お知らせ

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは日本で「長寿仏灌頂法会」と「長寿仏火供」を円満に主法なされた

2020年新年の始まりに当たり、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは京都寶吉祥仏法センターで「長寿仏灌頂法会」を主法された。この法門は尊勝なる直貢チェ・ツァン法王が御自らリンチェンドルジェ・リンポチェにお伝えくださったもので、直貢噶舉派特有の法門であり、非常に貴重で殊勝である。「長寿仏灌頂法会」の後、リンポチェは続けて「長寿仏火供」を修持くださった。チベット仏教の伝統には、長寿仏火供はないが、リンポチェがチェ・ツァン法王に特別に求められ長寿仏火供の法本を賜ったため、この殊勝な法門によって六道衆生に利益することができる。この乱れた末法時代、苦難に苛まれる衆生をリンポチェは憐れまれ、慈悲深くも長寿仏灌頂をお授けくださり、火供法会により諸仏菩薩を供養申し上げ、一切の衆生に布施くださる。これにより衆生は迅速に業障を消し、福徳智慧の資糧を円満にすることができる。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは2020年1月4日、京都寶吉祥仏法センターで殊勝なる長寿仏法会と長寿仏火供を主法くださった。今回は城崎温泉寺の小川祐章住職の他、八十数歲になる京都の有名な茶道の師匠も参加した。参会者は日本と台湾の信衆19人、日本、台湾の弟子122人の計141人で、法会は殊勝で円満となった。

長寿仏灌頂

午前10時、楽の音、宝傘の迎請の下、参会者は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座に上られるのを恭迎申し上げた。この時ヒノキの香りにクスノキの香りが混ざったような雅びな香りが仄かに辺りに漂った。リンポチェは法座に上られた後、仏法の開示をくだされた:

今日はみなに長寿仏の灌頂を授ける。先ずは灌頂の意味について説明しよう。数千年前の古代インドでは、国王がその継承者に王位を譲る際、清潔な水を満たした宝瓶を持ち、継承者の頭に宝瓶の水を注ぎ、これによって伝承の継承を示した。仏教にもこの儀軌がある。みなに灌頂を授けるのは、本尊長寿仏が、今後この本尊を修めても良いと権利を授けるようなものだ。灌頂を経なければ、修めることはできないのか?修めても良い。だがこの一生では絕対に修められない。灌頂のもう一つの意味は、私たちは凡夫の身体を具備しているが、私たちの身体は過去世とこの一世で為した一切の善悪業により生まれたもので、不清浄なので、灌頂を通して、私たちの身、口、意に、本来の清浄な面目を回復させる。そうでなければ清浄な仏法の加持と救いを受け入れることはできない。三つ目の意味は、灌頂を受けた後でなければ閉関しこの本尊を専修する資格はない、ということだ。学仏するには、好きなだけ念じればよく、どのように拝んでも構わないと思っている人が非常に多いが、この考えは間違っている。私たちが学問をする際にも、どのように学ぶか、どのように読むか、どのように試験を受けるかが決まっているではないか。学仏にも規定があるのだ。この規定は、どこまでやるようにと仏が厳格に私たちに要求するのではなく、凡夫から菩薩道を修められるように変わるためには、多くの過程が絕対に必要なのだ。灌頂はその内の一つの方法だ。

灌頂は行部、事部、瑜伽部、無上瑜伽部に分かれる。今日灌するのは事部、つまり事業部だ。事業とは、灌頂を受けた後に行う一切の事情が本尊と同じだということだ。つまり、これ以上、悪を為すことはない。また長寿仏の灌頂を授けるのは、私たちのこの乱れた世界においては、自分が過去世に為した悪、善業を分かっている人がいないからだ。この一生で意識的に、無意識に為した悪業は非常に多い。例えば肉食を好む、海鮮を好んで食べるなどはすべて、寿命を縮め、寿命を不安定にし、寿命を損耗する。法本の後ろの方で語られている。

今日この灌頂を受ける。すでに仏門に皈依し、すでに菩薩道を修める決心をしているなら、長寿仏はそなたの本尊だ。長寿仏はそなたのこの一生の寿命を伸ばしてくださる。寿命を伸ばすことで、菩薩に成るための資糧を蓄積できる十分な時間を得ることができる。福を享受するためではない。皈依しておらず、一般の信衆に過ぎないなら、今日この灌頂を受けることで、事故死することはなくなる。現在この世界には事故死が非常に多い。戦争とは限らないし、自動車事故とも限らない。

二週間前、ある台湾人が山間でツツガムシに咬まれ、病院へ運ばれたが助からなかった。その者の眷属が会いに来た時、私は、どうしようもないと告げた。内臓のすべての臓器がこの虫の毒にやられ、すでに不全となっていたため、つまり死ぬしかなかったのだ。たった一匹の小さな虫に咬まれただけなのだ。郊外へ行かないとしても、周囲に樹木が多く、草花も多く、それらにはすべてこの種の虫がいる。これこそ事故による死だ。もう一つは「非時死(時ならざる死)」だ。死ぬべきでない時に死んでしまうということだ。例えば、めちゃくちゃに手術する医者に当たってしまう、間違った薬を出されるなども、「非時死」だ。誤った物を食べてしまう者もいる。これも「非時死」だ。この法を修めても、信衆が長寿となることはない。それは学仏の準備をしておらず、皈依もしていないからだ。皈依したくない、という人が非常に多い。皈依しないなら皈依していないなりの方法があり、皈依すれば皈依しているなりの方法がある。皈依していなくとも、多くて「非時死」を避けることができる。皈依していれば、本来すでに損耗した寿命が、例えばこの一生で八十歲まで生きるはずだったが、この一生で肉食したことがあり、人を騙したことがあり、嘘をついたことがあるなら、寿は減じる。だが今朝の灌頂と午後の火供を通して、あるべき寿命を取り戻すことができる。増えるのではない。取り戻すだけだ。

