お知らせ

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは日本において『金剛経』を開解し、「施身法」を円満に主法された

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは2019年8月16日京都寶吉祥仏法センターで『金剛経』第八品から第十品までを開解され、午後は施身法を修め、『金剛経』を念誦された。参会者は、日本及び台湾の信衆20人、日本及び台湾の弟子70人の計90人で、法会は殊勝円満となった。



金剛経の開解

午前9時30分、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは楽の音、薰香、宝傘に先導され、みなが合掌して恭しく迎える中、壇城に上られた。諸仏菩薩に恭敬頂礼し、尊勝なる直貢チェ・ツァン法王の法座にハタを献上し、点灯供仏後に法座に上られた。

先ず出家領衆弟子が参会者を率いて皈依発心、短マンダラ供養、伝法を祈請、『八聖吉祥祈禱文』を念誦した。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは六字大明咒を長く持誦なされた後開示くだされた︰

今日午前中は『金剛経』を開解する。日本の仏教は顕教部分だ。顕教の顕とは「明らか」のことだ。拝仏、写経、焼香等を含む仏が仰せの一切の経典はすべて顕教の部分だ。顕教とは仏法の一切の理論基礎だ。チベットでは顕教基礎を10年以上学んでいなければ、密法を学ぶことはできない。咒語でさえも伝えてもらえない。日本では唐代以前に、中国へ仏法を学びに行き始めていた。そのため中国顕教のすべての宗派、例えば浄土宗、禅宗等が日本に伝わった。現在日本の多くの寺では主に禅を修めている。

胡座をかいて三十分、一時間座っていれば、禅宗を修めたと言えるのか?この考え方は間違っている。これはただの瞑想だ。静かに座っているだけだ。禅宗を修めたいなら、禅宗を修める根本理論がどこから来ているのかを必ず理解しなければならない。釈迦牟尼仏は数冊の経を講じておられる。第一部『金剛経』、『大般若経』、さらに四、五冊の経はすべて禅宗の根本理念基礎を講じておられる。すべての経の中で、『金剛経』は比較的広く流伝している。なぜか?それは唐代に禅宗六祖慧能法師が『金剛経』中の二言を聞き開悟されたからだ。そのためそれに続く人々は『金剛経』を主とするのだ。

『金剛経』に対する誤った盲信的な流伝が非常に多い。『金剛経』を写経し、『金剛経』を一度念じれば、運が良くなると考えている。家に『金剛経』を置いておけば、鬼と魔は入って来られない、と考えている人も多い。これはすべて迷信であり正しくない。最も重要なのは、生生世世に『金剛経』を拝読し、内部の理論を学び、『金剛経』を修行の根拠とすれば、最後には必ず一切の衆生の輪迴苦海を断つことができ、必ず衆生を救い済度させられ、生死の苦海から彼岸(仏土)へと離脱させられるということだ。これこそ『金剛経』の真の本意だ。

禅宗は達摩祖師がインドから中国本土へ伝えられた。チベットでは大手印を修めるが、それもインドからチベットへ伝わった。大手印と禅宗ではどこが違うのか?実はすべて禅定修行を主とする。ただチベット仏教で禅を修めるものは必ず上師の灌頂、授権、教導、閉関を経て、密法の事部、行部以上まで修めなければ大手印を修めることはできない。禅宗は六祖慧能以後に広く流伝した。寺で一日や二日や七日座っていれば、それが禅宗修行だと誤った考えを持っている人が非常に多い。実は六祖慧能の後、禅宗の衣缽は伝わっていない。六祖の後には七祖、八祖、九祖がおられない。禅宗の枝葉だけが伝わったのだ。だがチベットの大手印と大円満の伝承はやはり伝わった。

現在日本の寺では、出家人が開示する『金剛経』を聞ける機会は非常に少ない。さらにはそなた達を率いて念誦できる者も非常に少ない。そのため『金剛経』を聞き、念じる機会を持ちたいと多くの人が願っている。禅宗では言う。禅宗を修める人は利根器を有していなければならないと。利根器とはなんだろうか?それは上上根器だ。つまり生生世世でひたすら仏法を修行学習し、禅を修行しているのだ。この一世になって、六祖慧能のように、『金剛経』内の二言を聞いただけで自然に開悟することができる。六祖は文盲だった。経典を読むことは全くできず、聞いて開悟されたのだ。つまり経典は、研究するための教材でも学位でもないということだ。この種の根器がないなら、これ以上講じても役には立たない。

それなら、私は今日何をしにきたのか?今日はみなのために種を蒔く。これにより、生生世世に今後、『金剛経』中に福徳因縁があり、修行の根本的な条件とすることができる。理解した後は妄信せず、『金剛経』を拝めば、金剛のように運が良くなるなどと思ってはならない。これこそ迷信だ。『金剛経』を拝めば金が儲かる、健康になれるとは、『金剛経』のどこにも書かれていない。だが一人の人が一生で専ら禅宗を修めるなら、身体はゆっくりと良くなるだろう。

だが問題はそこだ。禅宗の修行においては、必ず出家しなければならない。なぜなら禅宗を最後まで修めると、いくつかの事は、絶対にあってはならないし、絶対に行なってはならないからだ。在家の者が禅宗を修めるのは非常に難しい。それは毎日非常に多くの煩悩があるからだ。レストランを開いている者は、今日の売り上げを心配し、食材が入って来るかどうかを心配する。どうして禅宗を修めることができるだろうか?禅宗とは、一切の執着を捨て去った人でなければ修めることはできない。チベット仏教の大手印は、密宗の密法が手伝ってくれるため、心が非常に速く清浄になる。

在家であろうと出家であろうと学仏したいなら、菩薩と仏の名号を唱えるのが、救いが最も多い。だがそなた達の『金剛経』に対する強い憧れを満たすため、私は日本で『金剛経』を開示する。寶吉祥の京都の道場に、法王は、禅修行の道場、と命名くださった。禅修行の道場とは「この道場は非常に簡単だ」との意味だ。奇妙でおかしいことは何もない、ということだ。例えば、何に供養せよ、何を建てよ、などとそなた達に命じることは全くない。簡単だ。「禅を修めよ!」だが簡単なため、これで日本の信衆を惹きつけるのは非常に困難だ。それは日本の信衆がここの仏法の方式にすでに慣れてしまっているからだ。ここの仏法の方式は経典が講じるものではないのか?私は思い切って言おう。そうだ。そうではない。経典は、このタイプの仏法の方式について説いたことはない。これは今日検討することの範囲ではない。

今日は『金剛経』を開示しそなた達に体感させる。学仏とは表面的なものではないのだ。重要なのは心だ。仏法を用いて心を調整し、ゆっくりと成仏の道へと歩む。もちろん絕対にこの一世ではない。生生世世だ。だが現代人は非常にせっかちだ。耳にしたら、すぐにできるようになることを願う。何かに参加したら、物事がすぐに得られることを願う。そんなことはない。私はしばしば例を挙げる。みな学問したことがあるだろう。幼い頃に幼稚園に通いだしてから、博士課程を終えるまで、何年かかるのか?20年かけなければ絕対に博士号を取ることはできない。それなのに、なぜ仏法は、聞けばすぐに理解できると思うのか?釈迦牟尼仏は49年間説法なさった。そなたは49年間仏法を聞いたのか?何を以って理解できる、悟れると思うのか?

今日はそなた達に善の因縁を累積してやるだけだ。善の因縁があれば、この生と未来世で必ず仏菩薩と深い縁を結ぶことができ、必ずある一生、ある一世で仏法を学ぶ機会がある。経典では説く。学仏はゆっくりと絶えず累積する必要がある。六祖慧能のような、この種の利根器でないなら、すぐに得られるのではない。この場にいる者の中に、六祖慧能のような人は一人もいない。また一度の法会で理解させ、開悟させることもできない。どれだけの寺を参拝しようと、真の仏法を聞かなければ開悟は不可能だ。

では我々は何をしにここに来たのか?ビジネスをしても、アルバイトでも良い、何かを買おうと思えば、必ず金が要る。金銭は少し働けばすぐに得られる、というものではない。ゆっくりと累積するものだ。仏法もそうなのだ。時間をかけて福報を累積し、本来備えている智慧を開く必要がある。これは一日二日、一年二年、一度や二度の法会でできるものではない。私自身についていえば、自分は利根器であるとはとても言えないが、少なくとも私の根器はそなた達より良い。だが、それでも修行を停止することはない。直貢チェ・ツァン法王はかつて公の場で「この弟子は24時間1秒足りとも修行しないことはない」と仰せになった。食事しているのを見て、食事しているじゃないか、などと思わないでもらいたい。私は食事中もやはり修行しており、就寝中も修行している。修行を止めたことはない。

法会のために日本へ来る前、私は北インドへ行っていた。法王の生誕日であったためだ。200人の弟子を率い北インドのラダックに8日間行っていた。そこは標高3千m余りあり、酸素は薄く木もない。多くの弟子が高山病になったが、私は大丈夫だった。8日間の後、台湾へ戻り、二日間休息して、私はすぐに二日間閉関した。8月11日に2万人余りが参加する「阿弥陀仏無遮大超度法会」を開催する予定があったからだ。大法会の終了後、私は日本へやって来た。每年8月16日に日本で開催するこの法会のためだ。これは何を示しているのか?良い点がない事だ。

そなた達は少しでも多くの金を稼ぎたいと毎日思っている。私の毎日はすべて献身だ。年に一度、2万人の大法会を開催しても、一元足りとも儲からない。純粋に献身だ。今日来たのも純粋な献身だ。それは仏法内でひたすら絶えず衆生に利益している人がいれば、今日参加している日本の信衆は仏、仏法、説法者に対して尊敬の念を抱くからだ。そなた達も私のようにできるなら、私はそなたを尊敬する。反対に、そなた達にはできないなら、そなた達は私を尊敬する。それは、私がそなた達より優れているからではなく、私が、仏が講じる修行人のあるべき態度を有しているからだ。そなた達の態度はすべて先ず自分のことを考える。

今日は『金剛経』を開示し、学仏の心構えをそなた達に体感させる。拝仏し、写経し、木片に名前を書いて木片を投げ入れて護摩を行うだけで、運命を変えられるなら、私は修行する必要はない。私の上師であられる法王も修行なさる必要はない。誰もが木片に名前を書いて燃やし、読経すれば、それで福祈願をしていると思っているが、決してそうではない。非常に多くの衆生を救うために、非常に多くを学ばなければならないのだ。そなた達には衆生を救う資格はない。そのためそなた達は集中しなければならないのだ。何に集中するのか?仏法がそなたと衆生の生死解脱を助けてくれると必ず信じなければならない。

非常に多くの人が生死解脱などどうということはないと思っており、次の一世、過去世があるとも信じていない。先ず医学的な観点からこの問題に切り込もう。一卵性双生児は、同じ卵から生まれた双子だ。二人の子供は生まれた後、同じ環境で成長する。それなのに性格は違う。好きなものも違う。将来の結果も同じではない。これは前世から携えて来た業の違いを示しているのだ。

我々には必ず未来世がある。どういう根拠があって、未来世があるというのか?科学的に言おう。数年前あるニュースを見た。スコットランドで9000年前の人骨が発見された。検査の結果、人骨が発見された村に、この人骨の遺伝子と同じ遺伝子の人がいくらかいたのだ。つまりこの遺伝子が伝わったのが、未来世なのだ。

次の一世があると信じないなら、この一生でなぜこんなに苦労するのだ?次の一世とは未来だ。毎日こんなに苦労して商売し、勉強し、子供を育てる。なぜか?未来のためだ。未来を信じないなら、明日があるとさえ信じないなら、一日中死を待っていれば良い。つまり、この一生で発生する事はすべて過去世で作り出したものなのだ。次の一世の事はこの一生で作り出したものだ。『金剛経』はこの種の考えを教えてくれる。この種の考えを受け入れなければ、仏法を理解することはできない。この種の考えを受け入れられないなら、学仏していると考えないことだ。

