尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ の法会開示

2009年5月2日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009年5月3日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで法会を主催され、続けて、金剛薩埵法門の開示をされた。先ず次の如く開示された。経典の中では、釈迦牟尼仏を教主と称さなく、導師と称している。それは仏の教える一切の道理は、世の人達が出来なかったし、知らなかった宇宙の事実と真理だったからである。それは科学でさえ証明し得ない宇宙のあらゆる真相なので、多くの人はそれを信じない。

上師は戒を守り、むだな話は言わない。話す言葉は全て衆生に有益な事である。しかし、人は己が予期した事を聞きたがるので、学仏の困難は話を聞かない事にある。上師が言う言葉はすべて仏法で、弟子の為にされた如何なる手配も弟子が福徳因縁の種をまくのを助ける。上師が弟子に求める如何なる事も理由があって、弟子が上師、仏法に信心があれば、全て事がやり遂げられる。仕事が有るのか無いのか、家庭が睦ましいのか否か、すべて過去世でした事に起因する。仏を学んだ事で、仕事をなくしたり、家庭が不和になったりする事はない。密法を学ぶには、それこそ上師の話に完全に耳を傾け、一糸たりとて疑うべきではない。

だるま祖師は嘗て後世では道を知る者は多く、道を行う者は少ないと予言なされた。即ち、実際に仏法に沿って行なう者は少ないと言う事だ。今現在、多くを聞く者は多いが、行う者はいない。今度、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子に有る事を成す様に求めたが、皆はやらなかった。これは、供養心がないためである。色々な事を考えて、上師を完全に信じていない。だから密法を修める事が出来ない。

カジュ派はチベットの「口伝」教派と謂われているが、其れは一字一句上師より口伝されて始めて修め得るからである。カジュ派は10世紀にインドの84名の大成就者の一人ティローパから伝わった。ティローパはカジュ派の祖師と見られている。ティローパはナロパが大小12の困難を経ても成仏の心を変えないのを見て、教法をナロバに伝えた。ナロバは教法を大翻訳者マルパに伝えた。仏を学ぶために、マルバ大師は、5、6回も家財を売り、黄金を携えてチベットからインドに赴き法を請うた。チベットに帰ると学んだ事を広めた。ミラレーパ尊者はマルバ大師の高弟だが、ミラレーパ尊者の教法はガムポパ大師より受け継いでいる。ガムポパ以前の祖師は、すべて在家衆である。2007年、リンチェンドルジェ・リンポチェはネパールで閉関修行したが、修めたのはマルパ大師が伝えた法である。関房を出た時、法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに仏寺で貴重な聖物を見せたが、その一つはマルバの靴で、リンチェンドルジェ・リンポチェがマルバの靴を頭上に載せると、すぐに加持力を感じた。ある者はリンチェンドルジェ・リンポチェに初めて会って加持を得ると、熱い流れが体内に入るのを感じるが、これは恭敬心と関係がある。

釈尊は座前の菩薩にこう開示された事が有る。将来仏法は印度では廃れていくが、印度の東北の雪国で光を放ち広められるであろう。しかし、その頃地球はすでに五濁悪世になっているので、釈尊は菩薩達に誰か雪国へ行って仏法を説く者は居らぬかと問うたが、座前の菩薩達はしゅんとして答える者が居なかった。只1人童子菩薩が立ち上り、釈尊に雪国へ赴き、三摩地法を広める事を願い出た。後の人はこの菩薩を「月光童子」と呼ぶが,即ガムポパ大師に化身する。チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェの修行果位を認めてリンチェンドルジェ・リンポチェに賜った法帽はガムポパ大師の法帽であり,ガムポパ大師の法帽は在家出家を問わず上師が被れるものだが、必ず密法を成就し、更に上師が認める者でなければならない。

密教はバラモン教に由来すると言う者がいるが、それは正確ではない。3000年前釈迦牟尼仏がまだ成仏されなかった時は、インドの王子だったが、当時インドではバラモン教が流行っていた。釈迦牟尼仏は6年の間いろいろな苦行を重ねても悟りを開けず、バラモン教の座禪では離脱できない事を知った。それで苦行をやめ、山羊飼いの女が供養したヨーグルトを飲んで、独自修行し,遂に菩提樹の下で悟られ成仏成された。釈迦牟尼仏は成仏後、5人の侍者に四聖諦法及び十二因縁法を開示なされた。

仏陀はまた世人に「白骨観」法(自身の肉体がどのように最後は一山の白骨になるのかを観想し、一切を捨てる)を伝えた。しかし、これを修める者が、最後にどうせ何もなくなると思い自殺を考えるので、仏陀はこの法を積極的に推し進めなくなり、後に大乗仏法菩薩道修行法門を伝授された。仏経は仏の弟子が記録した、仏がかつて開示された成仏修行の経験である。釈迦牟尼仏は地球だけではなく、天道で仏法を説いた事があった。そして密法を世人に伝えた。しかし、公然に密法を伝授することはしない。密法を修行して悟りを開いた行者は、仏経の中で密法を修行する記録を多く見られるが、一般の人が見ても分からないだろう。

呪文とは仏経の中の諸仏菩薩や本尊が修行する功徳、慈悲、菩提、願力、加持である。修行の果位によって、同じ呪文でも其れに対する理解と感じ方が違う。だから、呪文は解釈できない。六字大明呪は仏の知恵で、一大劫の時間を掛けても説き明かす事が出来ない。呪文を多く唱えるのは心の清浄を助け、経教を修めるより早い。絶え間なく呪文を唱えると、護法や善神が監督に来るので、悪を行う因縁さえも無くなる。常に繰り返し行なえば、呪文は力を生み出す。呪文はバラモン教の教法ではなく、多くの仏経の中にある。

法会で、リンチェンドルジェ・リンポチェは宝瓶に息を吹き込まれた。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て男の子のやけどした手に息を吹くと、傷はすぐ治り、傷跡も残らなかった。それはリンチェンドルジェ・リンポチェの心が善く、衆生が苦しみを離れるのを望むから、そういう力がある。私たち体の気は業気で、私たちは生れてから死ぬまで、気が体に在る。科学者は人が死ぬと、体重がすぐ少し減ることを発見した。ある者は魂が離れたからだという。仏法では業気が離れて転生したからだと説く。

心が清浄なら、体内の業気が変わる。修行をせず、懺悔もしないと、累世の濁気がまだ残る。呪文を唱えると、私達が業気を軽減するのを助け、また衆生に利益する気に転化する。長期に呪文を唱えると、自然と罵詈雑言、挑発或いは衆生に無益な言葉を口にしなくなる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続き説かれた。金剛薩埵は普賢王如来仏の報身仏で、報身仏は菩薩道を行うと発願をした衆生の手助けをする。菩薩まで修める場合、先ず生々世々の業を清めなければならないので、報身佛に助けを求める。菩薩道を学ばないと、たとえ報身仏が来られても助けにならない。もし菩薩道を修めることを発心すれば、すべての業を清めなければならない。業を清めれば、妨げが消え、体は自然に良くなる。これで衆生を助ける事が出来る。福報がないと人を助けたくても、助ける事が出来ない。福慧を一番早く積む方法は菩薩道を修めることだ。

金剛薩埵本尊は頭を少し左に傾け、微笑んでいる。その微笑みは父親が子供の良い行いを見た時の喜びの微笑みのように、衆生が修行を成就して衆生を利益するようになったのを見て、喜んでいる有様を表す。頭が左へ傾いているのは慈悲を表す。懺悔は瞋恨心、貪心が有っては成らない。慈悲心と知恵で以って、始めて懺悔の力が出る。

いかなる菩薩も耳にしたり見たりする現象に執着する事が出来ない。すべては空性で、消えたり、現れたりする。菩薩道を修める人は肉体の苦痛の影響を受けない。悪を止めれば事を転じる事が出来る。例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェは脊椎が大きく曲がっているが、あぐらをかいて三時間も仏法を講じることができる。神経がないのではなく、たとえ体は痛くても、心は影響されないのだ。最も難しいのは、肉体と心を分ける事である。肉体は痛くとも、心では痛くない。普通の人の心は肉体に影響されるが、心は肉体を制御するように訓練する事が出来る。知恵が現れると、心は動かなく、学んだ仏法の効果が現れる。自分が今世で亡くなった後にどこに行くのが分かる。上師の教える仏法を完全に拒絶しなければ、それを体得できる。

金剛薩埵は左手に鈴を持ち、右手に杵を持つ。仏寺の左側が鐘で、右側が太鼓であるのと同じである。鐘は衆生のぼうっとする心を威かして覚ます。心は欲望に被されているからである。鈴の音はぼうっとしている心を開いて、仏の光を射し込ませる。鈴を鳴らす手際はその意味がある。非空は無いのではない事を表す。其れは木を焼き尽くしても、分子や原子はなくなってしまったのではなく、まだ存在しており、ただ形式を変えただけである。鈴は執着せず、頑空しないことを表す。

リンチェンドルジェ・リンポチェも次の如く諭す:人の体は七年毎に全ての細胞を一度入れ替える。もしこの7年に良い事をすれば、細胞が良くなり、幸運が我々に従うので、十年に一回大運に見舞われる。故に仏を学ぶと運が良くなると言われる。仏教では常に7と言う数字が現れるが、それは人体の構造と関連がある。衆生の肉が好きだと地獄に落ちる。ある者の死ぬ前の様子をみれば、死後どの道へ行くかが分かる。病無く逝く者は、善道に向い、死ぬ前に病苦に悩む者、或いは意外事故で死ぬ者は、悪道へ行く。亡者を気軽に済度するべきではない。金で買った済度は役に立たない。また懺悔すれば阿弥陀仏浄土に行けるとは限らない。梁皇宝懺を主催し、梁武帝の妃の懺悔を助けた宝誌公でさえ、ただ彼女が天道に行くように助け得たのみだ。我々では尚更駄目であろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェが法を修めて亡者の頭蓋骨に穴を開けたり、宝瓶で癌に罹った患者を加持されて治したりするのは、空性を修めていて物質の配列組合を変える事が出来るからである。酒や肉は腸を過ぎるだけだという話と聞いて、肉を食べ、酒を飲んではいけない。済公は狂人と看做されるが、記載によれば、済公はチベットに赴いて密法を最高の境界に至るまで学び、成就した。そのため、魚を食べても吐きだせばまだ生きていた。これが出来れば肉を食べてもいいだろう。

今、流感が人々を驚き慌てさせているが、同じ時にエイズで何人が死んでいるかは誰も気にしない。仏法の角度から見れば、それはすべて業である。菜食をすると、病気に罹る機会はずっと少なくなり、たとえ病気を罹っても治愈する機会が比較的に多い。

