尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ の法会開示

2009年6月6日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009年6月7日

台北寶吉祥仏法センターの共修法会で、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは金剛薩埵が仏法を修める上での重要性を開示された。ガムポパ大師が開示して曰く、釋迦牟尼佛の教法は何類かに分かれる。第一類は、因を転じて道にする時に使う波羅蜜多乘。これは顕教大乗仏法の方法で、信衆が六道の中で輪廻するのは、全て因果業力が引き起こすと深く信じ、悪因を植えざれば悪果を得ざると修持する。この法を修行して成仏するには三大阿僧祇劫を経なければ成らず、とても時間が掛かる。凡夫は皆貪、瞋、痴の三毒で煩悩を起こし、業を作って六道中で輪廻をするに至る。仏経で称ずる聖者とは、世間を超脱し、崇高な道徳言行を標準として計り出して称ずる聖者で、仏の言われる聖者とは、既に空性を証悟し、輪廻を解脱して衆生を利益する事が出来る修行者だ。世間で仏法を説く多くの者は、仏法を学問として研究している。だが、これには大きな問題があり、仏法と日常生活を分け隔てると、早かれ遅かれ問題が起きる。リンチェンドル ジェ・リンポチェは弟子馬秉義の犯した過ちを例に諭した。5月29日に寶吉祥日本京都道場にて燈供と上師供養法を行ったが、法会が終了した後、馬秉義は道場住持リンチェンドルジェ。リンポチェの許しを得ないで、勝手に道場の窓を開け、残った菓子を室内から外へ捨て、リンチェンドルジェ・リンポチェに菓子は地面の蟻に投げ与えたとお答えした。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示は、蟻に食べさせる事は、表向きは極めて慈悲が有るように見えるが、この小さな行いは、彼の問題を露出している。彼は皈依してもう10年になるが、皈依して久しいし、大礼拝をし、百字明を唱え、マンダ盤も修めた。身の上には何事も起こらず、仕事も安定し、自分はよく修行していると思っている。しかし、彼の家族は一人も学仏に付いて来ない。これで彼が何も直していない事が分かる。他人の家に邪魔に上がり、主人の許しも得ず、勝手に窓を開け、他人の家は自分の家ではないと思い、また道場は自分の家ではないので、窓口から物を投げ捨てても構わないと思う、恭敬心が無いのだ。これは他人がそなたの家に来て、許可も得ないで窓を開け、残った菓子を庭に投げ出すのと同じだ。これでよいのか?また蟻を招く事も考慮に入れていない。招いた蟻が家屋の中に入ってくるは免れないし、部屋の中を掃除する者が、誤ってそれに傷害を加える事もある。門から出て行って、ごみだめまで持って行くのがそんなに面倒なのか?それではどうやって仏を学ぶのだ?どうやってポア法を学ぶのだ?リンチェンドルジェ・リンポチェは更に開示して、仏法を学ぶには、先ず人である事に間違いが無い様に学ぶ。このように私利私欲な人は慈悲心が無い。怠惰な人が衆生を利益することは不可能である。心が細かくないと衆生の苦しみを知る事が出来ない。そうすると衆生の苦しみを解決することが出来ない。そなた達はこれは些細な間違いだと思うかもしれないが、些細な間違いを直さなければ、大きな間違いに繋がる。

懺悔さえすれば悪い結果が出ないと思ってはいけない、そなた達が常に犯す間違は、懺悔をよく行っていない事だ。苦しみに耐えて始めて幸せを補う事が出来る。多くの者は細かい所に気を配らず、自分の思うままに放縦する。仏法の訓練教導に従って自分を修正するべきだ。自分の習慣を調整しなければ、いずれ重大な問題が現れる。仏法を学ぶ難しい所は、自分を理解しないし、ただ他人の問題だけを見て、自分の問題を見ない事にある。所謂迂闊とは、不注意から来る。持呪は心の訓練をして、乱れない様にするのである。

二番目の教え方は果を以って道とする秘密金剛乗、その考え方は、衆生は皆成仏の条件を備え、仏のような清浄な本性を持っているが、一念無明で業を作り、其の為累世の業に引っ張られている。金剛乗の理論基礎は堅く、文字等に時間をかけて探求せず、本性を修める。無明とは怒るのではなく、心が不明朗で、仏法に頼らないと垢をこすり取れない。しかし、取り除く速さは自分で決めるのである。金剛乗をしっかり修めれば、累世の業は半分以上取り除く事ができる。取り除くとは借りを返す事だ。借りを返す事を心配していては、其れに引きずられ、死ぬ数年前に始めて清算しだす。

リンチェンドルジェ・リンポチェが教えて下さるのはこの秘密金剛乗の仏法である。チベット仏教の四大教派はリンチェンドルジェ・リンポチェが弟子に対しての監督と要求が十分厳しい事を知っている。現今、この教法は市場の要望に副わず、弟子達が怖がり、学びに来ないので、この教法を使う上師は少ない。しかし、十分に賛同する者もある。仏法はもともと事業の経営ではなく、市場の要望に合わせる必要もない。仏法の教え方は各地域の文化の違いにより、表面の包装は多少の変化があるが、その本質は始終一貫して、絶対に世間の学問、常識、文化に影響されて変化したりすることはない。破四相中の破寿者相は時間要素に影響されない、実は、時間とはどうやって来る?太空には時間観念がない、地球は何故回り、しかも、他の星の回る速度と違うのだろうか、これは虚空中の六道衆生が考えを起こす心に影響されるのである。

直貢噶舉教派祖師ジッテン・サムゴンは癩病を示現されたが、病気を治すことを求めず、ただ死ぬ時本尊が迎えに来られる様に願った。上師の指導と加持を思い、拠り所の無い衆生に大慈悲心が起こり、全ての衆生が仏法の指導を得られるように望んだ。この心念が起きると、体の中にいた竜王は彼の子孫を連れて離れてしまい、病気が治った。業果の成熟と終結は共に極めて早い。この示現は人々に如実に修行するべきだと伝えている。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を学び始めてすぐ懺悔をしているが、それでも後日皮膚癌にかかっている。 化学療法をせず、手術を行わないで、また借りを返す事を楽しみながら、安心して仏菩薩に頼った。例えば釈迦牟尼仏、累世共々清浄心で懺悔しているが、成仏するまえにまだ九つの災難があった。しかし、業力は仏に何の影響も与えられなかったし。また早く過ぎ去った。慈悲を修めると寃親債主は邪魔をしに来ない。リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子に厳しくするのは、弟子達の問題が今世で解決されることを望んでいるからだ。だから、自分の考え方で仏法を推測するべきではない。

金剛薩埵は報身仏で、発心して菩薩道を修める衆生を助ける。金剛薩埵は特別な病気を治す法門を持っているが、金剛薩埵を修める場合、最も重要なことは懺悔である。清浄な心で懺悔するべきで、仏菩薩に自分の間違いを懺悔承認すれば、悪い事は起こらず、病気にかからず、冤親債主が早く離れてしまう等ではない。このような交換条件を設けた貪欲な心で懺悔しても、用を成さない。懺は自分が犯した過ちを認め、一切の結果を喜んで受け入れる事で;悔は今後再び過ちを犯さないという事である。悔があって、始めて懺の力が発揮され。懺があって、始めて悔いを発願する事が出来る。懺と悔は二つに分かれているが、実際には互いに繋がっている。魔も過去世で大福報を修めていて、同じように持戒、善事、修行を説くが、輪廻を解脱するようには説かない。魔は心魔と外魔があり、我々はすべて心魔によって影響され、外魔は来ない。目は肉眼、天眼、法眼、慧眼、と佛眼に分かれる。リンチェンドルジェ.リンポチェはラーキ雪山で閉関修行をなされた時、法眼と慧眼で六道輪迴の苦しみをご覧になられ、2時間も慟哭なされた。出関された後、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの事を尊きチェツァン法王にご報告なされた。チェツァン法王もリンチェンドルジェ.リンポチェが空性を悟ったとお認めなられた。

ある皈依した弟子が癌に罹ったが、夫には告げなかった。夫が仏を誹謗する事を恐れたからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に夫の反応を予想するべきではないと開示された。もしかすると彼は助けを求め、一緒に仏法を学びに来るかもしれない。しかも、このような大切な事を隠して後で見つかれば、夫は他にも隠し事が有るかもしれないと疑う。表向きは夫に悲しい思いをさせない為とあるが、悲しい思いをしたくないのは弟子自身である。これは利己主義的な考えで、この様な行為こそ仏を誹謗するものである。

また懺悔は上師と仏菩薩の手で冤親債主と仲裁してもらわなければならない。リンチェンドルジェ.リンポチェの皮膚癌が良くなったのは、懺悔を良く知り、死後拠り所がある事を知るので、恐れないからだ。このような考えで、何も求めず、それで懺悔が清淨になる。大礼拜をしたり、百字明を唱えたり、マンダを捧げたりするのは、助縁に過ぎず、縁を悪から善に変えるのは、自分の心が真に改められたかによる。梁皇宝懺法本には、「罪花が飛ぶ」とあるが、罪は飛び去る事が出来れば、飛び戻る事も出来る。心が正しくなければ、罪も戻ってくる。

リンチェンドルジェ.リンポチェが始めて仏法を学んだ時、毎日他界した父に代わって懺悔をしていた。求める物は何も無かった。そして遂に父親が青い光に化して天道へ行き、呂祖の側にいった事を見た。懺悔するのにある条件が前提となっては効果がない。自分のために求めるのでなければ、善の力は倍増する、仏陀はこのような願力が実現する事を望むからである。仏法を修めて得た功徳は、自分のために使っても未だ足らないので、衆生に回向する事など出来ないと思っているが、それは間違った観念である。

