尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ の法会開示

2009年3月1日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターにて共修法会を主催し、次の如く開示された。修行は、世世代々絶えず努力して、凡夫から仏果に至る。もし、修行がとぎれとぎれになれば、成仏の時が長引くばかりではなく、この世での運勢も影響を受ける。修行がとぎれとぎれになるのは、個人が欲望に任せて、上師と仏菩薩の教えと導きに心を置いていないからだ。仏法の重点は、第一に因果を深く信じること。「凡夫は果を畏れ、菩薩は因を畏れる」と言われ、菩薩は因地から修行する。第二は仏法に従って実修すること。着実に実修をすれば、自分のこの世代で解脱することができる。「仏法に従う」とは生死を解脱する方法である。読経し懺悔してもまだ実修とは言えない。これはただ助縁だけで、心を決めて出世法を修め、出世法を良くすれば、勇敢に一切の困難に立ち向かう事が出来る。

神様とて因果に背けられるものではない。仏陀たりとも出来ない事が三つ有る。即ち:縁がない衆生を済度出来ない、全ての衆生を済度し尽くせない、業力を変える事が出来ない。仏と菩薩は急場を救うが貧困を救わない。高采慧の例で見みると、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女を3度叱り、彼女は其れを受け入れたので、首の腫瘍が癒えた。しかし、考え方を間違えると、また発作した。よくなるか悪くなるかは、ただ一念の差である。実は、衆生が輪迴するのは考え方による。名利と情欲を追うと、最後の結果はいつも苦しみであり、これらを追うと、ただ自分に苦しみのエネルギーを累積するばかりである。

仏法事業を多く手掛け、大仏寺を建てたり、仏学院を営んだりしている者が居るが、これは必ずしも修行ではない。仏は私達に仏果を修め得る事を望んでいる。修行は善人になる為ではない。儒家は倫理を教え、道家は無慾を修め、キリスト教は戒律を守る事を教える。善人になろうと欲すれば、儒か道を学べばいい。しかし、仏は私達に仏の果位を成就し、生死から解脱して、清浄の地に至る事を求めている。根本の智慧を開かなくては、成仏する術が無い。禅定は私達を単純にさせる。さらに、単純の二文字さえも有っては成らない。外道の禅と仏の禅定の差は極微々たる物で、少しでも油断すると外道の禅に落ち、輪廻から解脱する事が出来なくなる。故に上師は非常に大切なのである。禅定に依って、私達の生活と心が最も単純な状態に戻り、私達の本性を開くことができる。此れ即ち「明心見性」である。生活を単純化して、欲望の追求を減らし、さらに消し去る。

この度、リンチェンドルジェ・リンポチェは抽選でインドで閉関修行する弟子を決めたが、これは法座の上で抽選すると言う最も公平な方法であった。10年も前に皈依した弟子でも選に漏れたものが居たが、其れは、彼らに何か過ちを起こした事が有ったのだろう。しかし、選び出された者も手放しで喜んではいけない。うっかりするとその者は桁外れの過ちを犯しているので、過ちを改める機会を与えられたのかもしれない。選び出されなかった者は気を落す事はない、ただ因縁が未だ備わらなかったまでである。末法時代にて、閉関することも簡単ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェが2007年、チェツアン法王に従って閉関を行なったラキ聖地は、嘗て祖師ジッテン・サムゴンが弟子に命じて、5万5千名余りの出家衆を引き連れ閉関した場所で、これは、そこの善神護法の求めに応じたものである。ある箇所に数多くの者が閉関すれば、そこは平穏で祥和になる。今日、「ラキ雪山」には当時閉関に使われた洞窟が多数残っている。市中の環境は修行に適さない。家で修行すると上師の厳しい監督が無いので難しい。他人と行き来しなくとも、テレビが有り、8時の連続ドラマを見ようとする。全て情欲の重いもので、修行の邪魔になる。ずっと、上師に従えば、この世代にて、生死を解脱する機会がある。

続けて、リンチェンドルジェ・リンポチェはガムポパ大師の著作の中で開示があった正確に仏法を学ぶ観念を開示された。仏法は「義理」を重視する。「理」は顕教であり、修行は何の為かと諭す。それは自己と他人の為だが、死亡の過程を知らぬ者は他人を助けることが出来ない。それは、水に溺れた人を助ける者は、まず、自分が泳げて、それから、溺れた人を救うにはどの様にするかが分からないと、人を救えないばかりか、自分も溺れる。だから、自分が輪廻の苦しい境遇にいないことを確定して、初めて衆生を済度することが出来る。現在、大勢の人は経文をとなえ、他人を済度しようとはするが、自身が輪廻を解脱する自信はない。実は、仏果を成就する前に衆生を済度するのは、やはり間違いを起こす機会がある。「義」は成仏する真の方法と概念である。修行をする知識と方法である。

佛経は3つに分けられる。第1は、修行者が追求する「果」を開示する。第2は、修行者が「果」を成就する「道」を開示する。仏の果位を成就するには道が必要で、完備した道がなければ、円満な果は得られない。成仏する道は上師が導いて下さらないと、歩けないし、上師が導いていても、少しでも注意を怠ると、間違った方向に行くかもしれない。一旦間違うと、何もかも失う。上師は運転手のように、みんなを連れて前に進む。皈依していない者は車に乗らなかったが如く、歩く速度は当然車より遅い。実は「乗」とは車で、大乗と小乗は車の大きさが違うようなものだ。大きな車は馬力が十分で、速度は速い。金剛乗は戦車にスポーツカーのエンジンを装備したようなもので、速度は速く、ぶっつけても傷が付かない。佛経には仏像に皈依してもよしとするが、それは方円五百里の内に法師がいない場合、やむを得ず仏像に皈依すると言う事だ。台湾の大きさでは方円五百里も無く、上師が見つからなくて皈依出来ないことはない。皈依しないのは実は責任を負いたくないからだ。第3、「道」を経て「果」を成就する情況を開示して居る。修行の興味を起こさせる為に、仏果を解説したり、成就できるかどうかの疑惑を打ち消す為に、勝道円満や大楽円満を開示したりする。

六道の衆生はもともと仏陀と同じく清浄な本性を持ち、仏陀の智慧を持つ。つまり「根本智」或いは「如來藏」だ。上師は私達に五智を以って貪瞋癡慢疑を対治すると教え、私達元来の本性を導き出すことを教える。私達の清浄な法性と本智は、月の光が黒雲に遮られるが如く、光は見えなくとも始終そこにある。人の六根──目(美色を見ること)、耳(いい音を聞くこと)、鼻(匂いを嗅ぐこと)、舌(食の味覚と話すこと)、身(心地好いこと)、意(利己すること)などの欲求が智慧を包み隠している。故に必ず上師の教えを通じて、仏法にて垢をきれいに洗い落とし、五毒が減り尽くす時、始めて私達の本性及び智慧の光が現れ、本来の面目に戻り、法身仏と同じようになる。五智は即ち「大円鏡智」、「平等性智」、「妙観察智」、「成所作智」、「法界体性智」。仏果を円満する時三身を生む。法身仏は虚空中にもともと存在する智慧であり、報身仏は衆生を利益する願に応じて生れ、浄土に往生するのを発願し、自分自身を済度して他人をも済度することを発願し、大衆の成仏を助けることを発願する等はすべて願力である。化身仏は慈悲心の現れであり、仏陀の慈悲の力が上師に化身する。

仏が三身を成就させたのは異なる衆生を済度する為である。「報身仏」は初地から十二地までの菩薩を済度し、菩薩は自己の行き先を把握出来るので、願いに沿って再度来ることができ、我等凡夫はやはり先ず浄土へ行く。所謂「菩薩摩訶薩」は大菩薩を指し、十地以上の菩薩である。大菩薩の「大」は他の菩薩と比べて、その願力、慈悲力、菩提力が強い事を言う。菩薩の修行が十地以上に達すれば、仏はすべて密法を修めるように勧める。十二地以上の菩薩は「法身仏」により教える。「化身仏」は兜率天、三十三天、忉利天天道及び地球の人類を調伏させる。例えば、チェツァン法王、リンチェンドルジェ・リンポチェは「化身仏」であり、私達と同じ様子に化現して我々に仏法を教える。天人の寿命が尽きる前に、天衣はぼろぼろに破れ、髪は乱れて、体は臭気を発し、また、自分がいつ往生して、どこに行くかが分かる故、自分の修行が間違ったと思って、瞋恚を起こし地獄に落ちる。

それ故、私達は資格がある師長に依止する。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて次の如く開示された。「寶積経」には二十個の条件を備えて初めて上師になれる、とある。具徳の上師が法の如く教え導びき、示現して、始めて私達は円満の道を聞き、思い、修め得る。「福田を耕す」とは、出家の服を着る人に会う毎に供養する事ではなく、この田が肥えている土地かどうかによる。上師は私達の福田である。リンチェンドルジェ。リンポチェは2007年に祖師ミラレパ尊者が当時閉関修行した聖地──ネパールのラキ雪山で三ヶ月に渡り閉関した。関房に入った翌日、一方の護法が山岳地帯全体を廻り、見守っているのを見た。これは凡夫の肉眼では絶対見えない。リンチェンドルジェ・リンポチェは閉関円満後、この事を法王にお尋ねに成られたが、法王は其れを確証なされた。リンチェンドルジェ・リンポチェがその後洞窟の一つに行くと、この護法のタンカがリンチェンドルジェ・リンポチェの法座の傍に掛かっていた。修行上のあらゆる情況はすべて上師の確証を得て始めて確実になる。故に、凡夫の心で修行者の色々な衆生を済度する方式を考えず、ただ修行して仏果に至るまで、絶対に上師の助けが要る事だけを信じるのだ。釈迦牟尼仏さえ仏果に至るまでは、「法身仏」の教えと助けがあった。ただ凡夫はそれが見えなかっただけだ。

伝法上師は四つの特質が要る:第一、伝承の教が厳しく、中断した事がない。直貢噶舉教派の伝承はジッテン・サムゴンから現在第37世チェツアン法王まで、伝承教法が間断した事がなかった。若し中断があれば、それは教法に問題がある事を示す。第二、慾が少なく自足である。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏寺を建てるとか、弟子を取るとかで悩んだ事がない。第三、慈悲心がより強い。第四、加持を備える。加持して病気を治すばかりではなく、さらに弟子に仏を学ぶ信心を加持する。