仏法は他の宗教とは異なる。仏法だけが、生死苦海の離脱を非常に強力に教えてくれる。このような宗教は他にない。何を拝もうと、仏法だけにあるのだ。我々の生死苦海からの離脱を助けようと、仏は49年間も説法なさった。どうすれば金が儲かるかをお教えくださるのではない。金儲けなら、別の神を拝んだほうが金儲けの可能性があるだろう。実は修行人が金持ちになったり、健康になったりするのは、非常に大きな福報を累積することで、自然に出て来たものなのだ。求めたのではない。仏法で最も重要なのは、この言葉「生死苦海を離脱できるよう衆生を済度する」だ。仏法、上師、仏の救いに頼り、諸仏の仏土へ至るのが、真の仏法の本意だ。

この一生の短い数十年のために、そなた達の時間を浪費するなら、私の数十年の学仏経験から言えば、私は学仏で、この一生で何が起きてほしいなどと求めたことは一度もないが、非常に多くの事が良くなった。以前私はガンに罹ったが、後に良くなってしまった。かつて貧乏で食事をする金もなかったが、突然金を持てるようになった。この突然は、私が考え出したものではない。私が故意に作り出したのでもない。非常に自然に発生したのだ。私は数十年学仏しているが、それは「如何にして生死苦海を離脱できるよう衆生を済度するか」これだけだ。もちろん非常に多くの衆生が非常に多くの欲望を抱いて私に会いに、私に求めに来るので、私はいくらかその欲望を満たしてはやる。だが欲望を満たした後に、その者がやはり改めず、自分の欲望を満たすことをひたすら求め続けるなら、私は停止する。私はしばしば言う。誰でも一度しか助けることはできない。一度助けた後、仏法を必要とするなら、私はサポートを続ける。一度助けた後、仏法を必要としないなら、この者に再び会うことはない。

私は台湾で1995年から衆生への利益を始め、救った人はどれだけになるか分からない。数えてみよう。每年2万人の大法会を15年間開催しているので、少なくとも30万人は私の法会に参加しているはずだ。法会後にも私に会いに来ているか?いない。私も会いに来ないように勧めている。それは私がひたすら多忙だからだ。私は日本と特別な因縁があるのだろう。そのため私は日本に道場を開設したのだろう。実は外来の仏教団体が日本で発揚するのは非常に困難だ。それは日本人は外の人をあまり信じないからだ。外の人を受け入れず、先ず懐疑心を持って相手を見る。そのためこの十数年、私は日本で名も利を求めず、黙って行って来た。信じる人がいればそれで良い。

リンポチェは「これを日本の信衆に伝えよ。足を組んではならない。足が痛いなら、イスに座り後の方に座るように。足を組む、この動作は失礼だ。あの者に訊ねよ。天皇に拝謁する時にもこの様にするか?天皇に会う時にもこの様に座るなら、仏像の前でもこの様に座って良い」と日本語通訳に指示された。〔その信衆は元の場所にとどまれると答えた〕なぜ足が痛くなるのか?それは普段肉を食べ、血気が良くないからだ。少し忍耐すれば、この痛みはすぐに無くなってしまうのだ。

依法出生分第八

経典︰「一切諸仏。及諸仏阿耨多羅三藐三菩提法。皆從此経出。」

この言葉は非常に明確に言い表している。一切の仏の功徳智慧、修行の過程、菩提心等はすべて『金剛経』から出ているのだ。『金剛経』は経王と呼ばれる。この経がすべての経の王だと言うのではなく、学仏修行するには正しい心が必要で、『金剛経』から学習しなければ、明確にすることはできないと言うことだ。

経典︰「須菩提。いわゆる仏法者。即非仏法。」

須菩提は仏の弟子だ。『金剛経』ではこの類の話が非常に多い。「いわゆる仏法者。即非仏法」を説明するには、数時間かかり、そなた達も理解できないだろう。なぜ仏法があるのか?それは衆生が苦海で輪迴しているため、仏法が衆生を済度しに来たのだ。すべての衆生が輪迴を解脱したなら、仏法は存在しない。簡単に言えば、仏法の出現は衆生が必要だからで、この縁があり、縁が生まれたのだ。この縁がないなら、仏法は滅する。例えば、釈迦牟尼仏はかつて、釈迦牟尼仏の仏法の地球での時間はあと1万2千年だ、と予言なさった。それは1万2千年の後、地球の人類は仏法を受け入れず、この縁が無くなってしまうからだ。そのため、自分は現在仏法を学んでいる、と執着するなら、それは誤りだ。今日そなたは、自分がなぜ輪迴するのかを改めて認識しているだけなのだ。仏はお教えくださる。輪迴の原因がどうして来たのか、どうすれば二度と再び輪迴しないのかを。

「これを学んでどうするのだ?私の生活とは関係がない」と思っている人が多い。間違いだ!私は1995年から非常に多くの人を救って来た。人が一生で仏法を学習するなら、死に行く過程で苦しみを感じることはなく、非常に自然にこの一生を終えることができる。仏法を学ばず行善もせず、非常に多くの肉を食べ、殺生し、衆生の肉を利用して金儲けをしているなら、死ぬまでに非常に多くの苦痛を経過することになる。例えば、訳も分からず多くの手術を受けたり、ここを切ったりあそこを開いたり、死の前に多くの管に繋がれたり、息をひきとるまでこれがずっと続く。これこそ輪迴の現象だ。

密法のリンポチェは皆、死の五年前にどのような様子が出現すれば未来世はどうなるのかがはっきり分かっている。例えば、ひたすら手術を受ければ、地獄に堕ちる。例えば、ずっと昏睡状態で目覚めないなら、必ず畜生道に堕ちる。死の前に財や富のために、ありとあらゆる事を思い切れず、布施供養するのも勿体無くてできないなら、必ず餓鬼道に堕ちる。一生で非常によく修行したのに、死の前に傲慢の心が起きたため、阿修羅道へ行った修行人もいる。死の五年前を見れば、その人が必ず輪迴すると分かる。現在行うべき事を行い、学仏は余分なもので時間があれば学仏するが、金儲けが最も重要だと思っている人が多い。出家人と比べれば、そなた達をどうこう言うことはできない。だが私もビジネスをしている。私は現在200名近くの従業員を雇っている。私より忙しい者はいない。私は上海、日本、インドでビジネスを行なっている。そなた達が忙しいか、私が忙しいか?誰もがとても忙しい。時間ができたら法会に参加しようと思っている。これこそ仏法を軽視しているのだ。非常に多くの人が仏法は余分なものだと思っている。おそらくそれで、そなた達は誤解するのだろう。

ほんとうに仏法を尊重しなければならない。私は身を持ってそなた達に示す。私には200名の従業員がいるが、私はやはり法座に上りそなた達に説法し、弟子を率いて8日間すべての仕事から離れ北インドへ行った。そこでは携帯電話の信号さえ届かない。仏法を学べるかどうかは、そなたの決定だ。仕事、家庭のためではない。私にも子供がいる。そなた達は一二軒のレストランを開き、今日は客が来るので法会に参加する時間がないと常に言っている。一晩で100万円の売り上げがあるとしよう。私の売り上げは数千万円だが、私は仕事をしないで法会を開催することができる。これは決心次第なのだ。そのため私は学仏を開始し決心を下した後、私を阻止できる事柄はない。それは私がすでに決定しているからだ。

「いわゆる仏法者。即非仏法。」とはどう言う意味だろうか?我々は仏法を追求するのではなく、仏法は一定で不変なのではなく、必ず仏法があるのではない。仏法はどうして出て来たのか?それはそなたが必要だからだ。そなたが不要なら、仏法はない。今日法会に参加したので、仏法を得られたなどと思ってはならない。得られることはない。それはそなたが必要だと思わないからで、聞きにくれば福報があると思っており、しっかり理解した後で、いつか学仏しようとしか思っていないからだ。この二言の意味は、仏法がないのではなく、必ず仏法があると言うわけでもないと言うことだ。それは衆生が求めなければ仏法は出現しないからだ。不要なら、仏法はない。仏がそなたの面前に立たれていたとしても、仏法はそなたにとって役には立たない。それはそなたが不要だと思っているからだ。そなた自身が決めたのだ。仏がそなたに代わり定義されたのではない。

なぜ仏は、三宝を尊重しなければならない、と仰せなのか?それは尊重の心を起こせば、必要の心も出て来て、仏法が出現するからだ。そなたが不要なら、これは仏法ではなく、さらには仏法を誹謗してしまう。

この数語は非常にはっきりと学仏人に伝える。なぜ仏法が出現したのか?それは仏が何かの決まりを我々に定めるのではない。仏法は他の宗教とは異なる。他の宗教はどうやって拝めと決まりを定め、その通りに拝まないなら悪くなるなどと言う。仏法は「必要ならある。不要ならない」と言うのだ。法会に来るのは、必要だと思ったからで、そのため今日は法会があると言うことだ。不要だと思うなら、この法会はない。そなた達が来ないと言っても、私のこの道場が存在しないということではない。私はそなた達を済度させないが、他の衆生を済度させるからだ。昨日私は来て先に修法したが、それは台風が日本に来たからだ。そのため修法を終えた後には京都には大きな災難がなかったではないか。数滴の雨さえなかった。その前には大変な大雨になると皆言っていたのにだ。8月11日台湾で2万人余りが参加する大法会を開催した。もともとは台風が来るはずだったが、曲がって向こうへ行ってしまった。これこそ仏法だ。

一相無相分第九

経典︰「須菩提。於意云何。須陀洹能作是念。我得須陀洹果不。須菩提言。不也。世尊。何以故。」

仏は須菩提に問われた。そなたの考えはどうだ?どう考える?なぜ私は「いわゆる仏法者。即非仏法。」と言うのか。

須陀洹は阿羅漢の果位の一つだ。仏は「須陀洹にこの種の考えがある。そのような者が須陀洹の果位を得ることができるだろうか?」と仰せになった。須菩提は、できません、と答えた。世尊は「なぜできないのか?」とお訊ねになった。

師弟は対話の方法で、仏法を説いている。仏法は一言堂ではない。仏が仰せになればその通りだというのではないのだ。試練に負けず、思惟にも負けず、歷史の大流を経て磨かれたものなのだ。

経典︰「須陀洹名為入流。」

仏はここで、須陀洹はなぜ須陀洹呢というのかについて説明されている。「名為入流」。我々はしばしば他人を「不入流」と罵る。「入流」とは、進入して再び輪迴しない流れだ。須陀洹の果位まで証すると、再び輪迴しない機会があるということだ。

経典︰「而無所入。不入色声香味触法。是名須陀洹。」

この二言の意味は、果位まで証したなら、世間のように証書が発行されるのではなく、どんな果位だと伝えられるのでもない。この果位には証書はなく、そなたは須陀洹だ、そなたは菩薩だと、釈迦牟尼仏が証書をお書きになるのではない。では何を以って、この人がこの果位だと言うのか?それはその人が執著しないのだ。執著しないとはどういうことか?この果位まで証しても、自分はこの果位を証したと感じないのだ。自分にとって、衆生に利益する方法が良ければ良いほど良く、多ければ多いほど良いと考えるだけだ。しかも自分は生死を解脱できるとはっきり分かっている。入流しているかどうか?これはポイントではないのだ。ポイントは今日仏がこの者はすでに入流していると仰せになっても、絶えず行うことだ。私はリンポチェ果位だと、法王はすでに認証しておられる。私は修めなくとも良いのだ。それは私がすでにリンポチェだからだ。だが私はやはり修め続ける。それは仏果となっていないからだ。この言葉は、須陀洹の果位には、さらに上があるということだ。阿羅漢は非常に多くの果位に分かれる。私は阿羅漢道を修めるのではないため、どんな果位だとは言えないが、須陀洹以上ではある。