金剛薩埵の法門に「願わくは私と三界衆は」とある。三界とは慾界天-六道衆生(天帝、天主、イエスはすべて慾界天にいる)。色界天-形が無く、光だけがある。無色界天-形も光も無く、残るはただ一識あるのみ。禅定や福報を修める者は色界天に入り、三界の衆生は全て流転輪迴する。天界以上の衆生は寿命が尽きる前に其れを知る。そして輪迴を解脫せざるを知り、瞋念を起こし、仏法は役に立たないと思う。その結果、地獄に落ちる。故に人天福報は究竟ではないと知り、清浄心で懺悔しなくてはならない。まだ体力があるうちに、早く懺悔し、自身が修行して始めて自身の未来を変えることが出来、また家族を助ける事も出来る。七支供にも懺悔がある。懺悔をする者は絶対に戒を守り、三宝と衆生を敬う。これも供養の一つで、福報を得られる。故にいかなる法を修めるにも先ず懺悔し、修めた法は皆衆生の為で無くてはいけない。

懺悔は口に出して上師に話さなければいけない。周囲500里以内に上師や法師が居なければ、やむを得ず仏像に懺悔する。口に出さないのは、不恭敬か他人に知られたくない為である。これは身口意の懺悔ではない。もし顕さなく、唯考えるだけでは、業力の時間が長く伸びる。所謂「直心即道場」とは、リンチェンドルジェ・リンポチェのように弟子の欠点を指摘し矯めることだ。

功徳は生死を解脱し衆生を利益する力であり、使い終わる事が無い。懺悔は福報を功徳に変えることが出来る。

「我等を障害する諸苦因」:小乗は悩みを捨て、悩みを断ち、悩みを毒薬と見る。だから南伝仏教の出家者は数珠さえ持たず、飯も炊かず、すべてを信衆の供養に頼り、食があれば食した。大乗も悩みを毒薬と認めるが、精錬すればこれを薬に変える事が出来ると知る。しかしこれは随分時間がかかる。金剛乗は悩みを薬だと考える。故に異なる状況で直接使用すれば、修行の役にも立ち、速度もすっと速い。善財童子五十三參の中に、参拝された菩薩は、殺で衆生を済度する者がいるし、大貪、大瞋で衆生を済度する者もいる。菩薩は色々な法門を自由自在に利用され、其の行いに凡夫は何も言えない。しかし自分のために行うのか衆生のためかを見極めれば、菩薩かどうかが分かる。

「一心に我の罪障を懺悔」:心に何にも考えなく唯懺悔する。清浄に懺悔しないと恭敬ではない。何にも求めなく、望まなく、一切合切を受け入れる。

「命の尽きるまで誓いに背かず」、すべての衆生は我が懺悔により苦しみを離れるを願う、これは菩薩の懺悔である。仏法に従って行うとは、上師が教えることは先ず行い、万が一妥当でなければ、また別の話だ。そなた達が上師の話を欲望を持って聞き、また疑うと、力が弱まる。上師を深く信じれば、その心配はない。懺悔しないと解脱できない。自分の心を変えないなら、今世では明らかな変化がない。

金剛薩埵の威力は大きい。そなたの生々世々の業を今世にて解決するように助ける事が絶対出来る。唯これはそなたの懺悔力が足りるかどうか、慈悲心があるかどうかに依る。しかしそなた達は常に法本の文面だけを読み、心の中では思考していない。

三界の衆生は過去世で我々と縁があった。私たちの流転輪廻の数は、絶対に100世以上ある。各世の悪縁は善縁より多く、それを続けて積み重ねている。故に心を定め、今世で解決する事を決意しなければいけない。凡夫が何か考えを起こせば、それは悉く業であり罪である。自分の為であれば、それで罪になる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは今回日本で火供を修めた時、修法の過程は3時間にも及んだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは口に真言を唱え、手に供品を持って、心は観想していた。何故それが出来たのか?何も求めない清浄心で、全て法本に基づいて行なった。自分の為であれば円満しない!火供中、作業人員が別の事に気をとられ、主催者のリンチェンドルジェ・リンポチェが物を手渡す事に気付かなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは次の如く諭された。彼は自分が法務壇城を担当し、他人は自分より能力が低く、間違いを起こすので、リンチェンドルジェ・リンポチェに自分が叱られるのを恐れ、それでそちらに気をとられ、主催者がだれだったかを忘れ、自分はただの小使いだと思ってしまった。各々には因縁があり、自分が主人だと思うべきではない。傲慢で謙遜でないのは真に懺悔していない。上師に仕えるには根本的な謙遜から始めなければいけない。

道場で仕事を担当する者は、自分は偉いと思い、他人の感情を害してはならない。これは衆生がそなたに奉仕する機会を与えて呉れたので、語気も婉曲にするべきである。傲慢な心で仏を学ぶと、小は鬼王になり、大は魔王の子孫になる。仏を学ぶのは心を学ぶことでもあり、非常に細かい心配りが無ければならない。自分が主役だと思ってはいけない。実際にそうであっても、その他の脇役が無ければ、芝居は出来ない。実際に世間の一切の事は、色々役柄があり、因縁に過ぎない。他人が褒めるか貶すかをあまり重く見る事は無い。一生懸命仕事をしっかりやれば好い。

一切の苦しみは貪瞋癡から起こるが、完全に貪瞋癡を断絶するのは無理である。良し悪しの分別心を持たなく、自分の損得を計算しなければ、貪が減る;瞋は貪から始まり、自分の考えが満たされず、それに執着すると恨みが始まる。恨むと仏法に従わなくなり、癡である。貪念が起った時、観音法門を伝えられた者は、心を鎮めて六字大明咒を唱えるが良い。また暫くリンチェンドルジェ・リンポチェを観想すれば、或いは考えが変るかもしれない。毎日静まって自己を点検すれば、貪瞋癡の力を弱くすることが出来る。しかし完全に無くすには、空性を修めなければならない。貪りを洪水猛獣とする必要はない。お金を稼ぐのは貪りでは無く、他人の考えを気にするのが貪りである。

仏を学ぶと、我々は以前気がつかなかった間違いを減らす事が出来る。戒は我々を処罰したり監督したりする道具ではない。仏はこっそり学ぶものではない。三千年の歴史があり、一度も禁止された事がなかった仏教は迷信ではない。これは心から自分の問題を見極め、他人に利益を齎す方法を教えているのである。何処に人に見せられない事があるのだ。ずっと拝めば病気が好くなると思う事こそ迷信である。菜食は個人の飲食習慣であり、方便であるか否かは自身の心にある。方便だと感じれば、一膳のご飯でも嬉しい。もし不方便だと心に持てば、食卓一面の食べ物があっても不方便だ。

2009年6月9日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009年6月13日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009年6月14日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターにて共修法会を主催し、ガムポパ大師がお教えになった重要な仏法を学ぶ心掛けを開示された。法会が始まる前に、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子に訓示をされた。係りの者が車椅子の参列者を男女纏めて場所を取るように手配したが、それは道場で男女別れて席を取る原則に違反する。便利さを求めて規則を破るのは好くない、と。それから次の如く開示された。ガムポパ大師の上師はミラレーパ尊者で、ガムポパ大師は習得された教えをチベットでお広めなされ、カジュ教派の始祖に成られた。ジッテン・サムゴン祖師は、仏法を広めるには3つの制限があると説く。即ち説く教えは釈迦牟尼仏がお語りになった事、過去の大成就者(自分の上師を含む)がお語りになった事、或いは自分自身が修行して悟った境地を語る事である。但し所謂悟った境地とは、必ず上師にその境地に至った事を確認して貰わなければならない。仏経は文字で釈明するものではなく、修行して体得するものである。

修行者が修めなければならないのは一般の人が言う福報ではなく、福徳である。実は福は使うとなくなってしまう。例えば、食事をしたり、服を着たり、給料を貰ったりすることは、すべて福報を使っている。福報は前世で布施したり、辱めを忍んだり、戒律を守ったりする事で修め得たもので、使い終わるものである。欲望によって修行しても福報になる。仏法は何も求めない。金剛経は、もし菩薩が自分は大衆を済度していると自覚すれば、それはもう菩薩ではない、と言う。なぜなら何かに執着すると福報に落ちるからである。福徳は福報とは違う。体を良くするために福を求めるのではなく、生死から解脱するために福徳を修めるのである。事実上、福報を修めるのはたやすく、各種の宗教でも福報を修めることができる。そればかりでなく、道路を舗装したり、人を助けたり、善事をしたりしても、福報を累積する事が出来る。今生修めた福報は、来世で使うが、人道や天道で使うとは限らなく、畜生道で使う可能性もある。まえの動物園の象の林旺のように、専属の飼育係りが完璧な世話をし、我々の日常生活より豊かな日々を送り、死後も人々が記念している。この象は前世で福報をよく修めたのである。自分の今世を豊かに過ごす為に修行してはいけない。そうすると福報を修める事に成る。もし本当によくなるようにと望むのならば、給料の半分を助けを必要とする人に自ら手渡ししなさい。例えば棺桶を寄付するとか、薬を寄付するとかである。すると3年で自身のすべての事を変える事が出来る。しかしそなた達はとてもやれないだろう。

