お知らせ

日本における尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの『金剛経』開解、「施身法法会」主法は円満となった

2019 年 1 月 5 日年初に当たり、因縁殊勝なことに、京都道場は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの『金剛経』開解を受けることができた。この経は『大般若経』で最も重要な中心思想である。しかもリンポチェは弘法の開始以来、初めて『金剛経』を開解なさる。実は修証量により、深い禅定中からゆっくりと菩提道義を示してくださるのだ。実に感動的なことだ!

午後リンポチェは衆生の根器を観察し、仏道で成就できるよう、必要な仏法を授け、縁に従い、チベット密教八大成就法である「施身法」を主修なさり、有縁衆生を済度させ、参会者のために障礙門を取り除いてくださった。誰もが感激し感謝した!今回の法会は顕密具円であり、非常に貴重である!

参会者は城崎温泉寺の住持である小川祐章氏を含み、台湾、日本の信衆 19 人、弟子 122 人の計 141 人だった。みな一様に自らの幸運と有難さを感じた!

日本貴賓が受付で記帳。

午前9時25分、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは大勢が恭迎する中、壇城に上り灯明をともし供仏なさった。続いて法座に上られ、みなを率いて観音法門を修持した後、貴重な仏法の開示をくだされた:

今日私は初めて『金剛経』を開示する。学仏したことがあろうがなかろうが、ほとんど誰もが『金剛経』を聞いたことがあるだろう。禅宗においては、これは非常に重要な経典だ。だが非常に多くの人が『金剛経』を誤解している。『金剛経』を読んだことがあり、念じたことがあり、聞いたことがあるので、金剛のように一切のものからの傷害を免れられると思っている。これは正しいようだが実は正しくない。正しくもあり誤りでもあるのだ。

『金剛経』の正式名は『金剛般若波羅蜜経』だ。『金剛経』は略称なのだ。釈迦牟尼仏は世間で49年説法なさった。そのうちの22年を用いて『大般若経』を開示なさった。「般若」とは般若波羅蜜のことだ。そなた達が理解できる言葉で説明するなら、般若とは智慧を表す。これは世間的な学業成績が良い、ということではない。仏の智慧だ。衆生であっても仏と同様の智慧を具備している。学仏は加護を求めるためでも、健康のためでもない。これらはすべて非常に表面的な事だ。修行とは関係がない。もし、仏のお教えの通りに段階を踏んで着実に修行できたなら、最後には必ず般若を修め、智慧を修めなければならない。

修行は二つの部分に分けられる。智慧の修行と福報の修行だ。この二つの部分は必ずいっしょに修めなければならない。福報があっても智慧がなければ、人は愚痴となってしまう。智慧があっても福報がなければ、人は思い上がってしまう。よって智慧と福報は必ずいっしょに修めなければならないのだ 。釈迦牟尼仏は22年を費やして『大般若経』を開示なさった。その重点とは「修行の思想とは何であるか」だ。手を打ち鳴らし、鐘をつけば修行なのか?或いは棒を一本持って、あちこち寺を参拝すれば修行なのか?7日間座禅を組めば修行なのか?そうではない。これらは修行する縁を結ぶ助縁に過ぎない。すべて真の修行の思想と法門ではない。

『金剛経』は『大般若経』の第九分であり、『大般若経』600巻中、最も重要な中心思想だ。『大般若経』は釈迦牟尼仏が宣説された仏法のほぼ三分の一を占める。つまり、もし今日我々が菩薩道、成仏、自身の輪迴解脱を修行したいなら、さらには衆生の輪迴解脱を助けたいなら、般若は必ず修めなければならない。だがどのように修めるのか?今言っても、そなた達は理解できないだろう。機会があったら、ゆっくり教導しよう。

「金剛」とは、あらゆるものを破壊できる、という意味だ。般若まで修め、仏の智慧を開始した後は、智慧を用いて世間の一切の事柄を破壊できるということだ。世間のどんな事柄だろうか?煩悩障と所知障だ。煩悩障は貪嗔痴慢疑というこの五つから発生する。一切の煩悩は衆生一人一人の清浄な仏性の顕露を阻害する。所知障は、我々には眼耳鼻舌身意があるので、一切の知覚の障礙を生じる。つまり我執の障礙だ。我々はみな自分が最も重要だと思っている。自分が思うもの、欲しいものが最も重要だ。これこそが所知障だ。我々の修行を障礙する。一切の世間の事柄はこの2種の障礙を、阻害し破壊することはできない。仏法だけができるのだ。我々が菩薩道を修め、般若、智慧の修行の学習を開始すると、金剛のように生に伴う一切の煩悩を打ち砕くことができる。外在内在に生じる煩悩と所知障を撃ち砕かなければ、禅定の境界に入ることはできない。禅定とは、数日座禅を組めばいい、というものではない。自分自身で非常に快適と感じることが禅定でもない。

金剛にはもう一つの意味がある。智慧を修められたなら、金剛のように自身の修行の信念を保護できる、というものだ。世間の一切の煩悩から免れられ、生生世世に為した善悪業の果報が修行の過程を干渉することはない。今日講じるのはすべて顕教の部分だ。理論の部分だ。理論の部分は非常に重要だ。もし学仏で理論を理解しないなら、仏法は外道に堕ちてしまう。外道とは何だろうか?仏像の前に跪き加護を求め、あれもこれも求める。それが外道だ。当然、求めればいくらか感応する者もおろう。だがこれら感応は修行とイコールではない。般若を修め、性空の原理を理解しなければ、彼岸に生まれ、仏土に生まれ、それ以後、輪迴の苦しみを受ける必要がなくなることはない。修行人は般若金剛の観照を理解する。つまりすべての持咒、すべての禅定は、すべて自身の清浄な本性照耀の反観なのだ。これにより我々は自らを断ち、衆生を済度させて生死の苦海を解脱させることができる。

『金剛経』は、菩薩道の中心思想を非常にはっきりと説明している。よって『金剛経』を聞いた人が、『金剛経』の教導を堅持できるなら、仏は最後に「若有善男子善女人。発菩提心者。持於この経。乃至四句偈等。受持読誦。為人演説。其福勝彼。云何為人演説。不取於相。如如不動」と仰せだ。

「若有善男子善女人」善とは十善法を修めるとの意味だ。第一は戒殺だ。今でも肉食しているなら、どんなに念仏しても、拝仏しても、求仏しても、少しばかりの福報が得られるに過ぎない。しかもそれは次の一世でしか用いられず、この一生で使うことはできない。肉食しているなら、法会に参加しても、累世に為した一切の善悪業の果報を変えることなど不可能だ。仏と結縁するに過ぎず、次の一世に再来するだろう。経典ではしばしば「善男子と善女人」に触れる。出家か在家かにかかわらずだ。第一は戒殺だ。肉を食べない。今でも肉食しているなら、どれほど念仏しようと、拝仏しようと、法会に参加しようと、善男子と呼ぶことはできない。

十善法には不偷盜、不邪淫、不両舌、不悪口、不打妄語、不綺語、不貪不嗔不痴がある。痴とは白痴の痴ではない。因果を信じないことだ。このタイプの人こそ、いわゆる修行人、学仏人だ。

「発菩提心」菩提心とは、仏法学習は、自分の生死解脱を助けるためで、修める一切の仏法は、衆生の生死解脱を助けるためだということだ。心とは動機だ。法会参加の動機は何だ?もし動機が菩提心と関係があるなら、このような条件を備えた人だ。「持」とは、その思想はこの経典が教える中心思想から絕対に離れることはない。この経を読むや手にするのではない。暗記するのではない。この経を聞いたことがあるのを「持」と呼ばない。そなたの身口意を、何によって把持するかだ。身口意は経が講じる内容によって把持するのだ。身口意がこの経から離れているなら役には立たない。どれだけ聞いても、やはりそのままだ。『金剛経』を聞いたことがあるのは、とてもすごいことだ、などと思ってはならない。それは、経文が伝える中心思想を、自分の生活、思想、念頭、語言に用いて、人として、物事と思想に対して向き合っていないからだ。

「乃至四句偈等」仏は非常にはっきりと仰せだ。経本全体、あらゆる言葉を為せ、とそなたに求めるのではなく、四句だけだ。この「四句偈」とは、経の後半の中心だ。この四句を成し遂げられれば、「受持読誦」は前半で説明したが、身口意で『金剛経』の思想を常用して日々の暮らしを送ることができる。「誦」は念誦だ。「為人演説」とは、他人に聞かせることではない。或いは縁がある人に出会い、その人に聞かせる、というのでもない。「其福勝彼」とは、彼の福報は非常に大きい、という意味だ。福報を用いてどうするのだ?修行に用いる福だ。真面目に修行に取り組みさえすれば、過去世とこの一世に為した悪業をすべて善業に転化できる。真面目に修行に取り組みさえすれば、その人の家では悪い事は発生しない。