寿命が取り戻されたとどうやって分かるのか?灌頂を経た後、もともとの病がいくらか良くなり、病気でなかった者は身体がより健康になったと感じるだろう。それは寿命が安定したということだ。病がちなのは寿が揺らいでいるということだ。寿命が湾曲し一定でないため、病がちなのだ。なぜ短寿となるのか?身、口、意のすべてで悪業を為すからだ。ちょっと何かを言っただけで短寿になるだろうか?と思っている人が多い。短寿になる!人を騙せば短寿になる。善意で騙そうと悪意で騙そうと、騙せば短寿となる。現在表面的には人類の寿命は非常に長いが、実は現在の平均寿命は七十歲だ。経典では言う。人類の寿命はどのように計算するのか?八万五千歲からだ。つまり人は本来八万五千歲まで生きられるのだ。百年毎に一歲減り、人の平均寿命は減り続けて十歲となり、さらに増え続けて八万五千歲に戻る。これがいわゆる一劫だ。現在私たちの寿命は減り続けている。現在人の寿命は平均で七十歲だ。九十数歲、八十数歲まで生きる例外はある。だがこれは多くない。平均寿命はすべて七十歲前後だ。それは人があまりにも多くの悪事を行うため、寿命がどんどん短くなっているからだ。

長寿仏は阿弥陀仏の報身仏だ。先ほど私が言ったように、菩薩道を修める決心を下すなら、報身仏はそなたを保護しそなたを護持しそなたを助けてくださる。なぜなら報身仏は菩薩を助けるからだ。化身仏は一般の凡夫の念仏、写経、拝仏を助けてくださる。化身仏は少しの小さな事柄を減らしてくださるだけだが、生死を解脱し輪迴苦海を離れるには、報身仏の助けが必ず必要だ。灌頂を受けた後は、みな心して、二度と再び悪を為してはならない。拝仏すればそれで良い、なぜ菜食しなければならないのか?と思っている人がいる。肉食は寿を減じると経典では言う。肉や海鮮を食べれば寿を減じると誰も信じない。肉や海鮮は栄養価が高いとだけみな信じている。私の道場では、母の胎内にいた時から菜食していた子供が非常に多い。それらの子供は生まれた後も、母が肉食していた子供より良いのだ。

リンポチェは修法を始められ、法本中の一段を特別に読み上げられた:

救度世間主尊長寿仏,摧破非時死亡吉祥者,無依痛苦衆生之怙主,無量寿仏尊前私頂礼。

その後、リンポチェは参会者を率いて長寿仏心咒を長く持誦なされた後開示くだされた︰

先ほどは無量寿仏が私たちの供養をお受けくださった。供養により本尊は歓喜心を起こすため、私たちと上師の寿命と事業の発展に加持くださるよう、一切の障害と良くない縁を消してくださるよう本尊に祈願する。一切の衆生は、「非時死」、八大災難、十六種怖畏の中から解脱し、干ばつ、戦乱等がない太平な時間を享受することができる。私と施主の非時死と一切の災難を長寿仏が消してくださるよう願い、法事如願となるよう、つまり今日求めたものがすべて叶うよう願う。悪因、逆縁がなくなり、寿命、福報、財富が上弦の月のように増え、最終的には無量光仏の果位に成就し、無量寿仏が生生世世に私の本尊となり、加持が離れないことを願う。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは供茶と薈供の儀軌を行われた。参会者はリンチェンドルジェ・リンポチェが加持くださった供品を頂戴し、法会において上師、仏菩薩と共食する得難い殊勝な因縁を賜った。続いてマンダ献上の儀軌を行われた後、開示くださった:

この法本の由来について今日は簡単に紹介しよう。私たち噶舉派の祖師のお一人であられるミラレパは、成就を得た弟子を非常に多くお持ちだった。中でも最も優秀だったのはレチョンドルジェチパ(レチョンパ、音訳)で、その後ろは省く。