仏法が他の宗教と最も違うところは福徳にある。自分に大福徳が備わり、妨げなく絶えず仏法を聴聞出来る事を望むのは、主に心を決めて輪廻の苦海を離れる為である。なにも求めなく、ただ供養すれば福徳を得る事が出来るし、すべてを放棄して供養しても福徳を得る事が出来る。リンチェンドルジェ・リンポチェが2007年ラキ雪山で閉関修行を終えた後、法王は自らリンチェンドルジェ・リンポチェを随えて、三日間火供を修め、火供が円満した後、リンチェンドルジェ・リンポチェは雨でぬかるんだ大地にひれ伏し、法王に五体投地の大礼拝を三回して、法王の恩に感謝の意を表された。これが身の供養である。また仏法は大地の如く、大地がなければ何もない。故にこれは大地に感恩する事でも有る。そしてこれは傲慢を捨て、自分の体及び衣服などは惜しくない事の表れでも有る。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、弟子の一人が皆に語ったリンチェンドルジェ・リンポチェの助けを頂いた話で開示された。医者に子宮外妊娠と診断された弟子は、当日の夜すぐ手術を受けなければいけないと言い渡された。この弟子は急ぎ逸仙路の宝石店に赴き、リンチェンドルジェ・リンポチェの御影に頂礼して助けを乞うた。リンチェンドルジェ・リンポチェの加持の下で、胎児は当日のうちに自然に流産した。翌日、医者が検査すると子宮外妊娠は無くなっていた。もう1人の弟子の母親は心筋梗塞で病院に運ばれた。検査の結果三本の動脈のうち二本が閉塞し、心筋が壊死して病院より危篤の知らせがあり、また緊急カテーテル挿入手術を受ける事になった、この弟子も同じく逸仙路の宝石店へ赴き、リンチェンドルジェ・リンポチェの御影に頂礼して助けを乞うた。リンチェンドルジェ・リンポチェの加持の下で、この母親は手術で閉塞していた二本の動脈の一本が通り、迅速に回復して退院する事が出来た。リンチェンドルジェ・リンポチェが帰国した後、この弟子は宝石店へ行って、リンチェンドルジェ・リンポチェに母親の病状を報告した。ところが報告する前に、リンチェンドルジェ・リンポチェははっきり母親の動脈二本が塞がって、その中の一本はすでに通ったと言われた。此れは本来精密な医療機器を以って始めて診断できる事である。

彼らは助けを得たが、他人に迷信と言われるのを恐れ、医者に、はっきりとそれは仏法と上師リンチェンドルジェ・リンポチェのお陰だと言わなかった。天主教、キリスト教さえも神の助けと言い切るのに、なぜそなた達は仏法と上師リンチェンドルジェ・リンポチェの助けを得たと言えないのだ。仏法は恥ずかしい事なのか?感恩と口先ばかりで言っているが 真に感恩しては居ない。只、仏菩薩と上師リンチェンドルジェ・リンポチェを利用しているだけで、上師リンチェンドルジェ・リンポチェを私有している。それは感恩していなく、恭敬心もないし、供養もない。リンチェンドルジェ・リンポチェは良き物を得ると、法器も含めて、先ず上師に差し上げ供養する。ある弟子がいた。緑度母のタンカをもらったので リンチェンドルジェ・リンポチェに開光して頂くように乞うた。タンカが開光された後、それを毎日拝めば自分がますます良くなる様に望んだのだ。彼が開光を求める為に捧げた供養金を、リンチェンドルジェ・リンポチェは受け取らなかったし、タンカの開光も行なわなかった。彼は供養の金額を徐々に増し、最後には50万、100万台湾ドルになったが リンチェンドルジェ・リンポチェは相変わらず受け取らなく、開光もしてあげなかった。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ緑度母を伝授したことが無く、それに、この弟子の供養心は正しくないからであった。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェが開光してくれないのは、供養が足りないと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェが申すには、上師の慈悲は弟子が欲望を増やすのを助けるのではない。

ただ福徳のみが我々が未来を変えるのを助ける事が出来る。もし、福報のみを求めるならば、必ず悪が其の中に混ざる。梁武帝は出家する者は必ず菜食する事を決め、多くの寺を建立し、無数の仏経を翻訳させ、自らも翻訳した。それほど多くの仏法事業をした梁武帝は 達摩祖師に自分はこれで功徳があったかと聞くと、達摩祖師はないと答え、ただ福報あるのみとおっしゃった。梁武帝が功徳を貪り、傲慢な心で仏法事業に臨んだため、最後に、軍隊の反乱で飢え死にしてしまった。功徳がなければ業を転ずる事は能わず、生死を解脱することが出来ない。

ガムポパ大師は、恩顧の上師の全ての事を引き受けて供養するのは、福徳を一番早く蓄積する方法である。無量無辺の宝物を以って、虚空中の無量無辺の仏菩薩に謹んで供養しても、弟子がわずか1本の髪の毛を恩顧の上師に謹んで供養するに及ばず、と開示された。そなた達の福徳は浅はかなので一言仏号を唱える定力もないが、福徳が足りるならば自然に入定することが出来る。リンチェンドルジェ・リンポチェはある弟子を例として諭した。リンチェンドルジェ・リンポチェは印度で、リンチェンドルジェ・リンポチェが法王を尊び敬う様子をすでに示現して見せた。法王が席を外すと、リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐ立ち上がり、法王が席に戻ってくるまでは絶対に着席しなかった。しかし、その弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェの会社で、リンチェンドルジェ・リンポチェが席を外しても、座ったままで立ち上がらなく、恭敬心が無かった。これでは供養がない。恭敬心がなければ供養することはない。真の供養とは上師の一言一句を覚えている事でもある。なぜなら己の未来の法身慧命は上師の助けを借りるからである。三宝を尊び敬い、心の動きや思いを起こすのが自分のためではなければ、間違いを起こさない。上師は弟子を成就させる為に、いろいろ苦労をなされる。例えば、法王はリンチェンドルジェ・リンポチェが2007年に閉関が出来るように、何年も前から数々の準備をなされた。リンチェンドルジェ・リンポチェも弟子を成就させる為に、絶えず修行の苦労をなされて、上師に仕える方法や持戒等を示現された。そなた達は上師のことをどう思っているか自問してみよ。

ミラレーパ尊者はガムポパ大師に、上師に供養するばかりではなく、如実に上師の教えに従えば、其の功徳は更に大きくなる、と開示された。上師の教えにはすべて加持がある。灯供を修める時、先に仏前の灯りをつけ、それから法王前の灯りをつけ、次に法王の灯火を以ってリンチェンドルジェ・リンポチェの灯りをつけ、リンチェンドルジェ・リンポチェの灯火で弟子と信衆の灯りをつけた。これは、教法は清淨に伝承されてきた事を表す。リンチェンドルジェ・リンポチェは法王が教えることはただ従うだけで、何も問わなく、自己の考えで見ない。法王が伝えた事が法本と異なっていても、経文を持って法王に伺いに行かなく、表面上の文字と違っていても、意義は同じだ。法王の伝法は清淨な心で教えているからだ。四六時中文字の表現ばかりを考えても、閉關訓練を経なければ、体得もできない。上師の教えに従えばそれでよいのだ。

学仏には多く名相を知る必要があり、奥が深いと思うなかれ。その実、仏法は世間法から離れず、毎日生活の中で使うものである。今の社会は誘惑が多く、仏法を用いて、始めて間違いを起こさない。ミラレーパ尊者曰く、見解ばかりを追うことなく、段取りを踏んで実修すればよい。生活に使うのが修行であって、十数年閉關したのが偉いのではない。閉關は実修方法の1つにすぎず、最も重要なのは心を修めているかである。多くの者は広く論を読み、一途聞くだけで、実修しなければ、傲慢になるだけである。学問があるだけ、実修が付いて来なければ駄目である。しかし実修だけで、学問がないのも弘法する事が出来ない。六祖慧能と広欽老和尚も文字が読めないが、実修から見解を理解している。リンチェンドルジェ・リンポチェも実修から入ったのだが、そのほうが速いが、大変苦労する。

ミラレバ尊者は空性を修める場合、以下の四種の間違いを起こす事があると開示している。第1は、空性が印定に流れる事、即ち空性の境界に到達する事に固執するのである。これは心識で自分の感官、知覚、意識、行為を抑え、自分では空の境地に到着したと思っている。我々は全く思考しない事はあり得なく、妄想を片隅に放置し、自称空とするは間違いである。もともと、動があれば静があり、動と静が有ってこそ人は平衡を保つ事が出来る。第2は、空性が対治に流れる事、即ち貪等の煩悩や欲望に臨み、座禅、禅定、悟空で煩悩に対治し、それで空性に到達すると思っている。これは仏法と関係がなく、物事を極めず、根本から解決をしない表相の修行で、煩悩が来る時、空性を以って煩悩に対治し、それを消徐するもので、それでは永遠に煩悩が何故来るのかを考える事が無く、それを根治する方法も見つからなくなる。現代の企業家はよくこの方法を使い、空性を悟れば、心身をほぐし、欲望を減らした上で、平静が得られると思っているが、その実、これはすこぶる危険な事なのである。徐々に依存する習慣を身につけ、何かがあるとすぐ禅座に頼らないと、平静が得られないようになる。

第三は空性が道に流れる。このような修行者は空性を悟れば成仏できると思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは前に顕教を学んでいた時期があったが、その時あらゆることに嫌気がさし、世間の俗務を捨てて、もっぱら修行に専念しようかと思った事があった。こう言う感じが最も強くなったある日、リンチェンドルジェ・リンポチェは夢を見た。自分が立派な服を着て清潔な場所に立ち、カウンターを隔てて、もう一人の自分が汚らしい雑然とした場所にいて、其処に居た人々に仏法を説いていた。人々はとても喜んでいた。この夢はリンチェンドルジェ・リンポチェに自分が間違っていた事を知らせた。仏法を習ったが故に自分の生活を嫌ってはいけない。生活の中に何か直す必要があるかを見なさい。更に何かの事柄から逃げ出すために出家し、他人が仏法に対して誤解を生じるようではいけない。もし、一切の事柄に嫌気がさせば、衆生を済度する事が出来なくなる。仏法で他人を訓戒してはいけない。他人の過ちを見るのではなく、自身の過ちを見なさい。道理は此処である。第四は衆生が皆仏と同じ清浄の本性を持つので、修行の努力をする必要がないと思う。そうすれば「酒肉は腸を過ぎるが、仏陀は心頭に座る」のような誤解を生む。