我々はなるべく多く善縁を結ぶべきだ。そうするば、今後助けが要る時に助けを得られる。年をとり病気で入院して、良い看護を得られるかどうかも、福報と関係がある。たとえ阿羅漢でも衆生と縁を結ぶ。さもなければ、閉関する時誰も食事の世話をして呉れない。

2009年5月6日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009年5月10日

台北寶吉祥仏法センターで、弟子及び信衆はリンチェンドルジェ・リンポチェが2003年4月13日に諭された共修法会の仏法テープを恭しく聴聞した。大般若経は大蔵経の3分の1ほどを占める事から、般若(智慧)の重要性が分かる。智慧は仏陀が下されるものと思ったり、或いは求めることが出来ると思ったり、開く事が出来ると思ったりする者がいるが、これは間違った考えである。一切の有情衆生は仏と同じ智慧を備えているが、我々が其れを悟らず、貪瞋癡慢疑の五毒に智慧を覆い隠され、自分の本来の清浄な本性を見出せないだけである。咒を唱え、仏を唱え、拝懺や大礼拝をするなど、全て我々が真に智慧を開くのを助ける法門ではない。ただ悩みを抑えるのを助けるだけである。徳を備える上師は如何にして弟子に利益するかを知っているが、弟子が上師の教える仏法に完全に従っているか、自分の考えで行なっていないか、完全に受け入れているか等に依る。リンチェンドルジェ・リンポチェは例を挙げて、弟子を率いてインドへ行く前に、インドでアイスクリームを食べないように言付けたが、二人の弟子が言う事を聞かなくて食べて、各々チフスと劇症肝炎に罹り、ずっと下痢をしてしまった。

悩みは執着から来る。自分が全て正しいと思っているからだ。智慧は世間一切の事は縁によって生まれ、縁によって滅し、自性が無い事をはっきり体得している。我々が見たり、聞いたり、感じたりする一切の事は、すべて因と果があり、全て生滅法であり、仏法が説く空性である。空性とは我々が人生経験法で知った一切の事は自性がなく、因縁があれば生じ、因縁があれば消える。37頌では我々に傷害を受けるを恐れず、蔑まれるも恐れないと教える。これぞ我執を破る事である。我執が強い者は衆生の苦しみを体得できず、慈悲心を培う事ができない。少しでも執着心があれば、悩みを断ち切る事が出来ない。

皈依して、今世で生死の解脱を望むならば、五戒十善は必ず修めるべきである。上師が教えた仏法を生活に溶かし込まなければ、生死の解脱が出来なく、災難を免れる事が出来ない。若し全ての考えが衆生は私より良かれと望むなら、自分自身も良くなる。仏を学ぶのは現在の安楽を求めるためではなく、未来の富貴健康を求めるためでもないし、未来に悟りを開く事を求めるためでも更々ない。そなた達には多くの事を求められない、何故なら求める事が因果法則に違反するからである。そなた達がここで仏法を聞けるのは、過去世で五戒十善を修めた事があったが、良く修めていないので、今世再度来たのだ。ただ隔世の迷いで、過去に衆生に利益するため仏法を学ぶと言う願いを忘れ、今は自分自身に苦しみや問題があり、運を変える必要が有る為、仏を学びに来ている。此れは仏の考えとは違う。若し全ての考えが衆生は私より良くなれと望むなら、福は増え、仏を学ぶ困難も減り、求める事も叶う。

しかし人々は、一人でこの世を生きていく事は出来ず、多くの人々の助けが要ると言う事を常に忘れる。これ等の人々が良い日々を過ごせないと、我々も良い日々を過ごせない。まず家庭から始め、自分の考えや行いを善に向かって直す。すると家族達も自然についてきて仏を学びだす。こっそりと仏法を学び、本当の事を話すのを憚る様では、学ぶのを止めた方がいい。両親に仏を学ぶように影響ができないのは、そなたがまだ改めていない事の表れだ。仏を学ぶに当たって最も大きいな問題は自己中心で、自分を改めない。人々の顔色が浅黒いのは、心がまだ黒く、光がまだ現れていなく、菩提願をまだ発していないからだ。

普通の者では施身法を修められない。仏法の一切の理論をよく知る者で、仏法を学ぶのは自分の利益のためではなく、犠牲や奉献をする事だと知る者のみ、修めることが出来る。参列した人達も同じ心掛けだとすれば、其れで得る功徳は修法より大きい。それは随喜功徳だ。法会に参列する者が、ただ自分や眷属や事業が良かれと考えるは、仏菩薩の心と大きな開きがあり、外道の心だ。上師が毎回絶えず開示される観念を実行しなければ、徐々に上師との縁が消えていく。

施身法の理論基礎は心經から来る。心經はすべてのことは仮相だと説く。これを了解して、始めてすべての貪念を捨てられる。施身法はポワ法や気脈明点、大手印禅定など含む。アチ護法が最後に修めたのは施身法であった。修め終えると一筋の虹になり、浄土へ向かった。

施身法を修める時、参列者は自分の為ではなく、衆生の為に求める。仏法を習う人は、世間が乱れなく、国土が安全でこそ、いい環境で仏法を学べる。例え家族が病気で苦しんでも、ただ彼の為に求めるべきではなく、他人が病気に罹れば同じ様に苦しむと考え、この考えを推し出し、衆生も病気で苦しまない事を望む。そうすれば、家族に対する助けも大きい。リンチェンドルジェ・リンポチェは老人や子供を加持される時、自分の家族と見て加持される。

ある4,5歳の子供がいたが、生れながらの脊柱側湾症で、自分で排便ができなく、物を食べる事や歩く事も出来なかった。四週間続けてリンチェンドルジェ・リンポチェに加持して頂き、現在は歩けようになり、顔色もよく、食事も出来る様になっている。加持の間、この子の両親が敬虔であったので、功徳が早く現れた。彼らは仏法を知らない、だが真心があった。真心とは、仏菩薩を信ずるからには、自分の考えを捨て、仏菩薩に任せると言う事だ。仏菩薩は私たちに危害を加えないので、恐れる事は無い。身の上に何が起こっても恐れる事は無い、それは果報が現れたに過ぎない。これが出来れば、累世の業が転化する事が可能になり、清浄になる可能がある。得難い施身法法会に参列する機会があれば、私利私欲だけを図らず、心を広く持つが良い。このような心は仏菩薩の御心に副うようになり、冤親債主は自然とそなたを助け、修行の邪魔をしなくなる。

地蔵菩薩は地獄が空にならなければ成仏せずと願を掛けた。観音菩薩の願いは一切の衆生を助ける事で、リンチェンドルジェ・リンポチェの願いは一切の衆生の成仏を助ける事である。すべて八大菩薩の願いは衆生を成就する事にある。我々は衆生の中の一人なので、そなたが衆生を助けると言えば、結局自分を助ける事に成り、其の力は大きい。

金剛乘には、すべての衆生は自分の母であると説いている。何故ならば我々は何百万世も経ているので、過去世で数多の衆生と関係がある。今の流行病は殺生から来ている。香港はよく生き物を食べるので、疫病発生の情況がもっとも悪い。故に、仏は我々に菜食を勧める。菜食は功徳がないが、引き続き衆生と悪縁がおきる機会を断絶し、それで始めて以前の借りを返す事が出来る。癌も殺生するから罹る。蚊とゴキブリを殺しても、貸し借りを勘定することになる。だから仏を学んで借りを返す。癌を患うのは、慈悲心がなく、衆生の苦しみを気に掛けていなく、ただ自分が良くなる事だけを望むからである。

仏法は因果で世の中の様々な現象を解釈している。世間で起こるいかなる事も、すべて原因があるのだ。因果は仏が発明したのではない、また複雑でもない。我々は過去に行った多くの事を忘れ、いざ果報が起こると、それを受け入れられない。仏を信じる事で一番大切なのは因果を深く信じることだ。良い因或いは悪い因が一つ起きると、早かれ遅かれ必ず果が現れる。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に災いを転じて福となす。誰かが手助けするからで、それは平時多くの人に良くしているからで、十数年前に植えた因かもしれないのである。因果を信じなく、運だとか、神が賜ったとか思うのは、宇宙の自然法則に悖る。もし、これは自分の運が悪いとか、他人が危害を加えているとかのせいにするのは、仏教徒とは言えない。

我々の一念で仏菩薩に成れるが、同時に一念で地獄に落ちる事も有る。地獄に落ちるか天に昇るかは誰かが左右しているのではなく、自分自身である。悪い考え、悪い行為、悪口雑言口、これ等は地獄に落ちる根である。家族が、仏を学ぶ事を受け入れて呉れなければ、暫く学びに来るのを見合わせ、なぜ自分の行為が受け入れられないかをよく考え、家族を責めたり怨んだりするべきではない。そなたを妨げるからには、必ず何かが欠けている筈だ。他人の言う大悲呪を唱えれば、家族が邪魔をしない等は信ずるべきではない。其れは魔女の行いだ。自分の行いを改めれば、自然と仏を学ぶ事を反対しなくなる。両親が菜食や学佛に反対するのも、そなたが悪い、行いを変えないからだ。彼等はそなたが仏を学んでも、昔のままだと見ているからだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは両親に子供に肉を食べさせないように勧めている。ある子が風邪をひいて、集中治療室に入院した事が有った。風邪は治ったが、下半身が動けなくなった。リンチェンドルジェ・リンポチェがこの子を加持した時、この子が約10日前に、海岸の呼び売りの肉を食べた事を見出した。この事は両親に確認された。この子の病はこの肉を食した為に引き起こしたのだ。人々は子供に栄養を与える為、肉を食べさせるが、その実子供に危害を加えている。

現今の肉は多くの抗生物質、ホルモン、薬物を含んでおり、多くの子供は肉を食べて、発育が早くなっている。ホルモンや抗生物質が入った肉を沢山食べるので、体内に抗体がなくなり、とても病気に掛かりやすくなっている。口に入れる肉は不清潔である。祭典の供物に使ったもの、汚染されたもの、これ等を食べると問題が起きる。法王の寺院にいる人々は菜食しているし、リンチェンドルジェ・リンポチェも菜食を召し上がる。人々が菜食をしない理由は多い、家族に叱られるからだ。家族が菜食させないのは、そなたが出家して家を顧みないのを恐れるからだ。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは出家をしていないし、そなた達に出家しろとも言っていない。この事をはっきり家族に説明して、仏を学ぶと言ういい事が、かえって家族と喧嘩する原因に成らない様にするべきだ。

信心深い、敬虔な仏教徒であれば、自然に善人と一緒になる; もし、信心が浅く、まだ懐疑的であれば、大勢の者がそなたの学佛の妨げに来る。それは、信心が足りないからである。なぜ仏が説く法理に対して十分な信心がないのだ?それは、独りよがりだからだ!自分は聡明で練達で、随分学識があり、よく理解していると思うと、疑惑が起きる。仏が言うことは真実であり、我々を騙す如何なる理由もない。仏は人々に五戒を守ることを教えているが、その中に、誑語をするべからずとあり、ゆえに仏は我等を誑かすことはない。 仏法に対してまだ疑惑が有るのは、まだ因果を深く信じていないからである。