阿羅漢を最後まで修めると、成仏に類似の果位となるが、円満な仏果ではない。須陀洹が、自分は入流したと考えるなら、永遠にこの段階に留まりさらに上へ行くことはできないということだ。大学を卒業したあと修士、博士と試験を受け、それ以上研究しないなら、学問はゆっくりと衰えそれ以上進歩しないようなものだ。人世間の学問でさえ絶えず検討し研究しなければならない。仏法ならなおさらではないか?成仏するまでは、どんな果位を証したかはそなたに伝えるだけで、そなたの修行がどの段階に至ったからと言って、成功だということではない。自分は菩薩だ、阿羅漢だ、生死を解脱したと考えるなら、すぐに止まってしまう。止まってしまいさえすれば、退歩する可能性がある。『寶積経』で言うように、菩薩果位まで証しても、傲慢で自分は菩薩だと考えるなら、少しの傲慢があるならすぐに退歩する。上へと修行していくのは非常に難しいが、退歩は非常に速い。一つの念頭ですぐに退歩してしまう。

ここでは特別に言う。自分は入流した、私は真に生死を解脱したと考えてはならない。そなたが「『金剛経』を聞いたので、もう輪迴しない」と言うなら、もうおしまいだ。それは自分を放任し、自分を放縦するからだ。少しの放縦で、輪迴が始まるのだ。自分は入流していないと考えるよう言うのではなく、現在自分が得られているものに執着し、okだ、自分はこうなんだ、と考えてはならない、と言うのだ。傲慢の心が起きれば、簡単に退転してしまう。

須陀洹はすでにはっきり分かっている。身色香味触法のこの六つはすべて我々の神経が感じる感覚に過ぎない。この六触は随時変化する。1秒毎に変化している。さらには1秒内でも非常に多く変化している。どんな音でなければいい音じゃない、どんな香りでなければいい香りじゃない等と考えるなら、生死を解脱することなど不可能だ。それはすでにある事柄に執著しているからだ。不入とは、例えば世間にいた時、須陀洹は人の身体を有していたが、今日は何を得られる、何を聞ける、何を聴けるなどと執着していなかった。何かを失ったからと言って不機嫌になったりせず、何かを得られたからと言って喜んだりもせず、そのままで日々を過ごしていた。「不入」とは執著せず、得られたとしても平常心で、失ったとしても平常心だと言うことだ。そうでなければ須陀洹と呼ばれることはない。これは非常に難しい。容易ではない。美味しくなければ、そなた達はすぐに食べなくなる。相手がちょっと怒ったそぶりを見せれば、すぐに不機嫌になる。一言二言批判しただけで、心の中ですぐに気分を害する。これこそ執著だ。

経典︰「須菩提。於意云何。」

仏は弟子に「どんな考えがあるのか?」と訊ねられた。

経典︰「斯陀含能作是念。我得斯陀含果不。須菩提言。不也。世尊。何以故。」

斯陀含果位まで証した羅漢が「自分は色身香味触法に入していない。斯陀含果を得られているだろうか?」と思ったとしても、須菩提は「得られていない」と言う。世尊はさらに「なぜか?」と訊ねられた。

経典︰「斯陀含名一往来。而実無往来。是名斯陀含。」

釈迦牟尼仏は斯陀含修行の過程について説明を続けられる。仏法に対する須陀洹果の考え方とはなんであるかを、先に説かれる。第二に、須陀洹は不入流できると仰せになる。続いて名を入流とすると仰せになる。所入はない。さらに、不入色声香味触法の考えはどうであるべきかと説かれる。こうしてさらに「この人がそのようなら、斯陀含なのか?」と仰せになる。須菩提は「そうではありません」と申し上げた。

「斯陀含名一往来」。一往来とは一度の生死だ。この果位を証したなら、一度の生死を輪迴した後には再び輪迴する必要はない。「而実無往来」。実は彼は往来しない。往来とは、非常に多くの人の見方では、死んだ後に再び生まれることだが、そうではない。仏法の考えでは、生生世世の業を完済していないなら、この一生で為した業を完済できていないなら、再来して完済する。私がこの一世に再来したのも返済のためだ。この一生の業を完済し、すべての善業悪業を完済したなら、再来することはない。人がこの世間に再来するのは、来たいからではなく、何かの願を発したからでもなく、衆生に借りがあるからなのだ。衆生がそなたに借りがある可能性もある。この一世でそなたが行う事も、借りるか借りないかだ。そなたが衆生に借りがあるなら、さらに再来しなければならない。

「一往来而実無往来」とは、彼が一度生死を経たようだが、実は生死を経ていない。それは真の仏性に生死はなく、この業報身があるなら、この肉体には生死があるからだ。業報身とはなんだろうか?過去世で生生世世に行った事のために、この一生でそなたはこの身体を得たのだ。この一生でどんな事を行おうと、未来の身体には変化がある。実は彼の本質、仏性は動いたことがなく、この業力が動いているだけなのだ。

経典︰「須菩提。於意云何。阿那含能作是念。我得阿那含果不。須菩提言。不也。」

釈迦牟尼仏は仰せだ。斯陀含が一世の行き来を証した後、彼の果位は阿羅漢のもう一つの果位である阿那含果となる。阿那含がこの念を行うなら、阿那含果位なのではないか?須菩提は「そうではありません」と申し上げた。

経典︰「世尊。何以故。阿那含名為不来。而実無不来。是故名阿那含。」

いわゆる再来とは、その業報身が再来すると言うことで、仏性、果位が再来するということではない。借金を完済しに来る必要があるだけなのだ。第二にこの果位を証するまでは、再来して修める必要がある。経典でははっきりと講じている。人が阿羅漢、成菩薩、成仏と成るには、人道で修めなければならない。天道でではない。天道でも成仏を修められる。釈迦牟尼仏が天界で説法、授記くださるなら、あれら天帝も成仏できる。釈迦牟尼仏が天界で説法、授記なさらないなら、天人は一生成仏するのは不可能だ。そのため阿羅漢、成菩薩、成仏と成るには、人道で修行しなければならないのだ。次の一世で人の身体を得るために、この一生では必ず十善法を専ら修めなければならない。十善法の第一は不殺だ。今も肉を食べている者、肉を売って金儲けをしている者、そなたの次の一世は絕対に人ではない。みんなこうじゃないか、経を念じれば済度されてしまう、などと思わないことだ。そのような事は絶対にない。私はそなた達を騙さない。

この一段から見て取れる。禅修行する者は必ず出家衆でなければならない。それは阿羅漢は間違いなく出家人だからだ。在家の者が阿羅漢になるのは不可能だ。いつかゆっくりと説明しよう。だが経典で言うように、須陀洹から阿那含まではすべて阿羅漢の果位だ。

経典︰「須菩提。於意云何。阿羅漢能作是念。我得阿羅漢道不。須菩提言。不也。」

阿那含果位が上がれば阿羅漢だ。阿羅漢には大神通があり、すべての衆生の過去未来500世の因果を知ることができる。500世しか知ることはできない。阿羅漢と仏の違いは、阿羅漢には衆生済度の念頭はなく、自分自身が永遠に輪迴苦海を離れるためだけに修めている。だが阿羅漢も一般の凡夫よりは相当良い。それは輪迴の苦海を受けることは二度と再びないからだ。阿羅漢の最大の神通は過去未来500世が分かることで、神通もある。だが五神通だけだ。最後の一個の漏盡通はない。阿羅漢は必ず出家人でなければ修められない。阿羅漢は先ほど言ったすべての事情を明確に理解していなければならない。そうでなければ阿羅漢果まで証することはできない。だが念頭があるなら、自分はできたと考えたなら、阿羅漢道を得ることはできない。

経典︰「世尊。何以故。実無有法。名阿羅漢。」

どのような仏法を行えば、何かを変える手助けになる、などと執着しさえすれば、菩薩であろうと、阿羅漢であろうと全てあってはならない。これは非常に矛盾している。我々は毎日読経持咒し、あれもこれも求めているのに、何かの法に執着してはならないと言う。ではどう決定したらいいのか?この決定はそなたが決定するのではない。本来あらゆる衆生が具備する清浄本性を証するまでは、ある種の事に非常に執着して行わなければならないのだ。そのため仏は我々にあれこれ行えと仰せになる。それはこれが我々の習慣だからだ。禅宗で説く明心見性となった後、一切の作為がすべて有為法で、すべて因縁法で、すべて漏であることが分かるのだ。

なぜ修行の度に必ず迴向しなければならない?それは我々はこの種の功徳福報に執着しないからだ。迴向しないなら、そなたの果位は有限だ。それは有法に執著しているからだ。有法に執著するなら、この法に頼り、清浄な本性を回復することは永遠にできない。実は一切の仏法は衆生がいてこそ出現している。衆生が輪迴するので、仏法が出現した。衆生がみな輪迴しないなら、仏と同様の清浄な本質を皆が回復したなら、仏法は存在しない。信衆と弟子に説法人が伝える便のために、名相を安立し、一つの名前をつけて、こうなのだと伝える。それは我々が名詞を聞く、ものを目にするのに慣れているからだ。だが最後まで修行すると、名前も法もない。一切すべては心の作用だ。私の心は菩薩の心だ。私が行う一切の動作、行為、言語、念頭、意識はすべて自然に衆生に利益するためだ。そなたが阿羅漢果まで証すれば、一切の行為語言念頭はすべて生死解脱のためだ。他はない。自分自身は阿羅漢であるかどうかなどと執着することはない。

生死を解脱できるかどうかはどうして分かるのか?これはゆっくりと体得するのだ。一日では言い尽くせない。修行する決心を下したなら、その人は世間の種々の苦、快楽にまったく執著しない。今日家庭があるのも因縁法で、学問があるのも因縁法で、金が儲かったのも因縁法だと明確に理解している。因縁法とはなんだ?縁起性空だ。あらゆる事は自然に出現することはあり得ない。必ず非常に多くの原因があって初めて出現する。過去世と言わずとも、この一世であろうとそうだ。この一世で学問でき、仕事できるのは、そなたの努力のためではなく、非常に多くの因縁のためなのだ。

簡単な例を挙げよう。そなたが優れていて、庭や花を管理できるとしても、その地区に災難や戦争があったら、庭を作れるか?例えば、レストランを開いても、その国が動乱続きで、経済が振るわないなら、どんなに料理が美味しくとも、どれほどの肉や魚を使っても、商売はうまくいくだろうか?商売など成り立たない。そのため今日そなたに少しの成果があるのは、そなたが優れているからではなく、非常に多くの人の非常に多くの因縁により、この成果を得られているのだ。つまりそなたは過去世で多くの人を助けたのだろう。今日座っているここに電気がありクーラーがあるのは、自分が金を払っているからだなどと思ってはならない。誰もこの仕事をしなかったならどうだ?誰も電気をメンテナンスしてくれなかったらどうだ?もしそうなら、これを享受できるだろうか?できない。つまり、我々は生生世世に非常に多くの人を助けた。我々が助けたのはたくさんの金を与えた、たくさんの金を寄付した、と言うのではないかもしれない。だが、我々はかつて人を助けたことがあるので、この一生でこれらを享受する因縁があるのだ。

例えば、非常に汚く不衛生な国で一生を過ごす人もいるが、我々は清潔な国に暮らしている。これはどう言うことだろうか?何世もの前そなたは必ず天界から来たのだ。必ずそうだ。不衛生な国に生まれたのは、どの一世かで畜生道、地獄道から出てきたということだ。非常に衛生的な国に生まれたが、家が非常に汚い人もいる。日本にもこの種の人がいる。大量のゴミを家に溜め込み、外にまで積み上げている。なぜこのような考えをするのか?それはその人が畜生道から出てきたからだ。前の一世が畜生道だったが、この一世で人となった。そのため非常に複雑なのだ。