2009年3月5日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは51名の弟子を率いて、インドデラドンのディクン・カギュ仏教学院に赴き、閉関に入った。お昼近く、リンチェンドルジェ・リンポチェは真昼の暑い太陽の下で、先ず弟子の閉関用の部屋を逐一視察して、まちがいなく適切に手配されている事を確認してからその場を離れた。午後の閉関前に、リンチェンドルジェ・リンポチェは先ず弟子に教示された。「実際の閉関には、他に色々な事前準備、呪文の読誦、加持などがある。自分達が素晴らしいから今日閉関に来られたと思ってはいけない。これはまだまだで、ただそなた達に閉関に慣れてもらうだけである。驕ってはいけない。真の閉関は、先ず壇城を設置し、経文を唱え、数珠を加持する等を行わなければならないが、今こうすることは不可能である。そなた達がまだ是を行なう条件を満たしていないからだ。故に自分が立派に修められると思ってはいけない。驕りを持ってはならない。今回はあなた達に異なる生活を知らせる為のものである。皆は数十年間自分なりの暮らし方に慣れ、ずっと誤りを知らないでいる。今回の閉関を通して、自分の誤りがはっきり見えることだろう。

閉関の間に、若し何か奇妙な事があっても、自分に感応する能力があると思ってはいけない。しっかり呪文を唱えること。本当に疲れたら、休んでもよい。無理してはいけない。必ず何回唱えなければならないというものではない。自分の毎日の生活の規則は自分で決め、食べ過ぎると気持ちが悪くなり、少な過ぎても腹が空いて体力不足となり、何れも良くない。呪文を唱える時は、背をもたれてはいけない。体に良くないからである。夜眠れない場合は、起きて呪文を唱え、24時間、本尊観想だけを考え、大声で唱えず、故意に座禅する必要もない。この環境では座禅するべきだと思わなくてよい。実は、呪文を唱えることを通して「禅定」の境地に入ることも可能である。毎日、最後の一回を読み終えた時、百字明を三度唱えるか、本尊の観音菩薩に懺悔する。何かの考えが起き、心が乱れたら、必ず懺悔しなければならない。毎日寝る前に護法を修め、その際、心身が正常で順調に閉関が行えることを祈る。一回読み終わったなら、本尊にその回の回数を報告し、呪文を唱える功徳を以って、十方一切の諸々の仏菩薩、護法神、上師に供養するがよい。特定な人に廻向してはならない。毎日最後に、西方浄土、一切菩提に廻向すればよい。

そなた達の観想力が足りず、心が乱れ、集中できないなら、再度本尊を観想すること。「観」は清浄な心を以って、法性の真の姿を見ることである。「想」は私達の意識(人生経験)を通して本尊の形相を見聞きすることである。「想」がうまくできれば、「観」が顕現する。そなた達は今、全て「想」の部分にあり、極端に良くはできないだろう。教示された次第に基づき「観」を行えばよい。はっきり観えるかどうかは、禅定と関係がある。「観」が良ければ、菩薩の髪、指、宝石、服装の皺まで見える。「想」による本尊そなた達の観想力が足りず、心が乱れ、集中できないなら、再度本尊を観想すること。「観」は清浄な心を以って、法性の真の姿を見ることである。は自分より高すぎないこと。首以下で良い。閉関でなら、本尊と上師だけ思えばよい。心が乱れていると感じたなら、護法神と上師に加持を授けて下さるよう祈る。閉関の間に、気分が悪くなったら、薬を飲んでもよい。その後、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を一人一人加持され、並びに、貴重な甘露丸を一粒与えた後、当日午後から閉関を始めた。

2009年3月8日

台北寶吉祥仏法センターの共修法会:弟子と信衆は道場で恭しく尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが2002年12月15日に開示した仏法の録音テープを聞いた。次はテープの内容である。どんな法門でも、其れを受ける前に、上師に対する心掛けと仏を学ぶ道理をはっきり理解する事。仏法名詞「解門」とは、即ち佛法の理論である。現今、仏法を学ぶ多くの者は、名前と皮相だけに気を使い、深く仏を学ぶ意義と仏法の意味を了解しようと思わない。しかし解門をよくしないと、行門を修行する過程で、自己流に解釈して間違った修行をしてしまう。解門と行門は分けられない一体で、同じ修行なのである。理論だけで実修をしない人は、即ち生活中に仏法で修行しない人であり、徐々に邪見を起し、仏法をゆがめてしまう。実修は着実に上師の教えに従い、その全てを生活中の身、口、意に適用し、少しでも背く事を許さない。

本当に仏法をよく知る者は必ず「因果を深く信じている」。深く信じると言う事は生活の中に現れたあらゆる事象は必ず因があり、又果があると信じる事で、果が現れた時、もし仏法を知れば、仏法の観念で以って善か悪の果を受け入れる。それを変える手立ては別の善因を生み出す事で、さもなければ悪因を作り、悪果が現れる。ある者は因果で一つの事が終わると見るがそうではなく、「因果」は我々の世々代々で繰り返され、仏果を成しても、まだ因果の法則の内にいる。しかし仏菩薩は、1.因果は悪因を作らないと深く信じ、2.すべての現象は恒久的ではなく、映画やテレビの映像の如く、目の前で一瞬に過ぎ去る事を知り、それに拘らない。

ある物事が正しいと拘り悩み、我に間違いはなしと固執するのも悩みの始まりである。我々の生活様式は仏法を基準とし、仏法に従って修行すれば、運命は必ず変る。風貌と体つきさえ変るものである。凡夫の執着は通常貪念による。貪念に囚われると物事をはっきり見る目が無くなり、彼方此方に聞いたり求めたりする様になる。仏は仏法を受け入れない人は痴人だと言う。佛経にも、仏は仏法を学ばない人を常に叱ると記されている。佛経を通して、仏は謹厳な導師である事が分かる。仏法と関係がない事に仏は答えなく、取り合わなく、目もくれない。

着実に仏法を学ぶ者の事柄は、必ず好転する。着実にとは上師に対して全て恭敬心を持ち、清い心で見て、己の法則で見ない事を言う。そうすると、将来、上師と相呼応する事が出来るようになる。上師を仏の如く、また仏の代表として見よ。上師の全ての行為に間違が有ると思うべきではない。常々上師の一切の功徳を考え、上師に対してその逆の考えを持つべきではない。大手印を修める者は、上師の加持を得て始めて大手印の果位を修め得る。上師に対して少しでも不清浄、或いは逆の考えがあれば、修行にとって大きい妨げになる。チベット仏教は中国古代の禪宗の説法のように、打つ、罵る、損なう、追い払う等の方式を使う。この法門で衆生の深く重い我執心に対治する。厳しく要求して始めて我執を破り、全ての我は仮のものだと了解して、始めて平等な慈悲心を修める事が出来る。我執が破られなければ慈悲は学べられない。

もし、相弟子間での噂話を聞きつけたり、上師の批評を聞いたりしても、聞かず、言わず、解釈せずに徹する。釈明は相手に尚多くの事を話させ、相手に更に多くの悪業を犯させる事になる。リンチェンドルジェ・リンポチェもチェツァン法王に百パーセント信服する。

般若経の記載では、何方かの大菩薩は衆生を引き寄せる便宜のために、巧みに五欲を使う。例えばリンチェンドルジェ・リンポチェは人間の一切の苦しみと楽しみを経たことがあり、生活上のいろいろな苦しみや心のあり方をよく知っている。全ての大徳は世間の色々な苦しみを経験し、始めて悟りを開き、大慈悲力が備わり、大能力で衆生を利益する。菩薩は衆生を済度するために苦しみを味わい、その経験で彼らを助ける。

私たちは必ず浄相を修めなければ成らない。全ての現象を清浄な心で見る。宇宙の中の、一切の人と事物を拒否しないで全て受け入れる。すべては仏を学ぶ助縁である。分別心があってはいけない。平等心、無執着になると苦しみはなくなる。あらゆる現象の本質は元々清浄で、一切は因縁の法則に沿って変化する。もしこの様な心で考えなければ、終日仏の身近にいても。仏の過失しか見えず、仏陀様の福徳を見られない。

真に心法を円満に学ぶと、上師の行為がすべて清浄の相だと言うことが見え、上師の言葉は全て証で、信ずるに足りるものだと言う事が分かる。上師の笑いや怒り、すべての言葉は是仏法である。上師は一言もむだは話さない、たとえ一言の冗談さえも重要で、一切の言動は仏法を離れない。リンポチェが承諾したことは必ず果たし、それは十分に信ずるに足りるものである。もし現在ある人に因縁がなければ、開示もしない。ただ将来仏法の助けを得ることができるように、縁をのこす。

我々も固い信念をもって、上師が心で受け継いだ真髄を心に置き、心から上師の一字一句の仏法を受け入れて、始めて法脈を続けることができる。例えば、リンポチェは無我の禅定に入り、衆生を代表して法王の仏法をお聞きになる。仏法を聴聞するに当たり、先入観は無い。さらに上師が説く仏法は絶対に信ずるに足りる、と信じる。上師の考えに達しない前は、一切法の如く学ぶべきで、上師の考えを得ても、その一切の行いと言葉を学び、一切の衆生を利益する法を学ぶべきだ。上師が知恵を獲得して福徳資糧を累積している時に、それに参与する事が出来たならば、上師が得た資糧を得ることができる。だが誠実で信ずる心が無ければ、上師からいかなる利益も得られない。

真の修行者は皆その功徳を隠し、黙々とするべき事をなして、他の人に言わず、自慢をしない。凡夫にはその福徳を理解しがたい。しかし巧みな言葉で人を騙す上師は確かに大勢いる。耳当たりのいい話しで相手の欲望を満たし、楽しくさせる。仏経での「愛語」は叱責して問題を直す言葉も含む。愛の情欲にてあなたを満たすものではない。だから、心を決めて、誠実に如法上師に依止することが非常に重要だ。それは諸仏は喜び、上師の庇護を得て、邪魔や悪友達の妨げがないので、仏の道の実証量が自然に増え、各世でよく善知識に巡り会い、しかも必ず悪道に落ちない。上師に百パーセント依止すると、現世及び究極の利益が自然に成就する。いかなる上師も絶対この1世だけで修行し得た者ではなく、必ず如法上師の教を代々受けており、福徳資糧を累積して来られている。

真に上師に依止する弟子には特徴がある。即ち、落ち着いて謹慎なので、揺れ動く心を静めることが出来、広く知恵を増やし、正直な事に対しては一切忍び、上師の呵責には恨みも悔いも無く受け入れ、37頌をよく修めて生活中に生かして、始めて平等な慈悲心を習得することができる。徹底的に十不善を除くことが出来、常に慈眼で衆生を見、平等な慈悲心で衆生に接する。他人の財物を烈火及び悪毒と見なし、直ちに悪業を止めて衆生を傷害する事無し。恒常持続的に上師を供養し、喜んで正法正見を受け入れ、常に世間を出離することを求める。このような弟子こそ、特徴を持つ弟子と称する資格がある。