仏を信ずるというのは仏がおっしゃったことを信じ、如実に従う事である。仏を習うことと日常生活とを分けるべきではない。それは間違いだからである。仏法即ち我々の生活方式である。仏法を生活に役立てなければ、咒を唱え、皈依し、多くの名山を訪ね、多くのリンポチェに逢っても全部無駄である。

リンチェンドルジェ・リンポチェはもう一度強調して、配偶者がそなたに仏を学ばせなければ、彼らが仏を誹謗するのを避けるため、暫く来ない方がいい。六祖慧能は五祖より衣鉢を受け継いだが,時機まだ熟しておらず、止む無く猟師の家に隠れ、16年間耐え忍んだ。仏を学ぶには十分の信心がなければいけない、困難に逢えば、心して克服するべきで、諦めるのではなくて、騙すのでもない。六祖慧能は16年間見つけてくれる人が誰もいなかったが、それでも信心を失わなかった。

我らはこれら大徳の学仏過程を学び、独りよがりはしない。ミラレパ伝記で、彼がどんな心掛けで仏を学んだかを見習い、自分の心掛けを検討する。ミラレパ尊者は、誠心誠意彼の伝記を読む者は、必ず加持をえるであろうと告げている。それは、誠心誠意に読むとは、尊者の仏を勉強する心を学ぶので、必ず加持をなされる、と言う事である。私たちは大徳と上師を模範として、進む方向を見出し、独りよがりで自分の方法を探すべきではない。これは迷信ではない。迷信は盲目的で、なにも考えずに他人を信じる。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは上師を検視する方法を説いている。人々によく検視し、よく考えてから皈依し、此処に居残ると決めたからにはもう躊躇わない。

我々は死が何時来るか分からない。無常がいつも私たちの側にいる事を信じないので、心を決めて仏をしっかり学んでいない。無常は随時変わる。仏を学ぶ際、困難なのは無常を信じなく、何時も変わらないと思う事である。科学的にも、変わらない事柄は一つも無いと言う。仏菩薩と上師はそなたを助けるが、そなたの業を変える事は出来ない。これは自分に頼るしかない。仏菩薩や上師の全ての教えは、着実に行い、割引をしてはならない。無常が何時も私たちと一緒にいる事を心に置き、良い日々を過ごしている時も注意を怠らず、良くない日々でも悲しむ事は無い。其れは何時でも良くなる様に変わるからである。だから毎秒とも身口意に注意し、悪を断絶し、善を行って、初めて運命を変える事が出来る。若し悪を断絶し、善を行う事が出来なく、思いつきで軽々しく行ない、条件付で行なうならば、運命を変える事は出来ない。

我々は生々世々で必ず多くの悪をして来た。さもなければ阿弥陀仏の御所にいるはずだ。多くの悪をして来たので、少しばかりの善行では直す事ができない。今直ぐ悪を断絶し、教えに従い、善を開始して、始めて真の修行者と言える。さもなければ聴聞した仏法は未来世の福報に具えるだけで、相変わらず輪廻する。法に従って学び、煩悩を減らさなければ、学んだ仏は来世でそなたをペットにしてしまう。仏がそなたに福報を齎すと盲信する無かれ。真義を弁えないのは痴であり、畜生道に落ちるが、福報を修めているので、ペットになる。

三十七頌は繰り返し聞くべきで、既に了解したと考えるべきではない。自分の暮し方に三十七頌に沿わないところが有るかを常に考え、有れば直ぐ直す!解門を知れば、行門では必ず直ぐ行なう。行門は解門より重要なのである。六祖慧能は文字が読めなかった。解門は無かったが、着実に生活の中で実行した。行門があれば、解が現れる。広欽老和尚も字が読めなかったが、誰も彼の修行は出来ていないと言えない。仏法は学問ではない。だが台湾では仏法を学問として研究したがり、仏法を生活の中で実行したがらない。仏経を読んで了解する必要はない。真心を込めて読めば、必ずいつの日か悟りを開く。文字や言語で経典を解釈しても、それは文字で文字を解釈したに過ぎない。仏法は非常に深くて広い。深くて広いとは奥妙にして難解と言う事ではなく、その意味がそなたの悟りの程度により調整されると言う事だ。法のテープを数回聞いただけで分かったとは思うべきではない。其れはそなたが仏経をただの学問とし、着実に実用していないからだ。

仏法は一部しかない――我々に生死を解脱させる一部だ。ただ根器、因縁により、方便の言語で解釈するが、その道理、原則、過程は変わらない。仏は方便の為に大乗、小乗、金剛乗に分かれるが、それは根器が異なっている故である。生死を解脱するため、一門に深く入らなくてはならない。それは上師を一方見定め、其の方にしっかり随い、追従して其の方の説く全ての道理を学び、その他は多くを聞かない。チベット仏教は全ての宗派を含む仏法であり、各種法門を異なる根器の者に合わせて教える。各種法門はどれが強いではなく、異なった根器に合わせる必要が有るのである。

子供に小さい時から牛乳を飲ませ、次に肉を食べさせると、子供の習性は畜生のように成り、特に動く事が好きで言うことを聞かなくなる。すべてそなた達が彼らに食べさせた物が齎した結果である。西洋ではより高いレベル、より高い知識を持つ者ほど、菜食をする。SARSという病気も肉から出てきた。

2009年5月15日

台北寶吉祥仏法センターで、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは殊勝な施身法を修められた。寶吉祥仏法センターでの法会はいつも時間通りに始まるが、今日リンチェンドルジェ・リンポチェは途中でちょっとした事故に遭い、少し遅れた。バスがリンチェンドルジェ・リンポチェの車にぶつかり、リンチェンドルジェ・リンポチェは特に追及するつもりは無かったのだが、丁度そこを通りがかったオートバイの人が、勇敢にもバスを止めたので、事件を処理せざるを得なく、仕方なく法会が始まる時間を遅らせた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、この小さな意外は、衆生のために多くの業を阻止した。それは今日法会に参加する衆生の業がとても重く、しかも一部分の人は三宝に対する恭敬心が十分ではないからだと諭した。リンチェンドルジェ・リンポチェは更に参加者に忠告して、菜食でない者は参加してはいけない、密法の法会は普通の法会と異なって、大福報がない者は参加できないのである。恭敬心があれば供養が出来る。供養があると福報がある。福報がなければ障害が生じる。

仏法は人の頭脳で理解出来るものではない。仏法の境界が、人間の経験法則を越えているためであるが、それは神話でもなく、人に出来ない事は、仏は言わない。仏陀が悟った時、それぞれの有情衆生はすべて同じ成仏の条件を備えているが、何故成仏できないのか?とお話になり、そこで仏陀は成仏の方法を開示し始めた。成仏は、一に自分が生死を解脱する為であり、二に衆生を利益する為、衆生が生死を解脱するのを助けるのである。

人は昔から自分が正しいと言う事に執着しているから苦痛になる。故に仏を学ぶ第1歩は布施を学ぶ事である。すべてを捨てなければならない。もし執着を取り除く訓練しないで、ただ読経したり拝懺したりしても、それで悟りが開ける事にはならない。人が最も執着するのは財産及び体で、自分のほんの少しの財産金銭を思い出すと、上師の恩さえ忘れてしまう。自分の体のためには、多くの金銭をも浪費して、多くの業を作る。だから始めから布施を修めなければいけない。衆生に布施して、仏菩薩を供養する。

仏陀は多くの布施の物語を示した。ある1世で、仏陀は雌の虎が食べものがなく、子虎に乳を飲ませる事が出来ないのを見て、自ら虎穴に飛び込み、雌の虎の餌食になった。またある1世で、仏陀は国王であったが、天帝は仏陀の慈悲心を試すため、一羽の鷹に化して、鳩を追って国王の目の前に降り、国王にあなたが鳩を保護すれば、私は食べものがなくて餓死してしまう。慈悲は何処にあるのだ?と言った。国王は体から鳩と同じ重さの肉を切り取り鷹に食べさせた。仏陀はかつてとても体積が大きい動物に変身して食糧の欠けた地域に行き、大衆に彼の肉を生で食べさせた事がある。

通常、密法を修める前に先ず護輪を修める。それは、道場が外在の邪魔を受けない様にする為と、もう一つ主法者が嫉妬する衆生に妨害されない様にする為である。しかし、「施身法」を行う時、保護する法器を一切取り去り、修法者は自らの肉体で衆生の苦痛と取り替える。密法は菩提心と慈悲心を基礎とするので、法会の参列者も大慈悲心を持たなければならない。もし、家になにか悪いことが起これば、それは慈悲心、菩提心、懺悔心がなかったからだ。これ等を揃えられたら、必ず自分の業を変えることが出来る。仏法を学ぶとは加護を得るためではなく、自己を変えることだ。もし、求めるだけで業を変えられれば、リンチェンドルジェ・リンポチェさえも仏を習う必要がないだろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは今日、衆生を待たせたくないので自分の会社の沢山の仕事を放って、急ぎ来て法会を催そうとしたが、小さな意外で衆生を待たせてしまった。だから、事柄の変化は無常である。他人はこんな事があってよくないと思うが、リンチェンドルジェ・リンポチェはとても喜んだ。それは、衆生のために沢山の悪い事を遮る事が出来たからだ。 また、護法の慈悲で、事故は車だけで済み、リンチェンドルジェ・リンポチェ本人は何事も無かった。だから,事々が思うがままに成るのは不可能で,必ず意に適わないことがある。仏だけが、意のままにする事が出来る。ひいては、仏菩薩さえも事々を思いのままに出来ない。それは、衆生の業を変える事が出来ないからである。

リンチェンドルジェ・リンポチェによれば、一匹のごきぶりを打ち殺して、それを済度しても、数日か後には皮膚に傷をつけてしまう。果報が早速現われるのだ。それなのに、皆はなぜまだ肉を食べられるのだ。もし悪い事をして、悪果がなければ、善行をして善果があるはずがない。

今日車事故があったことは、天魔が嫉妬してこの法会を妨げようとしたのである。そしてそなた達の寃親債主は、そなた達が待っている間にいらいらして心が動揺しないかを試している。現在ところ、この法会はリンチェンドルジェ・リンポチェには必要ではないが、皆には必要なのである。リンチェンドルジェ・リンポチェにとって法会があるかどうかはかまわない。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェが既に自分はどのような道を行くのかはっきり知っているからである。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分を顧みず法会を行った。もし、参列者がまだ躊躇して、あれこれと疑い、自分の考えを持っていれば、それはいけないだろう。