空性は頭で考え出すものではなく、因縁が熟した暁に体得するものである。リンチェンドルジェ・リンポチェはあるときの閉関中、夕食後関房で歩いていた時、突然椅子に躓き、「トン」と音を出したが、リンチェンドルジェ・リンポチェは其のとたん入定し、そして縁起性空を證得された。仏が不可説と説くのは、修行の境界は言葉で表す事が出来ないと言う事である。部厚い大蔵経の3分の2は大般若経であるが、般若とは空性の意味である。

ガムポパ大師の開示:真の空性は法眼を備えて、法眼を備える行者は宇宙一切の現象を体得して知っている。修行を通して、本性すなわち仏性である事を体験し、自由自在に使いこなし、煩悩も歓楽も覚えず、一切を因縁法により見る。

多くの弟子は経験した事が有るが、リンチェンドルジェ・リンポチェに大声で叱られると、頭は空っぽになる。これはリンチェンドルジェ・リンポチェが獅子吼の加持をされ、一瞬の内に弟子を清浄な本性に戻して考えの妨げを避けさせる。つまり大手印の境界であり、煩悩と妄念を無くす。こう言う経験は、将来大手印を学ぶ時の助けになる。何故寶吉祥仏法センターの法会で、数百人が大人しく3時間も座れるのか。これはリンチェンドルジェ・リンポチェの加持力であり、また常に叱られているので、皆は比較的静まる事が出来る。或いは多くの者は体験したかもしれないが、リンチェンドルジェ・リンポチェに叱られた後、自分が家で真言を唱える場合、妄想が減っている。上師は自分の禅力で弟子が静まるのを助ける。弟子に上師の功徳威厳に恐れを感じ、妄想は自然に断ち切られ、煩悩は消えて智慧を起こす。上師が弟子を放縱すれば、弟子は永遠に智慧が備わらない。智慧は供養により得るのではなく、上師によるのである。

福徳は智慧を得るまで修める事が出来る。智慧が備われば、名相の解釈に執著をしない。この境界は文字では解釈できない。其れは唖のように、夢の世界がいかに素晴らしくても、それを他人に語る事が出来ない。一切の境界はただ仏菩薩と上師が知っている。本性が現れないと、智慧は開けないし、生死を解脱できない。

信じるのは一切の功徳の元であり、自分が成仏の条件を備えると信じ、上師の仏法の教えは自分と衆生に利益すると信ずる事。今世此処に来たのは何も使命が有るのではなく、ただ借りを返す為である。借りを返すからには新しい借りを作るわけには行かない、故に肉を食する事は出来ない。肉を食する事は、未来佛を食する事である。過去世で修行者であったかどうかは重要な事ではなく、生死を解脱し衆生に利益すると決心したかどうかが大切なのである。今世生死を解脱しなければ、未来の一世に必ず地獄道に堕ちる。今世仏を学ぶ機会を必ずしっかり捉えるべきだ。今世を逃せば、何時また機会があるのか分からない。

2009年6月16日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009年6月17日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009年6月21日

台北寶吉祥仏法センターの共修法会で、弟子及び信衆は尊きリンチェドルジェ・リンポチェが2003年5月11日台北市大同区役所講堂で主催された法会での開示の録音テープを恭しく聞いた。この法会が開催された時は、ちょうどSARS疫病が全世界に広がった期間で、リンチェドルジェ・リンポチェは特に疫病神に対する真言と憤怒蓮師が伝えられた白金剛袪百病の真言を修め、また密法にて加持された密呪護輪及びSARS疫病を防ぐ甘露水を各参列者に賜った。同時にみんながこの殊勝なSARS疫病を防ぐ甘露水を必要とする衆生にあまなく分かち合う事を望まれた。

リンチェドルジェ・リンポチェは、「苦しい時の神頼み」という諺について開示された。つまり、普段から絶えず仏菩薩と友達に成らなければいけない。なぜなら一秒ごとに不可思議で数えるほどの衆生が仏菩薩に願いを掛けてくるため、そなたが突然現れても、仏菩薩はそなたが見えなく、その願いも聞こえないからである。多くの者は仏菩薩を一寸拝めば、何でも叶えてくれると思っているが、それは大変な間違いである。多くの者は前に何回か法会に参加しなかった。法会には人が多く集まるのでSARSをうつされるのが怖かったからである。リンチェンドルジェ・リンポチェの法会は途切れた事がなく、弟子は誰一人SARSに罹らなかった。これらの普段来なくて、今日はSARSに対処する法を修める法会と聞くと、現れて法会に参列する分別心がある者は、たとえ護輪を得ても、助けは限られている。若し上師に対し信心があれば、如何なる法会も助けがある。

チベット仏教は真言を唱えることが主なので、またの名を真言宗と言う。実は皆が毎日に唱える大悲咒、十小咒、楞嚴咒は真言宗に関する真言である。ある者はチベット仏教を排斥するが、それはあまり理知的とは言えない。実の所、毎日自分が唱えているのは皆チベット仏教に関する真言である。真言は各本尊の願力であり、累世累積した福報功徳は皆真言にある。私たちが真言を一回唱えると、本尊の願力、功徳、福報の加持を得たのと同じである。

チベット仏教で真言の法門を修めるには長期間の禅定訓練が必要で、厳しく戒を守り、それに、閉関して、限られた一定の期間中に本尊の呪語をある一定の回数唱えなければならない。閉関期間中に呪を唱えて、それが成就するとどんな徴候が現れるかが法本に記載されている。これらの徴候が現れれば、衆生を利益する力がある事を示す。一切の真言は衆生のために唱えるのであって、此れが所謂「清浄四法」であり、一糸一毫たりとも自分を利益することがなくて始めて清浄と言い、自分に利益するために真言を唱えるのは不清浄である。四法とは息懐増誅である。具徳上師は必ず閉関をして、この四法を円満に習い、始めて衆生を利益することが出来る。普段そなた達が呪を唱えるのは只本尊と縁を結ぶに過ぎなく、衆生を利益する効果は無い。

真言を唱える方法は、真言を唱える前、特別な真言で念珠を加持し、観想してから真言を唱え始め、それが終わるとまた真言を唱えて観想する。毎日の早晩課に十小呪を1回、大悲呪を7回唱えればそれで好いと言う訳ではない。そんなに簡単であれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは毎年苦労して閉関する必要はないだろう。チベット仏教は真言で衆生を利益し、自身が成就する者は呪師と呼ばれる。真言宗を勉強しはじめれば、口業は必ず清浄であるべきで、他人を罵詈雑言で罵ると、特に上師を批評した場合、以後唱えた真言は全てご利益が無い。 ある者は1回位法会に来なくてもかまわないと考えているが、実は、そなた達の修行程度では、1回参加しなければ、10年ほど修行しなかったのと同じである。なぜならそなた達はまだそのレベルに達していないからである。

リンチェンドルジェ・リンポチェが顕教に居られた時、毎日大悲呪を唱える事49回、南無大悲観音菩薩の聖号を2000回、普門品1冊、心経を49回、禅定1時間、夜は華厳経を読んだ。そなた達はここまでやれないのに、法会に参加することさえも怠けて、通常は顔も出さなく、なにか良い事があればやって来る。こんな事で仏菩薩がそなたを加護するものか?仏法は絶えず引き続く恒心が必要だ。法会に1回参加しただけで何もかもが変わるものではない。今回法会に参列した者は先週より40名多くなったが、それは、好い事があると聞いて来たのだ。仏法の勉強がこんなに現実的だと、人生もきっと現実的で,今後必ず色々な事が起こる。

弟子に与える護輪を準備するため、事前に弟子の名簿を提出するように言付けたにも拘らず、3名のグループ長が名簿を出さなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生の為に力を尽くす事は自分の為に力を尽くす事だと開示された。名簿を出して来ない為、護輪の準備作業に困難を来たしてしまった。準備した護輪の数が不足すれば、貰えなかった者が出る。多く準備し過ぎると浪費になる。この3名のグループ長は即刻グループ長の仕事を辞めて貰う。

今度修める疫病神に対する真言と、忿怒蓮師が伝えた白金剛袪百病真言は、未だ嘗て漢人に伝わった事が無い。我が直貢噶舉教派は、リンチェンドルジェ・リンポチェが多くの弟子を抱えているのを知って、特に何名かの特別なリンポチェを遣わし、特にこの法をリンチェンドルジェ・リンポチェに伝え、その弟子達が無事にSARSの疫病期を過ごす事が出来る様にした。この法会の準備作業は非常に多く、早朝皆がまだ睡眠を貪っている内に、リンチェンドルジェ・リンポチェは預備法を修め始めた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは法を修め終た後、SARSは空気感染ではなく、主に接触を介してうつると開示された。例えば、手洗いでよく蛇口を洗わないて手で触れるとか、手洗いから出る時ドアの取っ手に触るとか、或いは便器に水を流す時、ウィルスに触れるとか、エレベーターのスイッチを押した後,その手で目、耳、鼻に触れる等…リンチェンドルジェ・リンポチェは医学界より更に早く正しい感染ルートを指摘し、そしてみんなに様々な自分を守る衛生的な習慣の動作を注意して、自分を守るようにした。

さらに、リンチェンドルジェ・リンポチェは、SARSの伝染力はインフルエンザよりに及ばないが、このような疫病を起こすのは、みんなの殺業が共業するからと指摘する。我々は多くの衆生が死亡する時大きな恐れ感じさせた。それで今度、わけがわからない病気で我々を怖がらせている。これは報いである。多くの病気は殺業から来る。もし菜食を拒めば、秒毎に仏菩薩に祈っても役に立たない。私達はこれらの有情眾を殺害する理由がない。すでにSARSが動物から人に伝染するのことが実証され、中囯広東省の野生の動物を殺す者から伝わってきた。肉食を続けると、たとえSARSに罹らなくても狂牛病に罹るだろう。今、多くの人は脳部に問題がある。医者はその原因の調べがつかない。実は人が食べる禽獣は多くのホルモン、抗生物質など滅茶苦茶な物を注射しており、抗生物質を打ってもまだ他の細菌とウィルスが存在して、肉を食べるとそれらも食べ込み、更に脳に入る。