また、仏典の中にはこうも説く。悲しみと哀れみを備えれば、自然に調伏ができ、沈着慎重に法に従えば密戒を行う。しかも吝嗇せず、絶えず上師を供養して敬うことを欠かしてはいけない。大福報がない者は必ず密法を学べない;強い信心を以って金剛薩埵の戒律を求め、三昧耶の戒律を決して破ってはいけない;金剛性をおいて別の上師を捜さない。金剛上師に百パーセント依止し、全力を集中して、全身全霊を傾けるように仏を学ぶ。上師の恩に報いるには仏法に依って仏を学び、真に生死を解脱して、衆生を利益する事である。また、五つの条件も大切である。それは:正直で、智慧があり、法を求むること渇が如く、誠実で真心を以って敬い、上師の教導を尊重する。このうち三つの条件を備えても良い弟子とすることが出来る。聡明で法を求める知恵があり、上師を敬い、上師に対して退伝しなく精進して、自力で自分を助け、ことごとく善知識を信じる。

弟子の責任は苦労を厭わず上師を尋ね、上師を瞻仰して足りるを知らず、付き添いて侍り、上師の示す一切の善巧方便な行為に対して怒らず、それに拠って悟る。上師を軽んじ貶すのは諸仏を軽んじ貶すに等しく、若し刹那に瞋心を起こせば、善根を悉く砕きて累劫地獄に生を転じ、たとえ呪文を唱えても殊勝な成就を得れず、まだ昇り来ざる功徳は永久に昇らず、既に昇れる功徳も衰え損ねる。また、今世では事順調にはかどらず、後世では悪道無限に現れ、累世善知識に会う事無し。故に善知識に依止する事に比べるて、猶重要な法無し。

荘厳経論の中にこう説かれている。上師の言付けは事・言語に拘らず依止して、百パーセント行えば、上師は心から喜ぶ。我々は甘露四法に従い、我々の心を転じて輪廻より出離する:一、世を貪って留まろうとするは、暇満は得がたいと考え対治する。二、気を緩め怠惰するは、死は無常だと考え対治する。三、善を友にし安楽するは、輪廻の煩わしきを考え対治する。四、我々に暇満の意義を知らせむ故、業力と因果を考える。

暇満の人身が至極得い事を考える。八無暇とは:地獄に生まれる(多数の大小地獄に分かれ、最も重要なのは寒冰と烈火の地獄であり、受ける苦しみが深く、衆生に仏法を聞くことを不可能にする)、悪鬼(飲食共に得られぬ苦しみを味わい、心に火が燃えるが如く、仏を聞く暇がない)、畜生(愚かであり、しかも互いに殺害する)、僻地に生まれる(未開の地である。例えばアフリカ、太平洋の小島などでは上師に会えない)、長寿天(非想、非非想天、仏法を聞く事に考えが及ばず)、邪見(傲慢により生じる、仏教界の中にもたくさんの邪見がある)、仏が世に出ない(例えば天道或は、地球を除いて、その他の三つの星球の人がただ享受するばかりで、仏法が聞こえない)、聾唖(仏法が聞こえず、また仏経を読むことが出来ない。)等の処である。

2009年3月12日

7日間の閉関修行を経て、リンチェンドルジェ・リンポチェは早朝関房を出て、弟子達に関房を出る事を知らせ、また開示した。今回は真の閉関修行とは言えない。ただそなた達に休暇を取らせただけに過ぎない。普段そなた達は自分がよく修行し、呪文を唱える回数は多いと思っているし、常日頃自分は恭しく、よく懺悔をしていると思い、また自分がすでに仏法を学んだ人だと思っている。ディクン・カギュは実修の教派なので、閉関修行をしないで、生死から解脱できる修行者は一人もいない。今度の閉関修行では多くの儀軌をまだ教えていない。多くを教えれば、そなた達を混乱させるからだ。この一生は、普通思っているように、発心し、発願し、「阿弥陀仏」を唱え、供養をすれば三惡道に陥らないと考えるは間違いである。そんなに簡単なら、地藏経で、心を起こし、思いを動かすは、 全て業であり、罪であるとは言わない。この話は死ぬ最後の1秒前まで、悪念が起きる事を指す!多く人は仏法を間違って学び、間違がった道を行く。

今度の閉関は顕密教共に含まれている。法本には、観想、生起、圓満次第を経なくては、閉関修行で「六字大明呪」を10万回唱えても、三惡道に落ち込む事を免れない、とある。多くの人は百万回「阿弥陀仏」を唱えれば良いと思っているが、そんな事は無く、唱える時、絶対に悪念を起こさず、妄念も起こさなくて、始めて三惡道に落ちる事を免れる。だから、そなた達は今最も基本の三惡道に落ちない様にとやっただけである。是も今後の考えによる。考えを間違えればすぐに落ちてしまう!皈依したとか、仏法を学んだとか、懺悔したとか、法師に多くの事を手伝ったとかで三惡道に落ちないと思うのは間違いである。法師でさえ三惡道に落ち込むかもしれないので、ましてはそなた達はなおさらだ?真面目に自分を見据えないで、終日、表相や仮相にごまかされ、大きな仏寺へ行って仏を拝み、それで自分は仏法を学んでいると思い込んでいる。法本には、閉関修行を10万回圓滿して、始めて三惡道に落ちないとあり、生死から解脱するには、40万回唱えなければいけないと言う。そんなに簡単な事ではない。そなた達が閉関修行中唱えた数は、唱える途中で何か雑念を起こせば其の数は勘定に入らない。今度の閉関修行は、一寸試してみて、そなた達に何処に問題があるか見極めさせただけで、まだ三悪道に陥る機会がどれほど大きいかを良く考えてはいない。落ちるのはとても容易なのである、少しでも思い違いをすればすぐ落ちてしまう。

なぜ呪を唱え、観想などが必要なのか?それには必ず原因がある。なぜ上師を必要とするのか?上師が居なければ如何するのだ?多くの人達は「他力」や「自力」に頼ればいいと思っている。 「他力」とは仏の力で、「自力」とは自分の力である。仏の力は「法」、「報」、「化」三身に分かれる。たとえ「化身仏」が救いに来られるとしても、そなたは少なくとも清浄でなくては成らず、「報身」、「法身」に至っては、そなた達の前に現れる事さえ不可能なのである。故に、この七日間の短期閉関はそなた達に自分の問題をはっきり見出させるだけなのである。是でも未だ悟らず、 自分は修行している、自分は仏教徒である、自分は唱えている、自分は三悪道に陥らない、と思うのは間違いである!リンチェンドルジェ・リンポチェは今の程度まで修めても、尚非常に慎んでいる。たとえチェツァン法王よりリンポチェと認められても、ややもすると後戻りをする者も居る。故に上師の導きが無ければ如何にもならないのだ。

そなた達は七日間の閉関で、上師を観想しなければ堪え忍んでいけなく、気が狂いそうになる事が分かったと思う。其れは一般に行なわれている念仏の七日間とは違う。多くの人が七日間念仏をするのは、何かを願い求めているのである。自分が清浄でありたいとか、自分の心掛けが好い様にありたいとか、自分は感応したいとか様々であるが、これ等は外に求めているので、厳格には仏法と言えなく、外道である。今回の閉関はただ始まりで,この数年間自分がどんな所に努力を注いだかが分かったに過ぎない。そなた達の今までの苦労を知らない毎日では、この七日間が過ぎると崩れ折れるだろう。もし、法王及びリンチェンドルジェ・リンポチェが毎日加護をしなければ、こんなに無事に過ごせなかっただろう。そなた達の閉関修行は、リンチェンドルジェ・リンポチェの其れと比べると、まったく貴族の様で、飲食にも事欠かさず、全て法王とリン チェンドルジェ・リンポチェの絶えざる施しによって、初めてそなた達の世話をする人が居るのである。 彼らは大変苦労をしている。だから一切の衆生に感恩し、世話になった人々にも感恩すべきである。リンチェンドルジェ・リンポチェは更に開示して、リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関を終えて関房を出ると、出会った人々を皆本尊と看做す、と仰せになった。弟子達がこんなに優遇されるのは、多くの前因がある。故に絶えず供養して、始めてこの福田を受け取る事が出来る。福田を耕すということは,今後修行する福田がここに有るのか無いのかと言う事である。我が直貢噶舉は実修派で、絶対に妥協しない。耳当たりのいい言葉を聞こうとしてもここには無い。必ず圧力を加え、修行するように仕向ける。 仏陀は衆生が輪廻することを望まない。これは簡単の事ではない。追いつめないといけない。 閉関を終了して帰っても自慢しない事。もし相弟子にそなたは普通と違うと思わせたら、多分、そなたは更に多くの間違いを犯すだろう。今日の閉関はそなた達に 少しばかり修行するという事は如何言う事かを体得させたに過ぎない。今日我等がこの様な安全な場所で安心して閉関することが出来る機会を得たのは、法王の福報のお陰だ。もし、そなた達がラキヘ行ったならば、それは恐ろしくて、夜風が吹いたり草が動いたりすると、多くの人は怖がるであろう。そなた達のこういう閉関に鬼は来ない、レベルが足りないからだ。

そしてリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を引率して法王に拝見し、法王はこう開示された。上師と弟子がここで同時に修行する事は非常に得難い。ディクン・カギュ派は修行する事を非常に重視する。修行と礼拝、念仏とは違う。修行は経験で、心を修める行動だ。舎利子曰く。瞬時の修行の功徳は三千大千世界の宝石を供養する功徳より高い。ジッテン・サムゴンの著書にも修行に関する事が多く述べられている。慈悲心に関して、我々が唱えている「一切衆生が樂と樂の因を持つことを願う」のが慈悲心の解釈である。しかし此れでは修行することが難しい。ジッテン・サムゴンは更に曰く、可愛い赤子を見るときに感じる心、此れが慈悲心である。以上2つの1つは言葉で慈悲心を解釈し、もう1つは感覚で赤子を見るときに感じた心で慈悲心を説明している。故に、修行は感受性と経験の両面がある。大手印と禅宗は高い所で非常に近いのだが、その区別は修行方法の違いにある。

