尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ の法会開示

2009年1月13日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石会社で、信眾のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示されました。

2009年1月14日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石会社で、信眾のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示されました。

2009年1月17日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは2009年1月17日寶吉祥仏法センター斗六道場にて「上師供養法」をご主催なされた。リンチェンドルジェ・リンポチェは先ず「上師供養法」は顕教には無く、密教のみにぞんざいするとご開示なされた。台湾中南部で農業に従事する数多の信衆に対して、リンチェンドルジェ・リンポチェは上師は農夫の様だと喩え、一粒一粒の種を心細かく見守ってこそ、芽が出て実を結ぶ。しかし上師は農夫と違って実を取り市に出してお金に換えない。上師の心尽くしは見返りを求めないのだ。あらゆる上師は皆衆生が輪廻から解脱し、修行して仏果を得、更にその他の衆生を助けるを望む。釈迦牟尼仏は、我々を生んだ父母は、我々に人身を与えた。人身これ法器であり、我々に仏を学ばせ修行させるものなり、と開示された事があった。故に父母のご恩は世間の宝を用い尽くし、全ての財産で供養してもそれに報いることが出来ない。しかし父母は唯この一世の体を与える事しか出来ず、上師は世世代代我々を見守る。我々は父母に対してさえ感謝の念が絶えないのに、ましては世世代代我々を見守り、我々が生死を解脱し、輪廻を離れるを助け給う上師をだ。所謂「一日師とならば、終生父となるべし」だが、現代人はこれを重視しない。しかし、父母との縁はこの一世だ尽きるが、上師との縁は世世代代尽きぬものだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは一度非常に厳重な車事故に遭う所だったが、事故が起こる2日前に、祖師ジッテン・サムゴンがお助けにこられたのを見た。ジッテン・サムゴンは800年も昔の方だ。故に、上師は世世代代お見守りになられているのだ。続けてリンチェンドルジェ・リンポチェは直貢噶舉教派は、伝統を受け継ぐ事を重視する教派で、上師の良し悪しを判別するには、先ず其の伝承がはっきりしているかを見る。例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェの上師はチェツァン法王で、チェツァン法王もまた上師を持つ。この伝承ははっきりしており、また中断もされていない。仏法を学ぶには、必ず具徳の上師に追従せねばならず、家で自分で仏経を読んだり、真言を唱えるだけでは仏を学べない。顕教の教え方では、成就ならんとすれば、三大阿僧祇劫を経なければならない。それは地球が滅びる時間より長く、とてもこの一世で成就し得るものではない。しかしすでに成就した上師の下で密法を学べば、時間を短縮することが出来る。修行で成就するには、上師に対して敬虔で、また忠心を持たなければならない。密法は公には伝授しない。所謂法は六耳に伝えざると言い、上師と1対1で伝授されるものである。リンチェンドルジェ・リンポチェはこういう例を挙げた。ある日、法王が関房でリンチェンドルジェ・リンポチェに密法を伝授している折、法王の母親が突然入ってきた。法王はすぐ口をつぐみ、母親を見た。法王の母親は、すぐさま謝って出て行った。母親が去った後、法王は初めて法の伝授を続けた。故に如法の上師は、いかなる理由でも仏法を曲げたりしない。唐の時代以後、密法はあまり伝わっていない。しかしチベットではずっとよく保存されている。直貢噶舉教派の教え方は非常に厳しい。ほかの教派に比べてなお厳しいのだ。そして戒を守ることを重視し、実修を主とする。人々は外で直貢噶舉教派の人をあまり見掛けないと言うが、それは大部分の直貢噶舉教派の人は、深い山中で修行するからである。チベット仏教は四つの教派があるが、その結果はどれも同じである。唯方法が違うだけで、各々の因縁に基づき、どの教派かに帰属する。上師は農夫の如く、種を選んでそれに適する仏田に植えるだけだ。直貢噶舉教派の人が少ないのは、今の人の何でも求めるだけと言う考え方に違いがあるからだ。800年前、祖師ジッテン・サムゴンの時代には18万人もの出家弟子が居り、祖師は其の内5万人の弟子をラッキー山の洞穴で閉関修行をさせた。それらの洞穴は、現在も存在する。リンチェンドルジェ・リンポチェも閉関修行を経て法を修めてこられた。法王も公にリンチェンドルジェ・リンポチェは非常に厳格だ、弟子を打つ時もある。打たねば器にならないのだ。我々は目の当たりに仏菩薩を見ることが出来ない。それは仏菩薩が無慈悲なのではなく、我々が何かの欲望を持って求めるからだ。