「不取於相」自分は他人のため説法することに執着してはならない。自分は何を修行していると考えるべきではない。「如如不動」とは、心が不動なら、この種の福報は必ずやってくるということだ。後ろの方で講じる、この数語はどのような意味なのか?今日日本の信衆の中には午前は来るが午後は来ない者がいる。午後は来るが午前は来ない者もいる。これは、これら信衆の煩悩が非常に重いことを示している。仏法を聞きに来るのは、来たいから来るのだ、来たくなければ来ない、自分にとって世間の事柄の方がずっと大切だ、と思っている人が非常に多い。私はみなと同じで在家だ。目下160人の従業員を抱え、弟子は1500人いる。そなた達の方が忙しいか、それとも私の方が忙しいか?私は教派全体の事も護持しなければならない。現在は新しい寺も建てている。毎日全く時間がない。私はなぜ、みなに説法しに来る時間があるのだ?そなた達の供養のためではない。それは、これが私の責任、私の任務だからだ。仏法は私にとっては、世間の一切の事柄よりずっと重要だ。だが世間の人は、自分の事柄の方が仏法より重要だと思っている。そのため、良い因縁も善の因縁もしばしば失ってしまう。とにかくどうあろうと、今日そなたは半日間仏法を聞いたのだ。全く来ないよりは少しはマシだろう。これは、そなたにはいくらか福報があり、未来世で仏法を聞く資格があるということを示している。

『金剛経』の中国語訳には7バージョンある。だが通常はインドからもたらされた三蔵法師の訳を主とする。経(経典)、律(戒律)、論(菩薩が講じる仏法に関する論)を三蔵という。すべてに精通しておられたので、三蔵法師とお呼び申し上げる。鳩摩羅什は三蔵法師が翻訳したものだ。では経典の開示を始める。

法会因由分第一
経典:「如是我聞」

日本の信衆の経典の文字の脇に書かれているのは発音だ。意訳ではない。経典は文字により含意を理解するのではない。如来秘密の意義は文字の中にはない。修行の中にあるのだ。ある次第まで修行すれば、経典への理解は違ってくる。

『金剛経』の書き出しの言葉、実は、非常に多くの経典の書き出しも、「如是我聞」だ。釈迦牟尼仏は49年説法なさったが、書記官が傍でそれを記録するようなことがなかったからだ。しかも仏は随時いつでも説法なさった。仏が49年の間に講じられた一言一言がすべて仏法だ。記録は間に合わない。しかもその時代には携帯電話もなかった。どうしたら良いのか?かつての仏法の聞き方はそなた達とは違う。そなた達は耳は聞いているが、心は別のところへ飛んで行ってしまっている。耳は聞いているが、心の中では比較しているものもいる。つまり禅定の中で仏法を聞いているのではないのだ。

経典:「一時仏在舍衛国。祇樹給孤独園。與大比丘衆。千二百五十人俱」

ここでは、最後に長く暮らした場所で仏は説法されている。この聖地へ私は2度行ったことがある。それは法王がそこに大きな仏塔を建立されたからだ。当時仏が説法なさった場所は今でも残っている。非常によく保存されている。もちろん現在は家屋が多く、残っているのは基礎だけで、その上の建物はすでに残っていない。だが、その時、仏が開悟なさった時の菩提樹が説法されていた場所に移植され、一本の菩提樹が出てきている。樹は今も健在だ。経典全体に説明がある。舍衛国は当時のインドで非常に強大な国だった。祇樹給孤独園はある長者が釈迦牟尼仏に供養し、そこで居住して説法できるようにした場所だ。

非常に多くの経典でしばしば触れられている。仏のお側には少なくとも1250人の大比丘がいた。大比丘とは修行、一切の戒律で、比丘戒を破ったことがなく、仏から直接比丘戒を授けられ、ひたすら仏の側で仏法を聞き、仏法を修行していた者だ。これら大比丘は、根本的には初地の阿羅漢をすでに証している。このような人は大福報、大縁起があり、常に釈迦牟尼仏のお側で仏法を聞き、衆生に利益することができる。経典にはある特色がある。第一に、先ず誰が聞いたか?第二に、どんなところで講じたか?第三に、誰がその法会に参加したか?を語るところだ。

経典:「爾時世尊食時。著衣持鉢。入舍衛大城乞食。於其城中。次第乞已。還至本処。飯食訖。收衣鉢」

古代のすべての出家衆は托缽しなければならなかった。古代のすべての出家人はみな乞食のように、家々を一軒一軒訪ね供養を求めなければならない。ここでいくつかの言い方がある。第一に、そなたは出家したのだから、煩悩は一切ないはずで、一切の煩悩を作ってはならない。今日食べられるか食べられないかは、すべてそなたの福報縁による。よって釈迦牟尼仏は、一切の弟子は三軒の家を訪ね、誰も食物を供養してくれなければ、その日は食事する福報がない、として、帰って閉関しなければならないと規定しておられた。我々と比べてどうだ?この店が開いていなければ別の店へ行く、この店は美味しくないので、別の店へ行く。私は数軒のレストランを開いているが、みな行かない。美味しくない、別の店へ行こう、別の店の方が安い、と考えている。そなた達は修行人ではない。小乗仏法のタイ、スリランカでは、信衆が出家衆に食べ物を供養していた。だが現在ではそうではない。

かつて仏は、出家人は乞士だと仰せになった。なぜこのように言うのか?それは今日彼らが修行できるのは、衆生が支え、供養してくれるからだ。そうでなければ、この肉体を用いて修行することはできない。そうでなければ、この業報身を養うことはできない。第二に、乞士と言うこの方式を用いれば、衆生の財富と名誉に対する貪戀を打破できるからだ。この方式を用いれば、衆生は阿羅漢と仏に供養する機会を得ることができる。釈迦牟尼仏が行われた一切は、すべて仏法のためだ。名声を得るためではない。哀れな様子を装い、粗末な衣服を着て、自分は修行している、と見せるためではない。その心持ちと理論はここにあるのだ。

仏は法衣を着て缽(出家人が食事に用いる碗)を持ち、弟子を伴って舍衛城(当時の首都)に入り、食事を恵んでもらう。街の中で一、二軒家を巡り食べ物を得られれば、自分がもともと閉関していた場所へ帰る。食事を終えた後には、法衣を仕舞い、缽をきれいにし片付ける。なぜ食事に法衣を着なければならないのか?それは、我々のこの業報身が食べるのではないからだ。今日食べる一切のものはすべて仏への供養、上師への供養、本尊への供養なのだ。現在日本では、食前に箸を持って言葉を唱えるのが流行している。実はこれは仏法だ。仏への供養、本尊と出家人への供養なのだ。

我々が食事する時、それは衆生に代わり供養しているのだ。見たところは我々が食べているようだが、実は我々の身体の中にも非常に多くの衆生がいる。例えば、腹の中には非常に多くの細菌がいる。我々は食事することで栄養を作り出す必要がある。これも衆生に代わり食事していると言うことだ。そのため、法衣を着て食事するのだ。在家衆が帰宅して衣服を着替え、ベッドに適当に寝転がって、ぐちゃぐちゃにして食べるのとはわけが違うのだ。近頃では子供を育てるのも、こんな調子だ。映画で、ベッドで朝食を食べる様子を見ることがあるが、すべて誤っている。動物はどのように食べるか?動物は食べ物を巣に持って行って食べる。そなたも今ではこんな風だ。それは次の一世で動物になることを示している。子供がベッドに寝転がって物を食べる。そなたは別に構わないと思うだろう。またはペットを抱いて、いっしょにベッドで物を食べる者もいる。それなら、次の一世は動物になるだろう。動物の暮らし方は、そなたと似ていないか?似ている。それはそなたが動物になろうとしているからだ。人には人の様子がある。なぜ中国人も日本人もこのように言うのか。食事時にはきちんと座って食事しなければならない。あちこち乱してはならない。食事に用いる物はきれいに洗わなければならない。誰も世話してくれないなら、自分が用いるものはきれいに洗わなければならない。