仏法に触れ、それを学ぶ縁を大切にして、法会に参列する福報を世間の事に用いるべきではない。福報を多く貯めれば、死ぬ時苦痛を少なくする事が出来る。法会に参列すると、六道のすべての衆生が苦しまない事を望める。そして衆生との善縁が起きる。そうすると自分が死に臨んだ時、助けてくれる者が出る。死に臨む時、自分が食べた魚、肉はいずれも妨害に来る。食べた物は全てそなたの細胞の中に残り、食べた牛やブタの遺伝子は邪魔にきて、そなたが死に臨む時、苦痛を与える。この苦しみを味わいたくなければ、仏を学ぶが良い。すべての執着を捨て置くと、苦痛はなくなる。施身法は我々にどのように捨てるかを教える。

そなた達は人類の頭脳で上師の智慧を考えてはいけない。上師の智慧はすでに普通の人類の智慧を越えているからである。そなた達が智慧を修める前に、最も速い法門は三宝を完全に敬い、信じ、言うことを聞いて、すべて教えに従って行う事である。リンチェンドルジェ・リンポチェが此れだった。この一世で一介の凡夫の身でリンポチェの果位まで修め得たのは、法王のお話になる一切のことを恭しく完全に敬い、教えに従って直ちに行い、自分の考えがなかったからである。リンチェンドルジェ・リンポチェが法座の上で言ったことだけが仏法であり、みんなに対して利益があり、普段の話は違うと思うべきではない。これは誤った考えだ。リンチェンドルジェ・リンポチェのいかなる行い、話した一言一句、人生の一切全て仏法である。

我々の好きな人あるいは物が事故に遭うと、我々は悲しくなるが、それも借りを返しているのである。よく自分が最も見たくない事柄が現れ、最も好きなものが失われる。人生はどこが意のままなのだ?侭にならないのが人生である。感情には執着しないこと、今とても執着しても、後で振り返って当時何故そんなに執着したのかと考えると、答がないのに気がつく。

引き続いてリンチェンドルジェ・リンポチェはみんなに自分の目上、同輩、冤親債主と一切の衆生が自分の右側、左側、前と後に居る様に観想するよう開示された。一回だけ観想すればよいし、混んで入りきれない等心配しなくても良い。仏法の言う十方法界とは10度空間の事で、日本の科学者はすでに5度空間を証明している。この道場は我々の空間から見ると道場だが、異なった空間から見るとまた同じくない。我々がこれらの衆生を思うと、彼らの縁は起こり、この法会で助けを得ることができる。

続いてリンチェンドルジェ・リンポチェは施身法を修め始め、法を修め終えると次の如く説かれた。法会で真言を唱える時、喉から大きな声を出す事はなく、主法者の唱える真言が主となる。大声を出しても専念を表すわけではない。最も重要なのは心である。喉で唱えるのは長く続かないし、他人が必ずしもそなたが真言を唱える声が好きだとは言えない。他人の気を散らすだけだ。一句一句の真言は仏菩薩の知恵、慈悲、願力、功徳など代表する。六字大明呪は六文字あり、各文字に異なる意味があり、体の各部位と関係がある。よく唱えると体がよくなり、業も消える。唱える方法を間違えると、オウムと同じだ。だから真言は必ず上師から潅頂口伝を受ける。潅頂口伝を受けないと唱えても役に立たない。多くの人が真言を唱えても効果が出てないのは方法が間違っているからだ。

真言を唱えるのと読経は同じ事である。ただお経を唱える時間がないし、心を定めて経を唱えるのも容易ではない。だから真言を唱えるのはかなり方便な法門である。真言の意味は皆に解釈できない。六字大明呪は仏菩薩の知恵で以ってしても一大阿僧祇劫でも言い尽くせない。修行の境界によって、体得が違うからである。故に真言の意味を言わない。また、そち達が真言の意味が分かったと思ってそれに拘ると、進歩を阻む恐れがあるからだ。密法とは他人に知られてはいけない秘密が有ると言う事ではなく、修行の境界に到達しないと、言っても理解し悟れない事だ。昔誰も大悲呪を解釈しなかった時、とても霊験があった。しかし、ある者が真言を一句一句その意味を解釈してから、唱える人はこの一句はどの菩薩を代表するとか、私はこの菩薩が好きだなどと考えるので、心はそれに拘り、真ではなくなった。だから、真言を理解する事等考えるべきではない。

そなた達は経や真言を唱えると、鬼が来ると思わない事。鬼が来るには二つ理由がある。一つは助けを求めてくる。もう一つはそなたと恩怨がある。鬼を助ける事はそなたにはまだ出来ない。恩怨がある場合、債務を返すのを恐れてはいけない。菩薩は一切恐れない。慈悲心が有るので、傷付くのを恐れないからだ。

2009年5月23日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石会社で、信眾のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009年5月24日

台北の寶吉祥仏法センターにて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは直貢噶舉教派の祖師ジッテン・サムゴンの誕生を記念するため、殊勝な上師供養法を行った。その主旨は我々に仏法を伝授された上師、伝承法脈及び祖師に対し感恩するべきだとお教えになった。出家衆や在家衆を問わず、仏を学ぶに当たって、上師に頼らず独力で学べる事は無く、必ず如法上師の指導の下で、如実に修行する他は無く、真に仏を学ぶ為には、世々代々口伝の教えや導きを得なければならない。

仏を学ぶに当たり一番恐れるのは自慢することだ。人間は皆自慢する、そして自慢すればするほど仏を習う道から遠く離れて行く。悟りを開くまで、また上師の必要が無くなるまでに仏法で他人あるいは自分の家族を戒める資格はない。「戒」とは仏が我等を賞罰するものではなく、我等が自己管理に用いるべく仏が教え賜いしもので、他人を管理するものではない。上師の20の条件を備えなければ、他人に戒を授ける事も出来ない。皈依した後、上師より学んだ仏法で他人を責めたり、自らの考えで他人が悪業をしたとか戒を破ったとか言ったりするのは許されない。誰かが戒を犯したとか、戒を破ったとか、開戒とか遮戒とかは、只戒を伝授する上師が始めて知る知恵を持っている。道場の中では「此れは決まりだ」とのような話し方をしてはいけない。この様な話し方は他人に仏を学ぶには圧力があると感じさせる。人間であれば全て過去に業がある。業は貪瞋痴慢疑の五毒が引き起こす。仏法はこの五毒を退治する事が出来る。

チベット仏教は伝承の清浄を非常に重視する。清浄でなければ加持力がない。なぜ伝承を中断させてはいけないのか?伝承の中断は悪い兆候である。仏法に悖らなければ、天竜八部すべてが守りに来る。そして,伝承が絶えなく続けられれば、その力はますます大きくなる。直貢噶舉教派は、すでに37世の法王に伝わった。つまり37代で、各代の数多の上師が衆生に利益することを望んだ。代々の力を集めると強くなる。直貢噶舉教派は祖師ジッテン・サムゴンより法脈が絶えた事がないので加持力は特に強く、それは祖師、歴代の法王、上師が共同加持するからだ。

直貢噶舉教派祖師ジッテン・サムゴンは青海玉樹州に生まれ、何冊かの仏経はジッテン・サムゴンの誕生を予言している。「伏蔵経」には:「とある『ディ』という仏法の根源地に、寶吉祥という名前の人が豚年に生まれ、彼は十万持戒清浄の出家僧衆を感化して集める。その後、不動仏浄土へ赴き、仏号は無垢白浄如来であり、広大な眷属を持つ」。『国王遺教』には:「吉祥地桑耶より東北に、ディクンという所があり、仏法の根源地である。吐蕃王チソンデツェンが豚年に寶吉祥如来に転生し、彼が十万菩薩衆を集めて、未来、彼は不動仏浄土へ赴き、仏号を無垢白浄如来として、彼の仏浄土にて円満聖王になる。」

ジッテン・サムゴンはヴィマラキールティ居士の転生、ヴィマラキールティ居士と釈迦牟尼仏とは同じ時代であり、とても富裕な在家衆だが非常によく修行をしていた。かつて一度病気と称し,釈迦牟尼仏が文殊菩薩など大菩薩を見舞いに派遣した折、ヴィマラキールティ居士はそれを機会に大菩薩達に空性の道理を詳しく述べた。ジッテン・サムゴンは閉関中に癩病に罹った。彼は間もなく死ぬと思って本尊に別れを告げた。一番目の礼拝をした時、これが自分の業と知り、心中落胆喪神した。 二番目の礼拝をした時、もし死んだら密法で浄土へ行けるので、死を恐れる事は無いと心に思った。三番目の礼拝で「ポワ法」を修めようと思った時、大慈悲心が起き、それで病気がよくなった。死亡を恐れるのは仏と上師に信心がないからだ。菩薩の心は衆生の苦しみを気にかけ、自身がまず病に罹って始めて他人の病を治すことができるのだ。

上師の加持する心は清浄である。加持を得た人は完全に信じるかどうかで加持の効果に影響する。例えば最近青海である七十数歳の老リンポチェが病気に罹った。リンチェンドルジェ・リンポチェは電話で患者は7日後には治ると開示されただけであった。結局患者はちょうど7日目に治った。道場で長い間病気を患い治らない者が居るが、それは完全に信じられないからで、加持の結果に多くの差があり、病魔から逃げ出すのを助ける事が出来ない。

ジッテン・サムゴンが菜食するのは因縁を良く知っているためだ。衆生とは善縁だけを結ぶべきで、悪縁を結ぶべきではない。最近流行している新型インフルエンザも肉食するからだ。海鮮を食する者、氷を食することが好きな者は、肺が冷たくなりやすく、感染しやすい。

今日このジッテン・サムゴンを記念する法会は加持を得るためではなく、祖師が仏法を習う心、衆生を利益する心持ちを学ぶ。この法会を通じて、歴代上師と縁を結ぶ。直貢噶舉教派は政治に関与しなく完全に仏法を実修することを強調するので、主な教派の寺は山の奥に建てられた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは伝承祖師ジッテン・サムゴンと深い因縁がある。随分前にリンチェンドルジェ・リンポチェが未だ法王に皈依していなかった頃、ジッテン・サムゴンは夢の中でリンチェンドルジェ・リンポチェの命を救った事が有った。それはジッテン・サムゴンがとある仏塔の頂上で、リンチェンドルジェ・リンポチェに下へ降りるよう指示した夢だった。リンチェンドルジェ・リンポチェは一階一階降りて行ったが、各階でラマが塵払いでリンチェンドルジェ・リンポチェをたたいた。地面に到着すると、一筋の明るい道が見えた。数日後、リンチェンドルジェ・リンポチェは高速道路で車を運転していたが、突然目の前の道路が真っ黒なり、ハンドルが切れなくなった。リンチェンドルジェ・リンポチェが呪文を唱えると、目の前に光がちらっと現れ、車は道端の欄干にぶつかり、セメント柱を8本折った後、道路の真ん中で横に止まった。数秒後バスが来て、もう少しでぶつかるところだった。しかしリンチェンドルジェ・リンポチェの車と車輪は損傷を受けていなかった。また暫くすると救援車が自動的に来てリンチェンドルジェ・リンポチェの車を載せ、またリンチェンドルジェ・リンポチェに早く離れろと催促した。今回の事件はリンチェンドルジェ・リンポチェに重い報いを軽く受けさせた。又一度、ジッテン・サムゴンがリンチェンドルジェ・リンポチェの夢に出て呪文を一句伝授された。食事前にまずこの呪文を唱えて息を吹くと、食事で犯した殺業を清浄できる。リンチェンドルジェ・リンポチェはまた上師に打たれたり叱られたりするのを恐れてはいけないと開示された。夢の中でリンチェンドルジェ・リンポチェは塵払いで打たれたが、それは業を除くためだ。上師との関係が親しいと、成仏前の世々代々で上師の保護が得られる。