我々の業障は重い。諸仏菩薩に自ら御教えを頂く福報がなく、ただ上師を通して仏法を教えて頂くしかない。故に上師は諸仏菩薩を代表なされているのだ。我々が上師を供養する時、上師は諸仏菩薩を代表して供養をお受けなされている。上師が我々に代わって諸仏菩薩に供養するほうが、供養の力は大きい。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは定の中で諸仏菩薩を供養なされているからだ。数多の人がリンチェンドルジェ・リンポチェに助けを求めているが、未だ肉食をしている。諸仏菩薩は我々に、菜食をしなさい、欲望を抑えなさいと教え続けている。リンチェンドルジェ・リンポチェご本人は45歳の時皮膚がんに罹ったが、医者に掛からず、薬も飲まないでひたすら修行に励み、求めもしなかったのに、かえって生き延びてこられた。死を恐れなければ、死は来ないのだ。人は必ず死ぬ。人間の執着心は、死に際にその人に影響を与える。死ぬ前に色々な心残りがあると、すぐに三悪道に陥る。故に修行は死に際のために行っているのだ。三悪道に陥るのは真に容易な事だからだ。我々は無常を信ずる。無常とは死ではない。それは万事は時々刻々と変わっていくもので、固定して変わらないものではない。リンチェンドルジェ・リンポチェが「ポワ法」を修める時、必ずしも死体の傍に居る必要はなく、毎回魂をリンチェンドルジェ・リンポチェの前に呼び寄せると、亡者は彼等の心残りは何かとリンチェンドルジェ・リンポチェに告げる。人が他界した時、其の傍で泣いてはいけない、また亡者の後事を話してもいけない。それは亡者の瞋念を起こし、往生出来なくする。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示では、真言を唱えるとき躓くのは、三つの原因がある。1.肉食をしたから。2.定力が足らぬから。3.気が不足しているから。これは密法に頼るべきだ。福報がある出家衆は、声聞、縁覚を煩悩無く修めることが出来る。福報が足らない在家衆は、煩悩の中で菩薩道を修める。出家するか否かは、個人の因縁による。リンチェンドルジェ・リンポチェは在家であるから、皆が何を煩悩しているかがよく分かる。故に弟子は出家をする事無く、仏を学んだ後、出家しなければいけないのかとか、結婚して子供を儲ける事が出来ないのか等の心配は無いのだ。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェは殊勝な直貢噶舉上師供養法を円満に修め終えられた。リンチェンドルジェ・リンポチェは皆にこの一年何か間違いを起こしたか、一年を無駄に過ごさなかったか、また一年仏を学べる時間が過ぎてしまった等を思い返しなさいと諭した。よく考えなさい、人間が過ごす生活とは、動物とあまり変わりが無い。忙しくて、仏を学ぶ時間が無いと言うべきではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは台湾、日本、インドに会社を持っており、会社7社と80名の職員の世話をしなければならない。しかし、法王が3ヶ月閉関修行をしなさいとリンチェンドルジェ・リンポチェに言い付ければ、リンチェンドルジェ・リンポチェは3ヶ月の閉関修行をなされた。新年の期間中、もう肉は止めなさい。一日は1年の初めだ。諸々の善の神が下って来て人間が悪を行っていないか見に来る。肉を食するは悪の行いだ。一介の修行者は殺されても肉を食しない。リンチェンドルジェ・リンポチェの職員は弟子でないのも多々居るが、それらも今は菜食をしている。其の職員達の皮膚は良くなったし、気色も良くなり、目も輝いている。菜食は唯食習慣の変化であり、ある人たちが有るものを食べないのと同じだ。菜食は何もおかしくない、肉食の方がおかしいのだ。女性は菜食の方が、皮膚が綺麗になり、化粧品も要らなくなる。肉を一口食べれば、福が切られ、お金を取られ、福報は少なくなる。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続け、ある人は仏を拝むことさえ出来ない、跪けないからだ。これは福報を積む事さえ出来ないのだ。これは、五体投地で仏を拝み、貪、瞋、痴、慢、疑の五毒を、体から地下に釈放し、我々の五毒を消す、故に五体投地の礼を取る。毎回諸仏菩薩に向かって頂礼すれば、諸仏菩薩も必ずお返しをする。もしリンチェンドルジェ・リンポチェの福報が足らなければ、どうやって数多の信衆の頂礼に応える事が出来るのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは皆がこの様な殊勝な法会に参加出来た因縁福報を大切にすることを望む。今回の供養法で、上師は皆が次の一世で三悪道に陥らないよう求め、我々をして、次の一世で人身を得る機会を得て、修行が出来るように求めた。斗六の法会が終了した後、リンチェンドルジェ・リンポチェは台北の寶吉祥宝石会社に帰って、信眾のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示されました。