経典︰「洗足已。敷座而坐」

かつて彼らは出かけるにも、ほとんど履物を履いていなかった。かつてはアスファルト舗装されていなかったので、足裏が火傷する恐れはなかった。すべて土の道だ。足をきれいに洗った後、法座に座るには、必ずきれいな布を敷き、そして座る。それは、仏は食事を終え、法衣を仕舞い、缽をきれいに洗い、足を洗った後に、法座に上り説法なさる。休息の時間はなかったと言うことだ。

善現啓請分第二
経典︰「時長老須菩提。在大衆中。即従座起。偏袒右肩。右膝著地。合掌恭敬」

もともと座っていた須菩提長老は大勢の中から立ち上がった。右肩を肩脱ぎにし、仏に請示した。現在出家人はなぜ右肩を露出するのか?それはインドからもたらされた習慣だ。インドは暑い。インドでは衣服を着用する際、右肩を露出させる 。右側は仏法事業を表す。私が「偏袒右肩」なら、仏教、私の一切の仏法事業を受け入れようとしていることを示している。事業とはビジネスではない。仏教は、我々が行うべき事だ。

右側の膝をつき合掌する。これは非常に恭敬だと言う意味だ。請法は必ずこのような態度でなければならない。下に座り手を挙げて、どうだと尋ねるのではない。請法はこのようでなければ如法ではない。

この言葉から分かる。1250人以外に、もっとたくさんの人が仏のお側で仏法を聞いていたのだ。私は2度舎衛城の釈迦牟尼仏が暮らしておられた場所へ行ったことがある。そこは非常に平坦で、山や丘がない。おかしなことに石もない。一面の草地だ。非常にさっぱりしており、奇妙な樹も生えていない。人が座れないような棘もなく、広々とした広大な地だ。

経典︰「而白仏言。希有世尊」

仏が口を開いた。「希有」とは、この宇宙の中で非常に希有だ、と言うことだ。経典では、億万尊仏がおられる、さらには10億万尊仏がおられると言うが、仏の宇宙観から言えば、宇宙は無辺無際で、絶えず拡張、成長している。宇宙の中の衆生も無辺無際だ。大昔と言わずとも、釈迦牟尼仏が在世の時代、地球全体の人口がどれだけだったか、私は知らない。だが私の推測では、少なくとも2億人はいただろう。2億人の中から一尊の仏が出現されたのだ。釈迦牟尼仏が2500年前に開始されてから現在まで、仏はいない。さらには1万年後にも仏はいない。よって非常に有難いのだ。釈迦牟尼仏は非常にはっきりと仰せだ。46億万年後、彌勒菩薩が再来し、6番目の仏が出現なさる。この稀有とは非常に会い難く、聞き難いと言うことだ。今日は福報がなく、この目で釈迦牟尼仏を見ることはできないが、少なくとも我々には福報があり、釈迦牟尼仏を聞くことができると言う意味だ。

言い換えれば、中国、日本と言うこれらの国は福報があるほうだ。これらの国では釈迦牟尼仏を供奉し、釈迦牟尼仏の説法をいくらかでも受け入れている。現在日本の生活における非常に多くの動作と言い方が、仏法と関係がある。ただ気をつけていないだけだ。これらはすべて釈迦牟尼仏の教法だ。稀有とは、人類の思想文化、種族に影響を及ぼすことができると言うことだ。影響は非常に大きい。この種の影響は悪くするのではなく、良くするのだ。非常に稀有だ。ある学問をどのように修めれば、仏を生み出せると言うものではない。一尊仏の出現には、非常に大きい因縁と福報を具備していなければならない。この仏自身は非常に多くの世で修行し、この生でようやく成仏したのだ。釈迦牟尼仏は地球に来られた。それは地球の衆生に、福報があり仏法を受け入れられるからだ。

世尊の「世」とは地球の世界を指すのではない。太陽系でもない。法界を指している。

経典︰「如来善護念諸菩薩。善付囑諸菩薩」

如来は釈迦牟尼仏のもう一つの呼び名だ。如来は、諸菩薩の念頭が途絶えることがないようひたすら助け、利益し、保護する。この言葉は非常に重要だ。もしそなたが菩薩道を学ばず、菩薩道を修めないなら、仏が保護するそなたの念頭は存在しない。釈迦牟尼仏の仏像を見たのだ、息子が健康を取り戻せますようにと、仏に願えるなどと思ってはならない。このような願いは、仏の耳に入らない。仏に能力がないのではない。それは仏がお教えになるのは、世間のこの種の簡単な事柄ではないからだ。いかにして菩薩になり、生死を解脱し、衆生を救う能力を身につけるかを、すべての菩薩にお教えくださる。

簡単に言えば、『金剛経』は、一般人が体悟理解でき、開示できる経典ではないと言うことだ。もしそなたが菩薩道を学ばないなら、この経とそなたとの関係は非常に簡単だ。ただ読むだけ、念じるだけ、書くだけだ。私は台湾で絶えず『寶積経』を開示している。『寶積経』は在家の菩薩道修行を開示する経典だ。『金剛経』でも菩薩道を説く。菩薩には出家と在家の菩薩がいる。私は在家で菩薩道を修めた修行人だ。もし阿羅漢を修めるなら、必ず出家相を現さなければならない。もし、菩薩道を修めるなら、在家であろうと出家であろうと、どちらでも良い。もし出家相を現すなら、必ず出家人の戒を守らなければならない。出家人は結婚できず、財産を保有できず、ビジネスもできない。これは釈迦牟尼仏が定めた戒律だ。私が定めたのではない。釈迦牟尼仏は尊い仏であられる。ご自身さえ乞食をなさるのだ。食べ物が来るのをただ待っているのではない。それは実は、すべての弟子に範をお示しになっているのだ。出家するなら、このような暮らしを送らなければならない。『寶積経』では言う。在家衆なら財富を所有してもよく、何をしても良い。だが思想は違う。私が講じる『寶積経』を聞いたことがある人は、私が何を言っているか分かるだろう。

「諸」とは非常に多いと言う意味だ。一個や十個ではなく、兆のレベルであるかもしれない。釈迦牟尼仏はひたすら諸菩薩にお教えになる。生死を解脱できる一切の方法を善と定義する。そうでなければ善とは呼べない。世間の小さな欲望を満たすのではない。

経典︰「世尊。善男子善女人。発阿耨多羅三藐三菩提心。云何応住。云何降伏其心」

これら菩薩道を修める人はすでに菩提心を発した。「阿耨多羅三藐三菩提心」この言葉は翻訳しない。それはその含意があまりにも多いからだ。しかも単純に智慧というだけではない。菩薩道を修める人は必ずこの種の菩提心を発しなければならないと説明する。菩提心で最も重要なのは、身口意がいっしょに作動することだ。口で耳障りのいいことを言いながら、心の中ではそうではない、と言うのではない。心はこのようだが、行いはこのようではない、と言うのではない。心はこのようだが、口で言うのはこのようではない、と言うのではない。必ず身口意すべてで行えなければならない。

「云何応住」そなたが菩提心を発しようと、どうすれば心を菩提心に住まわせることができるのか?凡夫俗子は発心を有し、修行していようと、しばしば世間の種々の事情の干渉を受け、種々の事情が、我々のかつての発心を忘れさせてしまうと言う意味だ。我々が発した心は菩提心中にはなく、しばしば何処かへ行ってしまう。「云何降伏其心」どのような方法を用いれば、煩悩障、所知障に常に干渉される我々のこの種の心を降伏することができるのか?