仏は絶え間なく皆に肉断ちを説得してきた。皆が長生きをして、更に多くの時間で仏法聴聞するのを望むからである。菜食すると必ず出家するわけではない。両親がそなたが菜食するのを嫌がる理由は、第一に、そなたが剃髪出家するのを恐れている。第二に菜食では栄養が足りないと思っているからである。仏法は心の中に分別心さえ無ければ、何を食べても栄養があると説く。今回SARSをきっかけとして、中国人の殺生の風潮及びエゴの風潮が変わればと望んでいる。多くの人が菜食に対して困難と感じるのは、菜食は止むを得ない選択だと思って居るからで、菜食しないと道場から追われるのが怖いからである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは広欽老和尚の一分間の注視による加持を得た後、肉を食べると吐くので、以後菜食に徹した。菜食一年後、リンチェンドルジェ・リンポチェは顕教に皈依した。菜食を始めた頃、やはり多くの障害が出た。友達に「悪事を多く働いたので、菜食したのだろう。」と笑われた。リンチェンドルジェ・リンポチェは「はい。」と返事した。人は知らぬ間に多くの衆生を傷付けているのに、自分が悪事をした事を認めきらない。我々は生々世々肉を食べた感じを忘れられないので、何かと自分の為に理由を挙げて菜食を拒む。善い行いが、もし永遠に善い行いをする心から出るのであれば、冤親債主はそなたを許すだろう。しかし善い行いにより、自分が何か利益を得ようと思うのであれば、冤親債主は妨げに来るであろう。

もし皆が肉を食べ続けると、以後SARSだけではなく、更に色々な問題が出てくる。悪くすると戦が起こるかもしれない。怪物や異類に見られるので菜食する事を恐がってはいけない。出血や手術などは過去世で殺生をしたからである。仏は私たちにまず殺生の行いを止めて、次に殺生の考えを断つ事を勧めている。殺生の考えがあれば、慈悲心を修められない。慈悲は自分の楽しみを他人に与え、他人に苦しみを生じさせない事である。もしそなたが真言を唱えながら、肉食をすると、それは仏法を習うのではなく、魔道を習っているのだ。仏は衆生の一人たりとも苦しみを受けるを望まない。故に、私達は既に皈依したからには、仏の御教えに従うべきである。

皈依するとは再び仏陀の教えを受け入れる事で、皈依すれば仏がそなたを保護して下さると思うべきではない。若し仏の教えを受け入られないのなら、皈依した意味がない。仏を学ぶに当り、上師の教導を聞かなく、自分の考えで事を運べば、そなたの事を変えるのは難しい。そなた達の顔に黒い気配が漂うのは、累世の業を清め尽くしていない為で、業気が有るからである。そなた達に災難があれば、仏菩薩は先ずそなたを助けるが、その後は自分自身に頼る外は無い。多くの仏教団体は先ず人達を皈依させてから、肉食の問題をゆっくりと是正する。リンチェンドルジェ・リンポチェは今の地球上の共業がますます恐ろしくなることに気が付き、すぐに悪を断たなければ、たやすく共業の中に巻き込まれてしまう。

機縁があって密呪護輪を頂けたので、その福を大切にしなければならない。福を大切するとは食べ物を残さない事や、お金を使わない事ではない。福徳を得たのち、それを浪費しない事だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは法を得てから密呪護輪と甘露水を作るまで一ヶ月の時間を費やした。真言を持つ能力を備えないと、これを作れない。簡単には得れないのだ。今日福報があってこの殊勝な物を頂けて、どう恩返しをするべきか?教えに従って行えばいい!まだ時間があると思ってはいけない。以前の悪報は幾つかの世を隔てて始めて現れる。今は今世での報いだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐ懇切に仏法を習ったので、すぐ運命を変えられた。

護輪を着ければそれで問題が無くなるのではない。それに加えて、仏が我々に教えた方法を信じなければ成らない。そなた達は自分には出来ないと思うが、それは自分には学べないと思うからである。仏を学ぶのはそんなに難しくない、上師の教える方法により、着実に生活の中で行えば、これで一つの法門に深く入るのである。各上師の教える方法は、皆自分の経験であり、そなたに合う方法で教えている。言われるとおりに行えば、必ず出来る。この間違いを犯した弟子達は、自分は出来ないと思うから、そのまま教えに従って行わない。リンチェンドルジェ・リンポチェは多忙な日々をお過ごしになられているが、桃園ドームでの万人大法会を含め、覚書も書きとめていらっしゃらないが、物事をお忘れになる事はない。これは雑念や妄想がなく、仕事に専念されておられるからである。そなた達はこれらの小さな事さえ忘れてしまい、これでは生死の大事がうまく行く筈は無い。

リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子を叱るのは、全て弟子の業を消しているからである。多くの弟子は叱られるのを怖がっている。リンチェンドルジェ・リンポチェは在家修行者故、在家の弟子が会う問題をよく知っている。そなたに笑顔で対処する方法では、そなた達の為にならない。今の方法はそなたが好きではないとしても、少なくとも未来世で間違った道を歩まない。もしこの方法を受け入れるなら、多くの業を変えれる。若し未来を変えたいと思うなら、自我、尊厳、メンツを犠牲しなければならない。さもなくば平等な慈悲を学べない。仏を学んで恩に報いるこそ、真に福を珍重するのだ。

2009年6月26日

尊いリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで殊勝な直貢噶舉教派施身法を主催された。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの法は中国語で「施身法」と称するが、チベット語と梵文では、施身法とは「一切の悩みを断つ」と言う事だと開示なされた。仏を学ぶ者は必ず布施と供養をしなければならない。その真の目的は執着心を破る事だ。人は一切を差別無く捨てることができない。すべての事に分別心があり、自分の好き嫌いによって各種の事柄に対して異なっている執着を生み出し、果ては悩みが絶えず、様々な悪業を作り出す。金剛乗の教えは私達が好むことと憎むことを平等に捨てるように要求する。我々が今世に得た体と思想は、すべて前世で作った業より来る。実は人の業は母親の胎内にある時からすでに始まっている。科学者はすでに、胎児が3ヶ月目から外部に反応すると実証している。妊娠している母親があまり冷たいものを食べたり、罵詈雑言を言ったりすると、体内の胎児は少し動くか蹴るかして反応する。これは、胎児がこの食品或いは音の好き嫌いに反応しているのである。業は必ず良いとか悪いとかとは限らなくて、考えや行動があればエネルギーが生まれ、すぐに輪廻をもたらす。だから、地蔵経は人類の心が動いたり思ったりすることは全て業で、全て罪だと説かれる。

釈迦牟尼仏は多くの布施や供養の話を示現された。例えば、身を捨てて雌虎の餌食となり、それで雌虎の乳の出をよくし、子虎を飼育させた。また、体の肉を切り取り、鳩を追う鷹に与え、鳩の難を救った。さらに、自身の目を掘ったり、鼻を切ったり、手を切ったりする等の話は多い。完全に悩みや煩いが無い様に成るには、三地以上の菩薩でないと駄目である。まだこの程度まで修行していない者は、布施や供養から始めればよい。布施や供養で最も重要なのは完全に手放すことで、他人が感謝や賛嘆するか否かは関しない。我々が傷つけた冤親債主の嗔恨心を消すために、我々は最大の誠意を示さなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは皮膚癌に罹ったが、病院に行ったり治療をしたりすることはなかった。ただ、冤親債主さえよければ、この体は彼らに食べさてやろうと思っていた。結局皮膚癌は治った。だから、そなた達は、毎日病気や死亡などを心配する必要はない。

布施供養はお金ではなく、強い懺悔の心を持たなければ全然役に立たない。 今日、我等が済度したい亡者は,以前必ず悪行も善行もしたことがあり、悪事をしたため、生死より離脱することが出来ないし、善行があったため、誰かが彼の代わりに法会に参加した。「施身法」は亡者が善道へ、さらには阿弥陀仏の浄土へ行く事を助ける。我々は亡者がこの法会にてどの程度の助けを得たかは問わなくてもいい。それぞれの福報因縁は異なる。あらためて福報を貯めるのは一朝一夕の事ではなく、絶えず善を行い、心から誠に懺悔し、それで始めて苦しんでいる中陰身が苦海より離脱することを助ける事が出来る。

ある者が仏菩薩に申し上げた。私の病気が治ったら、大礼拝を何回し、経を何回唱えよう、と。これは贈賄であり、脅かしである。全く懺悔心と慈悲心がない。常に他人に使う手を仏菩薩に使った。こんな考え方は、まるで自分は間違いなく、間違いを認めようとしていない。此れでは寃親債主はそなたを許さないだろう。

亡者を済度するには三つの条件があり、一つも欠けてはならない:一つ目は、亡者が済度される機会、因縁、福報があるかどうか、二つ目は、代わりに法会に参列する者は恭敬、懇切な心を持っているか、三つ目は、法会の主催者は慈悲の大能力と大福報を持ち合わせているか。法会後、家族がどんな助けを得たか、どこへ行くか、済度されたか等を聞くことはない。聞けば上師に対して不恭敬、不信心となる。上師の修法に信心がないのである。信心が無ければ、力は消えよう。法会に代わりとして参列した者が、真心をもって亡者を助けるのでは無く、只、亡者に煩く付き纏われるのが嫌で来たのであれば、亡者はそのような心をすぐに感じ取り、諦めて済度を受けなくなる。故に正しい考え方がなければ、この法会に参列しても無駄である。釈迦牟尼仏は我々に仏を学ぶには、戒を守らなければいけないと教えている。その中の一つはうそを言わない事であり、それは無い事を有ると言ってはいけないし、有る事をを無いと言ってもいけない。 リンチェンドルジェ・リンポチェもこの戒を守り、言った事は全て真実である。戒を守らなければこの「施身法」を修める事が出来ない。