我々は、この一世の人生の一切すべては因縁で、すべては過去世で自分自身が為した因が、この一世で果となっているとはっきり理解しなければならない。過去がなんだったかは振り返らず、未来を見るよう、仏は我々にお教えくださる。未来とはこの数十年の短い人生ではない。そなたには次の一世もあるのだ。この一生で努力すれば、次の一世で菩薩や仏まで証できなくとも、少なくとも再来して人となるだろう。そのため十善道の第一道は不殺生なのだ。肉を食べている者、肉を用いて金儲けしている者、そなたの次の一世は絕対に人ではない。「別にどうでもいい。次の一世は私も分からないんだし。死んでからのことだ!」と言う者がいるだろう。次の一世で人になれないなら、死への過程では人でないような様子でこの世を去ることに絶対になる。人でないような様子でこの世を去るとはどう言うことだろうか?それは非常に苦しむと言うことだ。生病死の様子が非常に醜い。私の済度は非常にすごいと皆知っておろう。私が済度した亡者は、本来非常に醜かった様子が、見られる様子になり、笑顔になる。それは少なくとも人道に至ると言うことだ。

仏法の偉大さは、現在の事を変えるのではない。現在の事はそなたが過去に行ったのだ。どうして変えられるだろうか?何を変えるのか?未来だ。だが衝突がある。我々が一生を人として学んだものと、仏法とが異なるからだ。我々は利己を学ぶ、自分自身を世話するよう学び、他人が死ぬのは自業自得で自分とは関係がないと学ぶ。我々の意識との衝突は非常に大きい。困難はここなのだ。

「実無有法」。この言葉は非常に重要だ。どこにどんな特別な方法があるのか?観念は非常に多くの人が学仏し、自分は非常に多くのものを学んだ、自分は非常に多くのものを自分に加えた、自分は非常に多くの事を得たと思っている。過ちだ!非常に多くの不正確で、間違った観念、非常に多くの理解できない事を、意識内からひたすら捨て去り、きれいさっぱり捨て去ってしまったなら、清浄な本性を回復できる、と仏法は我々にお教えくださる。我々が学禅するのもこのためだ。学禅とは、何かの感覚を得たいためではなく、坐禅を組めば心が平靜になるからでもない。これは禅ではない。瞑想だ。瞑想と仏が仰せの禅とは異なるのだ。

阿羅漢が自分は阿羅漢道まで証し、阿羅漢の法を得たと考えるなら、彼は阿羅漢ではない。それは心の中に執著があるからだ。執著があれば輪迴する。輪迴は、何かに執著するので、ある業力を行うので、輪迴するのだ。輪迴などどうと言うこともない、と思っている人がいる。実は輪迴は非常に苦しいのだ。なぜ子供は生まれた時まず泣くのか?泣かなければ、泣くまで叩かれる。科学的に言えば、子供が泣かないのは肺に問題があるからだ。泣かない子供は、早く死にたいと思っており、生きたくないないのだ。なぜ子供は生まれると必ず泣くのか?それは苦が始まったと知っているからだ。ただまだ話せないだけだ。泣き声が非常に明るく大きければ、この赤ちゃんは健康だと思う。実は明るく大きく泣くのは、この子のこの一生が非常に苦しいからだ。私が生まれた時の泣き声は非常に大きく明るく、食欲も他の赤子より旺盛だった、と母が言っていた。そのため私のこの一生はこんなにも苦しいのだ。72歲になっても、言うことを聞くように、学仏するように、とまだそなた達を諌めている。多くの人は72歲にもなれば、旅行にでも行き、悠々自適に暮らしているはずだ。私は休暇旅行になど行ったことがない。

経典︰「世尊。若阿羅漢作是念。我得阿羅漢道。即為著我人衆生寿者。」

我々が四相を破れないなら、輪迴を断つと言わずとも、菩薩に成ると言わずとも、阿羅漢果をさえ得られない。「我」、「人」、「衆生」、「寿者」とはなんだ?

「我」は説明は不要だろう。目を開いて第一に浮かぶ念頭は我だ。目を開いて第一に浮かぶ念頭で、そなたは他人を考えない。他人を思い浮かべたなら「今日は彼を喜ばせてあげようか。そうすれば私に少しは良くしてくれるだろう」と言うだけだ。そなた達の第一の念頭は、歯磨きして顔を洗おう、だ。そのためあれら出家弟子は一日中私に叱られている。それはこうだからだ。出家人は24時間すべて衆生のことを考えていなければならないのだ。自分自身のことを考えるのではないのに、彼らは自分のことしか考えない。なぜ我に執著するのか?我々は小我から大我へ、自分を犠牲にするのではない。観念はこうではない。明らかに我々にはこの肉体があり、食事、就寝、金儲け、衣服着用、子女の養育は必要だ。我がなければ、どうして生きられようか?

仏法中の「我」とは、肉体の我に執着しないことと定義される。肉体の我をどれほど手入れしようと、いつか必ずそれは存在しなくなる。90歲まで生きたとしても、肉体はやはり存在しなくなる。我、と言うこの念頭をどうすれば軽くできるのか?自分自身に「私のこの肉体は毎日衆生に尽くすのだ」と教える。今日どんな仕事に従事しているとしても、どんなビジネスを行なっているとしても、自分は衆生に尽くしていると言う念頭を抱く。そうすれば我の念頭が少しは少なくなる。他人から給与を受け取っているとしても、そなたは雇い主に尽くしているのではなく、この金に尽くしているのだ。この金に尽くしているので、月末に給与が得られるのだ。自分はすごいなどと思わないことだ。そなたはすごいかもしれないが、必ずそなたよりすごい人がいる。我がないなら、会社は存在しないなどと思ってはならない。それは間違いだ。そなたがないなら、会社はもっとよくなるかもしれない。

「我」とは、利己的であってはならないと言うことだ。この点を学べたなら、菩薩になる、阿羅漢果になると言わずとも、少なくとも仕事、、ビジネスの場で、他人より面倒が少なくなり、争いが少なくなり、益を多く得られるだろう。飲食業を営んでいる者は、相手に尽くすような態度で行えば、クレームをつけてくる人はいなくなるだろう。悪いことも起こらなくなるだろう。私は台湾で飲食業を営んでいる。赤字を出しながら経営している。儲かっていない。最高のものを客に出している。赤字なら赤字で良い!それは私自身も毎日食べているからだ。学仏で、自分は修行している、読経している、拝んでいると思うなら、清浄な本性が回復することは永遠にない。

「人」とは相手のことだ。そなた、私、あの人だ。なぜ我々は一日中人と争い、他人が自分に対して良くない、と思うのか?それはそなたが自分とあの人、との観念を生じているからだ。今日台湾人であろうと、中国人、日本人、韓国人であろうと、仏の定義では「すべての有情衆生は本来同様の清浄な成仏の本性を備えている」のだ。我々の業力の違いで、異なる国に生まれ、ある名相を安立され、そなたは日本人だ、あの人は台湾人だ、と言っているに過ぎない。実はみなすべて人類だ。人類でも業力が異なれば異なる生活スタイルが生じ、異なる人生の過程が生じるが、彼と自分が異なると言うことではない。

だが我々人類は数千年の歷史において、自分の我を守るため、いわゆる異なる文化、言語、風俗、習慣を生み出してきた。だが根底ではそなたはやはり人だ。自分の風俗文化等を守るため、非常に多くの争いと戦争を起こしている。人世間がこんなにも乱れているのは、「我」があり「人」があるからだ。私は多く取りたい、他人のものは私にくれなければならない、他人のものは私のだ、私のものはやはり私のだ。この有様では争わないほうがおかしい。戦争にならないほうがおかしい。戦争があればみな苦しむ。戦争は問題を解決できるなどと思ってはならない。解決できない。数千年の人類の歷史を見てきて、戦争の度に非常に多くの人が死ぬ。問題は解決されたか?解決されていない。100年後、200年後にまた同じことを繰り返す。すべて同じだ。すべて「私」と「人」だ。争い合い、殺し合う。なぜこの様なのか?それは人類が殺生するからだ。魚を殺し衆生を殺すのだ。

なぜ台風が来ると、みな恐れるのか?それは台風の中には非常に多くの衆生がいるからだ。非常に多くの水族類の鬼、非常に多くの龍、水の中からやって来る非常に多くの海鬼がいるからだ。彼らは人類を傷つけに来る。それは人類の殺生があまりにも多いからだ。なぜ法を修めると、被害が減るのか?それはそれら鬼を済度してしまい、怨恨の心が減ったので、被害の程度も減るからだ。天気予報は、京都は非常に恐ろしいことになる、昨日から恐怖が始まると元々は言っていた。気象台は豪雨になると言っていたが、豪雨になったか?(日本の信衆は「豪雨ではありませんでした。雨は昨年九月より随分軽かったです」とお答え申し上げた)リンポチェは開示くださった:それはな去年は私が修法しなかったからだ。

「衆生」は六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、人道、阿修羅道、天道)を含み、「寿」とは時間だ。寿命ではない。時間はどうして来るのか?地球が不動なら時間はない。今地球が止まるなら、時間は存在しない。科学を研究したことがある人なら皆知っている。人が宇宙に行き、すべての星が不動なら、宇宙には時間がない。昼と夜もない。

この4つの観念は、修行人が我相、人相、衆生相、寿者相に対して執著の念頭を破り去ることができないなら、修行をすることはできない。どんな方法でこの四相を破るのか?『寶積経』では講じ、『金剛経』では講じない。『金剛経』を念じる多くの人は皆、この四相に執著してはならないと知っている。だが何を用いて破るのか?釈迦牟尼仏は愉快な方だ。『金剛経』では仰せでない。なぜ仰せでないのか?それは前の方で講じたのはすべて、阿羅漢に聞かせるものだからだ。阿羅漢は、一切の執着を捨て去らなければならない。南伝仏教のミャンマー、スリランカ、タイ等の国では、出家人は料理をせず仏珠も身につけず、済度もしない。それは彼らは一切の煩悩を持ってはならないからだ。先ほど言ったのはすべて、阿羅漢に聞かせるものだ。この四相に執着してはならないと彼らに言うのだ。執著してはならないが、やはり念頭は存在する。なぜ阿羅漢道は成仏できないのか?それは釈迦牟尼仏は、阿羅漢を修める根器は成仏できないとご存知なので、執著してはならないとお教えになるだけで、どうやって破るかはお教えにならない。菩薩道を修める人だけが破ることができる。何を用いて破るのか?もちろん仏法を用いて破るのだ。

『金剛経』で仏は仰せでないし、どうやってこの四相を破るかもお教えでない。だが『寶積経』では仰せだ。なぜか?それは『寶積経』はどうやって菩薩道を修めるかを教え、菩薩道を修めればこの四相を破ることができると教えるからだ。菩薩道一切の修行は空性修行だ。「我不執著」のこの執著さえすべて一種の執著だ。そのため破らなければならないのだ。

経典︰「世尊。仏説私得無諍三昧。人中最為第一。」

仏はご自分について仰せだ。三昧とは、入定の意味だ。定境内なのだ。普段釈迦牟尼仏が人に言うのではない。食事をする、水を飲むなどは「無諍三昧」と言う。釈迦牟尼仏は説法の際に必ず入定の状況にある。つまりすべての雑念、一切の人世間の眼耳鼻舌身意の感覚を全部止めてしまい、完全に清浄な本性を用いて仏法を宣説し、この本が何を言っているのか、その本はどうかなどと開き、考えたり調べたりするのではない。大学教授の多くは、先ず書を開き、非常に多くの作業を行い記録する。仏は経典を宣説なさる際に、草稿を作成したりなさらない。仏は入定すればたちまち説法できるのだ。仏はその場の衆生の縁、業力、福報に基づきお話しになる。なぜ仏は49年説法なさったのか?それは、その場で仏法を聞く人の業力が異なるからで、それに応じて仏の仰せも異なるのだ。彼らが受け入れられ、聞き入れられる話をなさる。仏は説法なさる際に予め準備したりなさらない。