この話は非常に奇特だ。どこが奇特なのか?レチョンパは早くからデプパを知っていた。だがデプパは、彼に命の危険があることを伝えなかった。なぜか?それは、そなた達を含む非常に多くの修行人がみな我見-自分の見解を持っているからだ。レチョンパはデプパがマルパの息子に過ぎず、ミラレパでもなく、マルパでもないのを見て、デプパをあまり信用しなかった。そのため、ある部外者を通してレチョンパに伝えたところ、レチョンパはようやく恐れを感じた。そなた達もそうだ。私が言っても聞かないのに、占い師に死んでしまうと言われると、やって来て加持を求める。医者に掛かり、医者に死んでしまうと言われると、リンポチェに会いに来る。みなこうだ。言うことを聞かない。そのためわざとそうした後、レチョンパは大恭敬心を起こしデプパに会いに行った。デプパはその時初めて、瑪珠貝傑摩尊者に会い行き長寿法を求めるよう伝えた。その内の重点は非常に特別だ。三両の黄金を持って行ったのだ。古代に三両の黄金を準備するのは、現代に三百両を準備するのと同じくらい難しい。一両の黄金でマンダラ供養を行い、残りの二両の黄金は収められた。そなた達は必ず言うだろう。金が要るのか?金がなければだめなのか?と。金がなければだめなのではない。すでに福報がなく死のうとしているのに、黄金を残してどうするのだ?はっきり言えば、金で命を買うのだ。先ほど非常に多くの供養を行なったが、それはすべてそなた達の命を買ったのだ。

リンポチェは、そなた達みなに三両の黄金を出せとは言わない。法本は三両の黄金と言う。現在三両の黄金はおよそ十五万元だ。今日十五万元を出したか?法本は出さなければならないと言う。そなた達は誰も出していない。出していなくとも構わない。だが信じなければならない。恭敬心を出さなければならない。私たちのために、今後のリンポチェは大変になるだろう。供養が必要だとは、法本が言うので、私が言うのではない。法本は法王がお伝えくださったのだ。はっきりと説く。供養がなければ福報もない、と。

先ほど日本の信衆が出て来て供養した。そなた達にも、いつか皈依を決める福報があることを願う。一日皈依せず、やはり信衆なら、百回来ても千万回来ても役には立たない。非常に多くの日本の信衆は、皈依すれば管理されると思っているが、そんなことはない。中森は私の弟子だが、彼の生活は変わっていない。頼れるものがあり、何事かあればリンポチェに訊ね、リンポチェにアドバイスを求めることができる。そなた達はどうだ?何事かあれば医者に聞き、専門家に聞き、最後にはやはり死ぬ。私は皈依せよと迫っているのではない。私の弟子は多過ぎる。私は全世界に二千人近くの弟子がいる。そなた達数人がいようがいまいがどうと言うことはない。ただそなた達とは縁があるので、皈依しなければならないと伝えるだけだ。皈依とはそなた達を管理するのではない。皈依には非常に多くの良いことがある。そなた達は良い点がどこにあるか分かっていない。

法本には、レチョンパはこの法を得た後、四十四年長く生きたとある。四年長く生きれば、すでに十分すごい。四ヶ月でもすごい。そなた達の心は十分に恭敬でない。三両の黄金も準備していない。後ろの方でも続けて言う。長寿仏灌頂を受けた後、レチョンパはデプパの前に戻り、諸法の歷史を求めた。デプパは「私はこの教法を知っているが、導師が賦与された使命を完成した行者でなければならないと瑪珠貝傑摩尊者が指示なされた。よって私はそなたをそちらに派遣しよう」と言った。どう言う意味だ?つまりレチョンパの上師が教えたこと、説いたことをすべて行なった。行うように言われた事をすべてできてからでなければ、この法は伝えないということだ。法王が私にこの法を伝えてくださったのは、この理由に基づく。私が供養するからではない。私の供養は三両の黄金だけではない。あの日、法王が私たちをお招きくださった食事会に参加した者は、私がどれだけ供養しているか知っているだろう。

「よって私はそなたを向こうに送り請法させ、その後にそなたに完全な長寿仏灌頂法を授けよう」レチョンパはチベットに戻り、ミラレパ尊者と初めて対面した時、尊者は「そなたの以前チベットにおける深い教法を、贈り物として私に献上せよ!」と仰せになった。修行人の心の広さが見て取れるだろう。ミラレパにはこの灌頂法がない。ミラレパは弟子が学びに行くのを阻止しない。もちろんこの弟子は、導師が言いつけたことをすべて完成させなければならない。よって、贈り物として自分に与えよと言うのだ。閉関が終わると、私は毎回すべての功徳を法王に供養申し上げる。それはこう言うことだ。なぜ上師はこれを求めるのか?上師がこれを求めるのは、自分自身のためではない。上師はこれを求めた後、レチョンパの進歩を助けるからだ。この法を得たことで、彼は五方仏に供養できる。私たちがミルクから最高のバターを精錬するのと同じ意味だ。主尊の著名な無量寿仏は、寿命をとても長く延長し、ガムポパに伝えた。ガムポパはパクモドゥパに伝えた。この長寿仏灌頂は私たち直貢噶舉特有の法門だというのだ。日本にはない。チベットのあらゆる教派にあると言うのでもない。私たち直貢噶舉だけにあるのだ。私は法王の根本弟子だ。私は当然この法がある。他ではこの法を聞いたことはないだろう。なぜならこれは極めて秘密の法であり、適当に伝えるものではないからだ。

パクモドゥパには五百人の大弟子がおり法傘を掲げ、リンポチェと呼ばれた。だが代理人となるにはふさわしくなかったため、私のこの法座は十地優婆塞が継承するとしばしば言った。優婆塞は在家の修行衆だ。彼は怙主に伝え、大直貢巴仁欽貝の後は省く。これは直貢巴確記雑巴(前記大成就者の名は音訳)が書かれたものだ。この法の由来について紹介した。これは誰かが考え出したものではなく、誰かが創作した物語でもない。これにはすべて根拠があり伝承があるのだ。あらゆる灌頂法本にはすべて根拠がある。適当に書き記したものではない。