密教には修法する時、通常身を守る物をつけるか、あるいは自分が本尊だと観想する。しかし、「施身法」は身を守る物をつけることが出来ないし、本尊にも立ち去って貰い、自分の肉体で「施身法」を行う。修法時、この法器を吹くと,衆生は皆集まり、彼らを済度することが出来なければ、彼らは修法者に迫り、修法者が続けて修法をするのを妨げる。今日いたる所車の渋滞だが、それでもそなた達が時間通り此処に来れたのは、我々が済度したいと思う衆生がそなた達を助けてここに来さしたのである。

目前、この様な「施身法」を行う者は多くない、この殊勝で得がたい法門に参列出来ることに、そなた達はこの福を惜しむべきである。福を惜しむとは生生世世仏を学んで衆生を利益するように決心する事である。我等が受ける苦しみは全て過去の悪行のせいである。だが、我々が受ける苦しみは我々に殺された衆生が受ける苦しみの百万分の一にも及ばない。現在、こんなに多い癌と怪しい病気は全部肉を食べる事に起因している。仏はずっと衆生に肉を食べないように諭している。もし仏の助けを望むならば、必ず仏の諌めを聞こう。仏のお話を聞き、まずその言葉に従い、それを疑わなければ、始めて真に仏を信じたと言える。リンチェンドルジェ・リンポチェ自身はその通りにして役に立ったので、この事を皆に伝えているのだ。そなたが同じ方法で役に立たなければ、それはそなたがずっと自分の考え方で仏の教えを推測するからだ。まずやってみることだ、何時役に立つかは誰も知らない、人の心は千変万化だからだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは七時の法会のために、自分の会議、事業などをほっておいて、ただ衆生をたすけるために5時半には出かける。そなた達も同じ様な心掛けで参列するように望む。まず自分の利益を顧みない事。心が狭いと気が通じなくなり、足を組んで座ると足が痛くなる。

施身法は顕と密が結合した法である。顕教は大般若経を主とする。直貢噶舉教派がこの法を修めると、その加持力は特に大きい、護法アキがこの法を修めて成就し、虹光身に化して、自身の浄土へ身を投じたからである。施身法を修めるには、特別な法器を一つ必要とする、それは人の足の骨である。チベット仏教はなぜ人の足の骨のような恐ろしい法器を使って法を修めるか!施身法が済度するのは我々の祖先で、彼らは過去世では人間である。彼らがよく知る人間の骨で音を出せば、彼等は同類が呼んでいると思い、最も彼等を呼び寄せて仏法のご利益を受けることが出来るからである。だが普通の人の足の骨がすべて使えるのではない。特定の要素と形を備えている骨でなければいけないので、この法器は十分得がたいのである。リンチェンドルジェ・リンポチェがお使いになる足骨法器は、かってチェツァン法王がお使いに成って、後に自らリンチェンドルジェ・リンポチェに賜ったものである。これは、直貢噶舉教派の施身法は現在リンチェンドルジェ・リンポチェに伝承されている事を表す。この法を修めるには、長期閉関して、密法の訓練をしなければならない。顕教と密法が違うところは、密法は呪を唱えて衆生を助ける事にあり、それにはまず清淨な本性を修め得て、始めて唱える呪文に力が備わる。

人間の体は異なる体系から考えることが出来る。東洋医学においては、人体の構成を経脈と内臓の体系から見る;西洋医学ではそれより強列で激しく、攻撃的で、強い薬や手術などで治療し、筋肉骨格の体系で人体を診察する。実は昔漢方医も手術をしたことがあった。中国の三国時代には、歴史に漢方医が外科手術で治療したことを記載している。華佗は関羽の骨を削って毒を除いたし、曹操の脳を切り開こうとした例がある。宋代に至り医学が更に進んだ結果、治療のためにこちらを切れば、別な処を損傷させることを発見したので、手術治療法を止めた。仏法においては、人身は業報身と見る。すべての病は悪業から起こり、それを治する方法が第三の体系である。つまり衆生は皆同じ様に仏性と本性を備えるが、この第三体系を開発しないと、修行が難しい。例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェは脊柱が大きく曲がっており、理論的には装具を装着しなければ歩けなく、さもなければベッドに横たわるしかないのだが、何故か法座に登って何時間も法を修めることが出来、法座から降りるとすぐ歩く事が出来る。それは第三体系を開発して能力が現れ、痛みの感覚を制御できるに他ならない。それは時々禅定を修めると、本来の痛みが軽くなるか消えてしまう者が有るのと同じ道理だ。彼の本性が禅定した時に現れたのだ。ただ、普通の人はこのような時間が短い。本性を修めると唱える呪文に力がある。リンチェンドルジェ・リンポチェが持つ人のすねの骨で作った法器は油を付けず、一ヶ月に一回しか使わないのに、つやつやしく見える。それは護法が載っていて、使う者と法器が同様に衆生を利益しているからこそ、この様になる。

続いてリンチェンドルジェ・リンポチェは施身法を修められた。法を修めた後迴向され、リンチェンドルジェ・リンポチェ自ら皆を率いて求生浄土祈請文を唱えた。慈悲の声は皆を感動させた。最後に、リンチェンドルジェ・リンポチェがまだ禅定して皆に加持をなされていた時、一部の者はさっさと法本を片付け始めたが、それに対してリンチェンドルジェ・リンポチェは次の如く説かれた。『衆生を済度するのは難しい。そなた達がまだ小学生の頃、必ず先生が教科書を片付けなさいと言ってから片付けたものだ。現在もう大人になったので話を聞く必要がないと思っている。人々が他人を尊敬しないのは痛みの原因である。』

リンチェンドルジェ・リンポチェは再び衆生に代わり、皆が肉食をしない事を望んだ!そなた達の家族に意外、自殺などの事故を起したくなければ、殺生を避けねばならない。肉を少なめに食べれば、殺生を少なくする事が出来る。自ら率先して行うべきだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは幼い頃から父に従って道教を学び、母も菜食ではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェも母に仏を学ぶ事を要求しなかったが、現在、リンチェンドルジェ・リンポチェの母は自発的に菜食をして、観世音菩薩を唱えている。これはリンチェンドルジェ・リンポチェの行いが良くなったので、家族も従ったのだ。自分の福報が足りて、始めて家族もそれに習って仏を学ぶ。施身法の本尊マジラ尊者は女衆であり、結婚した事があり、子供を生んだ。ディクン・ガジュのアチ護法も同じである。仏法は平等であり、女であれ男であれ、修めて成就する事ができる。ただ方法は異なるが、結論は同じである。施身法祈請文の中のある段落で曰く、未来得るのは女身でなくする事は可能だが、それは悪業をしなく、因果を深く信じ、三寶を敬う必要がある。女子は良くないのではないが、比較的に苦労が多く、毎月苦労するばかりでなく、老いて再び苦労する。また、情緒の揺れが大きく、障害も多い。

密法を学びたければ、上師は教えることができる。但し、一切の前非を懺悔し悔い改めなければいけない。仏は人を3種類に分ける:一は願いに従い再来した者で、誕生後一生善を行う;二は間違いを犯したが再び犯さない者で、これ等の者はすぐ成仏する;三は繰り返し間違いを犯す者で、多くのものは此れである。多くの本尊は女相を表す。リンチェンドルジェ・リンポチェは法を修め始めたとき、自分が女子であると観想された。来世が男子であるか女子であるかは変るものである。故に男子は女子を軽蔑するべきではなく、女子も男子を怒り恨む必要はない。皆平等である。

2009年6月27日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

2009年6月28日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターにて共修法会を主催なされて、「三士道」などの仏法を開示なされた。まずは、リンチェンドルジェ・リンポチェはもともと今日の法会の中でいくつかの比較的に深い仏法を説かれる心算だったが、最近、弟子達の間にいろいろな事が起こり、リンチェンドルジェ・リンポチェは 説いても無駄だと思いになられた。壇城の法務を担当するある弟子は、先ほど説いたような日本の法会の時に犯した誤りをまた犯したと指摘なされた、上師の動作に注意を置かなく、上師が到着する時に、他に車の出入りの安全に注意することを担当する者が居るにもかかわらず、彼は車を見に行ったので、上師は彼を見つける事が出来なかった。チベット仏教の上師の身辺で世話をしている者は、目を上師から離さないものだ。彼はこのような悪習を改めないと、上師の身の回りにいても、何の法門を修めても役に立たず、いつか離れる日が来る。

仏の威徳力は無窮で尽きることがないと言っても、出来ない事がやはり三つある。一つは縁がない衆生を済度することは出来ない。仏の諭された話を聞かないし、その通に行わない。これは縁がないのだ。二つはあらゆる衆生を済度することは出来ない。無縁衆生がいるからだ。故に済度し尽くす事が出来ない。みんなはよく「分かった、理解した」と言うが、それは貢高我慢だ。リンチェンドルジェ・リンポチェでさえ常に他人の教えを乞うておられる。そなた達はいつも「知っています」と言っているが、それはそなたが直したくないことを示している。三つは衆生の業を転ずることはできない。仏は我々の果報を消滅させることができない。リンチェンドルジェ・リンポチェと仏菩薩は緊急の場合には助けて下さるが、平素は助けて下さらない。災難があれば援けて下さる、しかしそれも一回限りである。そなたが教えを聞かないと、再び救うことができない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、そなたにどうしたらいいかを教えて下さる、そなたが教えの通りにすれば、果報は軽くて済むか影響する時間が短縮される。