私は仏ではないが、仏に習うつもりだ。そのため経典を開いて、すぐに説法を始める。別の経を開いて、この言葉を証明したりせず、経を探して仏がかつて仰せになった、などと言うこともない。不要だ。それはある境界まで修行すると、仏が仰せのことは体得できているからだ。なぜか?それは私も仏と同様に、ゆっくりと自分の清浄な本性を顕露したからだ。仏はすでに円満に完全に顕露されている。そのため経典でいうことは、一般人が理解できることではないのだ。そなた達は心中にたくさんの煩悩を抱えて聞きに来ている。理解したい、なんなのか知りたい、と考えている。それこそ煩悩だ。

私が先ほど言ったように、学問するとしても20年かかる。今日言ったことを聞き、どうしてすぐに理解できるだろうか?今日は何を言った?ただ一つの観念について言っただけだ。そなた達はこの観念を理解し受け入れなければならない。この観念に向かって修行しなければ役には立たない。私は理解したいというのではない。そなたが私は理解したいと言う時、それは前の方で仏が叱ったものだ。私は理解したいと執着している。もう一度言おう。仏法は学問ではなく、研究により得られるものでもない。『大蔵経』を研究すれば仏法が学べると思っている人が非常に多いが、不可能だ。それは『大蔵経』は文字に過ぎず、具徳の上師により開示されないなら、どれほど見ても文字に過ぎないからだ。文字を見れば、そなたは自分が学んだことがある学問を用いてこの文字を解釈する。自分は理解できる、自分は学問があると思うからだ。そのため学問があればあるほど、学仏は困難なのだ。六祖慧能は文盲だったが、すぐに開悟なさった。密宗のミラレパ尊者も文盲であられたが、修行できた。

「無諍三昧」。仏が説法なさる時は無諍だ。仏の仰せが正しい、或いは過ちだと論争する余地は一切与えられない。それは仏の仰せは真理だからだ。いわゆる真理とは、仏が真理だと言うのではなく、仏教から出てきた仏法は、宇宙の一切の正確な道理だと言うことだ。例えば、仏は輪迴を講じられる。今はみな非常にはっきり分かっているだろう。輪迴は必ず人を指すとは限らない。一個の物質さえ輪迴するのだ。例えば、我々は今日一個のものを燃やしてしまうとしよう。このものの原子分子はやはりこの空間内に存在する。ある日この原子分子の因縁が良くなり、結合し、また別のものを生み出す。これこそ輪迴だ。

砕いた言い方をすれば、昔の人は農業で、何を肥料としていたのか?人の排泄物だ。人が排泄する時、我々は臭いと思う。だが植物はその中の分子栄養を吸収し、よく成長し、人はそれを食べて腹のなかに納め、また排泄する。実は人はひたすら排泄物を食べているのだ。我々が気づいていないだけだ。今日我々は有機と言う。化学肥料を用いず、別のものを用いる。輪迴は我々人のことを言うのではなく、世間のすべての事物がひたすら輪迴しているのだ。我々がよくないと考えるものは、転化して良いものに変わり、良いものは転変し別のものになり、またよくないものになる。ひたすら輪迴しているのだ。

仏が仰せの仏法、宣説される仏法は、入定内で仰せだ。清浄な本性内で仰せなのだ。そのため仰せのことは論争する必要はない。それは定境から出てきているからだ。「定」とは突然、考えがなくなるのではなく、清浄な本性、心の力を通して、一切の煩悩を押さえることができるのだ。だが仏の果位によれば、押さえる必要さえもなく、自然に煩悩はなくなる。一人の真の修行人がゆっくりと体得したなら、普段は非常に面倒に感じる事も、今はどうと言うこともないと感じる。これこそ煩悩の減少だ。普段はあることに非常に執著し怒りを感じるが、今はこのことに怒る必要などないと感じる。普段はとても苦しいと感じることが、最近はそれほど苦しいと感じないようだ。それは煩悩が減ったからだ。煩悩が減らなければ、本来の清浄な本性を用いて自分を救うことはできない。無諍三昧は一二ヶ月講じても足りない。ただ仏は説法時に、絕対に定境中で説法されている。「人中最為第一」仏の開示は必ず人世界の第一である。そなたが反駁できるような弱点はないと言うことだ。

仏法は世間で2500年余りになる。かつて非常に多くの人が、外道の考え方を用い、自身の少しの学問で仏法を攻撃しようとした。仏法が講じるのは嘘だ、間違っていると考え、ひたすら言い続けた。だが仏法はやはり存在している。それは仏法が第一だと言うことだ。仏の仰せは、誰かに利益を得させるためでは絕対にない。例えば、仏の仰せはこんなに多いが、「必ず私を信じよ。信じないなら地獄に堕ちる」などと仰せになったことはない。仏は仰せになったことはない。どの経典でも仰せでない。仏は「私を信じないので罰を受けて、ひどい目に遭っている」と仰せになったこともない。仏が行う一切は、すべて人類に生死解脱させるためなのだ。六道衆生に生死解脱させて自分で仏法を学び成仏させる。すべての経験を49年を用いて説法されたが、やはり説き終えていない。それは人があまりにも愚かだからだ。これ以上講じても役には立たない。

仏はそなたと論争、討論しようと言うのではない。仏は直接そなたに真理、真にそなたが為せる事をお教えくださるのだ。利益の得失により仏法を弘揚するのではなく、仏は直接そなたにお教えくださる。この事をそなたは為せる、誰もが行うことができると。言いつけに従い、仏が仰せの方法観念でひたすら行いさえすれば、必ず行える。そのためそなたと論争しないのだ。仏は、自分だけが仏だ、そなたは成仏できないとは仰せでない。私は上師だ、そなたは今後上師となってはならない、とも仰せでない。もちろんそなた達がこの一世で上師になるのは不可能だ。そなた達のこの種の修行方式では、数世以後だろう!第一に、仏が誰かよりすごいとは言っていない。この種方法でなければ、真に第一に我々の生死解脱を助けることはできないと言うことだ。

経典︰「是第一離欲阿羅漢。」

人生の種々の煩悩、欲望を離れた人でなければ阿羅漢と呼ばれることはない。修行が見事な阿羅漢は食事も、水を飲む必要もない。私は何度も言ったことがある。だいぶ以前に、私には一人の上師がおられた。テンジン・ニンマ・リンポチェだ。今はすでに往生されている。リンポチェには一人の弟子がおられた。ある年インドの法会に、この弟子が法王に拝謁に来た。この弟子は物を食べず、水を飲まない程度まで修行できていた。阿羅漢道を修めていたのだ。だが法王は彼に水を飲むよう勧めた。それは胃がくっついてしまうのではないかと心配されたからだ。胃がくっついてしまえば、密宗を修める者にとっては呼吸がうまくいかない。この人は四十歲代だった。毎日山上で禅定していたので、食の欲望、飲水の欲望を断ったのだ。

例えば、大法会前の二日間閉関する。この二日間で私は10万遍の阿弥陀仏心咒を唱える。欲望があれば唱えることはできない。どうして二日間唱えられようか?しかも私は72歲だ。我々が唱える際は、そなた達のようにもぞもぞ動きながら唱えるのではない。我々はきちんと端座して唱えるのだ。しっかりと背筋を伸ばして端座し、視線を動かしてはならない。どうやって唱えるのか?欲望を離れなければ、成し遂げることはできない。実は人の心は非常に強いのだ。人の清浄本性の力は無限だ。ただ人自身がそれを探し出していないだけだ。だが人は本来持っているのだ。どうやって探し出すのか?一日二日では無理だ。私でさえ、今もまだ完全に清浄な本性を証していない。だが離欲は必ず行わなければならない。

経典︰「世尊。我不作是念。我是離欲阿羅漢。世尊。我若作是念。我得阿羅漢道。」

自分を離欲阿羅漢だと思うなら、欲望がある。それは自分が離欲する必要があるからだ。清浄本性内には本来欲望と言うこの種のものはない。欲望はどうして出てくるのか?我々の身体は眼耳鼻舌身意を具備している。眼耳鼻舌身意の感覚を毎日満足させるため、絶えず欲望を作り出しているのだ。だが眼耳鼻舌身意がなければ生きていけないし、仏法も学べない。そのためこの種の事は非常に矛盾しており、非常に処理が難しい。なぜ上師が必要なのか?それは上師はどうして処理するかを知っているからだ。

目がなければ仏像が見えず、上師が見えず、耳がなければ仏法が聞けず、舌がなければ読経など不可能で、意識がなければ学仏しようとは思わず、身体がなければ修行できない。言い換えれば、眼耳鼻舌身意を具備しているのが完全な衆生だ。眼耳鼻舌身意、色身香味触法を用いて学仏すべきで、ひたすら絶えず毎日の欲望を満足させるのではない。毎日欲望を持つのは罪悪ではない。だがそれを追求し、こうでなければならないと言うのではない。これがなければ、私は今日不機嫌で、今日は運が悪い。自然に来るなら来る、消えるなら消える、不要なら不要、あるならある。この種の心構えでなければ、自分自身の離欲をゆっくりと訓練することはできない。

2007年私は一人で4千5百m余りの標高のところで三ヶ月余り閉関した。関房のドアは外から鍵がかけられ出られなくなっていた。外を見ることも、携帯電話を持ち込むことも許されない。ラジオ、テレビなど言うまでもない。何もない。欲望が充満しているなら、どうして3ヶ月閉関できるだろうか?監獄につながれている人は何を最も恐れるか知っているか?隔離だ。一週間隔離されれば狂ってしまう。我々は3ヶ月隔離されても、健康に出て来られ、ますますすごくなる。離欲から来るのだ。欲望が非常に重い人は自分自身に危機感を持て。欲望が重ければ病気になる。欲望をどこに置いているかどうかに関わらずだ。肉食を好むなら病気になる。飲酒を好むなら病気になる。欲望は一切の病の根源だ。だが欲望がないなら、生きていくこともできない。ここに矛盾がある。どうやって我々の欲望を利用して仏法学習に変えていくのか?上師の助けが必要だ。

密宗の凄さは、現在の欲望を消すよう言うのではない。例えば、在家衆に金儲けをするなと言って、どうして可能だろうか?家族を養わなければならないからだ。夫婦生活があってはならないと言って、どうして可能だろうか?だが密宗はどうやって転じるかを教えてくれる。消してしまうのではない。どうやって転じるかだ。そなたにとって不利な事を、そなたにとって有利な事に転じる。これは上師の教えが必要だ。だが阿羅漢道を修めるには、自分で不要だと離れ、強制しなければならない。なぜ現代は阿羅漢がいないのか?それは現代はみな欲望が非常に重いからだ。どうして離欲できようか?二日間関閉させれば狂ってしまうだろう。二日間と言わずとも、二時間座るよう言っても耐えられない。なぜか?心の中に山のような念頭が出て来るからだ。念頭はどうして出て来るのか?それはそなたの欲望だ。普段欲望が少ない人は、念頭が少ない。欲望が多い人は、念頭が多い。

ここで講じるのはすべて阿羅漢修行についてだ。在家衆は阿羅漢を修めることは本当にできない。現在は非常にはっきりしている。世間に現在は阿羅漢はいない。最後の一人の阿羅漢はだいぶ以前のことだ。阿羅漢がいないのに、なぜこの経典について説くのか?それは今日どんな法門を学ぶとしても、ある理論をはっきりさせておかなければならないからだ。なぜ学仏するのか?離欲するためだ。なぜ修行するのか?それは輪迴の苦海を離れるためだ。この理論を明確に受け入れなければ、後に続く仏法はそなたの助けにはならない。念頭を受け入れず、法会に参加すれば良いことが得られ、福報が得られると考える。これこそ欲望だ。『金剛経』で講じる「離欲」は、そなたと関係がない。今日『金剛経』の法会に参加し、仏法の真の意味を聞きたいと願い、この観念を受け入れる。そのような態度なら、『金剛経』を聞いたことが、そなたにとって有用となる。