リンポチェは参会者を率い「あなたが私の導師であることを嬉しく思う。上師が私を敦促くださるよう願う」と念じられた。この言葉の、上師とは何をするのだ?敦促だ。敦促とは監督だ。学仏するよう少しは迫るのだ。友達になるのではなく、冗談を言って笑い合うのでもない。そなた達はみな学校教育を受けたことがある。学校で学んでいた時、よく来たね、と教師は笑いながら言ったか?そんなことはないだろう。間違っていれば叱ったはずだ。よって上師は絕対にそなた達と笑い合ったりしない。笑い合うのは、黄金をよこせと言うことだ。「直至円満菩提果,怙主大勝賜予我,加持誓言賜予我,菩提信心賜予我,仏陀勝法及勝尊,皈依三宝賜予我,円満解脱浄土中,祈願怙主引導我」祈請文のこの段は非常にはっきり説いている。成仏するまで上師はひたすら助けてくれ、上師は菩提心の心持ちを授け、阿弥陀仏浄土へ円満となるまで皈依できるよう助け、上師はそなた達を導く。これには皈依が必要だ。先ほど「皈依三宝賜予我」と言った。皈依していないならどうしようもない。導こうとしても、導くことはできない。

リンポチェは参会者に観想の方法を教導くださり、みなを率い『七支供養』を念誦くださった。『七支供養』は因縁福報があり灌頂を受けられるよう私たちを育ててくれる。リンポチェは修法を継続された後、開示なされた。

続いて、この一段は一般にリンポチェはそなた達に修めないもの-摂寿だ。なぜなら私たちの寿命は私たちの福報だからだ。私たちの身体は五大元素が結びついてできている。肉と骨は地、血は水、体温は火、呼吸は気、つまり風、体内の一切の空間は虚空だ。つまり外界の五大元素は私たちの身体に備わっているのだ。宇宙全体の結合は地風水火空で、私たちの身体もそうなのだと言うことだ。一定の年齢になると、寿命は減退する。そのため、摂寿法を修め、外界の五大元素を身体に備えなければならない。

内在の地風水火と意識は損害される。つまり寿命の損害、散(寿命が散じてしまう)、破(破られてしまう)、湾(湾曲してしまう)、裂(破裂してしまう)、搖破であり、魔鬼に奪われる。一切の地風水火空からの精華と諸仏菩薩、上師、本尊、空行、護法等の加持、受自在の受持名、六道衆生の寿福財命身権気の一切の力量の精華は、自身に授摂融入する。

ここで言う「魔鬼に奪われる」の魔鬼とはどのようなものだろうか?自分自身の心の魔鬼の他に、衆生を害したことで来る魔鬼もある。衆生の肉を食べれば、衆生は身体の中で、そなたの寿を奪う。ガンは正に肉食から来たものだ。魚を食べれば、非常に多くの病が来る。心臓病もそうだ。この摂寿を通して、あるべき寿命を取り戻すことができる。

リンポチェは修法を継続された後、姿勢を正すよう指示なさり、みなの四大、即ち私たちの地大(骨と肉)、火大(体温)、水大(血)、風大に修法加持くださり、みなに灌頂くださった。

灌頂は円満となり、リンポチェは開示なされた。

午後は火供を修持するので、簡単に紹介しよう。火供は金剛乗(密法)では非常に殊勝な法門だ。チベット仏教においては、リンポチェ果位でなければ火供を修めることはできない。火供を修め一切の仏、護法、菩薩、本尊に供し、六道衆生に布施する。そのため非常に迅速に私たちの業障を消し、修福と修智慧の資糧を円満とし、世間と出世間の成就を非常に速く得ることができる。つまり、長期的に火供に参加すれば、特に皈依弟子が上師を敬うなら、世間法であっても成就が得られる。何を世間法と言うのか?妻を娶りたいなら娶れ、嫁に行きたいなら嫁に行け、金儲けしたいなら金が儲かる。すべてで成就が得られる。火供は息懐増誅に分かれる。息では、私たちの身体の病と障礙を鎮めることができる。増では、私たちの寿命、福慧、財富、快楽を増強できる。懐では、病を癒し、しかも財富、権勢、地位、人の縁等を増やすことができる。誅では、一切の良くない悪行、悪業、障礙等を克服できる。

火供で得られる出世間の利益は、息では、所知障、煩悩障を消すことができ、金剛薩埵、すべての息本尊の報身仏果位が得られる。増では、福徳、智慧の二種の資糧を増やせ、南方宝生仏と本尊報身仏の果位が得られる。懐では、福徳、智慧の二種の資糧を勾召でき、所知と煩悩の二障を消し、西方阿弥陀仏とすべての懐本尊の報身仏成果が得られる。誅では、我執を断ち、四魔を除くことができる。四魔とは病魔、煩悩魔、死魔、天魔で、忿怒尊の般若智慧により、この二障四魔を打ち破り、北方不空成就仏諸本尊の報身仏成就果位が得られる。