法王は敦煌宝蔵及び大正蔵での、六祖壇経の歴史の精髄を紹介され開示された。それは達摩祖師及びその上師を含む。ジッテン・サムゴンの大手印5支道で、どうすれば妄念を拒めるのかについて説いている。「禅」という字は「示」と「単」の組合せで、単一の思想、単純な思想を表しているの で、多くの雑念があってはならない。当然私達が閉関を始めると、多くの妄想が出てくるのはごく自然な事だ。ある者は自分の妄念が数多と出てくるので、閉関の成果がないと思い、少しがっかりするかも知れない。しかし多くの著作はその様に思うべきではないと言っている。普段これさえ知らなく、考えがどこに行っているかすら知らない。今そなたの心は少し定まり、始めて心の状態がどのようなのかを知る。これは心が少し定まった事を表す。心を定めることを学ぶ時間は、それほど長くないほうがいい。もし座禅を半時間行うとすれば、まずは6回に分け、毎回5分間行う。比較的に定まりを得た後、徐々に時間を延ばして毎回8分、10分 とする。座禅を行うにしろ、止めるにしろ、自分で把握して決めるべきで、妄念に支配されて決めるべきではない。そのコツは回数を多くし、毎回の時間を短くする。此れで徐々によくなる。法王は開示した後、更に自らすべての寶吉祥弟子に貴重な法薬を賜った。

そして、リンチェンドルジェ・リンポチェは法王と別れ、弟子をつれて車でデリーに向かった。

夜、尊き リンチェンドルジェ・リンポチェはインドデリーのインペリアル・ホテルで弟子と夕食を共になされた。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子達に閉関の感想を語らせてから、そなた達に幸福、満足及び快楽を与えられない。しかし、閉関を休日と看做したのでは、この閉関はむだになると訓示された。各弟子の話は全部自己の問題ばかりで、普段リンチェン ドルジェ・リンポチェが教える四無量心を思い付いていない。閉関をする前にすでに注意したが、慈悲心から出発しなければならない。ただ自分の身内や 少数の者だけを思い付くのではない。しかしそなた達はまだ分別心があり、分別心があると慈悲が見えず、慈悲が見えないので仏法も見えない。そなた達は疑ってもいいが、仏法及び上師を疑うのではなく、自分の感情がなぜ慈悲心に変わらないのかと疑うのだ。

各弟子の会得した事はすべて参考にする価値がある。と言うのは、皆がすべて同様な問題があり、ただ各自の程度が異なっているだけだ。各人はこの一両日に気を静めて、何のために閉関したのかを良く考えなければ、ただ時間と金銭を浪費しただけになる。この51人は閉関に来たが、多くの人は来れなく、また法王とリンチェンドルジェ・リンポチェの加持がなければ、そなた達はこの閉関ができない。事前に多くの供養布施の絶えなき準備がなければ、そなた達はこのように行き届いた7日間の食事と宿泊が有る筈が無い。この度は弟子によく自分が何を修めたか、どこが間違ったかを見極めさせるためで、リンチェンドルジェ・リンポチェの標準から見ると、これは閉関とは言えなく、その表をなぞる事さえ出来ていない。法王がリンチェンドルジェ・リンポチェにさせた第1回目の閉関は1ヶ月で、それに今度このように心地良いものではなかった。しかも、この度はリンチェンドルジェ・リンポチェがわざわざインドで気候が最も心地良い三月を選んだ。

仏を学ぶにはよく話を聞く事から始まる。聞いて分かる事や、有用な事だけを選んで聞くのではない。上師がそなたに教える事は全て役に立つ。色々な人が色々な法門を説く。但し、ディクン・カギュ派はただ着実に自分を改める事から始める。チェツァン法王が今朝も開示されたが、ただ経文を唱え、仏を礼拝して、拝懺するだけでは修行でない。修行は自分を改める事である。チェツァン法王の開示とリンチェンドルジェ・リンポチェが平時開示されている事は同じであり、仏法がただ一つであることを示す。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子にそんなに厳しいのだろう?リンチェンドルジェ・リンポチェの20年余りの修行は、苦しみ抜いて修めた結果で、口先で話して得た結果ではない。漢人が密法を学ぶには色々な困難を克服しなければならない。学びたければすぐに学べるものではない。チェツァン法王はこのようにリンチェンドルジェ・リンポチェを訓練なされた。それ故に、リンチェンドルジェ・リンポチェも同じように弟子に厳しくする。これがリンチェンドルジェ・リンポチェに役立ったのであれば、弟子にも役立つ。もしリンチェンドルジェ・リンポチェが弟子にもう少し優しくすれば、弟子が今より多くなるであろう。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは力を尽くし、命を掛けて弟子を教えている。現在、寶吉祥道場の名声は素晴らしいものがある。それはディクン・カギュ派で最も厳しい道場の故である。リンチェンドルジェ・リンポチェはチェツァン法王が苦心して育て上げたのである。若しリンチェンドルジェ・ リンポチェが良い弟子を育て上げなければ、チェツァン法王に申し訳無いのである。よって、この度の閉関はただ開始であり、将来には多くの閉関があり、また今回の閉関を参考にする。

故に、そなた達は何のために生きるかを良く考えなければならない。衆生を済度する等は先ず差し置いて、そなたが生きていて衆生に些細な利益があるのか?自分を改めて、更に身の回りの人に良い影響を与えられるのか?と考え、他人の模範となり、利己主義に陥らず、犠牲奉献をしなくてはならない。

2009年3月14日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石会社で、信眾のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009年3月15日

尊きリン チェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターにて共修法会を主催した。これはリンチェンドルジェ・リンポチェがインドデラドンヂャンチュウブリン寺で第十回の閉関を円満なされてから、台湾に帰った後の第一回目の法会である。床の上に八吉祥布と花を敷き、経幡と法楽器に導かれた盛大なお迎えの下に、リンチェンドルジェ・リンポチェは道場にお入りになり、升座してディクン・カギュ派の殊勝な「上師供養法」を主法された。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示はこうである。顯教には上師供養法は無いが、チベット仏教では上師は十分に重要である。上師が無ければ、一糸一毫たりとも成就し得ない。法王この度の開示はリンチェンドルジェ・リンポチェの開示と同じで、リンチェンドルジェ・リンポチェの教法を肯定するものである。即ち読経、拝懺すべて修行ではない。修行では、必ず上師の指導と間違いの是正が要る。修行の最大な問題点は独りよがりであり、我慢である。己が全てを知っていると思い上がるが、それは間違いである。上師は時々刻々我々を見守っている、それは諸仏菩薩の御光が、常に衆生をあまねく照らすが如くである。ただ衆生は、貪、瞋、癡が清らかな心を覆っているので、仏の光が見えないだけである。もし、弟子が上師を離れ、上師を放棄すれば、上師は彼を連れ戻さないだろう。 仏もそうだ。縁が切れたからだ。ある人は苦難に会えば上師に近づき、苦難が去れば上師を離れて行く。このように貪念で仏法を学ぶ人は、即ち仏法と縁がない人で、縁がない人は上師の助けが得られない。ある弟子の父が往生した時、リンチェンドルジェ・リンポチェに済度を願いでた。リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐ呪文を唱えたが、途中でどうしても続けられなくなった。それはこの弟子の父が始めてリンチェンドルジェ・リンポチェに会った後、上師を批判した事があり、其処で縁がなくなった。これから分かる様に、「縁」は仏或いは上師が作ったのではなく、自分で作ったのだ。真の苦しみは三惡道にあり、リンチェンドルジェ・リンポチェが何故このように厳格であるかは、三惡道の苦しみを見たからである。聞き伝えたのではなく、如実に見たからだ。私達が生生世世で累積した悪業では、三惡道に落ちる事は容易い。一度落ちれば、出て来るのは非常に難しいのだ。

ガムポパ大師曰く、ある人達は「六度万行」の法門を修むるを仏を学ぶとする。六度とは六波羅密、即ち布施、持戒、忍辱、禅定、精進、智慧を修行する事を指す。万行は一万回だけ修行するのではなく、絶えず修行し続ける。この法門によると三阿僧祇刧を経て始めて成仏が可能になる。これは数十億万年と言うとてつもない長い時間である。またある人達は断道の方法で修行する。つまり不浄観、慈悲観、因縁観により悩みを断ち切り、また貪瞋癡を断ち切る。この方法で修行すれば確かに成仏するが、よく意を得て慢心に陥り、勝義と世俗の二諦が不二の証を得るのが難しく、もし上師の指導がなければ、自分では何かを断ち切っていると思っても、実際にはただある執着から別の執着に換わり移っただけになる。カジュ派のカジュとは口伝であり、上師と弟子が口と耳で伝承する親密関係を重視する。事仏法であれば、1字1句すべて上師より口伝され、口伝されなければ修める事が出来ない。それは、仏を学ぶ心の持ち方が汚されたり、何かを求めたりすると、 仏経を見る目にも誤解が起きるからで、カジュ道場で厳しく口伝を守っている所以である。釈迦牟尼仏も口伝で以って弟子を教えている。仏法の経、律、論は 後の時代に出来たものである。上師が伝法する時、心は清浄で、弟子が何も求めない心で聞けば加持を得られる。法王が仏法を口伝する時、リンチェンドル ジェ・リンポチェは清浄な心で入定し、衆生を代表して聞く。仏の言葉、教えと与論は、すべて私達が成仏する為の教えだ。それも経験を数多く積んだ経験者の 指導がなければ、重点を系統だって押さえる事が出来ず、よって成就できない。上師は我々のために余分な枝葉を取り去ることが出来る。厳しい教え方は,直接人の心を捉えることの出来る教え方である。今は人の寿命が減っている段階で、未来の寿命はもっと短くなる。仏と上師を信じない人は、人間の寿命が一番短い時代に生まれる。

衆生はもともと仏陀と同じ清浄な仏性を持っている、だが我々はすでに高低、長短、善悪などと分ける二元論に慣れてしまった。密続修法によって、一切が本来は無二だという証が得られる。大印は四禅八定を超越し、入定出定を超越するもので、大手印は時々刻々定の状態にある。大手印のやり方では、上師は直接弟子にどのようにするかを教え、廻りくどくない。この度インドで法王も開示なされたが、禅定は座禅時間の長短より、禅定の質のほうが大切なのだ。定を修めるのは死ぬ時に欠かせないので、何分間だけで十分だ。大手印の禅定はその修める過程や使われる法門要領が禅宗と異なっている。この度、リンチェンドルジェ・リンポチェは51人の弟子をインドへ連れて行き、閉関させたが、その中には癌、糖尿病など各種の病気に罹っている者もいたが、全員平安息災に帰って来られたのはすべて上師の加持による。