経典︰「仏言。善哉善哉。須菩提」

仏は「善哉善哉」と仰せになった。良い質問だ!と言う意味だ。はっきりさせなければならない。仏は自ら説法なさらない。必ず誰かが請法しなければならないのだ。誰かが法を問わなければ、仏は口を開かれない。だが問うにしても当を得た問いでなければならない。そなた達は「息子が病気です。リンポチェ、私はどうしたらいいでしょうか?商売がうまくいきません。どうしたらいいでしょうか?高血圧です。どうしたらいいでしょうか?」と問う。これらはすべて非常に馬鹿げた問題だ。どうしようも無い。

なぜ仏は善哉と言うのか?それは、彼が問うのはすべて一切の諸菩薩のために問うからだ。他人のために問うのだ。修行を問うのだ!彼が問わなければ、仏は言わない。それは縁がないからだ。善哉とは、良い問いだ!と言うことだ。かつて仏は言われた。問いが正しくないなら、仏は答えない、と。仏にはしばしばこのようなことがある。問いが正しくないなら、構ってくれないのだ。問えば必ず答えが得られるなどと思ってはならない。物理を教える教授が突然、文学について問われても、答える必要はない、構う必要はないようなものだ。修行人は何を尋ねられても、必ず答えなければならないのか?答えなければ、無慈悲だなどと言う。

須菩提はこの長老の名だ。仏がそなたの名を呼んでくださったなら、それは非常に幸運だと言うことだ。それは、覚えていてくださらなければ、言うことはないからだ。私はしばしば、そなたに会ったことが無いと言う。それはそなたを覚えていないということだ。面白いと思ってはならない。「リンポチェは私が目に入らない。私を知らない」それならそなたはおしまいだ。それは私がそなたを覚えていないなら、そなたが死ぬ時、誰々が死にます、と言われても、私はしばしば「私に何の関係があるのか?」という。それは普段私はその人を覚えていないからだ。覚えていないのは、その人が言いつけに従わないからだ。振り返ってみよ。みな学問したことがあるだろう。いい子なら、先生は覚えてくれる。いたずら坊主でも、先生は覚えているだろう。とても悪い生徒でも、先生は覚えている。よって、そなた達ももうちょっと悪くなれば、私はそなたを覚えるだろう。特徴も生気もないようなら、私は覚えない。

仏が須菩提と言ったなら、それは覚えているということだ。仏が念頭を起こしたとき、須菩提がいた。善護念の時、必ず彼がいる。それはこの縁起は彼が起こしたからだ。そなた達は故意に仏法を探して問うてはならない。これは苦心したものだ。

経典︰「如汝所説。如来善護念諸菩薩。善付囑諸菩薩」

正にそなたが言うように、念じるとは記憶することだ。如来はひたすら善を用いて、一切の菩薩を保護くださる。そなたが菩薩道を修めるなら、仏はそなたを覚えており、自然に保護してくださり、求める必要さえない、と言う意味だ。法王はなぜかつて、私が行おうとすることは必ず成功する、と仰せになったのか?ビジネスではない、仏法に関してだ。なぜ成功するのか?それは仏が護念し、仏が記憶し、仏がサポートしてくださっているからだ。私は求める必要がない。それは私が行う一切はすべて衆生のためであり、自分のためではないからだ。そなた達のように思想のすべてが自分のためだと言うのではない。仏がどうしてそなたをご記憶くださるだろうか?仏がそなたを覚えていないので、菩薩もそなたを覚えていない。菩薩がそなたを覚えていないので、護法もそなたを覚えておらず、上師さえもそなたを覚えていない。これは実に当たり前の論理だ。これ以上、適当にメチャクチャなことをしないことだ。

「善付囑諸菩薩」一切の菩薩の修行の方向を、仏はひたすら絶えず注意し、申し付け、お指し図くださる。もし今日そなたが真に発心して菩薩道を修め、菩薩道を行う人なら、全く心配する必要はない。仏が出現しなくとも、上師を含む護法が、自然に導いてくださり、そなたは道に迷うことはない。

経典︰「汝今諦聴。当為汝説」

今は心を込めて聞かなければならない。経典には「諦」の字が用いられている。言葉の中で最も重要だ、と言う意味だ。「言」の横に「皇帝」がある。皇帝の話を聞かずにおられようか?聞かなくても、聞き間違っても殺されてしまうだろう。そなた達が「リンポチェ、聞き間違えました。記録を間違えました。申し訳ありません」と言うのとはわけが違う。皇帝の話を聞き間違えれば殺されてしまうのだ。この言葉の意味は、自分の一切の心を用いて「諦聴」を聞く、と言うことだ。一切の期待ではない。今日仏法を聞いたので、何かを得られるように期待する、と言うのではないのだ。このよう考え方は過ちだ。何一つ得られないだろう。仏法を聞けば、何かが得られるなどと思わないことだ。これらは諦聴ではない。期待だ。

仏と菩薩は我々に一切のものをくださるわけではない。先ほど言った。仏は彼に指図しお伝えになる。仏が何かをくださると言っているか?仏は保護し、サポートし、道を誤らないようにし、修行を誤らないようにしてくださると言うだけだ。仏がそなたのために修めてくださるので、そなたは修めなくともよい、そなたは下にいればそれで良い、とは言っていない。仏が何をなさっているか、経典をしっかりと見よ。仏がそなたを加持すると仰せの後、そなたは修めなくとも良いのか?そのようには言っていない。「保護と垂念」と言うこの二言は非常に重要だ。そなたを記憶し、そなたに指し図し、そなたに伝える。そなたが拝私しても、私はそなたに何も与えない、と言っているか?このようには言っていない。菩薩自身が修めなければならない。上師が言うことに馬耳東風で聞き入れない。勤め人が自分の方法で仕事を行う。それは菩薩道を修める人ではないと言うことだ。めちゃくちゃで適当な人も菩薩道を修めることはできない。

経典︰「善男子善女人。発阿耨多羅三藐三菩提心。応如是住。如是降伏其心」

善男子、善女人が阿耨多羅三藐三菩提心を発したなら、菩提心に住み、この方法で自分の心を降伏しなければならない。

経典︰「唯然世尊。願楽欲聞」

元々はこのようだ。私は発願を願う。ここの願とは好き嫌いではない。ここの楽は快楽、愉快ではない。衆生を代表して法喜の心を起こし仏法を聞くことを私は強く願う。なぜ「欲」と言うこの字を用いるのか?仏果を証じるまでは、生生世世に欲望がある。例えば、腹が減れば何か食べたくなり、寒ければ布団をかけたくなる、これも欲望だ。成長すれば男女欲も必要だ。仕方がない。それはそなたは人だからだ。ここで言う欲は良いものだ。それはこの欲望がなければ、仏法を聞くことはないからだ。あとはどのような欲望があるか?彼の欲望には、菩薩道を修められますように、菩薩道を行えますように、と言うものだ。

よって我々は菩薩を覚有情とお呼び申し上げる。覚悟の有情衆だ。なお欲望がある。だが菩薩の欲望は衆生への利益だ。自分が有名になり、金を儲け、楽に日々を暮らすためではない。この種の欲望ではない。彼の欲望は、仏法を学習し、仏法を聞き衆生に利益することだ。ここで言う「欲聞」とは、仏法を聞いた後、自分の修行、衆生への利益の助けになると知っているので、この欲望は得ても良いものだ。だが人世間の欲望と修行とは関係がない。『華厳経』内の菩薩の中には大嗔、大貪を用いて修行する者もいる。だがこれは菩薩でなければできないことだ。

大乗正宗分第三
経典︰「仏告須菩提。諸菩薩摩訶薩。応如是降伏其心」

仏はあまりにも偉大だ。菩薩は登地菩薩から八地菩薩まである。八地菩薩の後は、九地菩薩から十六地までが法身菩薩だ。登地菩薩から八地菩薩まではなお凡夫の思想だ。なお退転の恐れがある。退転とは、自分は最近念じたくない、拝みたくない、法会に参加したくない、と言うのではない。衆生に利益する心が退転し、自分は修行するが、衆生を忘れてしまうことだ。この種の菩薩は、諸仏と上師のさらにしっかりした監督が必要だ。九地から十六地までの菩薩は法身菩薩だ。経典は、十地の菩薩まで修めたなら、諸仏が法身菩薩に密法を修めるよう勧めに来る、と言う。これは経典が言うのだ。私の発明ではない。釈迦牟尼仏は密法を宣説していないと考える人が多いが、これは誤りだ。法身菩薩であれば摩訶薩とお呼びする。いわゆる大菩薩だ。

この段の意味は「そなたは法身菩薩まで修めた。阿耨多羅三藐三菩提心を用いて凡夫の心を降伏することを知っているはずだ」と言うことだ。『地蔵経』で講じるように、凡夫の起心動念はすべて業、すべて罪だ。凡夫が考える事はすべて善悪の業力を生じる。凡夫が何かを考える、念頭を動かすのはすべて自分のためだ。自分のためなら、菩薩ではなく、悪だ。悪の定義は、殺人、他人の金をだまし取る、と言うのとは限らない。利己的、自分のための念頭を起こしさえすれば、そうだ。