火供とはなんだろうか?火供は金剛乗の非常に殊勝な法門で、供品を燃やす方法で本尊を供養申し上げ、諸仏に上供し、六道に下施し、これにより私たちは非常に速く業障を消し、智慧資糧を円満とでき、二種の成就、世間と出世間の成就が迅速に得られる。

仏法の修行は、外在の有形の種々の儀式を通して、一人一人がもともと有する内在の仏性を啓発し、それにより離苦得楽するものに他ならない。この種の火供は、修行者が火供を行う時には、壇城を、仏や護法神がおられる宮殿だと観想する。壇城の外在は火のイメージで、内在は仏、護法神、その眷属に分けられる。眷属は、供品を無量無辺の供品と観想し、上供下施する。行者の修行の功徳力と諸仏菩薩の加持力、及び参会者の虔誠力を通して、迅速に業障を消し、六道を円満とし、心の本性を証悟し、自利利他する。

よって火供では三者が非常に重要だ。修行者に功徳力がなければ火供を修めることはできないし、諸仏菩薩の加持力を得ることができなければ、この火供は役には立たない。だが参会者(つまりそなた達)に虔誠の力がなくても、役に立たないのだ。

供養の対象は大きく四類に分けられる。諸仏菩薩、本尊供養、私たちは護法と能力が高い天神に対して供養する。一切の有情衆生に供養し、鬼道と餓鬼道に供養し、同時に私たちが悪業を為した債主に特別に供養する。

火供にはどんな功徳があるのか?出世間の成就だ。息の火供は所知、煩悩の二障を消し、増の火供は、福慧の二種の資糧を増やし、懐の火供は、福慧の二種の資糧を勾召し、誅の火供は、我執を断ち、四魔を除く。世間の成就では、息の火供は、私たち自身の病痛と障礙を鎮め、一切の悪行、悪業を克服し、増の火供は私たちの福慧寿命、財富、円満快楽を増やし、懐の火供は火供の力を通して、病痛を癒し、権勢地位、人の縁を増強し、誅の火供は、悪行、悪業障礙等を克服する。増寿、除病、改運、開智慧、種福報、子宝、化解災厄、商売繁盛、家庭円満、国家平安すべてにわたり、功徳は無量無辺と言うことができる。

火供には、非常に多くの供品がある。だが今日は説明しない。多過ぎるからだ。

どんな時火供が必要なのか?閉関する人は、持咒または観想において不清浄な障礙が消え垢が清められ、閉関の成就を得ることができる。よって閉関の円満には必ず息増懐誅火供を修めなければならない。もし四種をすべて修めることができないなら、少なくとも息の火供を修めなければならない。

犯無間罪とは父母を殺し、阿羅漢を殺し、僧団の和合を破り、仏血を出し、三昧耶戒を破る等だ。先ほど、そなた達を率いて法本を念じたが、念じるなと言うのは、念じないなら三昧耶戒を破ることはないからだ。念じて行わないなら、三昧耶を破ることとなる。三昧耶を破れば成仏の機会は極めて少なくなる。

発露懺悔し頂礼大礼拝小礼拝し、繞仏し咒語を誦じ、再び犯さないと発願し、仏菩薩の面前で懺悔する。その後さらに息火供を修めれば破戒の罪障を消し去ることができる。懺悔しても火供に参加しないなら、この罪障はやはり不清浄だ。特にいつでも懺悔を口にし、「リンポチェに懺悔いたします」としばしば言う者がいるが、心の中では真の懺悔をしていない。懺悔の意味は上の方に書いてある。はっきり聞くように。「再び犯さない」だ。そなた達は一日中犯している。ただ謝っているだけだ。

火供に参加した後、この火供で残った灰を往生者の身体の上か位牌に置く。死後に遺体がすでに火葬されているなら、位牌の上に置き、この火供の灰を甘露だと観想し火供の壇城本尊に供養すれば、往生者の業障は消え、煩悩所知二障は永遠に断たれ、福徳は増加し、済度が得られ、浄土に往生できる。

廟や舍利塔を新たに建立する前には、息増懐誅火供を修めなければならない。それは火供が界の法を含んでいるからだ。こうすることで工事は順調に完成する。国家に戦争、地震、台風、水害、火災が多いなら、火供を修めれば三災八難はすべて滅し消えてしまう。舍利塔、仏塔、廟が開光し、連続大灌頂が円満になった後には火供を修めなければならない。個人としては消災祈福で安楽を得られ、煩悩を解くには、火供を修めるのは最善だ。修行者が修行中に逆縁に遭遇し克服できないなら、上師に火供を修め遣除してもらうことができる。

なぜ火供のものを燃やしてしまうのか?ミラレパ尊者は仰せになった。貪の執著を断ち切るためだ。すべての供品を布施して燃やしてしまうのは、貪を断ち切るには最良の方法だ。供品を燃やさないなら、この種の実質的なものは人道の衆生にだけ与えることができる。だが人道の衆生に供養し布施するのは、実体の供品が存在するからで、受者は食物に対してかなりの執著がある。これでは供養の意味がない。よって火供時には供品を燃やしてしまう。なぜなら、この時施者と受者は同様に執著を持たないからだ。私たちは清浄で純粋な動機で火供を行わなければならない。受者であろうと智慧本尊に供養するのであろうと、或いは鬼魅等に供養するのであろうと、すべて受け取ることができる。火供の過程では、持咒及び観想等に対応し、布施供品を真実に観想できるのなら、利益功徳がさらに増す。