リンチェンドルジェ・リンポチェは上師の重要性を開示した後、上師供養法を修め始めた。引き続いて、来週金剛薩埵の灌頂を行い、「不共四加行」を伝える、と指示した。「不共四加行」はチベット仏教で顕から密へ変わる必修の過程なのだ。「共四加行」は仏陀49年間の説法の重点であり、真髄である。仏陀の説法の目的は皆の病気を治したり、苦悩を解決したり、快楽を得たりする事を手伝うためではなく、生死を解脱するためだ。仏がやり遂げたい事を、私達もやって、始めて仏と相応する。死後どの道を行くか、実は死ぬ5年前にはもう分かる。しかし因縁があるならば、やはり善から悪へ、悪から善へと変わる可能性がある。だから、この5年はとても大切で、そして上師もとても大切なのだ!善道に往生したら、死ぬ前に苦痛がない。寝ている間に死んだり心臓麻痺で死んだりしては、三善道に行くことがあり得ない。輪廻は仏陀の発明ではなく、宇宙の自然法則なのだ。修行しても輪廻を断つことを決心しないと、修行は何にもならない。たとえ生々世々仏法を護持することを発願しても、誰も次の一世で必ず仏法を修める家庭に生まれることは保証できないだろう。どの父母の間に生まれるかは、この世で結んだ縁次第だが、私達は今世で結んだ縁が全て善縁だと知る事がどうして出来るのだ?念仏だけで、五戒十善をやらない者は、阿弥陀仏の浄土に行く事が把握出来ないので、99.9%輪廻に落ちる機会がある。だから、やはり上師の教えに従い、自己に頼って、着実に修めるしかない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続き開示された。ポワ法だけは深い禅定がなくても生死を解脱できる。ポワ法を修めると、亡くなった時の生理と心理の反応が分かる。六道有情衆生が死亡する時の心身状態は皆同じだ。それを経歴すると死亡を恐れなくなり、生死を解脱できる。それで生死自在に浄土へ行き、それを望むなら再び胎門を選んでこの世に生まれ、願いに従って転生して衆生を救済する。生死解脱までを修めないと、自分の生死を完全に把握できない。将来は唯業に随って生まれて来るだけで、何処に生まれるかはわからない!読経、拝懺は良くても天道までしか修められない。釈迦牟尼仏も忉利天までしか仏法を説く事が出来なかった。何故ならば、他の天道にいた人は長生きで、毎日生活を楽しんでいて、仏に仏法を説きに行くことを求めなかった。もし僻地に生まれれば、尚更仏法を聞けない。ポワ法は蓮師が阿弥陀仏浄土へ法を求めて得たので、元々広く伝承しなく、リンチェンドルジェ・リンポチェも軽々しくポワ法を伝えない。それは福徳因縁がない弟子なら、伝えても修められないからだ。法王にアメリカ人の弟子があって、六十歳近くになって始めてポワ法を学びだし、約十年、亡くなった時は壇城の前に座って往生したのだ。

仏法の定は外道とは違い、知恵を具えない定は仏法の定ではない。宇宙の真相―縁起性空を体得して、始めて知恵を具える。仏法を体験するには相当な努力が要る。だから、毎回法会後は、静かに聞いた仏法を詳しく考えるべきである。リンチェンドルジェ・リンポチェは一介の漢人であり、転生したのでもなく、幼い頃から仏法を学んだのでもないが、法王にリンポチェを認証されたのは「従順」で自分の考えが一切ないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは2007年ラーキ雪山で3ヶ月間の閉関修行を行ったが、その間、法王にも会えず、自分に頼って来たが、日常上師のお話を全てはっきり覚え、又全て受け付けていたので、このとき初めて活かすことができた。

四加行はチベット仏教で必ず修めるべきで、系統的な教法がある。共四加行は声聞縁覚、大乗小乗の全てに適用される。不共四加行は阿羅漢果を修めるには不適当だが、菩薩道を修めるには適当であり、金剛乗の下地となる。不共四加行の第一は懺悔であり、第二は礼仏である。大礼拝は必ず五体投地を行い、それは我慢を破る。我々は塵埃より小さき者であり、我慢や驕りを破らなければ、慈悲心は起こらない。慈悲心がなければ仏法がない。四加行を法に従って円満に修めれば、必ず瑞相がある。リンチェンドルジェ・リンポチェがその例である。弟子達が変わらないのは心を入れ替えない故で、大礼拝がただの運動になってしまう。

インドでは皆がリンチェンドルジェ・チンポチェを動く活き百科全書と称している。リンチェンドルジェ・リンポチェは宇宙万象のあらゆる事を知り尽くしているが、ただ全ての理論名詞を学んで覚える時間がないだけであり、何を知るにも容易いのである。

2009年3月18日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009年3月20日

夜7時, 尊いリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法中心の道場で殊勝な施身法を主催された。リンチェンドルジェ・リンポチェは次の如く開示された。「施身法」はチベット仏教の八大成就法の一つである。「成就法」は、法により絶えず修行し続ければ、必ず生死を解脱することが出来て、輪廻に落ちない法である。「施身法」は断つと言う事だ。例えば悩みを断つ。悩みは多すぎる欲望故に生まれる。欲望が少なければ、比較的に悪さをしない。仏も因果に背く事は出来ないし、我々の業を変えることも出来ない。出来る事はただ我々にどの様にして生死から解脱するかを教えるだけである。仏陀が49年間仏法を説いたのは、ただ一切有情衆生を生死から解脱させる事を助けるためであった。 我々が法会に参列するのは、健康、欲望の満足を求める為ではなく、寃親債主らに代わって参列するのだ。我々と生々世々親族関係にある寃親債主は、我々が彼等が苦痛から逃れるのを助けなければ、彼等は恨むだろう。父母は我々にとって最も親しい人であり、一世毎に父母があり、もし或る人が一万世輪廻したとすれば、二万人の父母が輪廻の苦しみを受け、二万世であれば、四万人の父母が苦しんでいる事になり、累世の父母は苦難に逢えば、当然最も親しく縁が深い人に助けを求め、無縁の人に苦しみを訴える事は無い。故に夢の中で追い駆けられたり打たれたりする不吉な悪夢を見たり、あるいは家族と話が合わない、訳の分からない病気に罹る等に出会うのは,家族がよく済度されてないので、そなたにサインを出しているのである。それは、父母が病気になると、まず一番身近な子供達に病院へ連れていってもらうのと同じ道理だ。その他に、累世の父母と因縁があり、その傷害を受けた事が有る者も、一緒に尋ねて来るだろう。それで、高血圧、心臓病、糖尿病、癌が起こる。なぜ先祖の殺業が我と係わりが有るのか。実は、自己に殺業がなければ、この家庭には生れて来ないのだ。先祖の殺業が重い家庭は、必ず病に罹りやすく、短命、家族の離散、願いは叶えられない等の不祥事が起こる。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこう言う様な例を挙げられた。ある友人の父は狩猟や猟鳥が好きだったが、 その後中風に倒れ、両手は鳥の羽のように胸の前に縮みこんだ。彼の母は転んで骨盆を骨折し、座ることさえ出来なくなり、鳥が負傷した後地に這う様に、地面に這う事しか出来なくなってしまった。この友人自身は脳血管が破れて亡くなり、二人の妹は未婚で、家族は断絶に瀕している。一口食べれば一口返さなければ成らない。つまり、我々が食べたものが我々を苦しめている。菜食に換えたとしても、ただ続けて悪事を働くのを止めたに過ぎず、過去に犯した罪は、やはり償わなければならない。血を一滴流しただけでも殺業に繋がる。修行者は悪い事が起こる事を恐れない、何故ならば罪を償っているからだ。例え、癌を患ったとしても、これで生々世々の罪が償えるかも知れないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗てこう申された事が有った。人が他界する5年前には、もうこの人が他界した後六道のどの道へいかが分かる。もし、その間苦しみ、手術を受け、問題が多ければ、地獄道へ行くだろう。他界する5年前にはこれから行く道の暮らしを始める。それはあたかも我々が移民する時、先ずパスポートを用意し、この国の言語、文化などを学び、将来の暮らしに備えるのと同じである。

仏陀は前々から我々に衆生の肉を食べないように勧めているが,台北のある有名なキリスト教病院でさえ、醫者、看護婦、患者まですべて菜食をしている。肉を食べると言う事は、仏を信じない事で、仏に祈願しても、ただ仏に助太刀を求めているだけだ。菜食をする事は修行する事ではないが、少なくともそんな酷い事はするべきではない。

仏法は慈悲を説く。愛情ではない。愛は特定の対象がある。例えば、ある者は自分が養っているペットをとても可愛がるが、他の動物には、これっぽっちの感情も無い。ある者は、野良犬や野良猫を収容している。共に特定対象があるが、ではなぜ浮浪人を収容しない?彼らは可哀相ではないのか?例えば、ある宗教の神はただ彼を信じる者のみを保護し、信じない者は見捨てたり、排斥したりする。これ等は慈悲とは違う。「慈」とは良いものを苦しみに逢っている衆生に与え、自己の楽しみで衆生の苦しみを換える事で、「悲」とは衆生が苦海から逃れ出るのを助ける事である。施身法を修める上師は無縁大慈、同体大悲の境地まで修行する。「無縁大慈」とは縁がない人も、慈悲の心で助けると言う事ではない。仏はすべての衆生を済度し尽せない!縁がない衆生は仏でも済度できない!ここで「無縁」と言うのは、仏菩薩は執着しない心と、縁生縁滅の空性知恵にて大衆を済度するのである。どんな人か、どんな信仰か、良い人か悪い人か、お金が有るのか無いのか等を気にしないで、仏法の平等を保つ。無縁が出来て、初めて「慈」が現れる。「大」の意味は普く済度する事で、普くは普遍の意味ではなく、宇宙の一切の衆生であり、普く済度とは六道の一切衆生を助ける能力があり、人を手助けする事しか出来ないのでは無い。「同体」とは衆生の本体が仏菩薩と同じく清浄であると言う事だが、仏には煩悩が起こらず、菩薩は煩悩を菩提に代えて、駆け引きも無く衆生を助けている。人間には何故それが出来ないのだろう?人間の清浄な本性は貪瞋痴などの欲望で覆い隠されている。故に仏菩薩は仏法で衆生の汚染を清め、それから人を済度される。無縁大慈、同体大悲の境地に到達するには、長期間の訓練を要する。