2009年1月18日

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥台北道場にて法会を主催され、殊勝な「長寿仏」を修められた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、先ず、次の如く開示された。長寿仏次第は南伝、小乗、顕教には無く、チベット密教だけに存在する。仏は三身を持つ:法身、応身、報身がそれだ。長寿仏は阿弥陀仏の報身仏である。実は私達の肉身が報身で、一切業の応報であった。長寿仏法会に参加すれば、時に在らずして死ぬことを免れ、また、他界した親族のために阿弥陀仏の浄土に往生する因縁を積み重ね得る。人の一生で得る富は一定であり、前世の布施と供養がどれ程であれば、今世はそれ程の富がある。寿の変化は比較的に大きくて、個人の修行に関わっている。つまり、寿は修行して得るので、求めるのではない。修行人が長寿を要するのは、死ぬを怖がるのではなく、浄土に往生するには福徳因縁が欠かせないので、修行に必要な寿命を求め、仏果を成す為に必要な資糧を積むのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは45歳の時に癌にお罹りになったが、仏法により暮している故、寿命を今の62歳に延ばす事が出来た。これは求めずして得たのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて開示:人々が病気を引き起こすのは、地風水火という四大が均衡を失ったからである。貪瞋痴の為に悪事を働くと、四大を消耗する。寿を修めるには二種類ある。一つは福徳因縁を積み、浄土に往生して衆生に利益すると発願、もうひとつは両親の為に修める。リンチェンドルジェ・リンポチェはこうも開示された。密法は構造物をばらばらに解いた後、新しく配列し直す。これはリンチェンドルジェ・リンポチェがポア法を執り行うと、亡者の頭に穴が出来る道理である。科学は構造物をばらばらにする事は出来るが、配列し直す事が出来ない。浄土に往生と発願する事は大切な事だ。八地菩薩まで修行するか、或はこの世で既に菩薩の行為を為した者が、初めて発願して帰れる。さもなければ、業に従って流れるだけである。功徳と福徳の差異は強烈な出離心にある。功徳は使い尽す事が無いが、福徳は使い尽くす事がある。但し、功徳を修める際、上師と仏菩薩に僅かの疑惑でもあれば、或は考え間違いがあれば、功徳は福徳に変わる。私たちは完全に仏菩薩を信じ、完全に上師を信じるべきである。所謂 「信願行」とは、自分が必ず上師仏菩薩の教える仏法を行う事を「信」ずる。すると「願」に力がこもり、「行」が実現する。それから、リンチェンドルジェ・リンポチェは長寿仏次第を執り行って、参列衆を率いて長寿仏心咒を唱えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは次のように開示された。この法会に参加すると、今後、戦争、旱魃等の天災人禍を避ける事が出来、来世も悪事を働く環境を避けられる。人は喫煙、飲酒、肉食等の行いで寿命を縮め、命を散らす;長寿仏次第を通して、仏菩薩、上師、本尊、護法の加持を祈り、寿、福、財、命、全ての力の真髄で以って、参列者に加持される事を祈る。それから、 リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲を以って、自ら仏三身を代表する宝瓶を用いて、参列衆の一人一人を加持され、自身の大福報を以って、全ての参列者を助け、また甘露丸及び甘露を賜れた。リンチェンドルジェ・リンポチェは全ての皈依弟子に大みそかには六文字大明咒を一万回唱えるよう指示された。そして、それを十方法界の衆生に廻向し、西方極楽浄土に廻向して、世界平和を祈願する。リンチェンドルジェ・リンポチェは未だ皈依されていない信衆に対しても、再度肉は食しないようにと言付けた。すべての戦乱、紛争、悪疾は皆肉食から来ている。肉を一切れ食べると福と財が少し減る。肉食は、鬼の習慣と同じである。また、仏経では葱と大蒜を食べると、鬼を引き付けると言っている。味覚は人の感覚器官の中で最も押さえやすいものなので、食から修行に着手するのが一番容易である。リンチェンドルジェ・リンポ チェは来る旧正月の一日に皆を率いて三十五仏懺を礼拝する。三十五仏懺は台湾では礼拝していないが、チベット仏教には伝わっている。寶積経には三十五仏懺の記載があり、釈迦牟尼仏が紹介しておられる。菩薩道を修行する者は、此れによって修行上の数多の障害を取り除く事が出来る。また、二つの財神法も修めるので、その一つは私達が元々得るべきだったが失ってしまった富を補い、もうひとつは私達の富を増やす事が出来て、私達に供養と布施をさせるのだ。