例えば今はカニの季節だ。カニが食べたい。念頭を動かす。去年は食べた。今年も絶対に食べたい。これがそうだ。この悪念を起こしたなら、実際には食べなくとも同じだ。どうと言うことはない、ちょっと考えるだけで何かあるのか?と言う人もいる。当然ある。仏法は他の宗教とは違う。他の宗教では、神から何かを授かり、安穏な暮らしを送れることを願う。仏法は、一切すべてを自分で行うよう教える。安穏な暮らしを送りたい、日々が楽でない、これはすべて自分で作り出したものだ。そなたの念頭から始まったのだ。そなたに悪い念頭思想がないなら、自然に悪い事は行わず、耳障りなことも言わない。仏教は、どのように自分を変える訓練をするよう教えてくれるのか?最も良い方法は菩提心を発することだ。仏の教えに基づき、皈依し守戒し、一切の善法、菩薩道を行えば、この一生で生死を解脱でき、他人の生死解脱を助けられる。このようにしなければ、悪が多く善が少ない我々の動く心を降伏することはできない。別の方法はない。

悪い念頭を起こさないようにしてくださいと、観世音菩薩に加持を求める人が多い。なぜどんなに求めてもダメなのか?それは菩提心を発しておらず、すべて自分のためだからだ。自分がよくなりますように、自分が良い暮らしを送れますように、自分が開悟でき理解できるようになりますように。これはすべて悪の心だ。もし我々が求めるのが、毎回迴向文で念じるように「まだ発していない心には、この心を発することができるよう助ける」なら、この種の祈求なら良い。

『金剛経』は非常にはっきりと仰せだ。 禅宗を学ぶには必ず菩薩道を修めなければならない。菩薩道を修めるには、必ず先に菩提心を発しなければならない。菩提心を発するには、先に皈依し、五戒を守り、十善を修め、慈悲を学ばなければならない。慈とは自分の良い事と衆生の悪い事を取り替えることだ。悲とは、自分、衆生を仏土へ送る能力があることだ。慈悲があって初めて菩提心を発する資格がある。非常に面倒、非常に困難、非常に複雑、絶対に無理だと思うだろう。できるのだろうか?もちろんできる。私こそが一つの例だ。私がきちんとできているかは、法王が判断なさる。そなた達ではない。もし私がきちんとできていないなら、法王は必ず叱責なさる。きちんとできていない、とお思いなら、来年ハンガリーで『寶積経』を開示せよとは、法王はお命じにならないだろう。少なくとも私の上師は、私がやっている事を認めてくださっていると言うことだ。私はそなた達よりずっと良くやっていると言えるだろう。

世間で何をしようと、私の念頭は正しい。私は菩提心を用いて事を行う人だ。なぜそなた達はできないのか?それは所知障だからだ。知っていることが、自分を障礙すると思っている。知っていることと仏法が講じることが違う、と思っている。これはすべてそなたを障礙しているのだ。そなたが知っていることは人間の学問だ。仏法が講じるものと人間の学問とは違う。上師と仏の教導を通さなければ、仏法を知ることはできない。仏法と世間の学問とは違うのだから、幾らかの矛盾が存在するのは当たり前だ。例えば、どれだけ多忙だろうと、衆生が求めているなら、必ず助けなければならない。これこそ衝突だ。ある年、私は自分の店で修法していた。突然一人の衆生が往生した。私は修めていた法をすぐに取りやめ、先ずはその衆生を済度させた。それは私は以前、約束していたからだ。これこそ菩提心だ。自分の事は重要でない。衆生の事こそ重要なのだ。

経典︰「所有一切衆生之類。若卵生。若胎生。若湿生。若化生。若有色。若無色。若有想。若無想。若非有想。非無想。我皆令入無餘涅槃而滅度之」

卵生(卵から生まれるもの)。胎生(人類は胎生)。湿生(水を通して、水の中から生まれるもの)。化身(鬼道、天道は化身)。有色(形状が目に見えるもの)。無色(形状がないもの)。生物学を研究している者なら知っておろう。生物の中には、それがエネルギーを有することだけが見て取れ、その形状は目に見えないものもいる。

若有想、とは全く不動の生物もいると言う意味だ。例えば、珊瑚は生まれ出た後は動かない。だが、珊瑚に思想があるかどうか分かるか?ある!どのように食べ、どのように繁殖するか、珊瑚は知っている。生物学では、すべての珊瑚は同日同時間に、雄の珊瑚と雌の珊瑚が同時に卵と精子を海中に放出すると言う。これこそ思想だ。もし何も考えていないなら、樹木のように思想がなく、ただひたすら成長することだけしか知らず、欲望もないはずだ。

この時、一人の赤ん坊が泣き叫び出した。リンチェンドルジェ・リンポチェは、しっかりと子供の面倒をみていない、と子供の母親を叱責なさった。もう一度泣き騒いだなら、抱いて外へ出るように仰せになり、開示を継続された:

「若非有想。非無想。」ここでは禅宗を修める人のことを言っている。修めて、非想非非想天になっている。禅修行には非常に危険な事がある。自分は入定した、自分には凡夫の考え方が全くないと思っているが、実はある。だが自分は考えていないと思っている。この種の考えのために、その人は非想非非想天になってしまう。この天とは色がない。天道には欲界天、色界天、無色界天がある。無色界天へ行く衆生には形状がなく、エネルギーだけがある。誰にも見えない。だがエネルギーがあることは探知できる。このエネルギーが無色界天にあるのだ。

この時、先ほどの赤ん坊が大声で泣き叫んだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らにホテルへ戻るよう指示なさり、開示を継続くださった:

私は経、法を講じている時、子供が騒いでも、これまで出て行くように言うことはなかった。これは初めてだ。なぜだろうか?それは今日は『金剛経』を開示しているからだ。根器がない人は自然に騒ぎ出す。なぜ騒ぎ出すのか?子供は母親に聞かせまいとするのだ。それは母親は聞く準備ができておらず、加護を求めているからだ。子供を連れて来れば加護が得られると考えている。『金剛経』を聞けば、いつか金剛になれると思っている!子供はここに残っていたくないのだ。出口まで行っても、なお外に出たいと騒いでいた。

ここの意味は、仏は我々人類をお救いくださるのみならず、六道内の一切の衆生をもお救いくださるのだ。将来、令入無餘涅槃により滅度できるようにしてくださるのだ。滅度とは、消滅させることではない。生生世世輪迴の業力を消すことだ。仏法を説くのではなく、念仏し、禅定して済度させるのだ。仏土へ行かせてやることを済度と言う。

涅槃は餘涅槃と無餘涅槃の2種に分けられる。涅槃は仏教特有の名詞だ。涅槃とは死掉、消失、不存在ではなく、不生不滅の境界へ行くことで、そこから先は生滅、生死がない。ある境界において、その中に居て変化することはない。有餘と無餘とは次のように定義される。有餘とは、自分は涅槃に入ったと思っているが、ちょうどある業力、思想があり、それが彼の修行の時にあるところで抵触すれば、涅槃の力は消失してしまう。簡単に言えば、涅槃とは、修行の様子の出現ではなく、修行のエネルギー、念頭が、それを一つの力に変えた後、我々がいう空間内に存在し、出生死亡の過程が二度と再び現れないことだ。これは求めて戻ってくるのではなく、どれだけ念仏すれば戻ってくると言うのではない。必ず仏の加被、救い、教導があって初めて得られるのだ。

なぜ釈迦牟尼仏は成仏しようとするのか?成仏すれば至高無上で、一切の苦を解脱できると言うのではなく、無辺無際の数えきれない衆生を救うことができる大きな能力を得るためだ。仏の仰せに基づけば、一切の六道衆生を救おうとすれば、その数は人類の数学で数えきれるものではない。

なぜ釈迦牟尼仏は成仏しようとするのか?成仏すれば至高無上で、一切の苦を解脱できると言うのではなく、無辺無際の数えきれない衆生を救うことができる大きな能力を得るためだ。仏の仰せに基づけば、一切の六道衆生を救おうとすれば、その数は人類の数学で数えきれるものではない。

涅槃に入るとは、この法界、この宇宙に一日存在すれば、その人は涅槃の境界に存在すると言う意味だ。法界の変動に従い変動することはない。また、仏の涅槃境界に入り、仏の願力がひたすら存在さえすれば、すべての法界、つまり宇宙中のすべての衆生にひたすら利益することができる。すべての衆生が涅槃に入り滅度するよう、なぜ助けなければならないのか?それは、一人の衆生でもなお輪迴するなら、この宇宙もそれに従い輪迴するからだ。こんなにも多くの星、銀河系、衆生が種々の問題煩悩を生じるのは、それはひたすら輪迴するからだ。衆生が生生世世に為した善悪業は我々を絶えず輪迴させる。輪迴の力は、我々に絶えず再び善悪業を行わせ、この地球、宇宙はひたすら絶えず生滅法を生じる。