簡単に言えば、欲望が少ないなら、必ず健康だ。医者もこの様に言う。「この人が病気になったのは、あれこれ考えすぎるからだ。たくさんの考えと欲望があるなら、健康にはなれない」と医者はしばしば言う。欲望は不要ではない。だが離れ、少しは減らさなければならない。例えば、普段毎日ビールを二本飲む人は、これからは一本少なくすることはできないか?非常に多くの日本人が朝起きてすぐに冷蔵庫からビールを取り出し、飲み干して心地よいと思っている。だが胃腸にはよくない。そのため、日本のドラッグストアで最も多く売られているのは胃腸薬だ。これは自業自得だ。冷たいビールを飲んで心地よいと思っている。特に夏は胃腸によくない。薬を飲めば肝臓にもよくない。あれこれやって、このようにお金を使ってしまっている。

離欲は非常に重要だ。現在毎日二本飲む者は、一本にすることはできないか?一週間毎日肉を食べる者は、二日間は肉を食べない、魚を食べないようにすることはできないか?これこそ離欲だ。日常生活で自分自身を訓練するのだ。道場や寺へ来なければ仏法学習だと言うのではない。実は生活の中から、少し減らすことが離欲の開始となる。欲望が減れば、身体は良くなる。他のことは言わなくとも、菜食と肉食では、身体状況は絕対に異なる。なぜか?肉食する者は毎日非常に多くの身体のエネルギーを消耗して肉を消化している。消化した後はほんの少しを吸收し、他はみな排出してしまう。これでは体力の浪費ではないのか?今菜食せよと言うと、そなた達は難しいと思い、菜食は頭がおかしいと思っている。だが現在アメリカでもヨーロッパでも菜食を大きく奨励している。メキシコまで新法の推進を始めた。まだ通過してはいないが、肉食に罰金を取るのだ。それは肉食は地球を温暖化するからだ。牛を一頭飼うのに数十人分の飼料が必要なのだ。人は毎日悪を為しているのに、自分自身でも気づいていない。

阿羅漢修行にはこの念頭がある。自分は離欲だと考えれば、阿羅漢道ではない。それは執著心があるからだ。

経典︰「世尊則不説。須菩提是楽阿蘭那行者。」

この様なら、世尊は仏法を聞かせることはない。「阿蘭那」とは入口の表示だ。法王がお書きくださったのは、「定」だ。どうすれば我々は定を生じることができるのか?定とは、必ず私のように胡座をかいて座らなければならないのではない。欲望を減らすことで、定は始まる。先ほど言ったように、ビール二本が一本になる。ビールを一本減らした定が出現する。一週間毎日肉食していた者が、三日間肉食しなくなる。そうすれば三日間肉食しない定が出現する。これこそ「阿蘭那」行為だ。欲望を減らすのに、勉強するな、金を稼ぐな、勤めに出るな、何もするな、異性と付き合うな、結婚するな、と言うのではない。欲望とは我々の身体神経における必要だ。それは抑制することができるのだ。累世の悪業なら仕方がないが、正常な人ならできるはずだ。

どうやってそれを抑制するのか?先ず減らすことから始める。一本に減らすのが無理なら、一本半にする。一口減らす練習から始めるのでも良い。胃腸にとってもよい。肉食を少し減らせば地球にとっても良く、自分も少しは金を節約できる。これはすべて良いことだ。仏が我々にお教えくださるものはすべて良いことなのだ。だが帰宅して夫や妻に言ってはならない。私はあなたと離欲したい。だから、あなたに近づき過ぎないようにする。これは間違っている。それは『寶積経』で言うからだ。運命中に眷属がいる。運命でこの一生では夫があり妻があるように定められている。拒むことはできない。『寶積経』では言う。拒みたいなら、出家して阿羅漢を修めよと。私の説法は、他の人の説法とは異なる。離欲とは欲望を満たすため、毎日追求しなければ、いい暮らしを送っていると感じられず、毎日二本、三本のビールを飲まなければ満足できず、少しでも牛肉を食べなければ満足できないようにだ。これこそ欲望だ。食べなくともどうと言うことはない。

私は35歲から肉も魚も食べていない。72歲まで生きたが、そなた達より健康だ。私はレストランを経営している。最初は赤字だったが、今は赤字ではない。すべて菜食だが、ビジネスは伸び続けている。それは私の品物が良いので、それを食べる客の身体に良いからだ。

はっきりさせなければならない。写経、読経、座禅している時でなければ禅修行だと言うのではない。「阿蘭那行者」とは、真に仏法を学びたいなら、暮らしの中から手をつける。暮らしの中の大小さまざますべてが仏法修行なのだ。止まることはない。

経典︰「以須菩提実無所行。而名須菩提。是楽阿蘭那行。」

いわゆる禅修行の方法を生活に変えてしまっても、やはり自分は修行している、人とは異なると考えるなら、それは過ちだ。我々は現在は在家だ。家庭があり家族がいる。仕事等もある。社会で暮らしていかなければならない。修行人は自分とは違う、と他人に思わせてはならない。この様であってはならない。現在私は腕に仏珠を身につけていない。知らない人は、私がリンポチェだとは分からない。ただ、この人は見たところ慈愛にあふれている、話しやすい、と感じるだけだろう。

実際に仏法とは生活に根ざしたものなのだ。一分一秒すべてが仏法だ。行うも行わないもない。生命、これこそ仏法だ。これこそ修行だ。今日二時間読経しなければ、今日寺で二時間座らなければ、今日すべての寺を参拝しなければ、毎月一ヶ月をかけて行わなければ、修行ではない、と言うのではない。これらはすべてそうではない。これは学仏の善縁助縁を累積するものだ。仏法を日常生活に用いる決定を下さないなら、毎日私の説く仏法を聞きに来ても、まったく役には立たない。暮らしに用いて初めて修仏なのだ。

荘厳浄土分第十

経典︰「仏告須菩提。於意云何。如来昔在然灯仏所。於法有所得不。不也。」

仏は須菩提に仰せになった。どんな考えがあるのか?「如来」とは仏ご自身だ。以前釈迦牟尼仏は燃灯仏に従い仏法を学習しておられた。燃灯仏とは古仏(我々の今回の人類の歷史において出現された仏ではない)だ。人類の歷史は、文字による記載に基づけば、五、六千年さらには1万年遡ることができる。だが1万年前から現在まで、一尊の仏だけが出世された。それこそ釈迦牟尼仏だ。釈迦牟尼仏以前の仏は、仏の経典での仰せによれば、地球には七尊の仏が来られる。釈迦牟尼仏は第五尊仏であられ、今回の人類文化の前には四尊の仏が地球におられたと言うことだ。だがその四尊仏の仏法はすでに存在していない。現在は釈迦牟尼仏が仏法をこの世間に留めてくださっている。未来には二尊仏がおられる。この二尊仏が地球に来られ離れられた後に、地球は滅亡する。これは数十億万年後の事だ。なぜ我々は、ある種のものが現在の人類には為せないものだとしばしば発見するのか?宇宙人が地球に来たのだと考えるが、実はそうではない。古文化なのだ。

釈迦牟尼仏は燃灯仏に従い仏法を学ばれた。仏法を得られたのか?須菩提は「得られませんでした」とお答え申し上げた。

経典︰「世尊。如来在然灯仏所。於法実無所得。須菩提。於意云何。」

釈迦牟尼仏は菩薩に成られた後に再び成仏された。だが先に阿羅漢を修めるには、一切の無所得が必要だ。ここでまた言おう。菩薩道修行も同じだ。自分はどんな仏法を学んだので、自分はどんな菩薩だ、どうできる、と考えることはできない。これでは仏法を得ることはできない。

経典︰「菩薩荘厳仏土不。不也。世尊。何以故。荘厳仏土者。即非荘厳。是名荘厳。」

仏土の荘厳とは、菩薩が非常に荘厳なので、仏土が非常に荘厳なのではない。仏土の荘厳は考え出したもの、作り出したものではなく、永遠に不変なのでもないからだ。仏土が荘厳なのは、仏の福徳が、仏がお住いの仏土を荘厳にするのだ。例えば、国王の宮殿だ。国王がいる時は荘厳で、それを目にした一般の人も非常に荘厳だと感じる。しかし国王がいなくなり、この国土も滅したなら、そんなに荘厳ではなくなる。この荘厳はどうして来るのか?国王の福報からだ。経典では講じる。乞食が金持ちのそばに立っていれば、金持ちと乞食とは違うと非常に明確に分かる。どこが異なるのか?着ている衣服が異なるのではなく、その福報が表す荘厳が異なるのだ。

金持ちが大臣のそばに立っていれば、この大臣に権勢があり、あの人は金持ちだと見て取れる。大臣が国王のそばに立っていれば、国王は非常に権勢があり、大臣は劣ることが見て取れる。これはどうして来たのか?すべては異なる業力、異なる福報から荘厳が出現したのだ。そのため仏土の荘厳は菩薩のため、仏の存在がこの地方を荘厳にしているのか?そうではない。それは仏の福報のためなのだ。

釈迦牟尼仏の仏土はどこか?地球だ。なぜ地球はやはりあれこれ問題がこんなにも多いのか?それは我々の心が荘厳でなく、仏土の荘厳を見る福報がないからだ。それは我々の業力では人類の国土しか見られず、仏の仏土を見る能力がないからだ。そのため経典では「心浄仏土浄」と言う。そなたの心が清浄な本性を回復しさえすれば、自然に仏の荘厳で清浄な仏土は、そなたの面前に出現する。探す必要も、考える必要も、わざわざ描く必要もない。なぜ数千年の文化が続いても、仏土の荘厳を描き我々に見せてくれる人は一人もいないのか?天界の荘厳は描き出すことはできる。仏土の荘厳は誰も描きだせない。敦煌へ行き、あの飛天、力士を見ても、仏土の荘厳は描き出されてはいない。なぜか?それは人は仏土の荘厳を体得できず、もちろん描き出すこともできないからだ。

非常に多くの宗教は、歌で彼らの教主などを賛美するが、仏法だけにはない。なぜか?それは天界の音と仏土の音とは異なるからだ。私は「阿弥陀仏大超度法会」中に「空行母の歌は人が書いたのではなく、空行母がお書きになったので、音域が異なる」と言ったことがある。これはどう言うことだろうか?我々は、仏土は非常に荘厳だと考える。このように考えてはならない。成仏を修めれば、荘厳な仏土は自然に出現する。そなたが仏でないなら、仏土の荘厳は出現しない。我々が荘厳な仏土を追求し見つけることが修行だと考えるなら、それは間違いだ。心が清浄で荘厳ならどんなところでもすべて荘厳なのだ。

閉関の際、我々の関房は木の板を組み合わせて作る小屋だ。板と板との間には隙間があり、夜は冷たい風が吹き込んでくる。標高が高いので、夜の温度は零下10度前後にもなるが暖房はない。どうやって過ごすのか?心が清浄なので、自然に過ぎていくのだ。心が清浄でないなら、過ごすことはできない。私はミラレパ尊者が以前閉関されていた山洞へ行ったが、中は真っ暗で、何もなく、まったく何も見えなかったが、非常に荘厳だった。私は内部に座って、非常に荘厳だと感じた。それはミラレパ尊者の荘厳な福報が存在していたからだ。自然にあると感じるのだ。考え出すのでも、探し出すのでもない。非常に自然に生まれ、非常に自然に消えるのだ。

荘厳と不荘厳の定義を破らなければならないと仏は我々にお教えくださる。荘厳とは、わざわざ作り出すものではない。例えば、ある寺が荘厳であるかどうかは、どれだけ古い仏像があるか、或いはどれだけ古い寺かではなく、そこの住持、主法者の心が荘厳であるかないかだ。その心が荘厳なら、自然に荘厳だと感じさせる。これは修行の福報から出ているのだ。古い寺へ行くと、薄暗くて寂しく感じるが、それは古いからではなく、内部に修行人がいないからだ。経典の仰せに基づけば、内部に持咒成就の人がいるなら、この殿は明るいと言う。灯をつけていなくとも、ここは明るいと感じる。仏像のお顔が明るいと感じる。これこそ荘厳だ。荘厳とは修行の福報、修行の成就から得られるのだ。我々が無理に一つの名詞を安立し、非常に荘厳だと言うのは執著だ。