2009月1月26日

旧正月、尊きリンチェドルジェ・リンポチェは苦労を厭わなく、台北寶吉祥道場にて一日中共修法会を主催され、弟子と信衆の為に三十五仏懺、黒水財神と大象財神等三つの法門を修められた。法会は朝の八時半から始まった。リンチェドルジェ・リンポチェは先ず、次の如く開示された。新しい一年の始めの日に、事は良し悪しに拘わらず、此の一年の色々な事に影響する。農民暦(中国の太陰暦)の記載に依ると、今日は何事をするにも適さないが、祭祀は宜しいとしている。つまり仏を礼拝する事に適するのである。今日は日蝕があるが、密宗では日蝕、月蝕、大風雨等の特別な気候で仏事をすれば、功徳は大きいとされる。よって今日の法会は特にご利益がある。

仏教の懺悔法門と別の宗教は大きく差別がある。別の宗教の懺悔は謝る事である;懺は自分がした事を認め、直面して、責任を負う事である;悔いはこの事を一絲一毫も再びしない事。しかし、世人は因果を信じない。ある人は悪い事は発生しないと思い、ある人は例え発生しても、その時になってから考えようと思っている。懺が出来なければ、悔いの力が無い。そして菩薩道の修行が出来ない。仏は世人を三種類に分けている;一つは生まれてから死ぬまで他人を傷つけない人、此の様な人は滅多に無くて聖人と称される;二つは懺悔することを知っている人;三つは大勢の人たちで、間違いを犯しても懺悔しない。衆生は仏に成る前に必ず懺悔が必要である!懺悔をしなければ、例え供養布施しても、業を変えることが出来ない。

リンチェドルジェ・リンポチェはインドの癌に罹った信衆の例を挙げた。因果を信じなく、懺悔をしないある女性は、信奉する神様が彼女を救うと思っていた。亡くなった後、リンチェドルチェ・リンポチェは彼女を済度してあげた。彼女の魂はリンチェンドルジェ・リンポチェの目の前に呼び出され、初めて懺悔しなかった事を悔いた。懺悔は仏菩薩と上師の目の前で懺悔して、初めて仏菩薩の助けを得て、冤親債主との間に立って仲裁をし、冤親債主はそれで彼等の債を弁済する為に私達に多めに仏を学ぶ時間をくれる。

三十五仏懺の拠り所は寶積経である。此れは釈迦牟尼仏が自ら紹介されたので、力がとても大きく、菩薩道を修行する際、極めて大きな助けとなる。此れを拝むのはチベット仏教だけである。皆が良く礼拝する粱皇宝懺と水懺は、後世ある目的の為に行った懺法で、特定の衆生と特定の苦しみに対してのみ作用する。役に立たないのではなく、礼拝する人の身分が合わないのである。両親に代わって仏に祈り懺を拝する事は(仏に祈って悔改めること)は本当の親孝行である。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて他界した父親の為に毎日仏を拝み、一年間に掛かってやっと父親が天道に上るを見た。一般の人が懺を拝するは自分が良くならん事を求めているが、リンチェドルジェ・リンポチェは1994年に事業が失敗し、食事をするにもお金が無く、家賃も電気料も払えなかったが、一年中懺悔法門を修め、仏菩薩と冤親債主に早めに弁済する機会が与えられた事に感謝して、良くない事が早く来る様にと望み、それ故に、拝めば拝むほど嬉しくなった。

