。故に密法の上師はより苦労する。密教の上師がすごいのではなく、密教の上師にはこのような願力がある。ある皈依弟子の末の息子が血液がんに罹り、血を取ろうとしても採取できなかった。理論的には全身の器官が酸素不足のために損傷し、脳にも問題が出たはずなのに、子供は完全に無事で元気で、母親に自分は浄土へ行きたいと言った。これはリンチェンドルジェ・リンポチェが子供を守っているからである。

今日の法会でチェツァン法王に供養した功徳は大きい。昨日のニュースにおいて、元々雨が長く降らずに干ばつが起こるかもしれないとの報道があった。今朝リンチェンドルジェ・リンポチェは顔を洗った時、特に水の節約に気をつけた。しかし午後リンチェンドルジェ・リンポチェが法を修め始めると、空には雷が鳴り響き、間もなくして大雨が降った。これはリンチェンドルジェ・リンポチェが菩提心、慈悲心を修め、衆生のための心を生じ、思いを動かした故に、諸々の仏菩薩が相応に来られたからである。

人の寿命は「損」「破」「湾」「散」にさらされて減少する。肉を一口食べると、寿命は少し減る。それは「損」である。多くの者が顔の相から見ると短命ではないのに、若くして亡くなっている。それは寿命が尽きたからである。以前ある皈依弟子に顔の相が良く耳たぶの大きい者がいた。しかしいつも食べるのが好きで、遊び好き、人を欺くことも好きだったので、若くして肝臓がんに罹り亡くなった。「散」とは体を使い過ぎたせいである。「破」と言うのは仏を誹謗する事である。その他、寿命を鬼に盗まれる場合がある。例えば、鬼神の助けを求め役に立ったのなら、将来は必ずあなたの福と寿命で返さなければならない。鬼神らは代価として、そなたの地風水火空の精華を盗む。鬼神に助けを求めた後、夫婦は無事であったが、子供が死んだこともあった。欲望で求めるのなら、代価が必要だ。返す物がないのなら、寿命で返さなければならない。故に、かつて神に求めたことがある者は必ず懺悔しなければならない。仏菩薩は異なる。あなた方が仏菩薩から受け取った恩徳は報わなくても、仏菩薩は怒って罰を与えることもない。孔子は昔、「鬼神を敬って、これを遠ざけるべし」と既に言っていた。仏菩薩の大慈悲心だけは見返りを求めずに衆生を助けるのである。

チベット大蔵経には、日食、月蝕、風害の時に、法を修めれば、その力は特に大きいと説かれている。もしあなたの心が良いなら、その修法は百倍力を起こす。修法によって衆生の驚き恐れる心が静まるからである。逆に、悪を行う果報も百倍力となる。末法時代の衆生は悪業が深く、もし法会に数多く参加せず、上師に親しく近付き仏法を学ばないのなら、簡単に良くない共業に巻き込まれる。

人には必ず問題があって、問題がないのなら仏となる。問題があるので煩悩が起こり、問題があるからこそ仏法の貴重さを知ることができる。煩悩は過去世の業力によるものであるが、未来はそなた自身が作る。今週、リンチェンドルジェ・リンポチェは3回の法会を主催した。それぞれ、水曜日日食の「懺悔三十五仏法会」、昨夜の「施身法」、今日の「長寿仏法会」、加えて、火曜日、水曜日には宝石店で多くの信徒に接見した。リンチェンドルジェ・リンポチェの衆生救済は止まる事がない。中には法会に参加しない者もいる。そなた達がどんな理由であっても法会に参加しないのは、そなたの上師への信心、恭敬心が足りないからであり、仏法を学ぶ決意をしていないからである。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分自身が在家信徒の姿をし、普通の人からリンポチェの果位を成就した。チェツァン法王から言い付けがあれば、閉関し、出国するなど、すぐに承諾し行う。こんなに長い間、仏法を学び修行する為に、何れの障害を感じたこともなく、リンチェンドルジェ・リンポチェは依然として弟子をとり仏法を教導し、法会を主催し、事業をし、信徒に接見し、一切の有情を利益している。

ある新しく皈依した弟子がアチ護法神の御写真を頂いた後、今日、道場にてリンチェンドルジェ・リンポチェに御写真の開眼を願った。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女が写真の裏側に自分の名前を貼り付けていたのを見て、これを自分の物としたその人の私利私欲に気付き、リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女が道教と勘違いし写真に名前を書いて庇護を求めたことを叱責し、また皆にも訓戒した。「アチと四臂観音の御写真を受け取るにはお金が要らないので、頂いた後、自分の物だと考え、写真の裏側に自分の名前を書いた。この点からこの弟子が供養布施を惜しむことが分かる。このように写真を破損するのも上師に対する恭敬心がないからである。あなた方はこれをただ一枚の写真だと思っているが、この写真の中のアチ護法の頭がチェツァン法王の前世での修法用の仏像の頭部で、体の部分はリンチェンドルジェ・リンポチェがチベットラサ本山のディクンティ寺を護持する時に使った沢山のお金の残りで造ったもので、やはりアゴンリンポチェによって作られたものである。この写真の価値は想像できない。このような私利私欲は独占欲の強さを表す。独占欲があれば必ず苦しむ。どんな物もあなたに属したとは思ってはならない。死んだ後は、何一つそなたに属する物がないのだから!よって、自分が何かを持っていると考えるのは邪見であり、全て貪欲である。もし布施や供養が分かるのなら、独占欲を徐々に減らすことができる。リンチェンドルジェ・リンポチェはチェツァン法王から戴いた石一つたりとも、宝物のように祀り、チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェに書いた小さなメモ一枚であっても、リンチェンドルジェ・リンポチェは貴重なものとして収蔵する。あなた達は上師から戴いた物を全く大切にしていない。珠宝のように大切にしたことは決してない。

2009 年 12 月 30 日 更新