続いてリンチェンドルジェ・リンポチェは上師供養法を修めた。法を修めた後、皆を率いて20分間静座し、また皆に加持を与えた。その後引き続き開示された。直貢噶舉教派の禅定法門は大手印である。大手印は手印ではなく最も殊勝で尊き禅定方法である。大手印は顕と密に分かれ、四つの次第がある。各次第はまた三つの段階が有る。つまり、成仏には12の段階を経る必要がある。大手印は黙照禅と同じではない。黙照禅は自分の心を観照することだ。これは12の次第を経る必要がない。

菩薩は衆生が怠け易い事を知っている。人間は過去に必ず天道に居る一世がある。天界では福報が大きいので、享楽を重視する。すべての菩薩や善神は、衆生が仏法を学ぶと願を立てれば、其れが誰であろうと必ず学習を怠らないようにと護持すると誓った。もし加持がなければ、凡夫の心は乱れて修行ができない。凡夫の心は力が弱いので、一旦困難に遭うと退却する。他日完成しようと自分に言い聞かせる。これは怠けで、私たちは退転を言う資格がない。これは私たちの目耳鼻舌身が外界の誘惑や刺激を受けて、心の力を弱めるからだ。

上師の加持は私達に充電するに似ているが、プラグを差し込まないと充電できない。もし上師に対して少しでも疑いが有るなら、自分でプラグを抜き取るのと同じで、おのずから加持が得られなくなる。人間は五根を備えるので、必ず感覚がある。座禅をすれば音の妨害を恐れるが、実は自分の心が動くのだ;怖いものを見て、目を閉じるのも正しくない、目を閉じれば幻覚が起きやすいからだし、それ以外に、目には横に血管が一本走っているが、長く目を閉じると赤い光が見え、金色の光を放つ星も見える。しかも目を閉じると居眠りしやすく、元気も無くなる。

だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分で座禅をする事を薦めない。座禅の静かで心地良い感じを追い求めるのは間違で、何か感応を得たいと思うのも間違いだ。座禅をすると病気になりやすい、気の運行を間違えると体は病を得る。皈依していない人は、菜食をし、行いを良くし、十善法を修めれば、自分に対して助けがある。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこの法を修めて皆の為に縁を結び、未来世で大手印を学ぶ因縁がある様にした。大福報、恭しい心と懺悔する心がある人が、大手印法を学ぶ因縁がある。当時、法王が大手印法をリンチェンドルジェ・リンポチェに伝える際、リンチェンドルジェ・リンポチェは極めてへりくだって恭しく懺悔の心を以って、法王にリンチェンドルジェ・リンポチェが先ず20日以内に、10万遍百字明呪を唱え終えてから、法を伝授するように願い出た。大多数の人が法門を多く学んでも成就しないのは、法を修める過程で定がないからである。戒、定、慧という法門があるが、現代人がただ戒に頼って定を修めるのは難しい。大手印は我々が禅定の訓練をするのを助ける。大手印を円満する行者はその他の法門を修めるのが速い。

私達は毎日なんとなしに衆生を傷つけている。たとえ菜食をしたとしても、野菜を栽培する時地下の昆虫をたくさん傷つけ、食品を醸造する時にも、菌類の衆生がいて、たくさんの衆生は私達のために死ぬ。故に毎日呪文を唱え、懺悔して、迴向する。自分のためではなくて、衆生に返すべき借りが多すぎて返しきれないのである。ただ仏法を学ぶためにこの体を維持しなくてはならないので、やむを得ず仏法を修行する人は非情な衆生を食べる。石も仏性がある。その中には多くの細菌がいて、分解を助けており、その上には竜が付いている。現在木を切って、ビルを建て、地下に杭を打ち込む。そこは竜の住処である。だから今のように沢山の人が癌や紅斑性狼瘡に罹る。

そなた達は絶えず供養をするべきだ、それを惜しむと福報が無い。福報がないと、法門を伝えても、修める事が出来ない。チベット密法は40歳を過ぎると修めことが出て来ないと言われる。しかしリンチェンドルジェ・リンポチェは修めことができた。それはすべてを供養したに他ならない。私達は両親に食、住、医、衣の四つを供養する。仏と上師の恩は両親の恩よりも更に大きい、何故ならば両親は私達にこの1世の肉体を与えただけだが、仏と上師は私達に未来の運命を変える事を教えてくださる。

仏法はチベットの雪地で保存され発揚することができた。チベットは歴史上ずっと閉鎖されていたからだ。その上生活条件は苦く、苦しみに耐えた者は苦しみが何だかが分かる。リンチェンドルジェ・リンポチェは雪山で閉關をして多くの事を体得した。あの様な環境では、仏法を体得した者は浄土だと感じるが、心を入れ替えないものには、そこでは閉關出来ないだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェには出来るし、皆にも出来る。違いは皆が信じない事だ。いかなる法門を学ぶにも、教派と上師に対して、信じる心が非常に強烈でなければいけない。心が最も重要なのだ。

2009年5月26日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009年5月29日

リンチェンドルジェ・リンポチェは京都寶吉祥仏法センターにて開光周年法会を主催し、灯供と上師供養法を修めた。日本現地と台北からの信衆及び来客、インドからの来客、及び台湾寶吉祥仏法センターからの皈依弟子ら合計129人が此の法会に参加した。

開光周年法会が始まる前に、リンチェンドルジェ・リンポチェは庭で法を修め天馬旗を加持された。法会は午後2時に始まった。リンチェンドルジェ・リンポチェはこう開示された:今日は京都寶吉祥仏法センターの1周年記念で、またディグン・カジュ祖師のジッテン・サムゴンの記念日であり、今日の法会は灯供と上師供養法を含む。第一、点灯して十方諸仏菩薩と上師を供養する。仏法にたとえ話が一つある。衆生に仏法が無ければ、暗い部屋で未来が見えざるが如く、仏法は暗闇の中の明灯であり、我々に光明を見出させる。若し我々が世々代々点灯すれば、来世では必ず眼の病に罹らないし、皮膚も光沢を増す。もし仏法を修行すれば、智慧はすぐに開かれる。上師の加持と祈りを通して、光りは虚空の苦難の衆生を照らす。数多の仏経は点灯の功徳を、何か侭に成らぬ事があれば、点灯して仏に供養することは良い事である、と紹介している。

チベット仏教の点灯儀軌と中国顕教及び日本の儀軌は同じくない。人類の仏法は釈迦牟尼仏から始まり、歴代の伝法上師により、仏法を世の中に遺した。先に仏前の灯を点し、それから法王のを点すのは、法王の仏法は釈迦牟尼仏から伝承するを表す。それからリンチェンドルジェ・リンポチェの灯をつけ、法は法王から伝承された事を表し、リンチェンドルジェ・リンポチェの灯より弟子の灯を付け、更に信衆の灯を点し、それから信衆が全ての信衆を代表して仏前の灯を点し、法はリンチェンドルジェ・リンポチェから伝承された事を表す。偉大な宗教家はただ自分の家庭、国家或はその信者宗教のために祈り、法は同じくなくても、自己の利益の為にはしない。仏の一切の行いは一切の有情衆を代表して行い、特定の対象のために特別な教えはしない。仏法は衆生は皆平等だと言う。仏法の助けを必要とすれば、全ての上師は教え導く。天道の人を助ける事すらある。仏経の記載に依れば、釈迦牟尼仏は天界に仏法を説きに行った事が有り、阿修羅道に行った事も有る。だから衆生平等であり、殺生はいけないのである。多くの者はペットを可愛がるが、その一方で毎日肉を食べている。これはとても矛盾している。仏法は鬼道の衆生や地獄道の衆生を助ける。これはその他の宗教にはできない。だから、衆生を代表して灯を付けられるのは運が良いではなく、そなた達も苦難の衆生で、今日は衆生を代表して仏の助けを祈り求めているのである。

それからの点灯儀軌で、リンチェンドルジェ・リンポチェはみんなに左手で灯明を捧げるように指示なされた。左手は慈悲と知恵を表し、そして左手は心臓に最近い。

上師供養法を修める前に、リンチェンドルジェ・リンポチェはまず直貢噶舉教派の起源を紹介された。チベットに広がった仏法は二つのルートがあった。唐の文成公主がチベットに嫁がれた折、顕教を持って行った。だから、中国の顕教はチベットにも有る。もう一つのルートはインドからチベットに入った。カジュとは口伝の意味である。釈迦牟尼仏は口伝で仏法を教えた。だから釈迦牟尼仏の伝統と同じく、すべての仏法は上師の口伝で習う。カジュ派の起源はインドである。釈迦牟尼仏の在世からインドで滅度なさるまで、インドでは八十四の大成就者があったが、その中の一人はティロパである。ティロパは顕密共によく成就された上師である。彼は法をナロパに伝授された。彼らはインド人である。当時チベットにマルパと言う修行者が居たが、インドへ赴きナロパに付いて仏法を習い成就した。マルパはミラレパに伝授され、そしてガムポパに伝授された。ガムポパ以前のすべての上師は在家で結婚し、子供がいて、裕福であった。32歳の時、妻や子供が次々と病に倒れ、世を去った。彼は人生の無常を感じ取り、仏法を習い始め、カジュ派初の出家相を現す上師になった。その後ファグモドルッパに伝授されて、更に八大弟子に伝授された。その後名称の異なる各カジュ派に分かれた。

カジュはチベットの地名である。歴史には直貢噶舉教派が最も栄えた時十八万出家弟子がいたと記載されている。この記録は今でも他のどの教派も破っていない。直貢噶舉教派の祖師はジッテン・サムゴンである。経典には仏が次の如く予言されている。インド北部の「ディ」と言う所で、将来一方の寶吉祥如来が現れる。寶吉祥はジッテン・サムゴンの法号である。もう一つの経典の記載に依れば、「ディ」と呼ばれるサムイェー寺(蓮師がチベットで仏法を広めた最初の寺院)から最北に至るまでの地方は仏法の根源である。寶吉祥は亥年に生れたが、将来十万以上の菩薩衆が彼に従って仏法を習うことになる、と。その後、不動仏浄土へ行き、仏号は「無垢白淨如來」である。仏経では、ジッテン・サムゴンが早くも釈迦牟尼仏の時代に現われたと記載されている。即ちヴィマラキールティ居士で、在家の大菩薩である。その後龍樹菩薩に転生された。ジッテン・サムゴンは紀元1143年に生れた。25歳の時ファグモドルッパに皈依し仏法を習い成就を得た。ジッテン・サムゴン一生の著作は大蔵経の寶積経に基づいた。彼は証を悟った後、因果、因縁法を悟って一生菜食した。