もちろん一般の凡夫に「荘厳かどうかは重要でない。重要なのは心だ」と言っても、そなた達はできないだろう。そのため、寺を建てる必要があるのだ。荘厳な仏像をそなた達に見せる。それはそなた達が仏像に執著するからだ。修行人にとっては、観念が非常にはっきりしている。荘厳とは作り出すものではなく、自然に出現するもので、自然に消滅するものだ。心が不清浄なら荘厳の感覚はすぐに無くなってしまう。そなたの心が清浄であるかどうかと関係があるのだ。

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは参会者を率いて六字大明呪を長く念誦された。

リンポチェは継続して『金剛経』を開示された。

経典︰「是故須菩提。諸菩薩摩訶薩応如是生清浄心。不応住色生心。不応住声香味触法生心。応無所住而生其心。」

先ほどは須陀洹から阿羅漢に言った。ここでは菩薩摩訶薩に言う。菩薩摩訶薩とは、そなた達ではなく、登地から八地菩薩まででもない。ここでは、十地以上の大菩薩(法身菩薩)に聞かせるのだ。だが学仏人としてはこの理論を理解しなければならない。そなた達は今は為せないが、この理論を知っておかなければならない。

どんな理論か?それは「一切の法身菩薩が生じる清浄な心は、様子を見たいと望むために生じた心ではない」と言うことだ。例えば、ある大菩薩が阿弥陀仏を見なければ恭敬の心を生じることができないと仰せになる。そうではない。音声を耳にすべきでもない。例えば、誰かが念仏し、また誰かがそれに従って念じる。これは間違っている。大菩薩も、香の香りを嗅ぎ、ある感覚があったので、清浄な心を起こされたのではない。法身菩薩が清浄な心を起こすのは自然なのだ、と言うことだ。衆生に利益し始め、仏法を修行しさえすれば、すべての煩悩は抑えつけられてしまうのだ。つまり声色香味触法を追求せず、また学仏人は仏を見たい、菩薩を見たい、夢を見たい、と絶対に追求してはならないのだ。これらはすべて過ちだ。それは魔が来る可能性があるからだ。音声を聞かなければ正しい、と言うのでもなく、音声を聞いたとしても長くないなら、それは因縁から生まれたので、従えば無くなってしまう。ひたすら声音を追求し、相を追求し、感覚を追求し、味を追求して修行するなら、それはすべて過ちだ。

清浄な本性はどうすれば出現するのか?声色香味触法を追求しなければ、清浄な本性が出現し、「無所住而生其心」なのだ。「無所住」とは、度衆する時に、自分が度衆していると考えず、学仏読経している時に、自分が読経していると考えない。こう言う意味ではない。声色香味触法を追求するために、この心を起こして衆生に利益し、自分の仏法に利益するのではないと言うことだ。我々は非常に自然にこの心を生じる。この心は本来具備されており、わざわざ作り出すのではなく、仏がくださるのでもない。我々は本来この心があるのだ。だが煩悩があまりにも重いので、清浄本性が全部覆い隠されてしまい、分からないのだ。

ここで仏は特別に仰せになる。特に法身菩薩まで修めると、声色香味触法を再び用いるために、衆生を済度、自分自身を済度する心を起こすのではない。その清浄な本性は完全に声色香味触法とは関係がない。「住」とは定の意味だ。例えば、私の持咒は定内で持咒する。山のようにたくさんの煩悩であれこれ考えるのではない。観音菩薩が面前に現れて欲しい、香りを嗅ぎたい、光を見たいと願うのでもない。すべて違う。非常に自然に定のなかで持咒しなければ、清浄な本性ではない。清浄な本性で持咒しなければ、仏菩薩の清浄な本性と接触できず、そうでなければ無尽蔵の慈悲力で衆生に利益することはできない。菩薩道を修め学仏する一切の人が、声色香味触法を追求し、そうでなければ自分の修行は成功だと思えないなら、すべて過ちだ。例えば自分の持咒の声はいい声だ、念じると他人とは違うと考えるなら、すべて過ちだ。

「無所住而生其心」を、そなた達はすべて今はできない。だが我々はこの理念を理解しなければならない。我々は一つの心を起こす。自分が何かの良いことを得るためではなく、自分自身の欲望を満たすためではなく、何かの事情を追求するためでもない。我々がこの心を起こし、それを留めるのは、停止(つまり定内で)だ。すべては衆生に利益し、衆生を助けるためで、自分の欲望を満たすためではない。こうでなければ菩薩の心ではない。今日の持咒が家庭内を良くし、ビジネスを良くするためなら、これこそ欲望だ。これは清浄な本性と関係がなく、慈悲とは関係がなく、菩提心とも関係がない。凡夫が唸咒しているだけだ。凡夫が唸咒して良いことがあるのか?ある。未来世でなければ良いことがない。この一生ではない。絕対に用いることはできない。

『金剛経』の特徴は、どうやって自分自身を明心見性とするかを我々にお伝えくださる点だ。明心見性とは、今日講じればすぐ分かる、と言うものではない。「明心」、「見性」は二つの事だ。自分自身の本来の清浄な心をはっきりと理解できなければ、清浄な仏性、本性を理解することはできない。明心だけなら、見性とは限らない。見性があっても、必ず明心とは限らない。二ついっしょにに同時に発生しなければならない。明心見性の人でなければ学仏することはできない。人は毎日非常に多くの煩悩を抱えている。この煩悩は、清浄な本性を覆い隠してしまい、見えなくする。

「無所住而生其心」は一切の禅宗修行の人が覚えておかなければならないことだ。禅定内で、自分はどのような境界に達したと考えるなら、「有所住而生其心」だ。声色香味触法、この六法内で、境界があると考えるなら、この禅は過ちだ。それは自分自身の清浄な本性に入っていないため、意識を用いて修めているからだ。この言葉の意味は、修行が始まったばかりの頃は、我々は意識を用いて修める。どうして意識を清浄な本性に転じるのか?「無所住而生其心」を永遠に覚えておかなければならない。「無所住」とは今日入定したかどうかに私は拘泥しないと言うのではなく、そなたの心だ。そなたの身体、感覚ではない。自分は無所住だと心が非常にはっきりしているなら、禅宗では講じる。禅修行の人が「仏来仏斬、魔来魔斬」なら、仏が面前に出現されても、仏に構わず、魔が出現しても、魔に構わない。なぜか?自分の清浄な本性内では本来ない。ただ私に欲望があり、仏を目にできなければ自分の修行が良いかどうかが分からないからだ。実は仏がお越しになるかお越しにならないかは、そなたの果位と関係があるのだ。

法身菩薩まで修めていないなら、仏はそなたの面前に出現なさらない。阿弥陀仏を目にしたいと思う。それなら、死を迎える時になれば、化身仏がお迎えくださるだろう。死にたくもないのに、仏がどうして出現くださるだろうか?報身菩薩まで修めていないのだから、報身仏も出現してくださらない。そなた達に何かが出現するなら、それは化身仏だ。死の際に出現する。だが死にたいか?死にたくないだろう。「まだ阿弥陀仏を目にしていません。念仏が十分でないのです」と言うなら、それは間違いだ。我々の清浄な本性と阿弥陀仏の清浄な本性は同じだからだ。清浄な本性まで念じたなら、自然に仏の清浄な本性と無二無別となる。仏の相をなお見る必要があるか?

この二言は、そなた達が道を誤るのではないかと恐れるのだ。なぜ邪教があるのか?それは、自分に何かを見せてくれる、非常にすごいとたくさんの人が信じているからだ。私は絕対にそなたに何かを見せたりしない。自分自身でさえはっきり見えないのに、まだ何を見たいのだ?毎日起床して鏡を見ずに、自分自身の様子が分かるだろうか?化粧せず鏡を見ないで、自分自身の様子が分かるか?自分自身の様子さえはっきり分からないのに、まだ仏を見たい、菩薩を見たい、上師を見たいなど、出鱈目を言うな!自身の顔は声色香味触法でいっぱいだ。作悪の念頭でいっぱいだ。

禅宗修行をする人は必ず「無所住而生其心」を覚えておかなければならない。「無所住」とは心が不動と言うことではない。心に念頭が起きないなら、衆生を済度させることはできない。仏と菩薩の違いはここだ。仏はこの心を起こすことさえない。非常に自然に行われる。菩薩はなおある。この心を起こす。そのため菩薩が心を起こした時に有所住であるのを心配するのだ。「有所住」なら魔道へと至ってしまう。そのためすべての大菩薩に伝える。心は声色香味触法に向かってはならないと。音声を聞きたい、何かを見たい、と思うのは全部過ちだ。何かを拝みたいと思うのもすべて過ちだ。この心を起こしてはならない。無所住とは要求がない。すべては衆生の祈求に基づき、菩薩の心は起きて救うのだ。衆生が求めないなら、菩薩の心は起きない。仏法はなぜ求を用いるのか?そなたが求めないなら、菩薩の心と仏の心は起きないからだ。それはそなたが求めないからだ。菩薩と仏の心は清浄で不動だからだ。非常に多くの人を救い、非常に多くの衆生を済度させ、非常に多くの弟子を有するので、仏教は全世界に伝わっており、これにより非常に多くの人がすごいと言うのではない。これを見るのではないのだ。

実は我々が他の衆生を済度させるのは人を済度させるのより多い。昨日は台風内にこんなにも多くの鬼がいたが、私がすべて済度させてしまった。済度させた数は、そなた達の今日の人の10倍にも20倍にもなる。このためではないのだ。仏菩薩はたくさんの弟子、信衆が必要で、これによって仏法が興旺となると思ってはならない。仏法は、いつか誰かが念じさえすれば、仏法は存在する。いつか必ず誰かが信じる。そうすれば仏法は存在する。すべての人が信じない場合だけ、仏法は存在せず、別の世界で出現する。必ず地球で出現するとは限らない。仏法には宇宙観があり、一個の地球上、一個の国家内、一個の都市内に区画されるのではないからだ。非常に広いのだ。衆生に学仏したいと言うこの念頭がないなら、仏法は無くなってしまう。それは仏菩薩はわざわざ飛んで来てそなたを救ってなど下さらないからだ。そなたが衆生に利益する準備を真にしているなら、仏菩薩はそなたの面前に出現してくださる。そうでないなら不可能だ。そなた達は必ず求めなければならない。

非常に多くの人がひたすら仏法を聞きに来るが、有用か?有用だ。次の一世で有用だ。だが修行や人生を変えることには、役には立たない?役には立たない。それは皈依していないからだ。弟子でないなら、差がある。私は現在千人余りの弟子がいるが、横死したものは一人もいない。違いはどこなのか?それはそなたが自分自身を変える気がないと言うことだ。ただ聞きに来たいだけなのだ。聞いて修行できるか?できない。皆さんに教えを請おう。そなた達が勉強していた時には教師はいたか?教師もなく自身で学んだのか?皈依しようとしないのは、どう言うことだろうか?私を見下している。「外から来たものだ。誰が信じるか。ここでも見つかる」と言うこのような考えを持ってはならない。私はそなた達の皈依は要らない。私は台湾ですでに異常なほど忙しい。ただそなた達に伝える。そなた達は信衆の位階だ。仏法を信じないあれらの人よりは良い。それは人天福報を得られるからだ。だが未来世で用いられるだけで、この一生では用いることはできない。

手紙で私に仏法を訊ねてくる者もいるが、私は答えない。訊ねているのは、すべて自分の世間の煩悩ばかりだからだ。皈依を受け入れるなら、煩悩があるだろうか?経典でははっきり説いている。離欲だ。そなた達は苦しいと言う。私はそなた達よりどれほど苦しいことか。生老病死のすべてを私は経験した。私は破産も経験した。男女の愛における悲劇も私は経験した。少なくともそなた達はまだ経験したことがないだろう。家で誰かが病気になりワーワー叫ぶ。私も経験した。なぜそなた達はワーワー叫ぶのか?それはそなた達が弟子ではないからだ。そなた達は弟子ではない。仏法がそなたに何を助けられるのか分からない。そなたは仏法を用いて自分自身の問題を解決したいと望んでいる。仏は我々の問題を解決することはできない。仏はただ我々に自分自身で改めよと仰せになるだけだ。改めたなら、自然に良くなる。法王は私にこんなにも多くの法を伝えてくださったが、私自身が改めず修めないなら、有用か?私が法王に皈依せず、法王に従い閉関しないなら、有用だと思うか?役には立たない。

今日そなた達が法会に参加しに来たので、私は非常なる歓喜を感じている。参加しない者よりずっと良い。だがそなたは弟子か?そなたは仏弟子か?そうではない。そなたはただの信衆だ。特にあれら菜食しようとしない者を、もう一度叱ろう。菜食しないなら、来ないでもらいたい。私はこのような信衆は要らない。経典では殺生してはならないと明らかに言っているのに、毎日肉食している!