火供の最大の特色は何だろうか?火供は、世間、出世間の一切すべての善願を実現するのに、最も迅速な方法だ。火供の特色は、その利益が非常に速く現れることだ。一切の供品を火中に投入するが、本尊は火中に安住する。火は一種の動の性質を示し、その事業を、息懐増誅の願力で一致性に出現させる。通常煙供を利用し本尊、護法に祈請し威猛事業を行う時には比較的困難だ。だが火供を利用し智慧本尊の降臨を求め、威猛事業を本尊に寄託する。例えば、邪霊鬼魅を消し去る等は、直ちに効果が現れる。主法者はその場で、邪霊鬼魅等を火中に投入し、それらの屍体を甘露に変え、供養とすることを観想できる。よって火供の効果は最大なのだ。

火供主法者の条件は、何らかの本尊の成就だ。つまり、修法するこの人は、観音菩薩であろうと阿弥陀仏であろうと必ず本尊成就を修めていなければならない。何を成就と言うのか?持咒で成就が得られると言うことだ。持咒で衆生を解脱生死させられ、衆生を済度させられ、顕密円融で、伝承に必要な儀軌を具備している。その人は、顕教密宗共に非常に円融に用い、しかも伝承があり、一切の儀軌を知っており、大菩提心、つまり非常に大きな慈悲心を備えており、清浄の三乗を具足している。三乗とはなんだ?在家五戒、菩薩戒、金剛乗戒だ。一般の仏教儀式とは異なり、火供では主法者に対して比較的高い要求がされる。先ほどリンポチェでなければ修められないと言ったのはそのためで、しかも閉関して成就を得たリンポチェでなければ火供を修めることはできない。

火供の聖像(火供を修める際の特別に見る方式):禅定の力(修法人の禅定の力)が十分か?奉仕の功徳、修法の方法、咒語の加持力、仏法の威徳力が火壇を本尊か壇城に変える。

火供に参加する人は何を備えていなければならないのか?第一に、前行発心が殊勝でなければならない。前行とは私たちの動機(火供参加の動機)だ。発心が最も殊勝で、発心が円満なら、世間、出世間の一切の成就を必然的に得ることができる。現在の安楽のための発心なら、上師三宝の加持により満願となるが、この発心は非常に小さく、火供は第一の殊勝を具備していない。もし世間成就の祈願をどうしても放棄することができないなら、一切の衆生への利益を祈願し、諸仏菩薩の加持により自分が財富、地位、権力等を得られることを希望する。注意せよ。祈願の前には必ず一切の衆生への利益を加えなければならない。自分のガンを治すため、自分の長寿のためだけで、衆生を忘れてしまうなら、利益を得ることはできない。自分の仕事のためだけなら、利益を得ることはできない。必ず一切の衆生のために法会に参加しなければならない。これは修法の前に先ずは教えておく。

今日私たちは息法を修めるので、先に息法に参加する発願を教える。私と一切の衆生の業障、罪障が、火供に参加することで、すべて消えてしまい、一切の貪嗔痴等の煩悩、邪見、違縁がすべて消えてしまうことを願う。修法の際に行者が火供中に安住心性の能力を具備しているなら、それは最も殊勝だ。つまり主法者自身の定力が非常に重要なのだ。定力が不十分なら、火供の場は乱れに乱れてしまう。

火供を行った後の迴向は非常に重要だ。火供を修めた後、道場に戻り護法を修め迴向を修める。

また、列を作って順番に供品を受け取る時、割り込んだり、他人を押したりしてはならない。譲り合うように。供品を火中に投げ入れる時、私たちは時計回りに壇城を一周巡る。第二に、供品を火中に投げ入れる時には十分注意するように。供品が周りの人たちに飛び散らないようにし、碗を火の中にいっしょに入れてはならない。トレーを投げ入れてはならない。かつて起きたことがある。さらに安全に注意しなければならない。供品を火中に投入する時には、火が自分の方に向かっていないか注意し、注意して火を避け、ぶつかり合ってはならない。少し説明しておく。

長寿仏火供

午後2時30分、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは京都寶吉祥仏法センターの庭で法座に上られ長寿仏火供を修持なさった。リンポチェは摂氏4度の低温の中、苦労を厭わず衆生のために修法くださり、修法前に火供壇城の周囲に一つ一つ吉祥草を置かれた。火供壇城に点火された数分後、炎は数メートルの高さまで上がり、轟々と音を立てて燃え盛った。炎は絶えず様々な瑞相を示した。濃厚な白檀の香りが漂い、本尊が降臨された殊勝なる瑞相を示した。

リンポチェが修法なさると、もともと曇っていた空は晴れやかになり、修法の最中には天空に祥雲が現れ、鳥の群れが道場周囲の樹叢の中で心地よい鳴き声を響かせた。これはリンポチェが修法時に本尊と相応した大威徳力、大慈悲心、諸仏菩薩と龍天護法がやって来て賛嘆し護持くださったことを示している。また、火供の最中には細雪が舞ったが、その場にいた多くの人は雪が顔に落ちると直ちに溶けたのを感じた。極めて殊勝な祥瑞である。