昨夜、リンチェンドルジェ・リンポチェは逸仙路の宝石店にて、午後05:30から08:40まで続けて法座で信者の謁見を受け入れ、大変お疲れに成っておられた。ある皈依した弟子は、前に癌で亡くなった一番上の姉のため、リンチェンドルジェ・リンポチェにお願いしてポワ法を修めてもらい、済度したことが有ったが、今度もリンチェンドルジェ・リンポチェがお疲れになっているのも顧みず、二番目の姉の子供二人を連れて、リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を申し入れ、二番目の姉に代わって助けを求めた。しかも、何故自分の家庭は皆癌に掛かるのだろうとリンチェンドルジェ・リンポチェに伺いたてた。リンチェンドルジェ・リンポチェは前にも何回も開示され事が有ったが、医者に掛かる場合、病気が重くて動けないのは別として、常に患者自身が病院に出掛けるが、なぜ仏菩薩様のお助けを求めるのに、代表などを出してくるのだ?しかもすでに皈依しているものは、何度も上師の仏法の開示を聞いているはずだ。今生の色々な病苦は、自分自身が前世で悪業の末得たもので、自身が作った借りは自分で返さねばならい。上師を信じていればこんな事は聞く必要がない。

リンチェンドルジェ・リンポチェの曽祖父は蚕を養って生糸を取る仕事をしていた。それで、家族の男性は全て心臓病、高血圧病があり、寿命が60を超える者が居なかった。リンチェンドルジェ・リンポチェの二番目の姉は、幼い頃脳膜炎に罹り、今でも知能が一般的な人より下であり、弟は脳血管にアンギオ-マがあって手術を受け、リンチェンドルジェ・リンポチェが法を修めたのお蔭で命を取り留めた。妹は脳瘤の手術を受けたが、リンチェンドルジェ・リンポチェが修法なされため、手術終わった翌日には床を降りることが出来、7日後には退院することが出来た。これは国外の医者達も奇跡だと言っていた。リンチェンドルジェ・リンポチェの一番上の姉は父が亡くなってから菜食始め、もう44年間もするが、糖尿病にも罹っていた。ところが、リンチェンドルジェ・リンポチェはもともと高血圧があり、その上、皮膚癌に罹ったが、薬も飲まず、化学療法もせずに、一途仏を学んでいたので、今までは完全に治ってしまった。家族の病気は全て先祖の殺業と関係があり、殺生の共業がなければ同じ家庭に生まれない、只、一途に仏法の修行をして始めて変わる機会がある。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に:『仏法が私の役に立てば、そなた達にも役立つ』と開示なされている。 リンチェンドルジェ・リンポチェの開示、そなた達はあまり上師を信じないが、信じることは一切功徳の本であり、上師及び諸仏菩薩に対して些かの疑いを抱いてもいけない。

弟子達は自身の些細な事で、上師を労わらず,上師の体を大切にせず、利己的で、因果を信じなく、また上師を台無しにしに来る。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎週法会を行い、毎月「施身法」を催し、機会があると弟子を聖地へ連れて行き、法会に参加させて、いろんな方法を尽くして、弟子が仏を学ぶことに必要な福徳資糧を貯めさせている。そなた達がそれでもよく勉強しなければもう仕様が無いだろう。他の道場では幾ら寄付しても、毎週法会を行う事はないのに、寶吉祥仏法センターは毎週法会を行う。それは祖師ジッテン・サムゴンの加持力があるので、これ等縁がある人々ををここに集め得た。しかし、毎週法を聞くだけで何もしなければ、この一生は無駄になるだろう。

ある弟子が暑い夏日に糖尿病の母親を伴って、台南の古跡の観光に行った。帰って来ると母親はあまり元気がなかった。それで古跡には悪霊がいて母親に悪さをしたと思った。リンチェンドルジェ・リンポチェは、そなた達が皈依した時、すでに今後悪霊はそなた達を傷害することはないと開示しているが、今なお悪霊に悪さをされたと思う者がいる。そなた達は仏法を良く聞いていない。リンチェンドルジェ・リンポチェは今年母親の体調が良くない事を知り、特に自ら香港に赴き、母親を台湾や日本で療養をさせ、ご本人もこの数ヶ月は母親の傍に侍り、常に世話をしていた。母親が眠っているときもその容態を覗い、母親の体調が良くなってから、香港へ送り返した。別の弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェに助けられた心臓病の母親を伴ってリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝しに来た。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたの母親はまだ菜食をしないが、一度だけは助けたが、この次は助けないだろうと開示された。自分自身が悪行を止めなければ、仏菩薩でも助けることが出来ないだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェはその弟子の父親に菜食を勧めたが、その父親は、息子が彼の代わりに菜食すればそれでいいだろうとずけずけと答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェはもしこの父親が七、八十歳でなければ、叱る所だった開示された。

法会の前に、ある弟子がこの話をした。数年前、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の娘に4、5年後、母親が癌を患うことを知らせ、娘に母親が仏を学ぶように勧め、さらにボランティアをするように勧めさせた。しかし、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの勧めを聞き入れて仏を学ぼうとはせず、また、上師を誹謗し、貢高我慢していた。自分で百萬回六字真言を唱えればそれで良いと勝手に思い、家で自習すればいいと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示は、チェツァン法王とリンチェンドルジェ・リンポチェは既に百万回唱え終えたが、まだ唱え続けている。その後、彼女に乳癌とリンパ癌が見つかった。それで戻ってきて懺悔をした。リンチェンドルジェ・リンポチェはやはり彼女を助けたが、前に仕出かした事には、やはり果が出てきた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の痛みを取り除く事を約束した。今、彼女の癌細胞は肺部に拡散し、癌第4期に入り、本来なら呼吸さえ難しく、腹水で苦痛がやまなく、床に臥せて起き上がることの出来ない重病患者だが、彼女は食欲もあり、よく眠り、自由自在に歩き回り、公園に行って運動もしていて、痛みを感じない。しかもリンチェンドルジェ・リンポチェに従って日本行き、日本料理を楽しんでいる。これは一重にリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の癌細胞を済度したお陰で、彼女は痛を感じない。それに反して、彼女の兄は癌の化学療法や手術を行い、46時中全身に切り刻まれるような痛みがある。

化学療法での癌の治療は、薬物を体内に注入して癌細胞を攻撃するものなので霊性が無く、癌細胞の様にリンチェンドルジェ・リンポチェに済度されることが無いので、リンチェンドルジェ・リンポチェも苦痛を減らす事が出来ない。片方で化学療法を施し、もう片方で仏菩薩を祈願するのは間違っている。仏菩薩に頼るのならば、信じなければいけない。更に医者の化学療法を信じるのでは懺悔しなければいけないだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェに、関節が良くないので、手術をするべきか?を伺った。リンチェンドルジェ・リンポチェは関節に問題がある者は、必ず骨を切ったことがある。例えば、骨を煮込んでだしを取ったり、とりのモモや手羽とか足が好きで、それを齧った者は関節がよくない、と開示された。

またある弟子の次男が造血機能に問題があると診断され、白血病を患ったと分かった。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの様な治療の出来ない病気を患うのは、祖先に徳を壊す行いがあったし、この弟子との関係もある。当初、この弟子は息子抱いてリンチェンドルジェ・リンポチェにこの子の改名を頼みに来たのだが、リンチェンドルジェ・リンポチェに叱れたので、怒りを表し、その場で離れ、その後何年間も法会に参加しなかった。もともと、息子の改名は善い因縁であるのだが、彼の行為は息子と彼自身に悪の因縁を植えてしまった。そのうえ、年長者に子供の名前をを付けて頂くには、先ず年長者を尊敬して、恭しく是非を伺い、その同意を得ると、それなりのお土産や贈り物を献上し、そして子供を連れて年長者に拝謁するのが筋道だ。それを彼は完全にせず、いきなり子供を連れて来るとは、ひとかけらの尊敬心と恭敬心も無い。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼ら一家の供養を受け取らず、真珠や宝石さえ彼らには売らなかった。最後に彼の妻が懇切に求めるので、始めてその供養を受けたのである。

金持ちだとか何か特殊技能を持っていれば、それでいいと思い、自分の考えを持ち、法師はそなたに合せるようになると思うべきではない。現今佛教を学ぶ環境は悪く、特に注意するべし。自分の利害と関係があると、上師の教えと恩恵を忘れてしまうが、それはいけない。背徳の祖先があれば、更に懺悔し、精を込めて仏法を学ぶべきだ。

ある顕教の伝記には、この様な記載がある。昔ある信心深い観音菩薩の信者がいて、毎日善行をした。ある夜、観音菩薩が彼の家に来られ、数日後、匪賊が群をなしてそちの家に来るが、その中の某と言う盗賊は前世そちの何太刀かを浴びて死んだ者だが、そちとそちの家人を殺しに来るだろうとお告げになった。前世でそちが彼を殺した時、何人かがそばで見ており、そちが彼を殺す事に賛同した故に、悪に従った業があり、今世でそちの家族になり共に彼に殺されることになるともお告げになり、観音菩薩は盗賊に懺悔すべしと彼に教えた。数日後、果たして盗賊が来て、この者とその家族を縛り上げた。この信者は観音菩薩がお告げになった者かと問合せ、そして観音菩薩が前世の事をお告げになられたと説明した。彼はこの盗賊に、私はあなたに借りがあり、それを返さなくてはいけない。よってあなたも私に何太刀か浴びせかけ、私を殺してくださいと言った。盗賊はこの話を聞き、本性が現れ、刀のみねでこの者を同じ数だけ打った後、あなたの借りはもう返済された、と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェはつぎのように開示された。観音菩薩でさえもこの者の為に盗賊を追い払うことが出来ず、ただ自分で返済するように教えるだけだった。そなた達は常日頃加持を求め、病気にかからないことを求め、一切がそなたの意に適うことを求める。本当にどのようにそなた達を手伝えばいいのか知らない!