そして リンチェンドルジェ・リンポチェは三十五仏懺を執り行い、修法後に開示。今日懺を拝むは皆に肉体の苦しみで債務を返させる。今日、心を尽くし、力を尽くして礼拝すれば、私達の生々世々に助けがある、但し今後再び間違いを起こしてはならない。拝懺を通して私達の心を清浄する事が出来、業の影響を受けて心が動くを免れる。重要なのは今後新しい業を働かない事。其れで古い悪業を返し尽くせば、清浄になる。リンチェンドルジェ・リンポチェは特別に次の如くおっしゃった。三十五仏懺の中に、私達は拝懺した功徳を、過去、現在及び未来諸仏の如く廻向して、少しも自分の為にはしない。廻向の廻は一隻の船を表し、私達を乗せて浄土に行く。仏菩薩の心で廻向すると、私達のささやかな功徳は一滴の水が仏菩薩の功徳の大海に溶け込む様になり、大きな力に成る。

午前10:00、10分間の休憩の後、リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて黒水財神法を執り行なった。リンチェンドルジェ・リンポチェは次の如く開示された。富が無い事は人生の一つの苦しみで、財神法を修める事も衆生が苦しみを離れる事を助ける。財神は黒、白、赤、緑、黄の五種類に分かれ、観世音菩薩が束ねる。その中の、黄財神は出家衆が修める財神で、富を築く訳ではなく、より多くの資糧を貯めて仏法を修行する為である。富は頭で考え出すものではなく、修行して積むものである。つまり過去世の供養布施が現世の富を決める。しかし現世で悪事を働くと、冤親債主が富を遮る;鬼神に助けを求めて富を得る事があっても、最後に必ず強奪されてしまう;他人に約束した事を果たさなければ、やはり富を失う。特に私達に恩が有る両親に約束した事はそうである。黒水財神は私達がこの世で得るべき富が妨げられないように助けてくださる。

財神法を修める上師は必ず観世音菩薩のような慈悲心が無ければならない。財神は八地菩薩で未だ累世の習性が僅かあり、少し分別心があり、入世と出世の間に位置する。よって、此の法門を修めるに当り、不動仏を要請して財神の調整を助けてもらう。黒水財神の本尊は勇猛な相を現す、故に此の法門を修めるには、比較的勇猛な金剛部の上師が必要で、しかも瑜珈と無上瑜珈部の密法を修め、五方仏の灌頂を得て、息、懐、増、誅の四法を成就して、初めて応じることができる。財神法は「増」法に属する。若し仏寺が巨額の金銭を累積するならば、此れは仏法を以って私腹を肥やしている。これは来世返すことになる;若し法王とリンチェンドルチェ・リンポチェのように、法界財を修め得たなら、衆生に利益するためなら、必要があるとお金が集まり、また、世世代代使い尽くす事が無い。

リンチェドルジェ・リンポチェは、この法門を修めた後、皆は依然として努力して働いて稼ぐ事を望んでいる。富は自分では現れないものだ。例え過去世に供養布施があっても、この世でうまく使いこなせなければ、やはり富を得れない。皆には正常に富を得ることを希望する。此れは「正財」である。株の売買でお金を儲け、金が金を呼ぶ等と思ってはいけない。金融危機の原因は人の貪りだ。得た財を用いて供養布施をするべきだ。供養に最も重要なのは心である。リンチェドルジェ・リンポチェがポワ法を学んだ時、正に最も貧困な時で、お金が無い時は、全財産が1700元だけだった。ポワ法の授業料が1500円である。リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を学ぶ為に授業料を払うとお金は無くなってしまった。此れこそ大供養である。このような供養心が故に、百人が同時にポワ法を学んだのだが、ただリンチェンドルジェ・リンポチェ一人だけが開頂まで修め終えた。