火供儀軌の最中、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、各式供品を絶えず持咒加持なさり、供品を自らの手で火供壇城に投入できるよう、参会者が手に持つトレーに供品を迅速に分け入れられた。これにより参会者は仏菩薩と本尊を直接供養し、救いを必要としている一切の衆生に布施でき、学仏の福報と慧命を迅速に蓄積することができる。リンポチェの殊勝な加持の下、参会者は虔敬な心で、粛々と壇城を巡った。

リンポチェは、参会者一人一人が供品をタイミングよく受け取ることができるよう、みなの歩みと状況に常に心を配られ、視線で絶えず衆生を加持くださった。右肩関節の軟骨組織が失われているにも関わらず、絶えず持咒、観想、法本念誦をなさり、供品を分け与える動作は3千回余りにも上った。そのお身体に対する負担は想像できないほどだ。火供修法は3時間にも達したが、リンポチェは途中で休息を取られることもなく、すでに夕刻が近づき空も暗くなっていたが、懐中電灯の微小な光に頼りながら持咒修法を続けられ、余すことなく生命のすべてを以って衆生に利益なさった。

火供儀軌の最中、リンポチェは白いトルマを火中に投入なさったが、トルマは一瞬にして消失した。火供が終わりを迎えるころ、信衆と弟子が道場内に戻り、リンポチェはまだ屋外で修法なさっていた時、トルマをまた一個火中に投入されたが、それも瞬間的に燃え尽きてしまった。一般にトルマはバターとツァンパで作られるが、火中に入れれば、燃え尽きるには少なくとも数秒間は必要だ。大きいものなら、一分間ほど経ってようやくゆっくりと燃えていく。だが、この二つのトルマは共に瞬間的に燃え尽きてしまった。これは本尊がこの供品を喜んでお受け取りくださったことを示している。

リンポチェは六道衆生に利益する大慈悲願力、及び大菩提心と金剛乗の殊勝な成就を具備しておられるので、屋外の、このように低温の状況においても長時間修法することができ、お疲れの様子を示されることはない。これにより参会者の恭敬心と信心は沸き起こり、落ち着いた心で粛々と参加することができた。

火供が円満に終了し、リンポチェは再び道場内に戻り法座に上られ、参会者に殊勝なる仏法の開示をくだされた:

チベット仏教の伝統に則れば、長寿仏には火供と言うこの法本はない。私は2017年チベット曆の10月8日、長寿仏火供の法本をお授けくださるようチェ・ツァン法王にお願いした。法王がお許しくださり、ナンジュ・ケンポスが翻訳され、今日こうしてこの法本がここにある。

今日火供に参加した信衆は、私が信衆と言うのは、そなた達はみな皈依していないからだ。今後再び何らかの悪業を為すことがないなら、火供では火神に供養をお受け取りくださるよう願う。そのため、この一生で火供に参加したことがあり、今日の法会に対して恭敬心を持ち、上師に対して恭敬心を持ちさえすれば、この一生を通じて火神が保護してくださる。つまり、家庭内とそなたに関係がある場所では火災が発生しないし、そなた自身が火災で死ぬようなこともない。もちろん、十分な信心があるかないかが最も大切だ。仏法の考え方では、修行人は衆生を助けることができるが、衆生に信心がなく、なお懐疑しており、自分自身の方法を考えているなら、この加持は無くなってしまうという。

今日一日を費やした法会は一切円満となった。よって護法を修め、私たちを護持くださり、身口意が一日静まり、法会に参加できたことを護法に感謝申し上げる。

(壇城を担当する弟子が、法会後になってようやくリンポチェに点灯供仏をお願いしたので「法会が始まっても点灯されていないとは。そなた達は全くもってバカだ」とリンポチェは弟子を叱責された)

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を率いアキ護法と迴向儀軌を修持くださった。修法後、リンポチェは継続して開示くださった︰

今日は長寿仏を修める。すべての信衆と弟子の今年が、一切如意で平安、順調であることを願う。またここで日本の信衆に言おう。私は台湾の苗栗に四万坪の土地を買い、寺と閉関できる場所を建設している。この寺は、完成後には、東南アジア最大のチベット仏教の寺院となる。大殿では同時に2千人から3千人が法会に参加できる。閉関の場所では一人一室が閉関のために使え、計40人の女衆と40人の男衆を収容できる。

台湾の山間部で寺を建設するには、政府の法令による許可が必要だ。二年間を費やし、かなりのお金もかかったが、環境アセスメントを通過し、すでに合法だ。現在は地目変更を申請している。農地を宗教用地に変更するのだ。私は何事においても法の遵守を重んじるので、建ててしまってから申請しよう、と言うことはない。今年の五月までには建築許可が下りる見込みで、建築許可が下りたら、二年の間に寺は完成するだろう。寺が完成したら、直貢噶舉では在家上師伝承が唯一始めた寺となる。総工費はおよそ31億円ほどになる。現在非常に多くの信衆がこの行動を支持してくれている。