凡夫には衆生の輪廻の苦しみが体得できない。だが天道、阿修羅道、餓鬼道、地獄道などの衆生の感度は人類の百倍、千倍、1万倍もあるので、特に三悪道で苦しんでいる衆生は、彼等の手助けが出来るのは誰か、また出来ないのは誰かをはっきり知っている。だから皆がこの施身法の法会に参加しに来るのは、実は因縁がある歴世の怨親債主がそなたを押して来るのである。彼等はリンチェンドルジェ・リンポチェの施身法が彼等を手伝う事が出来るのを知っているのである。ある重病患者が病院でリンチェンドルジェ・リンポチェの「懺悔」法門のカセットテープを毎日聞いていたが、一両日休んだ事があった。すると幽霊が二人現れ、彼に懺悔法門カセットテープを引き続き聴く様にせがんだ。此れからも分かるように、仏法はただ人間だけが聴聞しているのではない。カセットテープさえもこの有様だから、法会に参加するに至ってはなお更の事である。衆生を済度するには、慈悲及び功徳をすべて備えなければならなく、知恵の功徳を通じ、無比なる慈悲力を加えて、始めて六道衆生を苦海から離れる事を手助けできる。施身法は20年間ぐらい修行をしないと習えないし、習っても修められない。この法は大般若経に依るものだが、知恵すなわち空性を必要として、空性を体得していないと修める事が出来ない。慈悲の空性にて自身の肉体が甘露に化すと観想し、衆生に布施をする。施身法に参加する者の心が清浄ならば、衆生がリンチェンドルジェ・リンポチェの体を食べる所を見ることが出来、さらに体が見えなくなるまで見る事が出来る。施身法はポワ法と密法を含んで、その一つは自分で修め、呼応を得るまで修めた後に、始めてもう一つの衆生を度する施身法を修める事が出来る。

仏経曰く、地獄道の衆生の数は雪の日の雪が如く、畜生道の衆生はガンジス川の砂と同じように多く、人道の衆生は一握りの砂に過ぎない。今人間の数がだんだん多くなって来ているが、それは三悪道から復讐しに来ているからである。歴史から見ると、数多の国はほとんどすべてが嘗て壊滅的な戦争を起こしている。ただインドだけがそれを免れている。今の所仏教はインドで式微しているが、インドの他の多くの宗教もすべて信衆に菜食を勧めている。だからインドで大地震、火山大爆発等の災難を聞いたことがない。いわゆる動物を野に帰すとは、殺生しない事である。今世で肉が好きなのは、すべて過去世の畜生道から持って来た習慣であり、この様な悪習は直さなければならない。今仏法に触れる機会があるので、仏の忠告は聞かなければならない。そうすると、仏法、仏菩薩、衆生の縁を続けて保つ事が出来る。

「食べ放題」に行くことが好きな者が居るが、それは福報を損なう。吐くほど食べて点滴に行っている、これは体によくない。昔は7分ぐらい食べるのが一番だと言い、福を残して後で使う。ある者は死ぬ前には何も食べることができない。それは食べる福を使い切ってしまって、餓鬼道に堕ちるのである。今世、この世に生まれてきて、命が永くても短くても別に構わない。これから生きるのが20年であろうが2年であろうが同じ事なのだ。要は衆生からの借りを返す時間が有るかどうかだ。今世の最大責任は、借りを返し、恩に報いることだ。衆生に借りが無ければこの世には来ない──大菩薩が再び衆生を度しに来るのでない限り、ここに居るそなた達は皆借りが有る。故に参列した一切の法会を通して、全ての借りを返さなければならない。「開示」の「開」は本々備わる清浄な智慧を開く事で、「示」は仏菩薩が宇宙の一切の事を示現させる事だ。殊勝があり、苦しみがあり、等等各種の状態がある。仏は悪業にはどんな結果があるかも示現する。仏菩薩がそなたを助けると信じれば、必ず助けがあるので、仏菩薩にどの様に助けてもらいたいかを限らない事。また賄賂を使わず(例えば仏菩薩が私に手助けすれば、私は菜食します、と言うような事)、脅しも使うべきではない。何時頃に助けが来るのかも重要ではない。我々の悪事も一両日で為した物ではなく、解決にも時間がかかる。仏法は薫陶するのである。故に、決心がなく、辛抱も出来ず、根気が無い者は、仏を学ぶ事が出来ない。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏を学ぶに当たり、非常な決心と意志力があり、また十分に根気があった。さもなければ、ラチ雪山の人跡果てる所で、3ヶ月も閉関できない。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏が必ず衆生を助けると信じ、人間の事がいかに小いかと思っている。三悪道の苦しみが分かるが故に、それに比べ人間の事など取るに足らないと知るのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは2007年ラチ雪山で3ヶ月の閉関の折、六道衆生が輪迴の時に受ける苦しみを一度見た。そして悲しみの余り、丸一日慟哭したものだ。ミラレパ尊者はかつて、六道輪迴で衆生が受ける苦しみは、考えるだけでも恐ろしいと言われたが、それを見たのでとても恐ろしかった。本当に極めて苦しいのだ。我々は六道の中で何世も輪迴し、仏だけが我々が無きから始まって、今に至るまでの各世を知っている。リンチェンドルジェ・リンポチェたりとも全ての世の事は見えない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは次の如くを提示された:法会に参加すると、良い事悪い事が起こるが、それは全て良い事である。これは、仏法の意義を了解して始めて求める事ができる。心中衆生が苦海を離れる事を願って、始めて仏菩薩と相応する。法会後に起こった事は全てが良い事だと信じ、予め立場や範囲等を考える必要はない。もし起こった事が我々の希望に沿わなかったので、仏法の力は霊験あらたかでないと言うのは、仏を誹謗する事である。リンチェンドルジェ・リンポチェは今回の閉関の前に、足先に鬱血が起こるほど打たれたが、かえって楽かった。借りを返せるからである。リンチェンドルジェ・リンポチェは今でも借りを返しいる。そなた達は仏の話が耳に入らない、欲求があるからである。もし聞き入れれば、代々關連の眾生に対して助けがある。

今日、この様な1千人余りが参列する密法の法会は得難い。これは諸仏菩薩、護法が認めた事を表す。多くの仏寺は信衆を集めているが、寶吉祥道場は弟子を集めている。何度か法会に来た後、たとえ再び此処に現れなくても、やはり仏法を教えた事になる。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示は受ける事だ。心が乱れるならば、考えなさい:「未だ数多の衆生は法会に参加できる福報がない、我々は心の中で、我々が法会に参加したので、衆生が助けを得た事を願う;衆生が苦しむのと、我々も良い暮らしが出来ぬ。我々は衆生の中に一つの細胞であり、彼等を代表して法会に参加しているのだ。このように考えると心の乱れが少なくなり、これが慈悲心の訓練である。毎回の法会に参加する事は非常に重要である。何故ならこの中で戒、定、慧を修めているからである」。

2009年3月21日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。

2009年3月22日

尊きリンチェンドルジェリンポチェは台北寶吉祥仏法センターで殊勝な金剛薩埵灌頂法会を主催された。また信衆51名の皈依を受けて弟子とされた。リンチェンドルジェ・リンポチェは次の如く開示された。顕教には灌頂がない。灌頂と言うのはそなたにこの本尊の法門を修める権限を与える事である。修める仏、菩薩或いは護法はそなたの本尊である。灌頂の意味は国王が王子に王位を伝える如きである。インドの古代国王は宝瓶で以って清潔な水を王子の頭に注ぎ、王子が王位を継いだ事を表した。つまり、仏法の灌頂とは仏陀の仏法を継ぎ、更に広める事である。灌頂の第一要因は灌頂の本尊であり、第二はリンポチェの果位を持つ上師である。福徳が足らない上師では、灌頂を与えられない。灌頂を多く与えると自分も傷つく。密法の修行は果乘から修める。すべての衆生は本来成仏の条件を持つ。しかし、成仏の条件を見出すのは簡単ではなく、鉱石の発掘の様に鉱坑の奥まで採掘するし、また研磨などの処理をしなくてはならない。採鉱の資格を持つ者は少ない。リンポチェも大小リンポチェがある。大小の区別というのは年齢とか転生したかどうかではなく、修行の功徳が現れているかどうかである。灌頂と口伝を受けないと呪文を唱えても究竟の境界を得られない。つまり、その呪文を修めても解脱ができない。

上師五十頌に曰く、上師の灌頂、口伝を受けた後、上師に対しての恭敬心は永遠に不変でなければならない。一糸一毫の不恭敬でもあれば、上師からの加持力はすぐに途絶える。密法を学ぶ者は上師の教えと導き、監督がなければ、修行は不可能だ。本尊と上師の加持がなく、ただ念仏と懺悔だけで、自身が一生なした業を解決することはできない。灌頂を受けた後、上師に対して猶誹謗することがあれば、罪一等を増す。それなので、リンチェンドルジェ・リンポチェは軽々しく灌頂を行わない。灌頂を得た後、続けて修行して始めて用を成す。そうでないと、リンチェンドルジェ・リンポチェのある友達のように、千個の灌頂を受けても、自身で解脱することが出来ない。

灌頂を与える上師は、自身が必ず密法を完璧に修めなければならない。それに、彼の上師の許可を得た後、始めて他人に灌頂することができるようになる。リンチェンドルジェ・リンポチェは今回の灌頂のために、今日の午前中に、先ず道場に来られて預備法を修めた。つまり、事前に充電するとのことだ。さもないと、千名に近い人に灌頂をすると、傷害を受ける。

我等は一切有情衆生に利益するため灌頂を受け、菩提を円満に成就する。もし動機が自分のためならば、何の役にも立たない。ある身体障害者が、法会を通して自身の問題を解決することを望み、他人が自分に良くする事を望むのであれば、それは正しい心の持ち方ではない。体に障害が有ると言う事は、衆生に借りが有ると言う事で、ことごとく自身がなせる業である。故に大懺悔心を起し、衆生を代表して借りを返すのである。「菩提」とは一切自身の為ではなく、衆生の為だ。浄信とは因果を深く信じ、現れる一切の果報に対して、いかなる快楽または苦痛の感覚もないを言う。灌頂を受けるときに、不信とか、仏法を求めないとかの心や、ぼんやりしたり、この法は実行することは難しい等の考えがあってはいけない。これは金剛乗の威儀である。

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは金剛薩埵の灌頂を始め、法座より降りて寶瓶で自ら900名余りの信衆と弟子達を一人一人灌頂なされた。そして、開示されて曰く:身灌頂を得ると、この身に蓄積された悪癖が全て清浄され、化身仏の縁を成就する。語灌頂を得ると、言葉に蓄積された悪癖が全て清浄され、報身仏の縁を成就する。意灌頂を得ると、思想に蓄積された悪癖が全て清浄され、法身仏の縁を成就する。