何故菜食なのか。有情衆の肉を一口食べると、一口の借りが出来る。人々は動物は食用になるものだと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは例を挙げた。今回の新インフルエンザは日本でより厳しくなっている。日本はアジアでは医学や衛生条件などが一番いい国で、インドと中国は人口が多く、衛生や医学条件が日本と比べものにならない。だがインドや中国では新インフルエンザの感染者が少ない。これは日本の運が悪いわけではない。漢方医学から見ると、日本の飲食習慣で多くの人は氷水を飲むのがすきだ。しかも朝起きるとすぐ冷やしビールを飲むものも居る。氷水が体に入ると、体温がすぐに下がり、特に肺などの呼吸器官は、風邪を引く機会が自然と多くなる。中国古代の本草綱目には、海鮮類は寒毒があると記載されている。冷たい食べ物は体に悪い。この習慣は日本人の風邪に対する抵抗力を弱める。また花粉症も日本で流行っている。毎年日本で花粉症がはやる頃、リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも日本にいた。しかし花粉症に罹らなかった。それはリンチェンドルジェ・リンポチェは氷水を飲まないからだ。この病気は肺、氷水、魚や刺身と関係がある。試しに今年氷水を飲まず、刺身を食べないで、来年少しはよくなるかを見てみるがよい。

仏経では今世に衆生の肉を食べれば、例え善事を行い、法会に参加しても、今世が終わる時には、せいぜい大力鬼王に成れるくらいだ。つまり福報がある鬼である、と説かれた。なぜ鬼なのだ?鬼は肉を食べることがすきからだ。これ等は事実である。そなた達は聞き入れるべきだ。

ジッテン・サムゴンは利生事業を広く行い、彼を信じ恭敬する者の病を治した。なぜか?恭敬は供養を表し、供養があって始めて福報がある。福報がなければどうにもならない。なぜ信心が要るのか?医者に診てもらって病を治すにも、信じなければ処方された薬を飲まないので病気は治らない。仏の話しや所作は、薬のようで、飲まなければ役に立たない。リンチェンドルジェ・リンポチェは皆が仏法にいかなる疑いがあってもならないと説かれる。若しジッテン・サムゴンに対して強い信心を持てば、他界した後彼の浄土へ行くことが出来る。

密法上師と顕教法師には大きな違いがある。顕教が今世を修めるに対して、密法上師は有情衆生が成仏することを願う。今世弟子になれば、来世もそなたを保護する。リンチェンドルジェ・リンポチェは今世でジッテン・サムゴンに一度助けられた事がある。修行で障碍に遭った際にも助けられた。これは顕教と大きく違うところである。上師供養法を修めるとは、歴代の上師を恭しく供養して、我々に仏法を学ぶ福報を授けてもらうことだ。

それから、マンダを捧げる儀軌を行い、上師供養法を修め始め、その間に、衆を代表する兄弟子が壇城の諸仏菩薩、法王及びリンチェンドルジェ・リンポチェにお茶を供える。修法の後、リンチェンドルジェ・リンポチェは参列者を率いて禅定をされた。それから開示された。今さっき皆で一緒に禅定したが、直貢噶舉ではこれを大手印と称す。そなた達は座禅する前に、自分は凄いと思っていたが、たったの10分間でも足を痛くさせなかったり、心を動かさなかったりする事が出来なかった。これから見ると、そなた達はぜんぜん駄目で、食事をして、寝て、お金を稼ぐ機械に過ぎない。更に少々の娯楽を加えても、動物でもこの様な日々を過ごしている。人間と動物はどう違うのだ?人生とは何だ?人生とは何処に己の問題があるのか知るかどうか、減らす事が出来るかどうか、悩みを抑え更に進んで消滅し、更に一切有情衆生を助ける。このような人生で始めて意味がある。人は智慧を通じて問題がどこに在るかを了解し、仏法を通じて自分の未来を変える。仏の言う未来はこの一世だけではない、生生世世である。仏は全ての人の運命は自分に在り、神に在るのではなく、祖先に在るのでもない、と説く。禅定の学習を通して、沢山の事柄を了解する事が出来る。しかし必ず上師について学ぶ必要があり、自分で学べるものではない。上師の心はとても細かく、それは学校や、世の中の経験では了解できなく、ただ経験ある上師だけが教えることができる。

京都寶吉祥仏法センターはチェツァン法王より寶吉祥禅処の名を賜った。リンチェンドルジェ・リンポチェはこう開示された。今日上師供養法を修め、皆を率いて座禅をして、大手印の因縁を植えた。大手印は又の名を恆河大手印と称し、これを日本で教え導くことが出来ると信ずる。大手印が恆河大手印の名を有するは、ティロパは恆河の川辺でナロパに大手印を伝えたからである。リンチェンドルジェ・リンポチェは大手印が日本で広がる事を望む。これは恆河大手印の伝承である。

明日は火供を修める。密法は四つの法門に分かれるが、息法はここの戦争、天災、無名の病気を静める事が出来る。その他の3法門は明日修めないので、今は話さない。リンポチェの果位の者が火供を修め得て、一般の出家者、修行者では修める事が出来ない。なぜなのか?理由は後日説明する。これは密法だからである。

法会が終わった後に、リンチェンドルジェ・リンポチェは個別に日本信衆を接見して、信眾の為にこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009年5月30日

リンチェンドルジェ・リンポチェは日本京都寶吉祥仏法中心にて殊勝な火供を行った。日本現地と台北からの信衆及び来客、インドからの来客、及び台湾寶吉祥仏法センターからの皈依弟子ら合計131名が此れに参列した。法会は午後2時に開催された。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示によれば、火供はチベット仏教が日本で修めることが非常に稀な法であり、これを修める者は必ずリンポチェの果位がなければならない。仏経続部の記載では、火供は伝染病を取り去り、伝染病を患った衆生を助ける、とあり、更に一切の魔障を取り除くとある。広範な伝染病は全て鬼が衆生を傷害しに来ている。例えば数年前のSARSは、鬼が人類に危害を加えに来ている。火供を行ってこの様な災難を取り除く事が出来る。皆さんは寶吉祥仏法センターのウェブ・サイトで、このような物語を沢山見ることが出来る。火供を修めると長寿を求められ、そなたを若くさせるが、それはそなたに彼氏や彼女を作らせるためではなく、そなたの長寿と若かさを保って仏を学ぶ十分な時間を得るためである。火供には色々な供物があり、それぞれには特別な供養効果がある。草はそなたの寿命を増し、もみは福報を増す。豆は能力を増加し、その他の穀物は財産を増やす。黒ごまは魔障を取り除き、火供するために使う木と油にも特別な決まりがある。誰でも勝手に自分で火にくべても駄目だ、必ずリンポチェ果位の上師が修法しなければならない。

そなた達の中のある者はチベット仏法に好奇心がり、ある者は疑いを持っている。今日時間があまりないので解釈することが出来ないが、リンチェンドルジェ・リンポチェが常に弟子に説くが如く、仏法がリンチェンドルジェ・リンポチェに対して役に立たなく、リンチェンドルジェ・リンポチェを助けることが出来なければ、衆生を助けることもできない。ところが、リンチェンドルジェ・リンポチェは36才で仏を学び始めてから今まで、多くの事を仏法で解決した。例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェは1993年皮膚癌に罹ったが、薬を飲まず、医者にも掛からないで、ただ仏法に頼って全治した。そなた達は私が物語を語っていると思っているかも知れないが、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達を騙さない。あるいはダラィ・ラマがチベット仏教の代表だと思っている者も居るかも知れないが、実は、チベット仏教は、カジュ派、ニンマ派、サキャ派、ゲルク派の四派に分かれている。それぞれにはその伝承儀軌及び修行方法があるが、結論は等しく成仏する事である。ダラィ・ラマは政治的にチベットの代表であるが、直貢噶舉の法王はチェツァン法王とチョンツァン法王の二方である。

火供を学ぶには少なくとも十年の顕教の基礎(つまり仏法の理論)が必要である。例えば、日本人の写経、読経は顕教である。上師が密法を伝承する前に三年間の修行を必要とする。多くの者は呪文を唱える回数が満ち、観音呪を百万回唱えれば成就すると思っているが、それは間違いで、持呪は必ず閉関関房にて行い、また特別な観想方法があり、日ごろ唱えているのは只本尊と縁を結ぶだけに過ぎない。

密法は四部に分かれる。第一は事部(持呪、礼仏、供養を含む)、第二は行部(修行者の一切の行為、思想、言語を本尊と等しくする)次はヨーガ部と無上ヨーガ部(この二部は気脈明点を修める)である。日本にも密法があり、東密と呼ばれる。しかし、事部と行部しかなく、ヨーガ部と無上ヨーガ部は伝わっていない。東密は唐朝の時に、日本に伝わって来たので唐密とも呼ばれる。かって日本のある法師がチベットに行った事があったが、事部と行部しか学ばなかった。もし、リンポチェがヨーガ部と無上ヨーガ部まで修めなければ、火供を修めても役に立たない。そなた達は其の訳を知りたいと思うだろう。だがこれは秘密だ。なにゆえ?そなた達は譬えて言えば幼稚園生の様で、ヨーガ部と無上ヨーガ部はまるで大学教授の講義みたいなもので、幼稚園生では当然理解するわけはない。だからそなた達にとってはまるで秘密のようだ。只の好奇心では密法を学ぶ事はできない、着実に修行しないと教えもしない。

これ等の教派の中で、直貢噶舉は比較的に修行に厳しく、修行者に対する要求もかなり高い。直貢噶舉の寺院は大分深山の中にあり、直貢噶舉の上師、リンポチェはよく閉関しなければならない。今日、火供を修めるのは、祖師ジッテン・サムゴンを記念すると同時に、日本のこの土地のためになにかしたいと望むからである。今日、法会に参列された方々が、仏菩薩に対し、上師及び本尊に対して絶対的な恭敬心と信心を持てさえすれば、リンチェンドルジェ・リンポチェが今日方々を代表して読んだ祈祷文は作用するであろう。