今日みなに修法する。みながこの法縁を大切にしてくれることを願う。私が来たので行うだけだ、などと思ってはならない。そうではない。縁がなければ来られないし、縁があって来られても、罰せられることもある。私のこの三人の弟子は罰として大礼拝を行なわされている。なぜか?それは私が供品を配布していた時、彼らは三回以上も供品を受け取れなかったからだ。なぜ受け取れなかったのか?上師に注意せず、自分自身にだけ注意し、心ここにあらずで、何を考えているか不明だったからだ。私の動作は一定の放物線を描いて外に向かっていたのだ。受け取れない理由などない。日本の信衆の中には一回目に受け取れず、二回目にも受け取れなかった者もいたが、三回目には受け取れている。私の弟子であるにも関わらず、三回目でも受け取れなかったなどと無茶苦茶なことを言っている。それは私がそなたに与えなければならないと言うことか?自分が心を配っていなければ、上師が与えようと思っても、与えられない。簡単なことだ。そなたに供品を与えても、そなたは受け取れない。それはそなたの心が上師の上にないからだ。

日本の信衆は皈依しようとせず、学仏しようとしないが、少なくとも今日の法会に参加し、非常に重要だと知っており、簡単なことではないと知っており、この法会が頻繁にあるものではないと知っている。そのため、その心は全て法会に注がれている。日本の信衆の方がそなた達より良い。そなた達は何かを助けて欲しいと一日中リンポチェに求めている。反対にこれら信衆は、私を供養してはいないが、少なくともその心では私に供養している。リンポチェの弘法は金銭にこだわらない。金銭にこだわるなら、私はとっくに大儲けしているはずだ。なぜなら私は非常に高い能力を有しているからだ。

今日みなはこの福報があり、この法会に参加できた。すべては自分自身の累世で修めたものなのだ。私が特別にそなた達のために法会を行うのではない。私が法会を行うのは、何か特別な対象があって行うのではない。その日が至れば、その日に法会を行い、そなた達は来るなら来るし、来なくとも私はそなたを呼んだりしない。今年が皆にとって順調な一年となるよう願う。今日午前中の灌頂の際に、すでにそなた達に注意した。なぜ寿命が減るのか?それは身口意で悪を為すからだ。なぜ重病に罹るのか?身口意で悪を為すからだ。誰かに害されるのではなく、自分自身で自分自身を害しているのだ。みな金儲けを望んでいる。だが金は儲けても持って行くことはできない。棺の中には一銭も持って行くことはできないのだ。だが私たちは金儲けのために、この一生で人を騙す非常に多くの事を行い、為すべきでない非常に多くのことを行なっている。これらは寿命を減じてしまう。

今日はそなた達のために修法した。そなた達のあるべき寿命を取り戻せることを願う。取り戻せない人もいるかもしれない。だが少なくとも本尊と縁を結ぶことはできる。この縁を結べば、往生の際に経験する苦痛がそれほど多くなく、比較的スムーズにこの一生を終えることができる。不要な苦痛を受けることがなくなるのだ。私は今年七十三歲だが、どうあろうと、私の身体はそなた達より良い。朝9時から修法を始め、正午に三十分休息しただけで、午後は三時間ノンストップだった。この一点をとっても、日本の信衆はこれ以上仏を信じないなら、私に申し訳が立たない。外で三時間ぶっ通しで何かを行う能力があるか?行う気があるか?他人のために外で三時間行う。何もいいことはない。やる気はあるか?やる気などないだろう。やる気がないなら、誰かが自分のためにやってくれているのだ、そなたは助けになっていると思わないとしても、少なくとも私の心はそなた達を助けている。

仏の教導を、仏法の導きを、聞き入れ受け入れなければならない。それはそなた達にとって良いのであって、私にとって良いのではない。例えば、釈迦牟尼仏は仏であられるが、すべての人の運命をすぐに変えることはできない。そなた達が自分自身で変えるのだ。聞き入れ、行うと決めれば、すぐに運が転換する。私の皈依弟子である中森は、皈依するまでは非常に多くの煩悩を抱えていたが、皈依した後は煩悩が減り続け、生活も安定した。物事は非常に微妙なのだ。今日はもう遅い。みな空腹だろうから、もうここまでにしよう。もっと話して欲しいとみなが望んでいると知っているが、私ももう七十三歲だ。もうこれ以上話せない。みなしっかり夕食を摂るように。

午後6時に長寿仏火供は円満となった。弟子達は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる開示に感謝申し上げ、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を下りられるのを恭送申し上げた。また会場を離れられる時には、貴重な長寿仏寿丸と寿酒を恭敬してお受け取り申し上げた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは長寿仏法会と長寿仏火供を主法くださり、仏菩薩と本尊に直接供養申し上げ、救いを必要とする一切の衆生に布施し、これにより学仏の福報と慧命を迅速に累積する機会をくださった。法会の最中には多くの瑞相が現れたが、それは殊勝なる法会に対する諸天護法の賛嘆であり、無数の衆生に饒益することができた。

後記:

法会の終了後、リンポチェは法座を下りられ、城崎温泉寺の小川祐章住職に微笑みを浮かべて歩み寄られ、住職の父の近況に親しく心を寄せられた。リンポチェは、助けが必要なことがあるならリンポチェに言うよう仰せになった。

2020 年 01 月 10 日 更新