金剛薩埵は普賢王如来仏の報身仏で、報身仏は菩薩を度するのである。菩薩まで修行するには、生生世世の業障を清めなければならない。もし人天福報を求めるならば、読経したり懺悔したりすればそれでいい。しかしそれでは人道或いは天道に転生することしかできない。更に願に乗って再び来ることを望むならば、必ず金剛薩埵を修めなければならない。密法を修める者はすべて金剛薩埵を必要として、死ぬ時も金剛薩埵のお助けを必要とする。金剛薩埵もポワ法を修める本尊の一方である。金剛薩埵の真言「百字明呪」は10万尊の仏の真言で、真言は本尊仏、菩薩、護法の一切の功徳、事業などを代表する。経典は常に仏を憶念しなければならないと言っており、真言を唱えるのは仏の功徳、事業、願力、慈悲を億念する事である。もし私達が我欲の為に仏を思うならば、仏はそれを知ることができない。懺悔の心で仏を思って、仏ははじめてそれを知る。不共四加行では、10万回の百字明呪を唱えれば、億万回の仏の真言を唱えることに等しいので、効果はとても速い。本尊と上師を無二無別と観想し、灌頂時に、共に灌頂を受ける金剛弟子兄弟も壇城の本尊であると観想する。

金剛薩埵は杵や鈴を手に持ち、髪の毛は青い。仏部の本尊の髪の毛はすべて青色である。そなた達は金剛薩埵の灌頂を得て、今日から仏果を成すまで、常に金剛薩埵を本尊とし(本尊はただ一方とは限らない)、心から力を尽くして呪を唱え、身口意は一切の不善を捨て、力を尽くして善を行い、法の如く受持ち、自己の富と善根は全て本尊及び上師に供養すると誓う。我々は本尊及び上師の眷属であるから、当然供養すべきであり、それでもって始めて上師の善行の功徳と共に居る事が出来る。呪を唱える功徳をすべて上師に供養し、成就を得るために自身を捧げて受用さす。それで今後我々の命の中には只上師本尊及び仏菩薩が存在するのみ。我等未来の体の転化は上師の助けに頼らなければならないため、上師がないと、自己は既に死に至ったかも知れず、故に体は自分の物ではなく、この体を利用して仏法を学び、衆生を利益すべきであり、業報身はあまり大切にする必要がないのである。

灌頂が円満した後、リンチェンドルジェ・リンポチェは50余名の信衆のために、皈依儀軌を行われ、皈依の利益を次の如くを開示された:「仏教徒になり、戒律の拠り所とする。非人は傷害するをあたわず。一切の罪業は軽くなり、更に消滅する。心に多くの福徳資糧が増え、死後悪趣に落ちず、心に殊勝な道が昇り、仏果を証するまで修行す」。皈依後、注意すべきは:「天神を頂礼せず、有情を殺害せず、外道に依止せず、三宝を見れば敬い、皈依の戒律を捨てず、時間どおりに供養する」。<根本毘奈耶>では、次の如く開示する。もし皈依弟子が:「因果を信じなく(懺悔すると無事になると思う)、怠惰、悪口(特に上師を誹謗する)、考えに恥を知らず、悪知識に近づく(解脱の道を学ぶ事を放棄する)」等五つの事柄をすれば、上師は:「共に語らず、教授せず、共に受用せず、共に善事するを許さず、同室を許さず」等の五つ事柄で対応する。もし:「上師と争う、上師に奉仕せず、上師を敬わず、上師を褒め称えず、上師に頂礼せず、護法を軽視し罵る、上師の功徳を褒め称えず、上師と親しくならず、上師に怒りを持つ」等があれば、加持を得られない。必ず五戒を守るべし、即ち:「不殺生、不偸盗、不悪口、不邪淫、不飲酒」。一つの戒律を守る毎に、戒神、護法がそなたを保護する。そして三悪道に輪廻することが火の海の苦しみを受ける事を常に考える。皈依儀軌は簡単で厳かであり、奥深い意味を含んでいた。

最後にリンチェンドルジェ・リンポチェは新たに皈依した弟子に「ディグン・カジュ派の不共護法アチ・チュードゥル」を口伝された。アチ護法は祖師ジッテン・サムゴンの祖母であり、彼女の両親が子供を求めるために、青海から歩いてネパールに至り、釈迦牟尼仏の仏塔を回り、夜仙人を夢見て、アチを孕まれた。アチは自分で在家ヨギーの主人を選び、それから伝えて孫のジッテン・サムゴンがお生まれになった。護法は仏法を保護し、修行を助ける。アチ護法はすでに仏果を修めた智慧型の護法であり、ディグン・カジュの弟子を守る誓いを立てたが、真の弟子だけを保護する。お茶を護法に供養した後、自分では飲まないで、衆生と縁を結ぶため、下水道に注ぐ。それに触れた下水道の衆生は、より早く畜生道の苦しみから解脱できる。

2009年3月29日

台北の寶吉祥仏法センターで弟子と信衆は恭しくリンチェンドルジェ・リンポチェが2002年12月22日に開示された 「仏法は聴聞し難し」の録音テープを傾聴した。リンチェンドルジェ・リンポチェは先ず次の如く開示された。道場では、在家者は永遠に出家者の前で出家衆に背中を向けて壇城に頂礼してはならない。礼儀正しく先ず出家者に譲り、出家者を尊敬するわけである。彼らはこの世のすべてを捨てて、出家相を現し仏法を学びに来られているからである。道場に食べ物を持ち込んではいけな い。他人の子供を見れば、お互いに気遣ったり世話をしたりしなさい。他人に対しての礼儀を知るべきである。今日人身を得られ、累世の福報を持って此処に仏法を学びに来られた。大切にしないと、いつまた来られるか誰も知らない。リンチェンドルジェ・リンポチェでさえ400年以上の月日を隔てて、始めて再び来られたのである。しかも過去世でどれほど修行をしたとしても、今世では37歳になって、始めて再び仏を学ぶ事が出来たのだ。もし善知識の指導が無ければ、今世も無駄になるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に「仏を学ぶ事は生涯最も大事なことで、何よりも大切である!」と皆さんに諭されている。私たちのこの世の所謂名利、家庭、子供等は、すべて因果と因縁の法則による、そなたが仏法を修めるかどうかとはまったく矛盾しない。仏を学びに来ると、そなたの事業や家庭などに悪影響を与えるとは思わないこと。仏法を聴聞する場合、 清浄、期待、希求の心で聞くべきだ。一人が仏法を聴聞に来ると、世々代々の親族と冤親債主も一緒に聞きに来る。百倍、千倍を超える衆生が聞きに来てご利益を授かる。もし皆の心が一切有情の衆生の生死を解脱する為ならば、この法会の力は虚空に遍き、六道、十方法界一切の衆生は仏法を聴聞することが出来る。

リンチェンドルジェ・リンポチェは「37の菩薩の実践」を詳しく釈明されて、もし皆が着実に此れを修め、「37の菩薩の実践」を仏弟子の指標としなければ、必ず悪事を働くだろう。考えが善くなければ(他人に利益しなければ)それは悪である。あらゆる善知識はすべて衆生が生死から脱離することを望んでいる。呪文を唱え、法会に参加し、拜懺をしても、それはただ福報を累積するだけで、生死を解脱できない。本当に生死から解脱するには、まず己の矜持を捨てて、始めて生死の関門を破り、また徐々に輪迴の苦しみが何処に有るかを理解する。もし捨てられなければ心の中の世界で仏法を体得する事が出来ない。そなた達は累世の習慣で“私”の観念に固執し、捨てきれなく、又変え難い。それで釈迦牟尼仏は49年も地球で仏法を説き、さらに多くの大菩薩、大徳がこの数千年の中で絶えず仏法を発揚し、衆生が聞き入れる事を望む。チベット仏教を学ぶ人にとって、四加行は今後密乗を習うのに重要なのである。リンチェンドルジェ・リンポチェはある親しい友人に彼が持っている密法の法門の事を語ったが、この友人は中国であるチベット行者に訊ねた所、チベット行者はこれらの密法は漢人には伝えない筈だと言っていた。リンチェンドルジェ・リンポチェとチェツァン法王は特別な因縁があり、多くのチベット人が学べない密法を、リンチェンドルジェ・リンポチェはすべて学び、習い得たすべての法を衆生の利益の為に使い、衆生も助けを望み受け入れる様になる。

暇満人身はとても得難い。過去世で十善法を修行した事が有る者だけがこれを得る。きわめて得難いのはあらゆる有情衆生の中で、ただ人のみが仏法を修めることが出来るのだが、四部洲の中でもただ南瞻部洲地球の人類のみが仏法を聴聞出来る。この体こそ我々の過去世と今世の業力の現れであり、宝である!この体は歓楽のために与えられたのではない、仏を学ぶ道具なのである。龍樹菩薩は、地獄に生まれる者、餓鬼、禽獣、僻地に生まれる者、長寿天に住む者、邪見、仏陀が生まれていない状態、聾唖者、すべて正法を学べない、と言う。

“十円満”は5つの自円満及び5つの他円満を含む。竜樹菩薩曰く、5つの自円満とは:一、人身を得る事、二、「中土」に生まれる事、三、諸根を欠くことがない事、四、極悪事を働いていない事、五、信心を持つ事。人身を得る時、僻地ではなく、仏、四眾、弟子がいる地区で生まれるのは「生地円満」である;全ての根と器官が欠けていないのは「諸根功徳円満」である(これは前世の修行から得たので、この世で、醜いとか美しいとか、背が高いとか低くいとか、色が黒いとか白いとか、太っているとか痩せているとかは、すべて過去世で、供養布施した事と関係がある、経典には着実に修行する人は、外在と内在が一緒に変わると言っている。即ち格好は心に従って変わり、体臭さえも無くなる。)この世に受けるものは、すべて前世の修行からもたらされ、今修行して始めて来世に荘厳相を得る可能がある。諸仏菩薩の相はすべて円満な相である。

第二、悪業を働いていないとは、今生無間罪(即ち父母を殺害する、仏の血を流す、合和僧團を裂く)を犯していなく、且つ善業(一番大切のは随喜功徳で、上師、修行人が行う全ての衆生を利益する事に対して、心と口から賛嘆し、随喜する)を楽しく行 う。皈依は断悪行善の始めで、これを「殊勝心識の円満」と称す。この世で無瑕円満な宝人身を得たのは過去世で持戒清浄、佈施供養などの行いがあったからだが、一般的に、人身宝を得た後持戒できる人は極めて少ない。一旦利益の衝突があれば、容易く破戒するので、極めて上師の監督が必要だ。戒を守ったとしても、清浄(戒を守った事で何も求めず、ただ以後人天の導師となり、自身を円満な仏の道に向かわせる)を得る人はさらに少ない。もし、皈依した後、常に上師との誓いに背いて戒を破れば、生活には必ず不順調だろう。経典に曰く、廣學多聞たりとも戒を守らなければ悪道に落ち、仏法を多く聴聞したとて救いを得ないだろう。一旦、上師の教導を忘れると、修行して得たごく少しの功徳はすぐ無くなり、永遠に業を転ずる事はできなくなる!皈依した後、そなたが悪業をした途端、そなたの冤親債主はすぐ戻ってきて邪魔をする。