庭師に庭の手入れを依頼しているが、化学肥料は用いず殺生してはならないと私ははっきり伝えている。(庭師が頷き確認した)だが私の庭の花は非常に美しい。功労の半分は庭師で、半分は私だ。私の庭は化学肥料を用いていないのに、每年非常に美しく花が咲く。あのサクラの木もそうだ。花がどんどん多くなっている。化学肥料は使っていない。このサクラの木は樹齢90年になる。90年でも每年開花している。もちろん庭師の世話が非常に良いのだ。だが最も重要なのは、私に慈悲心があるため、サクラが開花するのだ。非常に多くの事がこのようだ。化学肥料を使わない方が逆に特別によく成長する。

今日開示した仏法は、みなの生活と関係がある。そなた達の非常に多くの煩悩はすべて自分で招いたのだ。あれもこれも要らないが、幸せは要る。それは不可能だ。この一生で誰が幸せだった?どうして幸せが得られたのか?この一生でこんなにも多くの肉を食べたのに、あれら衆生がどうしてそなたを幸せにするだろうか?皈依して弟子となるなら、仏法はゆっくりとそなたを薰陶し、ゆっくりそなたを変え、自然に幸せ、永遠の幸せが得られるようになる。この一生の幸せではない。我々には子供がおり、仕事がある。それはすべて過去世の業力だ。この一生ではなおも返済しなければならない。私は子供がおり、なお返済している。今日『金剛経』を開示した。みなの生活に助けになる。修める気がなくとも、皈依する気がなくとも、今日講じた『金剛経』を聞き入れ、思考し、少しを用いるなら、そなたの生活に助けになるだろう。

もともとは天気予報が豪雨の台風が来襲すると予想していたが、午前中の法会の後には天気が良くなった。



施身法法会

午後1時55分、リンチェンドルジェ・リンポチェは再び法座に上られ、施身法を修められた。修法前、リンポチェは仏法の開示を下された。

午後修めるのは施身法だ。チベット語ではこの法を「断」と言う。何を切断するのか?六道の衆生、特に鬼道の衆生を含むすべての人の煩悩を切断するのだ。煩悩障の他に、所知障をも切断する。所知障とは、何かを知っていると言うのではなく、神経が感じる一切の事情は、我々の修行と生死解脱にとって一種の障礙だ。またこの法門は、修行人の福報と智慧をスピーディーに累積することができる。施身法はチベット仏教密宗内の八大成就法の一つだ。いわゆる成就とは、この一生でこの法門を専ら修め、輪迴生死を必ず解脱でき、広大な衆生に利益できることだ。現在チベット四大教派内でこの法門を修める人は多くない。それはこの法を修めるには、非常に長い学習の過程を経なければならず、さらに特別な法器がなければ修められないからだ。

この法はおよそ1300年余り前に、チベットの在家修行の女性瑜伽士が書いたものだ。彼女は結婚して子を成し、マジラ尊者とお呼び申しあげる。施身法法本の精神は釈迦牟尼仏が宣説される『大般若経』内の空性の精神に基づき、さらに釈迦牟尼仏が仰せの慈悲心と一切の戒律に基づく。チベット仏教でこの法門を学ぶには、必ず先に10年の顕教の基礎がなければならない。10年の後に3年間閉関し、本尊閉関成就を学ばなければならない。密法学習は4つの修行の次第に分けられる。事部、行部、瑜伽部、無上瑜伽部だ。この法本は事部、行部、瑜伽部を含む。この法本は修行人の学仏にとって非常に大きな利益と助けになる他、特に累世で自分が為した悪業、この一生で生じた一切の障礙に対して救いになる。例えば、誰かが一日中そなたを邪魔し、妨げ、傷つけるとする。これはすべてそなたが過去世で非常に多くの衆生を傷害したためだ。

この他、この一生で得たガンなどの龍に傷害されたことによる病、鬼に傷害されたことによる病も含む。ガンは今の所、徹底的に完治できるとは医者も言えない病だ。ガンはどうして来るのか?それは龍と鬼道が傷害するからだ。現代医学ではどうすることもできない。抗がん剤治療、手術、あちらを切りこちらを切り、最後には死んでしまう。私自身は45、46歲の時に皮膚ガンに罹った。しかし私は医者に掛からず手術も受けず治療もせず、この法を修めるだけだったが、2006年頃には皮膚ガンは完治してしまった。それはこの法門は慈悲を主とするからだ。そのため、自分が累世で傷害してきた衆生の怨恨の心を解きほぐし、彼らを済度させることができるからだ。

施身法では、地獄道、餓鬼道、畜生道と言う三悪道を離れたいと願う亡者が生前に学仏したことがなくても、彼らの眷属が非常に誠懇、恭敬に法会に参加すれば、必ず三悪道を離れることができる。亡者が生前に少しは拝仏したことがあり、いくらかの善事を為したことがあるなら、少なくとも人道に生まれられ、もっと良いなら天道に生まれられるだろう。生前に十善法を修めていたが、非常に円満ではなかった。だが菜食し、拝仏していた。このような人は自分自身では阿弥陀仏のお側へ行く能力はないが、この法門を修めれば、阿弥陀仏のお側へ行けるよう助けることができる。横死した衆生に対しては、この法門は特別に効果がある。横死した衆生は通常はすべて地獄に堕ちるが、別の仏法を用いて救うには、非常にたくさん念じなければならない。だが衆生の業が非常に重いのでなければ、施身法では通常は、一度や二度三度で、済度させ、地獄を離れさせ、善道に生まれさせることが絶対にできる。

この法門は修行人が暮らす場所の周囲に非常に大きな安定と慰めの作用がある。それはこの法門は付近の鬼魅、土地神等の類を済度することもできるからだ。私が日本でこの法を修めると、しばしばあちこちの神社の鬼神がここに来て私に済度されることがある。京都にはある非常に有名な神社があるが、鬼神がここに来て私に済度された。そのため済度が終わると、この神社は引っ越した。

済度の際、修法者は保護のための聖物を一切身に付けてはならない。自分自身を保護してはならないと言う意味だ。仏法では修法の前には、誰でもある儀軌を修め道場を保護するが、この法だけは行わない。それは修法人自身が、密法、咒語手印等を通して、自分の身体すべてを諸仏菩薩に供養し、六道の衆生に布施して食べさせるからだ。そのためこの法を学んだ人が慈悲心を学べておらず、菩提心を証していないなら、この法を修めても効果はない。

これから私は修法する。法会の参加者は往生者に対して慈悲の心を持ち、自分達が法会に参加することが、往生者が三悪道、さらには輪迴の苦を離れる機会となることを願うように。法会参加者は必ず法、修法者、本尊マジラ尊者に対して恭敬の心を起こさなければならない。そうでなければ、この法は絕対に効果はない。

これから私が、救いたい人の名前を言え、と言ったら、自分の名前と救いたい人の名前を三回口に出すように。

リンポチェは修法を開始され、苦しみの中にいる亡者を済度された。リンポチェは大手印禅定の中で、殊勝なる施身法を修持され、勝義菩提心で自身の一切の血肉、骨を余すところなく諸仏菩薩に供養し、一切の六道衆生に布施することを観想され、六字大明咒を長く持誦くださった。慈悲なる法音は十方に遍く満ちた。参会者は皆、衆生を輪迴苦海から離脱させようとのリンチェンドルジェ・リンポチェの懇切な大悲心を感じ、知らず知らずの内に満面を涙で濡らした。

リンポチェは弟子を率いてアキ護法と迴向儀軌を修持された。修法後、リンポチェは開示を続けられた︰

今日午後の修法は速過ぎた。まだ3時だ。現在そなた達を帰しても、寝たり食べたりするだけだ。それなら皆で『金剛経』を一度念じよう。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは出家領衆弟子に参会者を率いさえ、『金剛経』を一度念じた後、開示くださった︰

みなを率いて『金剛経』を一度念じた。そなた達に『金剛経』を教えたのではない。非常に多くの人が付いて来られなかった。さらにはどこを念じているのか分からない人もいた。仏法では有縁と言う。何が有縁なのか?それはそなたがかつて接触したことがあり、一人の具徳の上師の指導の下、読経、咒語を念じたことがあり、未来世で仏法を学習する機会があると言うことだ。先ほど読経に付いて来られなかった者は、我々の念じるのが速いからではなく、我々が中国語で念じたからでもない。日本語で念じたとしても付いて来られないだろう。それはそなたが『金剛経』を念じたことがないと言うことだ。簡単に言えば、本来そなたは学仏したいと考える根器ではないと言うことだ。

だが私は具徳の上師として、なるべく多くの機会と因縁を作り、そなたがこの一世で仏法に触れる機会を多くしてやろう。仏法に触れるのは、この一生の寿命、健康、財富、家庭のためではない。これは累世で為した事で、すでに決定しており、変えることは不可能なのだ。だが我々には次の一世があり、現在行う一切はすべて次の一世のための準備なのだと認めなければならない。次の一世のための準備が非常に良いなら、往生の際の苦痛は軽くなり、さらには全くないこともある。

今日はみなに『金剛経』を念じた。念じたので、すごくなったと言うのではなく、自分は『金剛経』を聞いたので、自分は分かった、自分はできる、と言うのでもない。すべてそうではない。経典を念じることで、『金剛経』と結縁したと言うことなのだ。未来世で、さらにはこの一生ででも、『金剛経』の真の含義を聞く機会があるだろう。『金剛経』開示は、絕対に文字の上から開示するのではない。空性を証していない修行人は、『金剛経』内で講じる内容を完全には理解できない。それは仏は最後に一切の菩薩に空性を理解し体得し証悟するようお教えになるからだ。空性がないなら、衆生を済度させることはできず、自分自身を生死解脱させる能力もない。

『金剛経』はなぜ偉大で、福徳が多いのか?それは学仏で空性を学ばなければ、どうしようもないからだ。空性とは、無いのではない。何もかも不要だと言うのでもない。空性の含義は非常に広い。人類が用いる言語では、空性の真の含義を解釈することはできない。そのため我々は名前を安立し、それを「空」と呼んでいるのだ。空とは、無いのではない。空が無いのだと思うなら、邪見邪説だ。今後機会があれば続けて開示しよう。今日一日法会に参加したことで、そなた達とすべての眷属の未来に非常に殊勝な仏法による救いがもたらされることを願う。

法会は円満となり、参会者はみな尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲なる修法及び殊勝な開示で無量無辺衆生を利益する事に感謝を申し上げ、起立して、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を降りられるのを恭しくお送り致した。

2019 年 09 月 02 日 更新