経典に基づけば、地球の発生には四つのステップがある。成住壊空。成とは産生の意味だ。住は、有情衆生の居住に適し始めると言うことだ。壊とは、ゆっくりと壊れ始め、空とは、最後に消滅してしまうと言うことだ。地球は現在壊れ始めの速度にある。気候がおかしくなり、地震は非常に多く、火山は爆発し、津波など種々の天災が起きている。これこそ壊だ。去年の台風は突然とても多くなった。しかも、常に日本にやってきた。経典に基づけば、風災が多い場所は、そこの人は因果をあまり信じない。これは経典が説くのだ。

仏は衆生が生死の苦痛から離れられることを願っておられる。もう一度人になりたい、再来して良い暮らしを送りたい、と言う人がたくさんいるだろう。この種の考え方はすべて誤りだ。私には、台湾に良い友人がいた。私の学仏は彼の紹介による。法王も彼が紹介してくれたのだ。道理によれば、彼は私に学仏を紹介してくれた、彼の善の業、因縁は非常に良いはずだ。だが最終的に、彼は自分の累世の業力を変えられなかった。そのため、脳卒中で寝たきりになり、一ヶ月余りで死んでしまった。なぜか?彼は菜食し読経もし、法会に参加して修行もしていた。だがある時、彼と話していたところ突然私に「この一生でこんなにも多くのことを為したのだから、次の一世ではたっぷり福を享受したい」と言ったのだ。そう!この言葉だ!彼の念頭では「学仏は福を享受するため」だったのだ。福を享受するためなら、生生世世に為した悪業は、この一生では解決できない、転化できない。彼の悪業はやはり成熟した。そのため脳卒中を起こしたのだ。脳卒中になれば、仏法が聞けず、仏法修行ができない。脳卒中の人は話せず、聞けず、動けない。救ってやりたいと思っても如何しようも無い。一切すべては、一つの念頭だけなのだ。念頭が正しければ、物事も正しくなる。

仏は、六道一切の輪迴衆生が輪迴を離れ、仏果を証できるよう助けるとの大願を発した。仏はひたすら行い、ひたすら行い、止まったことはない。ただ、我々がひたすら聞かず、ひたすら聞かず、ひたすら行わないだけだ。そのため我々は輪迴し続けるのだ。

経典︰「如是滅度無量無数無辺衆生。実無衆生得滅度者。何以故」

前の方では、このように非常に多くの衆生、数えきれない無辺衆生を救った、と言った。そして、後半で突然この一言が出てくる。だが仏にとっては、衆生の滅度を助けていない、実際には衆生を滅度していない。

経典︰「須菩提。若菩薩有我相。人相。衆生相。寿者相。即非菩薩」

この言葉は重点だ。仏は須菩提に仰せになった。菩薩が、我相(自分)、人相(相手)、衆生相(すべての一切の衆生)、寿者相(時間)があると考えたなら、それは菩薩ではない。この言葉の意味は、非常に説明しにくい。ある人が菩薩になったなら、衆生は皆平等であり、一切の衆生は成仏の条件を本来自然に具備しているとすでに理解しているはずだ。仏が仰せの一切の衆生は皆仏性があり、一切の衆生は成仏の種子を有している。一切の衆生は本来は仏なのだ。衆生は一念無明で念頭を起こし、因果を信じず、輪迴を信じないので、造業を始めただけなのだ。そのため、本来具備している成仏の条件から、凡夫輪迴の条件に変わってしまったのだ。

菩薩道を修める人ははっきり知っている。今日衆生は業力のために出現し、衆生の分別のためではない。一人一人の衆生の業力は異なる。それは善業悪業の違いは、違った果報を生じるからだ。よってある人は人道に生まれ、人道で富み栄え、ある人は困窮し、健康なものも、不健康なものもいる。何度も手術を受ける人もいるし、貪念が非常に重い人もいる。これら種々の事柄は仏菩薩がその人のために作り出したのではなく、誰かが作り出したのでもなく、すべて自分の念頭が作ったのだ。念頭とは生滅だ。念頭は起きるとすぐに消失する。もし、一つ一つの念頭の生滅が非常に速いと知っているなら、悪念をひたすら継続させることはないだろう。善念が起きた時には、一切の方法を用いて、善念を継続させるだろう。

簡単に言えば、一切の念頭が起きるのはすべて縁があるのだ。突然発生するのではない。ある事柄を好きであったり、嫌いであったりするのはすべて、双方が影響し合って初めて生じるのだ。一方だけで発生することなどあり得ない。言い換えれば、好きと嫌いはすべて一種の縁起なのだ。縁法は生滅法だ。好きは生じるそばから消滅してしまう。それは、永遠に好きだなどとはあり得ないからだ。嫌いもそう言うことだ。仏法では言う。すべての一切の事情念頭の本質は空性だ。ない、存在しないと言うのではない。一切は自性にあるのではなく、自然発生ではないのだ。非常に多くの因縁があり物事を発生させる。非常に多くの因縁が発生した後、非常に多くの因縁はすぐに消滅してしまう。世間の種々の事情はすべて因縁があり生じ、因縁がありそれを消滅させてしまう。仏法は「空性」と言う名詞を用いて、それを定位している。固定的にあるのではなく、固定的に消失してしまうのでもなく、ひたすら変化、転変すると言う意味だ。

私はしばしば一つの例を挙げる。例えば、先ほど言った法座のことだ。法座になる前は一本の樹に過ぎなかった。一本の樹になる前は一個の種子に過ぎなかった。種子になる前は樹上の一輪の花に過ぎなかった。花が種子に変わり、種子が土中に入る。非常に多くの条件が揃わなければ、芽を出し樹に成長することはない。さらに、非常に多くの条件が揃わなければ、人がそれを切り倒すことはない。非常に多くの条件が揃わなければ、誰かがこの木材を選び、誰かが彫刻の心得がありこの卓と成すことはなく、我々が法座と呼ぶことはない。だがもし「法座」と言うこの二つの漢字を取り去り、源を遡れば、何もなくなってしまう。もともとないのだ。これは我々が一つの名詞をそれに与えているに過ぎない。

名前を取り去れば、そなたは何だ?何でもない。医学を学んだ人は知っておろう。山ほどの元素が詰まっているに過ぎない。鉛があり、銅があり、珍しくて奇妙な元素がたくさんそなたの身体の中にはある。これら元素が全部分解してしまい、虚空中の他の元素と結合してしまえば、そなたと言うこの人は存在しているのか?存在していない。自分の元素を持ち出したかどうか、などと言ってはならない。例えば、今日そなたは自分の名前を忘れるか?何年に生まれたか、身分は、どこに住んでいるか?自分の子供のことを忘れるか?すべてを忘れてしまった。自分が誰かも忘れてしまった。「人」と言うこの一文字だけを与え、この人を分析する。そなたはどんなものなのか?ものではない、どんなものでもない。

なぜ我々は自分は真実だと考えるのだろうか?それは、そなたが自分は人だと考えるからだ。人とは一個の名詞に過ぎない。この名詞を取り去って分析していけば、そなたどのようなものでもない。仏法は非常にシンプルに言う。母親の血と父親の精が結合し、それに過去世の神識が投入され、この人の身体が生まれた。人の身体ができた。この一生で受けるのは過去世に為した善悪業力の果報だ。これら果報はこの一生でひたすら絶えず出現する。すべての業力を使い切ったら、善の業力を使い切ったら、身体は悪くなり始め、病気になり、手術が必要になる。善業を使い切ったので、悪業が出現したと言うことだ。悪業を全部使い切れば、死に近づく。死は肉体の消失だ。この虚空と結合し、この一生で為した業と考え方が生まれ変わりの準備に入る。

何が生まれ変わるかどうかを決めるのか?仏菩薩が決めるのではない。この一生で為した事が決めるのだ。因果を信じないなら、絕対に畜生道に堕ちる。この生で殺生が非常に重く、カニ、魚、海鮮を好んで食べたなら、必ず地獄道に堕ちる。これは私が言っているのではない。『地蔵経』が言うのだ。『地蔵経』を聞いたことがあるなら、分かっているだろう。地蔵菩薩の母上は、ある一生で衆生の肉を好んで食べ、スッポンの卵を好んで食べていたので、死後地獄に堕ちた。食べたことがない人は手を挙げてみよ?(ある日本の信衆は鼻を触りモジモジして手を挙げることができなかった)。食べたことがあるものは、地獄へ堕ちる準備をせよ。なぜこの一生で私の修行はこんなにも大変なのか?それは私が非常に多くの魚や蝦を食べたからだ。 私は仏法を知って驚愕した!地獄に堕ちたくない。地蔵菩薩の願は「地獄不空,誓不成仏(地獄を空かないと、成仏しない)」だが、私は地獄へ衆生を救いに行くつもりだ。実は私は今まさに地獄にいるのだ。人の行為は、実は地獄での事と大した違いはない。