戒律を守れば損害無き事を得る。そして正教の法脈がますます盛んになり,一切の魔軍を懾服する事を得る。故に、我々は是非戒律を護持せねばならず、それは在家五戒、上師との一切の誓い、そなたと各本尊との一切の戒律を含む。もし、護持されなければ法脈、ひいては道場が衰えるであろう。道場を旺盛にするには、上師が戒律を護持し、また弟子にも護持を求める。道場が栄えると言う事は金を多く持っていると言う事ではなく、真に仏を学ぶ者がどしどし増えて行くと言う事である。それで外魔と内魔が全て懾服される。たとえ我々が解脱の戒をよく守られなくても、他の戒律は全力を尽くして護持するべきで、もし破戒したら、すぐ如法に懺悔し、以後永久に再び犯さないようにする。戒を守って傲慢になる者は必ず魔道に入る。間違いを起こして責められた後、懺悔をして二度と犯さないほうが、戒を守って傲慢になる者よりまし だ。それは、間違いを知るので、魔道に落ちないからだ。だから、持戒する者に対して常に随喜するべきで、また自分が持戒するように感じ、常に懺悔と随喜するべきだ。成仏する前は、皆懺悔しなければならない。それは、成仏せず、衆生を利益する事が出来ないのは間違いだからである。もし、自分は間違いが無いと思い、懺悔するのははただ冤親債主が集って来ない様にして、安らかな日々を過ごしたいと考えるのならば、そんな懺悔は無駄だ。人々は懺悔をすれば冤親債主が離れていくと思っているが、それは間違いだ。それは彼らがそなたの邪魔に来るのを止めさせるだけである。何故ならそなたが成仏しなければ、彼らも後に付いて成仏出来ないからである。しかし、そなたが仏を学び、衆生に利益しようと発心すると、彼らはそなたの護法になる。金剛乗は仏の心で、衆生のために苦労をし、恨み言を言わない。成仏する前、病気に罹ったり、事故に遭ったりするのは当たり前だ。それは冤親債主が我々に修行することを忘れない様にと言ってるのである。病気に罹ると、時たま上師が修法して、病苦を軽減させたり、治癒させたりするが、それは我々を延命させて、限りある今生の命の中で、覚悟を成遂げ、生死を解脱するためだ。他人がすこしばかりの衆生に利益ことをするのを見ても、彼らに感謝し、褒め称え、口には出さなくても心では随喜するべし。 持戒する者に随喜すると、そなたは彼が持戒しているのと同じ功徳大海にいるのだ。

この一生でとても大きな福報を修めて天道に生まれたとしても、依然として生死を解脱することができない。華厳経に、人身を得るのは極めて稀で、清浄、円満暇があることを得るのは更に稀だと言う。いわゆる「中土」とは元来仏陀が成仏の地とするボードガヤーのことである。もしも我々が5根を備えなければ、受戒の器になることができなくて、聞思修の善縁もない。ある者は生まれながら、猟をしたり魚を捕ったり養殖業をするので、これが生活だと思っているが、それは懺悔心がないのだ。あるいは過去世で悪を行い、今生でも悪を続けたとしても、そなたは此れを変える事が出来る。ある者は妓院の子女として生まれ、或いは幼い頃から外道を学び、身口意など三門で仏法に逆うと、仏法を聴聞する事が難しく、無間罪を犯しやすい。だが外道がいくら恐ろしくても輪廻を脱離する事が出来ないので、我々は完全に仏法を信ずるべきである。以上は5つの「自円満」である。

5つの「他円満」:龍樹菩薩曰く:「仏が出世して教法を示すと、教法は随行衆をなだめ、仏が故に心に慈愛が満ちる」。我々は仏法が残っている所に生まれ、多くの大徳が絶えず仏法を広げ、仏、仏法、弘法する人々が慈愛の心で我々を教え導く。仏陀の教法はまだ一万二千年続くが、その後に、弥勒菩薩が誕生されて成仏するまで50数億年も待たねばならず、その50数億年の間に生まれたら、仏法を聞くことができなく、何度も輪廻することになる。我々は仏法がある「明劫」に生まれ、殊勝な導師が教え導いてくれる、故に我々は法輪が常に廻る事を祈る。仏が仏法を開示するだけではなく、その上教法がこの世に住み着く事は得難く、今教法は依然として世の中で広く伝わる故、「安住世間円満」と称する。

教法は残っても、護持、講義をする者がいなければ、学ぶのも難しい。今は護持、講義をする者が居る故、「法の教えに順調に随う円満」と称する。我々が学習を始め、家庭の懸念を一切置く事ができ、心を落ち着けて「聞思修」の努力が出来る事は、尚更稀なる事であり、これを「意楽を増す円満」と称する。「置く」と言う事は在家衆にとって並大抵の事ではない。出家衆は家庭事業の懸念をすべて取り去っているが、我々在家衆は死ぬまでこれらの懸念が付き纏う。しかしこれが良くないとは限らない。出家衆はやはり別の悩みがある。金剛乗にとって、煩惱は毒薬ではなく、我々に人生の苦しみを理解させ、仏法を修行する決心をさせる。故に、一切の家族と事業も我々の道場であり、我々は家庭、事業において、絶え間なく仏法で暮し、自分を薫陶して、他人に仏を学ぶように影響する。これぞ大道場である。我々の道場は毎日の生活であり、仏法を以って日々の暮しの悩みに向かい合う。これが修行である。両親がそなたに仏を学ばせないなのは、そなたの親孝行が足りないからであり、また多くの事を良くやっていないし、累世で他人が仏を学ぶ事を邪魔したのだ。仏を学ぶ事は良い事であり、他人に知られても怖がる事では無い。こそこそ隠れて学ぶ事はいけない。リンチェンドルジェ・リ ンポチェの友達は「貴方は悪い事を沢山したから菜食したのだろう?」と冗談を言うが、リンチェン ドルジェ・リンポチェは「そうだ。かつて沢山の海鮮を食べていた」と答えた。自分が間違いであった事を認めれば、他人はふたたび言わなくなる。他人に自分は数多の間違いが有ると知ってもらい、仏を学ぶとこれらの間違いを是正出来ると知ってもらえば、必ずそなたが仏を学ぶことを許してくれる。しかしそなた達はこのように言う勇気がない。

「普賢上師言教経典」では、もし我々に順縁がなく、善知識の摂授を受けられなければ、はっきりと法性を了解することが出来ず、皈依したとしても用を為さぬゆえ、必ず善知識の摂授に従わなければならない。この5項目は他力で始めて備わるゆえ、五他円満と称する。

ある器世界(天体)が「成住壞空」を経ると1劫であり、仏の出世がある劫は「明劫」と称し、なければ「暗劫」と称する。仏経の記載では、大昔、「現喜劫」があり、その時から今に至るまで4つの「明劫」と1400の「暗劫」を経過している。これで「明劫」がどれほど長く隔てて現れるかが分かる。仏が居ないとき衆生は非常に苦しい。この4つ劫の中で仏法を聴聞出来る衆生は限りがあり、そなた達は仏法が住む世に生まれ、上師に巡り会い、道場で法に従って仏法の伝授を受ける、極めて稀な機会を得たのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは自身の例を挙げて、もし37才の時、仏を学ばなかったら、今世は駄目だったろう。もし台湾に来なかったら、仏を学ばなかったかも知れない。もし20数歳の時に、宝石で成功して金を稼いだら、台湾へは来なかったかも知れない。ドラブ・ワン・リンポチェとチョンツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェの過去世とディグン・カジュの関係が深いことを確認し、其の力がリンチェンドルジェ・リンポチェの後半生を導いてきたのだ。普通の人にはこんなに深い因縁がない。故に、この度因縁が有って、ディグン・カジュの寶吉祥道場に来られた機会をしっかり捉え、たやすく放棄してこの一生を無駄にするべきではない。

釈迦牟尼仏はもともと剛強自用で、調伏しにくい地球の人類を済度しに来られたくなかった。だが帝釈天と大梵天の祈請故にやっと法輪を転じた。此れで分かるように、仏法を聴聞したければ、請い願わなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェに仏法で助けを願う場合、やはり口に出して願わなければならない。何故なら縁がなければ助けることが出来ないからだ。上師は三昧耶の戒律を守るので、口に出して祈請すれば、必ず助けて下さる。仏を学ぶのは現世の果報や短い安楽を求めるのではない。もし真に生死の解脱を求めれば、冤親債主もそなたを助け、世間法もおのずから順調になる。出世法を修めなければ、冤親債主に利益がもたされなく、自然そなたの世間法に多くの支障が起こる。

一部の人々は名相を重んじて理論に傾き、実修をしない。生活の中で真に仏法を使わない。仏法は学問ではない。此れは我々の未来を変え、我々に生活方式を教える法門である。そなたは名相を知ってよい、ただしその中に迷い込み、出て来られないのではいけない。真に仏法を了解すれば、それを生活に用い、自分の執着心、分別心、妄念を徐々に減らしてこそ、実修である。

昔、廣欽老和尚、六祖慧能は文字が読めず、ディグン・カジュ派の祖師ディロバ、ナロバ、ミラレパも文字が読めなかった。台湾の多くの信衆は法師が博士である事を望んでいる。博士と仏学院を卒業した者だけが仏法を知っていると思っているが、それは間違いである。文字、言語は仕方がないから使っている道具で、真の仏法は心から啓発されるものなのである。仏法を論理的な論争にするのは、仏法ではない。生活の中に使われて始めて仏法なのである。仏法は世間法を離れない、釈迦牟尼仏も人なので、彼が説く仏法と一切の法門は必ず人が出来るもので、さもなければ言わないのである。

例えば「37の実践」は、必ず生活の中で使えるもので、使われると、必ず徐々によくなってくる。「37の実践」は難しくない。そなた達が出来ないのはやらないからで、自分でも分からない仏法を学ばないとやれないと思っている。その実、仏法をよく理解すれば、これはとても簡単である事が分かる。しかし、そなたの心があまりにも複雑なので、問題が絶え間なく出てくる。だから、上師は仏を学ぶ上で一番重要な事であ り、道を間違えてはいけない。

2009 年 06 月 13 日 更新