リンチェンドルジェ・リンポチェのやり方はどんなに貧しくても布施をする。道場にお金が必要なら、自分の家賃の支払いを遅くしても、道場の家賃を先に支払う;友たちに必要があれば、リンチェンドルジェ・リンポチェはもともと道場へ行くお金を先に友達に回す。リンチェンドルジェ・リンポチェがこの世で修行する速度がこんなに速いのは、主に懺悔と供養という二つの法門によった。リンチェンドルジェ・リンポチェは信衆に再度肉食してはいけないと諌めた。一口の肉を食べると一部分の富を削る、それは削り終わるまで続く。財神はその手に一匹の銭鼠を掴んでいる。家鼠或は野鼠ではない。皆が鼠を傷つけない事を望む。さもなければ富は無くなる。

午後2:00 リンチェンドルジェ・リンポチェは白マハーカーラの大象財神法を修める。リンチェンドルへ・リンポチェは開示された。白マハーカーラは大黒天で、元来は大能力を持つ悪魔で、常に衆生に害をもたらしていた。それで観音菩薩はマハーカーラの心を見透かし、マハーカーラがこの世で最も美しいと認める女子の姿に変身して、マハーカーラを心服させ、仏教の護法にした。マハーカーラに関する物語はもう一つある。インドの大成就者龍樹菩薩は、ある時行脚していたが、、マハーカーラが変身した1個の大きな石を見かけたので、マハーカーラを招き、龍樹菩薩の仏寺の護法を担当させた。龍樹菩薩が仏寺に帰ると、マハーカーラがいないので、マハーカーラが現れる様に修法し、去った原因を尋ねた。するとマハーカーラは仏寺の僧侶達は供養しないので、仏寺には行かないと答えた。マハーカーラが供養を得たいのではなく、供養しないと福報がなく。福報がなければ、仏菩薩が手伝いたくても手伝えないのだ。

大象財神はもともと富裕な王子で、常に布施をしていた。しかし善悪を区別しないので、たとえ彼にお金を求めて悪事をする人でも、彼はお金を与えた。そのため、彼のお布施はかえって多くの人が悪さをするのを助ける結果になった。結局彼は白マハーカーラに殺されて、その頭を切り落とされ、後に象の頭を据え付けられて、仏法を護持する財神になった。象は動物界では最も力強いので、この財神がとても力がある事を表している。この法を修める時には、貴重な黒沈香をくべる。密宗のいくつかの法は、それを修める時、特殊な供え物が必要である。これは本尊が過去にこのものが大好きだった事に由来する。例えば、黒沈香の匂いを嗅ぐことが好きで、また、本尊の一部の家族や護法に人の習性がまだあるので、伝わる儀軌に応じ、この品物で本尊に供養する。

この大象財神法は ユンカ・リンポチェが自らリンチェンドルジェ・リンポチェに灌頂伝法した。しかも此れはリンチェンドルジェ・リンポチェが求めたのではなく、ユンカ・リンポチェが自発的に伝えたのであるる。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつてある直貢噶舉の道場でマハーカーラ(仏像を供養したことがあって、この因縁故に、この大象財神法を獲得したのだ。この法を修めると、皆の富を増やす事ができ、餓死を免れ、住む家があり、着る衣装に事欠かないので、皆が安心して修行に専心することを望める。富を得た後、自分の借金を完済してから、供養を始めると思ってはいけない。仏経が私達に教えるように、毎月収入を四つに分け、その一つは供養に廻し、その他を家計、貯金などに廻すべきである。得た富で、宝くじを買ったり投機をしたりして、尚多くの金銭を得ようとすると、貪欲を養う事になる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは最後に、道場の物品は衆生の物なので、もし皈依した弟子が今後仏法を学びたくないならば、道場の物品を取り戻して、彼らが常に使っていた物品を占有したため、地獄に堕されることが無い様にするべし。もし取り戻さないと、彼らと共業になる。リンチェンドルジェ・リンポチェは更に、大晦日の夜、弟子が各々1万回の六字大明呪を唱える事を言付けた。8百人が一緒に唱えれば8百万回になる。私達は一人で8百万回の六字大明呪を唱える事は不可能だ。これはとても得難く殊勝なので、上師の教えを必ず聞く様にと開示された。弟子達が成就しないのは、確実に上師の教の如く実行しないので、何の変化も見られないのだ。

2009 年 01 月 21 日 更新