「我相」我々は小我から大我に変わり、大我は大愛に変わる、と多くの人は言う。これは間違っている。これはやはり我がある。自分の存在を考えた時、自然にそなたは守戒せず、皈依しなくなる。今日日本語の通訳を担当している者は正にこの種の人だ。なお我の存在がある。

我の存在があれば、慈悲を学ぶなどもちろん不可能だ。慈悲がなければ、菩提心があるはずがなく、菩提心がなければ、菩薩道を修められるはずがない。何もかもそなたとは関係がない。そなた達は「なぜ聞かなければならないのか?」と問う。仕方がない。それは、そなたの業力がそなたを聞きに来させるのだ。そなたにはなお善の業力がある。過去世でそなたは絕対に仏法に触れたことがある。ただ聞こうとせず、しっかり修行しなかっただけだ。私はそなた達の善の業力にいくらか借りがある。そのため、この一生で仏法をそなた達に聞かせているのだ。聞いた後やるかどうかは、自分で決めるが良い。

我々が菩薩道を修める時、自分は修めている、私は衆生を済度させている、と考える。これは菩薩ではない。なぜか?それは菩薩成仏の本質と衆生成仏の本質は同じだからだ。よってしばしば言うのだ。菩薩の眼中には良いも悪いもない。因果業力があるだけだ。菩薩が衆生を見て、良い衆生と悪い衆生を区別しているなら、それは絕対に菩薩ではない。菩薩が自分の信衆だけを救い、他の信衆を救わないなら、これもやはり菩薩ではない。もし種族を区別するなら、これも菩薩ではない。今日は菩薩を修めるので、先に我相を破壊しなければならない。どのように我相を破壊するのか?『寶積経』では言う。慈悲喜捨を修めなければ、我相、人相、衆生相、寿者相の四つの相を破壊することはできない。

慈悲とは、衆生を彼岸へと済度させる事だ。もし、衆生を彼岸へと済度させる能力がないなら、自分自身も彼岸へ行けないことを示している。自分も彼岸へ行けないのに、どうして衆生を彼岸へ行かせられるだろうか?自分も衆生も彼岸へ行かせられないなら、そなたは人相を生じる。仏は前半で仰せだ。仏は一切の衆生を彼岸へ行かせる。仏は衆生を区別しない。それは仏は知っているからだ。衆生が一人でも輪迴しているなら、仏がなお輪迴しているのに等しいからだ。なぜ仏がいて、菩薩がいるのか?それは、衆生が輪迴しているからだ。もし一切の衆生が輪迴しないなら、仏菩薩は必要ない。仏菩薩の出現は、衆生が苦しんでいるからで、もしすべての衆生が輪迴しないなら、仏菩薩は不要だ。

我々が慈を修める時、自分の良いものを衆生と交換する。それでなお我があるか?自分を犠牲にし、自分の一切を捨てたのだ。当然自分の存在はない。一切の有情衆生を救い、彼らを済度させるなら、当然他人と自分とを分けることはない。それを「人」だと区別することはない。「人」とは「人間」を指しているだけではなく、天界の衆生「天人」をも指す。一切の凡夫が輪迴苦海のなかにいるなら、それは「人」だ。私は宗教人だ、私は善人だ、輪迴しない、などと思わないことだ。そなた達の言う善人は、道徳倫理、法律から定義している。仏の言う善人の定義は、仏法に基づき生活しているかどうかだ。こう言う人を我々は聖人とお呼び申し上げる。聖人とは、その暮らし方を見たところ、嫌いだと言うことがない、と言うのではなく、その暮らし方のすべてで絶えず衆生に利益しているかどうかにより定義される。慈悲を修めれば、自然に我相、人相は破壊される。

「衆生相、寿者相」我々はなぜ衆生を分けるのか?それは衆生は業力の違いに応じて、六道内で輪迴するからだ。正に先ほど言った卵生、胎生、湿生、化生、有色、無色だ。これらはすべて過去世の自分が作った業力により、違った場所に投生したのだ。密法によれば、生まれ変わる時には必ず宮殿を目にする。この宮殿は母親の子宮だ。仏法を学んだことがある人なら、宮殿の出現は正しいか、誤りかが分かるだろう。正しいなら、我々は場所を誤って生まれ変わることはない。仏法を知らない人は、生まれ変わる場所を誤り、快適だと考える場所へ行くだろう。快適だと考える場所へ行けば、通常それは三悪道の中だ。これは非常に容易だ。念頭を起こしさえすれば、行ってしまう。

「慈悲喜捨」中の「喜」とは、一切衆生に楽があり、楽の因もあれよかしを願うと言うことだ。我々は菩薩道を行う。永遠の楽とはなんであるか知っている。輪迴せず、生死がない楽だ。そうでなければ、永遠とは言えない。人世間のわずか数秒の楽ではない。この種の楽は永遠ではない。世間の楽は、後に必ず苦がある。肉が好きなら三高となる。高血圧、高脂肪等だ。酒好きなら当然晩年は老人性痴呆症となる。喫煙者は当然肺癌、腫瘍に見舞われる。口汚いことばかり言う人、他人を害することばかり言う人、他人を罵倒する人は、口腔内に病を生じやすい。すべては自分で作り出したものだ。人世間の楽はすべて一切の苦痛の根源だ。仏法が講じる楽は、自分に利益するためではない。一時的な楽を求めるために、衆生を傷つけるものではない。

「願具楽及楽因」菩薩であるなら、将来、輪迴解脱できる楽の因を衆生に作ってやらなければならない。今日『金剛経』を開示するのは、正にこの事を行なっているのだ。永遠快楽の力量を具備するとは、そなた達が在世の内に、上師として、菩薩道を修める者として、ひたすら絶えずそなた達に機会を作ってやり、絶えずそなた達を諌めることだ。そなた達が過去世で何を為したとしても、上師としては、それを心に止めることはない。そなたが仏法を聞きたいと願いさえすれば。正に仏が教えた「善護念」だ。そなた達は菩薩ではないが、上師としては、やはり諸衆生を善護念する。機会がありさえすれば、そなた達に仏法の真の意味を語って聞かせる。世間の事情を聴かせるのではない。世間の事情はあまりにも簡単で、あまりにも容易に行える。学仏の事は、修行経験がない人は、語れないものだ。

「喜」は衆生の相を破壊する。衆生の具楽と楽因を助けなければならないと知った時、自分と他人とを区別することは自然になくなる。私が幸せなら、他人が苦しんでいても知ったことか。我々が今行っている事はすべて、衆生が苦痛であろうとなかろうと、自分が幸せならそれで良い、と言うものだ。カニを調理するとしよう。カニは必ず逃げ出すだろう。カニに思想がないなら、逃げ出すだろうか?カニを捕まえようとすると、カニは必ず逃げ出す。カニには思想があるのだ。どうして食べることができようか?皆、カニは美味しいと思っているだろう。カニの季節だ、さあ食べようと思っているだろう。

私は日本のある寺へ行ったことがある。日本の寺へ行くと、カニの季節は寺は特に商売繁盛だ。それは、寺の近くにカニを食べさせる温泉旅館があるからだ。旅館の女将はカニを殺した後、毎日寺へ行き、商売を成り立たせ金を稼がせてくれた、と菩薩に感謝し、寺は読経してやる。これは正しいのか?私には分からない。私が学んだ方法では、これは正しくない。どうしてこんなことになっているのか?だが每年10月前後は書き入れ時だ。

「寿者相」とは時間の観念だ。科学を学んだことがある人は皆知っておろう。宇宙に入っても時間がないのだ。時間とは星が回転する時に初めて生まれるものだ。そなたが宇宙に入り、近くに星がないなら、完全に時間はない。時間は時計が動いているのを見ているに過ぎない。宇宙内は止まっているのだ。実は衆生は輪迴しており、人類も見たところ時間はある。だが仏菩薩の目で見ると時間はない。因縁が一段一段と出現しているだけだ。過ぎ去れば、なくなってしまう。なぜ仏は過去、現在、未来を知ることができるのか?それは仏の禅定内には時間がないからだ。なぜ私は時たま、そなた達の過去と未来の事を知っているのか?それは私が心の中で定している時には時間がないからだ。そなた達は動いているが、私は動いていない。仏の心は動いていない。動いていない時でなければ動きを見ることはできない。そなたの過去の行い、未来の行いを、そうして初めて見ることができる。