火供を修めるには本尊の助けが必要であり、今日は謹んで本尊不動明王にお願いする。多くの日本人はこの本尊を知っている。不動とはどんな意味だろう。全く動かないのではなく、また敵が動けなくなるものでもない。リンチェンドルジェ・リンポチェは日本の歴史で、幕府時代の将軍が戦いに出るとき、不動明王の仏像を持って行き、それで敵が動けなくなると思っていた。密法には敵を動けなくする方法が一つある。動けなくするとは仏法で不動明王の助けを借りて、凡夫に貪嗔痴の三毒を心に満たさせ、それで助けを得る。痴とは仏様が諭した理論を受け入れないし、信じない。三毒があれば絶えず間違を起し、間違った決定をくだし、衆生を傷つける。仏法の助けが有る者は、生活の悩みが減り、さらに取り除かれる。不動明王は右手に剣を持っているが、それは人を殺すのではなく,知恵の剣で悩みを断ち切るのである。左手には綱を待ち、それでそなたの逃げ失ったた心を縛り戻す。表しているのは憤怒像だが、それはなにゆえだろう?例えば、家にペットを養っている者や子供がある者は心当たりがあるだろう、もし彼等が言うことを聞かなければ、そなたの顔色は醜くなるだろう。

この道場の不動明王は日本人が見慣れているし、感じているものだ。チベットのは更に恐ろしい格好をしている。それはチベット人の方が日本人より言うことを聞かず、教えにくいからだ。これはリンチェンドルジェ・チンポチェが雲南でなんとなくして探しえた仏像だ。持ち主は仏像を部屋の隅にさり気無く置いていて、別に売る気も無かったが、リンチェンドルジェ・チンポチェに見つかってしまった。持ち主は日本に近い福建で求め得た後、雲南に持ち帰った。(リンチェンドルジェ・チンポチェは福建に行くことが無いと知っていたので、雲南でリンチェンドルジェ・チンポチェを待っていたのだ)。この仏像を得た後因縁が一つ起こり、リンチェンドルジェ・リンポチェは日本に仏法センターを設立することを決めた。不動明王と日本の因縁は深く、この本尊を学びたいのなら、今後リンチェンドルジェ・リンポチェが教えるであろう。不動明王はリンチェンドルジェ・リンポチェの本尊でもあり、神経に関して病気があり、夜眠れないとか、怒りっぽいっとかの人に効果がある。リンチェンドルジェ・リンポチェは笑いながら、法王はリンチェンドルジェ・リンポチェの気性が激しいことを知って、まずこの法をリンポチェに伝えた。後で修法する時、日本人は外で見るがよい、心して見ても効果がある。今日火供を修める本尊は不動明王である。

火供の儀軌で、リンチェンドルジェ・チンポチェは中庭の日本信衆と弟子に、一人一人順番に前に来させ、火供の各種の供え物を受け取って、火供壇城に投げこませた。修法の過程は約3時間にも及んだ。その間リンチェンドルジェ・チンポチェは休むことなく、水も飲まず、一気呵成に修法された。午後の天気は晴れて爽やかで、空には竜の形の祥雲が現れ、これは稀有で得難い瑞相であった。

火供を円満終了後、リンチェンドルジェ・リンポチェは法座に昇って開示された。火供を円満終了後、なぜ必ずアチ護法を修めるのか?若し護法がお守りくださらねば、修法を順調に行うことが出来ない。ゆえに火供が円満終了すると、法を修めて護法に感謝し、護法が続けて我々を保護されることを祈願する。法会の次第が全て終わると、空に雷が鳴り雨が降る瑞相が現れ、法会が殊勝円満であった事を表した。

開光周年法会は円満に終了された。その夜、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子達と共に食事をされた。大成就者と共に食事をするのは、大きいな福報であり、寶吉祥仏法センターの弟子は上師リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子に福報を累積する機会を与えた事に感恩した。

2009年5月31日

台北寶吉祥仏法センターで、弟子と信衆は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが2003年04月20日の共修法会で開示した「不共四加行を学ぶ時に、あるべき心理準備」の録音テープを恭しく聞いた。次はテープの内容である。リンチェンドルジェ・リンポチェは、仏法を聞くと真に大歓喜心、大信心が起こし、着実に修行する衆生は稀で、ほとんどの衆生は仏法に対して疑惑を持っている。真に仏陀を信じるならば、必ず因果を深く信じなければならない。そなた達は菜食をし、性格を直し、悪事を働かないが、それはただ表面の大まかな注意だけで、多くの細かいところにまだ気を配っていない。一つの考えが生まれ、行動をとると、果報は現れる。考えが起こても、すぐ懺悔すれば、業は現れない。しかし人々は通常これは些細なことと思い、特に注意をしない。しかし些細なことが積み重なると、大事になる。リンチェンドルジェ・リンポチェは例を挙げた。ある女性信者の父親が他界したので、リンチェンドルジェ・リンポチェに助けを求めに来たことがある。リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女の4人の兄弟は財産のためにいさかいを起しているが、亡者は彼らにいさかいを止めるように望んでいる。この事を彼女が兄弟達に伝言してほしいと諭した。この信衆は父がこう言っている夢を見たと兄弟達に伝えたが、彼女のやり方は戒を破ってしまった。第1は、妄語をついた。第2は、善知識の言う事を聞かなく、善知識と悪の因縁を結んでしまった。第3は、兄弟達が仏法を学ぶ因縁を絶ってしまったかもしれない。このような誤りはそなた達がいつも犯していて、自分では間違いないと思って仏法を学んでいる。だが、古人は少し愚かな者の方が比較的容易に仏を学べると言われた。自己の考えがそんなに多くないからだ。

そなたが自分が正しいと思うと、分別心が起こり、分別心があると慈悲が失われる。仏法を学ぶ者は、仏教徒らしく自己の言動に十分注意して、できるだけ自分の欠点をすぐ直す。ある者は妊娠すると仏法を聞きに来、妊娠していないと仏法を聞きに来ない。このように「現実的」では、仏法を修めることができない。仏菩薩に対しさえ、このように現実的であれば、人や事に対しても必ず同じであろう。仏菩薩及び上師は、そなたにこのように利用されるのではない。用があれば来て、用がなければ、影さえ見せない。これで人間と言えるか?仏菩薩は慈悲だから、必ずそなたを手伝うとは限らない。「仏は縁がある人を度する」という、懇切な心で仏菩薩の加持を求める者だけに、縁があるのである。

各人の毎日すべての思想言語は、宇宙で波動を生む。現在の天文学者は常にいくつかのシグナルを受け取る。それは数百万、数千万年前のシグナルかもしれない。それは宇宙間の有情衆生の心念が動いて出来たシグナルである。だから、悪念が起きると、仏菩薩や六道の衆生はすぐ知る。一日中、ただ自分のために生きて、他の人を構わなければ、布施の心がなく、この一生は絶対に浪費してしまう。たとえ釈迦牟尼仏がそなたの前で仏法を説いても、そなたに対しては何の助けにもならない。人生はまたたく間に過ぎさるもので、固執して手を放さないことに値することは何もない。だらける心を対治するため、毎日死亡無常を思わなくては成らない。我々は生まれた日から死亡に向かって歩んで居る。だから仏教では誕誕生日は母難日と言い、毎年の誕生日は地球にいる時間がまた1年少なくなっただけだ、何が祝うに値するか?しかし衆生は愚かで無知で、誕生日が楽しい日だと思い、死亡が毎秒我々に付いてくることに直面したくない。我々が精を込めて数十年仏法を学ぶのも、ただ死亡の際の数秒間に面と向かうためである。

死亡は仏法においては必ず悪いこととは言えない。我々は生死を解脱しようと欲するが、もし死をよく知らなければ、どうやって自分が再び生まれないようにすることが出来るか?生死から解脱するのは今世でやらねばならなく、六道で輪廻しないことである。だが衆生が仏法を習う際、とかくこの事を忘れてしまい、仏法を習うのは仏法を悟り、早く悟りを開くものと思っている。実はこの事はすべて副産物だ。衆生を利益する事さえ副産物だ。仏が49年間仏法を説かれたのは、仏法の薫陶や訓練を通して、人々に今世で生死を解脱することを望んでいるのだ。だから、真の仏教徒は死亡を避けなく忌諱しないし、かえってこの事に注意する。

仏法を習うば来世も必ず人間に生まれ変わるとは限らない。実はこの確率は非常に小さい。我々の肉体は、いつか必ず死ぬ事を、しっかり頭に入れておかなくてはいけない。我々がこの一生で死が必ず来ることをはっきり心しておいて、始めて自分を励まし、休みなく学仏することを怠らなくなる。死に臨む時、例え家族や友人が周りにいたとしても我々の助けにはならない。どんな人も死亡の過程を分担できない。もし生きている時に、自分の気持ちをしっかり訓練しないと、死に至るとき、死亡時の苦痛や執着などが、我々を輪廻の海に落としこむ。故にまず死亡の正体をしっかり見極めることが肝要だ。ポワ法は我々に死亡前から死亡後に至る中陰身がまだ業力によって輪廻する前の、すべての体と心理の過程を理解させる。このような殊勝の仏法は、上師に信心なく、供養もためらうようでは学べるものではない。

死に臨んだ時、上師に頼りポワ法を修めて頂き済度されると思うべきではない、人生は無常である。もし精を込めて仏法の修行をしないと、時間が足りなくなる。我々の仕事や事業は、自分と家族を養い、社会に貢献することだが、これは唯人生の過程に過ぎない。出世や金持ちになるかどうかは絶対に福報と係わりがあるが、仏を学ぶか否かとは関係がない。仏は私たちに事業、家族、名利に対しては無常と見るようにと説かれた。

これ等が仏を学ぶことによってよくなると思うなら、それは仏法に逆らう。仏弟子は常に死亡は身近にある、と自分に言い聞かせるべきだ。助念団が役に立つとは信じるべきではない。もしそれで役に立てば、苦労して修行する必要がない。お金を仏寺の助念団に寄付すればいい。しかし、浄土五経では助念されると阿弥陀仏の浄土へ行けるとは説いていない。助念は、生きている時既にある程度まで修行して、往生前に同修(同じ壇城で修行する兄弟子)は真言を唱えてそなたの心を落ち着かせる。生きている時修行しないと、助念に頼って浄土へ往生することは、真の密乗修行者に出会わない限り無理だ。ただし、死者が福徳因縁を備えなければいけない。

多くの者は家族が臨終の時、自分は何か出来るだろうかと問う。これは心の中で何かの経を読めば、家族が良くなると願っているからだ。何故自分でお経を読んでも良くならないのだ?第一は戒体が不清浄だからだ。お経を読んだり呪文を唱えたりするには、何も求めない心で臨まなければならない。第二は大供養をしていないからだ。供養は財物ではない、敬虔な心である。敬虔の心があれば、真の心があり、祈りは相応される。