真心で懺悔して返済しなさい。そうすれば債主は他の方法で、そなたに返済をさせるかもしれない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは次の如く説かれた。毎週日曜日法会が始まる前、多くの弟子が報告した経歴は、すべてそなた達に仏法を示現したもので、そなた達は此れは他人事だと思い、自分は違うと受け入れなく、ただの物語だと聞き流してはいけない。少し注意を怠ると、すぐ悪をする。既に皈依した者は毎週法会があるので、自分で自分の世話をすることを学びなさい。そしてリンチェンドルジェ・リンポチェに他のまだ仏法の助けを得ていない人のために時間と精力を割き、世話をするようにして頂こう。此の世は如何に苦しいのだろう。そなた達はメクラなのか?ツンボなのか?周りに多くの苦しいんでいる人が見えないのか?聞こえないのか?口では慈悲を学ぶと言っていながら、何を学んでいるのだ?悪い習慣を指摘されたが、口では懺悔と言っているが、心静かに考えてもいなく、繰り返し間違いを犯している。此れでは救おうとしてもすくえるものではない。悪習を改めず、特に上師に言われてもまだ改めない、此れでは修められない。法会で開示した事はすべては成仏の理論であり、絶対行えることだ。

次に、リンチェンドルジェ・リンポチェはガムポパ大師が説かれた三士道を開示なされた。

一つは下士道である。即ち上師が説かれた法門を聞き、悪道の苦しみを恐れをなし、一切の悪業を避けて仏法を学ぶ修行の者である。これらの者は必ず因果を深く信じ如実に修行する。あなた達は今下士道の根機さえ持たない。何かに遭うと求めに来るだけで、因果を信じない。私たちが生きているのは享受のためではなく、死亡が一歩一歩近づき迫っていることを知りなさい。この体を得て、仏法を聞く機会があるのは、非常に得がたいのである。如何にしてこの因縁を善果に変換するのは、そなた自身が決めるのだ。この世の苦しみをあまり気にしないこと。信心があれば癌に罹ったとしても痛くない。

修行で悪事を止め、善事を行う者は人天士まで修められる。しかしまだ六道輪廻の苦しみを受けているので、例え自分が人天士まで修めても幸せとは言えない。皆に「痴」があるせいで、六道輪廻の苦しみが見えなく、自分の身には起こらないと思っている。或いは、自分が必ずしも三悪道に落ちるわけではないと思うから、其の時が来てからに考えようとする。リンチェンドルジェ・リンポチェが2007年ラーキ雪山で3ヶ月間の閉関修行を行った時、法眼で衆生が六道輪廻の中で、説明のしようが無い苦しみを受けるのを見た。そんなに多くの衆生が三悪道に苦しんでいるのに、自分は助けることが出来ない。それで悲しくて何時間も慟哭を禁じえなかった。

妙法蓮華経の中にはある比喩がある。仏から見るとそなた達はまるで一群の子供が火宅で戯れているが如くで、火が燃え移ってきても離れたくない。仏菩薩は両親と同じようにもうすぐ焼かれる子供を救おうと思い、火宅の外に玩具を沢山積んだ車を二台(二台の車は大乗と小乗を表す)置き、子供に早く車に上がっておもっちゃを遊びなさいと説得し、車を出して彼らを安全な所に連れて行く。いま、そなた達が求める富、健康、地位、婚姻等はこのと同じで、リンチェンドルジェ・リンポチェがそなたに加持をするは、そなた達に玩具を与えるのと同じだ。そなた達を仏法を学ぶ車に乗せて、始めて仏法を教えることが出来、安全な彼岸へ連れて行くことが出来る。今そなた達は玩具を貰うと、車に乗りたがらなく、また火宅に戻って戯れようとする。これでは仏菩薩でもそなた達を助けることが出来ない。

中士は声聞縁覚を修める出家者である。しかし阿羅漢果を修めるのが精一杯で成仏できない。衆生を助け、生死からの解脱や済度をする心がないので、自了漢と称する。仏を学ぶにはまず生起次第を修める。それは福報を修めることだ。福報がないと何も修められない。ペットになるとしても福報がないとだめだ。仏法を学ぶ縁起は非常に大事だ。もし衆生に利益するため仏法を学ぶのなら、このような縁起がそなたを助けて、仏法を学ぶ道を順調に、また末永く歩むことが出来るようにする。もし自己の利益のために仏法を学ぶのであれば、必ず障害が起こり、自然と修めることが出来なくなる。ある30年間も出家していた法師が、往生の一年前リンチェンドルジェ・リンポチェに会った。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに眠ることが出来ないと訴えた。眠ってしまうとお迎えに来られた阿弥陀仏を見失うのが怖いからだ言っていた。リンチェンドルジェ・リンポチェの加持と開示を得ると、やっと眠ることが出来た。これは彼女が意念観想、生起次第を学んでいないからだ。

「生起次第」は本尊を観想するだけではなく、貪念、情緒さえも伏せることができる。「生起次第」を修めた成就者は自分が本尊、五方仏である事が見える、これは上級の修行者である。本尊と結ぶまでを修めて、始めて灌頂を与えられる。リンチェンドルジェ・リンポチェはある閉関の折、関房の外で炎が二階の高さもある大火事が起こり、ヨギ―ニの住処に迫ってきた。それで、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が金剛薩埵の本尊だと観想して、化身を以って関房の外で火を踏んだ。約20歩も行くと大火を踏み消すことが出来た。多くの弟子は危難の折にリンチェンドルジェ・リンポチェを見たが、これは分身ではなく、本尊の化身であった。本尊の慈悲と一緒に結ばれているので、本尊の化身が現れたのである。「生起次第」の中級の成就者は一切の事を幻像と見れば良く、見えたのはみな縁起縁滅、執着しない。

それから「円満次第」を修めて、「空性本智」を修める。円満次第を上級まで修めると、心を見れば是仏であり、中級は自ら己が心に無生を見る。心経の説くが如く、「増、減がなく、清浄と不浄も無し」。

それから、リンチェンドルジェ・リンポチェは大乗波羅蜜多法門と秘密真言宗の差異を説かれた。顕教は仏法理論により六波羅蜜教法を以って修め、密法は本性、仏性より秘密真言教法を以って修める。波羅蜜多教法は人生経験法を修行の対象とし、試行錯誤の方法をとり、悟りを開く方式ではない。論理的推論に重きを置き、理論を以って事を確認する。文字で文字を解釈するので、この修行の方法は文字に障害されやすく、多く聞いたり見たりするほど、障害も多くなる。

古代の修行者は、物を壊したとき、一瞬音がしただけですぐに消え、それで「縁起性空」を悟ったと言う。また、リンチェンドルジェ・リンポチェもある閉関の折、関房で歩いている時椅子を蹴り、一瞬音がしたのを聞いて、「縁起性空」を悟った。悟ると修法の能力が極めて強くなる。リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修めると、千里の外でも亡者の頭蓋骨に穴を開けることが出来、是生滅法であり、金剛経に説かれるが如く、寿者相、人者相、我相はすでに無く、時空に縛られることが無くなる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは先ず徐々に悟り、その後経典を読んだ。経典を読むは衆生を援けるためで、止むを得ない。上師がそなたに考えろと言わないものは考えるべきではなく、考えれば考えるほど複雑になる。何の利益があるかも問わず、上師が経文を読めと諭せば読み、閉関をしろと命じれば閉関をする。上師の話はすべて聞き、力を尽くして行い、ほかは考えるべきではない。閉関の機会が無ければ、上師の教えに従い、護法を修め、六字大明咒を唱え、皈依文を唱えても同じである。法王は嘗て「真に修行は経文を唱える事ではなく、自分を改めることである」と諭された。

表からはただ一つと思われる物も、分析してみると多数の原子分子があり、1粒の米の構造たりとも極めて複雑である。人が悩みを起こす理由は分別心であり、一と多数の対立を分別させている。実は数は自分で思っているもので、少量は多量に変わる事があり、多量も少量変わる事がある。すべて心の作用である。

真言宗を修める者は、外界対してあまり思考分析しないで、定の方式を以って執着を断つ。密教は心が動くのはある力であり、この力を掌握できれば、心は動かない。座禅の時に眼を開くのは、心が外界によって動かせられないからである。密教真言乗の教法は大手印禅定の方法であり、ある者は大手印は禅宗が修める「黙照禅」であり、禅を修めるには、一般に外界を空と観想して定に入り、「黙照禅」は己の心を空性と観想して定に入いる。だが大手印禅定の方法はそうではない、大手印の定はそなた達が考える様に、そこに座って空を観想するのが禅定ではなく、時々刻々すべて定の境界にいるのである。

密法を通せば心経の境界に直ぐ切り込む事が出来る。真言続部に従って着実に修め、死亡無常を体得して、暫しの安楽の中で奔放になるそなたの心を治める。この境界は現在文字でその意義を説くしかないが、やはり実際に修行にて体得するべきである。そうしなければまるで美味しい料理を食べたが、どのようにして自分の好きな味を作り出したのか分からないのと同じである。

深く因果と輪廻の苦しみをを信じ、さらに自ら修行して、始めて生死を解脱する事が出来る。生死の解脱を掌握するまでは、一時たりとて心を緩めることは出来ない。実は掌握した後も緩めることが出来ないのだ。最も些細な不善悪業も極力避け、いかなる悪業の力を積む機会を与えては成らない。最も些細な善も力を尽くして行う。少しでも心を許すと間違いを起し、何処に問題があるすら知る事が出来ない。境界を修めるまでは心が常に変わる故、上師の監督に頼る由縁である。密法を学ぶ前は、一番簡便な方法は言う事を聞く事である。

多くの者は法師の側にいるが、師父と法師を尊重しない。例え離れたとしても、法師の側にいる者は騙していると言うべきではない。それは上師は愚かだと罵っているのと同じである。それならば何故当初その門下に皈依したのだ?縁が尽きて離れるのならば離れればいい、多くを話す必要はない。

2009 年 11 月 19 日 更新