仏法を学ぶのは人天福報や仏菩薩の加護を得て、いい日々を過ごせると考えるものが居るが、それは外道の考えだ。仏法は内側に求め、自分の真の姿をはっきり見ることだ。観世音菩薩は数珠を手に何を唱えている?やはり観世音菩薩を唱えている。これは衆生の本性は全て成仏の条件を備えるゆえ、外側の何人や神、仏菩薩に求める必要がない事を物語って居り、ただ我々が知らないか、忘れたか、理解しないかだけである。厳格に言えば仏は宗教家ではなく、私たちに改めて自己の本質を理解することを教える方である。仏法の学習を通して、我々は自分の未来の運命を支配する能力を備わる。

両親には孝行をせず、師を奉持しない者は、人とする資格がない。此の二つは人と三悪道の差別であり、此れを尽くして始めて自分は仏を学ぶ者と称することが出来る。仏を学んだら、おこたったり、気を緩めたり、怠けたりして、何年か後にまた続けて修めようと思ってはいけない。数年間の変化は、そなたに続けて仏を学ぶ機会を無くすかもしれないし、甚だしきに至っては来世続けて仏を学ぶ機会さえも無くす。もし仏を学ぶのは家族に廻向して彼等に益する事を望むのなら、早かれ遅かれ懈怠する。何故なら各々には各々の因果があり、変えることは出来ない。そなたの修行は、せいぜい彼らの重い報を軽く受け止めさせる位だ。このように我々は仏を学ぶには少しも気を許せないことを知り、時間は1分1秒消え去っていくことを自分に言い聞かせ、肝に銘じなければいけない。

仏経曰く、死亡を知らずば、安易に現世の安楽を貪り求める。我々が享楽を求める時、それは悪業の始まりである。もし死亡が常に己の側にいると考えると、今の生活が過去に植えた因が顕した果報だと言う事が分かる。だから残る数十年ではただ欲望を追い求めることはしない。ある者は自分が満たし得なかった欲望を子供を借りて満たそうとし、一生懸命彼を塾に通わせ、有能な人材になることを望む。だが、子供に才能があるかどうかは主に彼の過去世の因果にかかわるので、最も重要なのは仏法を聴聞させ、読書はやむを得ずする。ただ仏法を聞けば、本を読む事はとても楽になる。と言うのは、彼は何故読書をするのか良く分かるようになり、それで重荷も軽くなる。

耳たぶが大きい人は必ず長寿であるとは限らない。リンチェンドルジェ・リンポチェのある友達は耳たぶが大きくて、面相を見れば40数歳で死ぬはずはないのだが、彼は死亡を考えなく、欲望ばかりを追い求め、野獣を食べるのが好きだったので、殺業を作ってしまった。死亡を考えない人は、止むことを知らず欲望を追求して、自分のエネルギーと生命を消耗させる。これは仏を学ぶ学ばないにかかわらず、皆同じである。

昔、我々は天地はある神が創ったと思っていた。しかし仏は我々を諭し、宇宙は誰が創造したものでもない。一切は有為法であり、一切の衆生の心を通して生まれたある現象であり、これ等の現象は一点に止まって変化しないことは有り得なく、一切の事柄は生死の変化をする。仏を学ぶ人ははっきり知らなくてはいけない。大宇宙全体が無常であり、体のこの小宇宙も無常である。医学では我々の細胞は七年毎に一回淘汰されると言う。仏経は我々の体は段階に分かれて生死すると説く。長寿仏法門があるが、それは修行して悟りを開く時間が足りないので、此の法門を修めて延壽するのだ。

我々のこの世界は今始めて存在するわけではなく、「成住壞空」の段階を経ている。前の一つの世界が終了した後、一切は虚空に化し、20小劫を経て、世界の成劫が始まる。基本の色は青であり、だから今の天文学では星雲の始まりは青い光りがある。それから深緑色が現れ、東南西北は動く。だから天文でみえる数多の星雲は十字形である。それから金色の雲が生まれ、水と風を生んで、須弥山を生む。須弥山は固体ではなくて、渦巻きである。須弥山が生まれた後七層山があり、それから有情衆が生まれ、天道に始まり、ついに地獄道にいたる。初め、衆生の業はまだ軽く、天道に生まれていた。その後、無明、煩悩、業力が付いてきて、それからどんどん下に降り、地獄道に至る。地獄に初の衆生が生まれた時、20小劫を経たが、住劫が始まると、人の寿命は無量寿から10歳までに減った。それからまた徐々に増えて8万才になり、今人の寿は減る段階にある。壊劫に至ると、新しい地獄道の衆生はなく、ただ他の世界の地獄道に生まれることになる。壊劫の時、地獄には金剛地獄の少数の五無間罪や法の誹謗を犯したり、金剛阿闍梨の誓いに違反した衆生だけが残る。

五無間罪とは父殺し、母殺し、阿羅漢殺し、和合僧団破り、及び仏血を流す事が含まれる。悪意に仏像を壊すのは仏血を流す事だし、仏門に皈依しても挙止行為が仏弟子に似ていない。他人に仏法を誹謗させるのも、仏血を流すことだ。それは他人が仏を学ぶ慧命を断つゆえである。全ての法門は衆生を利益するもので、どれがよりよいと言うことはない。もし他人がある法門を学ぶことを制止すれば、これも法を誹謗する事なり。徳を備えた上師はそなたの根器がある法門に適することを知っているので、この場合、彼の心は法を誹謗してはいない。金剛阿闍梨の誓いに違反――教えに従うと言う誓いに違反する事だ。徳を備えた如法の上師はそなたに法を伝授し、皈依を受け入れて、密法真言まで伝授された。そなたは離れた後上師を批判して、他人の慧命も断つ罪は重く、此れも金剛地獄に落ちる。

壊劫の時、地球は旱魃で雨がなく、須弥山等から烈火が噴き出し、とても恐ろしい。瞋恨心が重い者は未来世で此の時期に生まれる。だからくれぐれも仇を憶え、他人を恨み、勘定高くなるべきではない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて飛行中に乱流に会い、飛行機は上下に強く揺れた。隣の席には外国籍のキリスト教牧師の老夫婦がいた。奥さんは緊張して恐れて叫んでいた。リンチェンドルジェ・リンポチェは奥さんの肩を軽くたたき、彼女に:「貴女はいい人なので、貴女の神が守って下さる。恐れる事は無いですよ。」奥さんは此れを聞くと静まった。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示して曰く、仏を学んでも我々の標準を他人に当てはめることは無い。如何なる方法でも衆生が苦しみから離れる事を助けるのが仏法であり、相手にすぐ観音菩薩を唱えるように勧める必要はない。リンチェンドルジェ・リンポチェの妹のフィリピン籍の使用人はかつてリンチェンドルジェ・リンポチェに助けを求めた事が有った。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の信奉しているカトリックのロザリオを数回唱えれば、彼女の神は彼女を守って下さるだろうと諭した。彼女はすぐ喜びを表した。これ等の事柄は、仏を学ぶのは我々個人の事であり、仏を学んだからとて己の身分地位が他人と異なると思ったり、他人と異なることを行ったり、威張ったりしてはいけないことを示唆し、若しこのように感じたら、すぐに直すべきである。

徹底的に衆生を助けて苦しみを離れるには、必ず仏法の薫陶を通さなければならない。戒、定、慧の三門を良く修めて、始めて自由自在に衆生を利益することが出来る。

昔、仏は詳しく成、住、壞、空を紹介された。仏は神話を語っているのではなく、定境中で世界が変わるを見ると、我々に必ず発生する状況を教え、我々に今世を把握して浪費をせぬよう注意を促し、それで始めてこの段階に生まれてこなくなる。

瞋念は恐ろしい。特に、他の人の修行が自分に比べ、より良いと思うことから来る瞋念は恐ろしい。このような心がある者はこの時に生まれる。ついで、リンチェンドルジェ・リンポチェは世界が火で焼かれ尽くされ、衆生は生存出来なくなり、他の世界へ出生する過程を開示された。地球は人々が考える様に変わらなく、永久に壊れないのではない。だから、なにか器具を買って家族の寿命を延ばそうとするのは愚の骨頂である。最後には、財産を使い果たし、家族はやはり死んでしまう。財も尽き、寿命も尽きてしまう。これなら、お金がなくて医者に掛かれない者にお金を寄付したほうがまだましだ。今の肉体の命を救うのではなくて、未来の命を救うのためだ。彼が福報と功徳を積む手伝いをし、彼に未来世で成仏し、生死を解脱させ、再び生、老、病、死の苦しみを受けないようにする。寿命は仏が与えたものではなく、自分自身で作るものなのだ。

ある年、リンチェンドルジェ・リンポチェはインドで法会に参加する準備をしていた。ある友達がネパールで法を学ぶ心算だが、金が無かった。リンチェンドルジェ・リンポチェはインドで使う金を友達に貸した。その金は何に使う心算だったかは、友達に言わなかった。友達はネパールから帰ると、リンチェンドルジェ・リンポチェに貴重な塩舎利をプレゼントとした。後日、この塩舎利はリンチェンドルジェ・リンポチェの母の命を救った。リンチェンドルジェ・リンポチェの考えは、他の人を助けることは最も良い事で、自身成仏するかどうか、利益を得るかどうか等は、悉く重要ではなく、衆生が利益を得るのが最も重要なのである。

外器世界の変化から体得出来るのは、無常の力は我々が変化を加えたり左右したりする事が出来ない事だ。我々に出来る事は、今世で精を込めて仏法を学び、自分を生死から解脱させる事だけだ。我々が生まれた世界は無常で、求め得た名利と学問なども無常である。無常をはっきり知れば、自分に圧力を掛けたり損得を感じたりすることが無くなる。我々の意念を「常魔」に蝕められたり、生死の断絶を阻められたりさせない事。もし「常」の立場から見れば、それを失いたくなく、そしてそれは苦痛の始めとなる。毎日心を静めて考えるがよい、仏法の薫陶を受けよ。毎日無常を見れば、心の中の力は更に強く成り、苦痛はゆっくりと和らぐであろう。

死は必然に至る事を考えよ、死亡などは起こらないとか遅らせることが出来るとかを考えるなかれ。死を受け入れれば、必ず新しい命が現れる。新しい命は二方面から見ることが出来る。一つは流転輪廻の苦痛の命、一つは浄土で成仏する命。どの道を行くか。いずれにしろ死は必然なのである。仏陀の一生も、死は逃れ得ぬ必然の現象だと示現された。我々は屠殺を待つ家畜の如く、命は一分一秒減っていく。2時間の仏法を聴聞するのは、2時間の肉体の命を費やしてしまうが、法身の命は長くなる。

完全に死亡と無常を受け入れ、毎日静かに周り親友と自分の変化を考える。我々の体は四大因縁が集まり、命が終えた後、意識は屍を残し他所を巡る。生きている肉体は動く屍に過ぎない。無常と死亡を考え、確認して、この事実を受け入れ、それで始めて積極的に間違いを改めうる。手を放す事、それが苦しみを減らす糸口である。

2009 年 10 月 27 日 更新