寿者相をどうすれば破ることができるのか?それは慈悲喜捨によってだ。どうやって捨てるのか?我々人は良い、悪いを区別する。良い、悪いを区別するなら、良いものを得た時、不変を願う。こうして時間「寿者相」が生まれる。良くない時にはすぐに消失してしまえと願う。これも寿者相だ。時間になんの悪いことがあるのか?「時間」は、我々に、一つのことをやり遂げるのに時間が足りないと思わせ、時間が足りないと思わせる。実は時間は永遠にそなたの心で動いているのだ。心が動けば時間が生まれる。仏は、時間に対する観念をどのように捨てるかをお教えくださる。非常に簡単だ。良いことも悪いことも、すべて平等心を持って捨て去ることだ。捨て去るとは、受け入れない、生まれさせないことではない。良いことであろうと悪いことであろうと、執著してはならないと言うことだ。良いことは不変であってほしい、悪いことは早く消失してほしい。だが業力が成熟するまでは、消失することはあり得ない。業力が成熟すれば、永遠に不変ということはない。執著心があれば、それは不捨得の心だ。

慈悲喜捨はこの四つの相を破壊するのだ。菩薩道を学び、菩薩道を修める人は必ず破壊しなければならない。破壊しないなら菩薩道を修めることはできない。少しの事で緊張し、あちらこちらの医者にかかり、上師がどこにいるか忘れてしまう。自分の業力も忘れてしまう。自分が為した因果を信じず、自分の果報を信じず、すべてを信じない。医者にかかるな、と言うのではない。私には非常に多くの医者の弟子がいる。みなが医者にかからないなら、弟子たちは失業だ。だが、病とは、肉体に何か原因があると知らせているだけなのだ。必ず治るだろうか?そうとは限らない。いくらか苦痛を軽減でき、心の拠り所が得られるだけだ。

病の真の原因は、一つには業力の出現だ。第二は、福報をそろそろ使い切りそうなので、福報が足りない、ほとんど使い切ってしまった、と言う警報だ。福報がよければ、病痛は自然に減る。病にかからないのではない。病痛があったとしても、普通の人なら一年薬を飲まなければならないところを、一回で良かったりする。これこそ福報だ。慈悲喜捨を修めず、菩薩道を修めない人は、自分の身体に非常にこだわる。身体は重要でない、と言うのではない。身体がなければ学仏できず、仏法修行もできない。だが学仏人であり、菩薩道を修める人なら、身体に問題が出るのは、必ず業力と関係があるとはっきり分かっているはずだ。私も膝がたまに痛くなるが、私ははっきり知っている。それは以前、ケンカして他人を蹴ったことがあるからだ。ザマアミロだ!よって医者にはかからず、ちょっとマッサージすれば、二、三日ですぐに良くなる。手の関節が痛くなることもある。それは以前ケンカしたからだ。ザマアミロだ!そなた達なら、すぐに漢方マッサージ医にかかり、または西洋医に骨折していないか、筋肉に問題がないか、などと診てもらうだろう。私はまったく医者にかからない。数日すれば良くなってしまう。

私はリンポチェだ。菩薩道を修めている。この種の道理を当然知っている。心の中で執著しない。病の存在に執着しないのだ。以前皮膚癌にかかった時、医者である弟子は、皮膚癌はあらゆる癌の中で最も恐ろしいもので、全身が黒くなった時には死ぬまで痛む、と私に告げた。私は医者にかからず、薬も飲まず、法王と仏菩薩に祈願もせず、自分の病気のために読経持咒することもなかったが、今ではすっかり良くなってしまった。どうして良くなったのか?それは慈悲喜捨だ。四相を破ったのだ。非常に簡単な法門だ。菩提心を発し衆生に利益するのだ。

病気になり、皮膚癌になったのは、簡単なことだ。それは以前、海産物を好んで食べていたからだ。一日とて食べない日はなかった。母の腹の中にいた頃から食べ始め、36歲で皈依するまで食べ続けていた。そのため、皮膚癌になったのは当然だ。皮膚癌になった時は、私が最もうれしかった時だ。それは借りを返せたからだ。そなた達のように、病気になったと言って泣いて大騒ぎしたりはしない。病気になって借りを返せたので、地獄へ落ちる必要はなくなったと私はうれしかった。そなた達は自分が地獄へ落ちるとは信じておらず、仏の仰せを信じておらず、自分は善人なので地獄へ落ちるはずはないと思っている。肉を食べたことがある者は皆地獄へ落ちる。食べたことがあるなら、地獄へ落ちる確率は100%だ。なぜリンポチェと言う存在があるのか?それはそなた達がすべて地獄へ堕ちようとしている人だからだ。私はそなた達を済度するためにいる。誰も地獄へ落ちないなら、私は消失して存在していない。リンポチェは要らないのだ。

四相を破らなければ、菩薩道を修めることはできない。この四つの相を具備しているなら、絶対に菩薩ではない。簡単に言えば、菩薩道を修めず、菩薩道を学んでいない。筋が切れたと言って泣いて大騒ぎし、あれもやったりこれもやったりするが、実は薬を飲めばそれでいいのだ。私は1年医者が出した薬を飲んでいないが、身体はますます健康になっている。私はわざと飲んでいないのだ。ちょっとひねくれてみているのだ。私と言う人間はなかなか強情なのだ。この医師は、自分の薬を飲めば、私が健康になると考えていた。だが私は一年間まったく飲まなかった。飲むように懇願されたが、それでも飲まなかった!そのクリニックは私が開いたのだ。それでも薬を飲まない。そなたと比べてみよ。薬の方が優れているだろうか?心の力の方がやはり優れている。

学仏時に、この四つの心、四つの相は必ず破らなければならない。自分はとてもよく読経していると考え、衆生を救っている、衆生を済度させていると考えるなら、それらはすべて菩薩道修行ではない。

妙行無住分第四
経典︰「復次。須菩提。菩薩於法。応無所住。行於布施。所謂不住色布施。不住声香味触法布施。須菩提。菩薩応如は布施。不住於相。何以故。若菩薩不住相布施。其福徳不可思量」

須菩提、そなたは菩薩道を修める。非常に多くの人が法とは修法だと思っている。特別な事情によりある事情を変えるのだと思っている。実は仏が仰せの法とは、そなたにある事をさせるのだ。仏が仰せなのは、衆生に利益する事だ。この法は非常に優れているので、何かに対峙できるとは特別に仰せでない。「菩薩於法」とは法界内だ。法界とはなんのか?あらゆる衆生は輪迴内ではすべて一種の現象だ。簡単に言えば、法とは一種の現象だ。菩薩は法の現象内でどこにもおられない。何をするにしても、何を行なっているかに心は執著しない。布施する時は、衆生を救い、衆生に利益する時だ。「不住色布施」とは、ある形相上で布施することにこだわらないと言うことだ。簡単に言えば、時には私は衆生に修法してやらないことがあるが、心は動いているので、すでに布施しているのだ。だが、その人は私が布施しているとはまったく気づかない。例えば、仏法を信じない人がいる。私は視線で加持してやるが、これも布施の内だ。

「不住声香味触法布施」とは、菩薩は布施する時、「声色香味触法」菩薩はいつでも布施している。どのような特定の方法を用いて布施するかにこだわらない。声が非常に良いので、ひたすら声を用いて布施するとも言わない。修めた相が非常に荘厳なので、色を用いて彼を惑わすとも言わない。特別に香りを用いて惑わすこともない。自分の身体には香りがある、修行が非常に良い、私は布施している、と思っている人がいる。菩薩は特別な方法を用い布施することはない。いかなる方法であろうと、適当に手を伸ばして掴んでくれば、すべて布施だ。それは衆生の業力、因縁福報に基づき、種々の方法を用いて布施する。布施が終われば忘れてしまい「不住於相」だ。私も、何をやっても、やっていないかのようにすっかり忘れてしまう。自分は布施してやった、と菩薩が思うなら、次には、どんなことが起こるか準備しなければならない。どんなことが起こると準備しなければならないのか?それは善悪の輪迴に落ちることだ。私は布施を行う。布施が終わった。その一切の成果は、自分が布施したからではない。それはその人の業力の果報なのだ。私が存在し、私が布施したことで、その人が良くなったり悪くなったりしたのではない。

菩薩道を修める人は、布施は六波羅蜜修行で必ず行わなければならない。そのため衆生の一切の事情を救うのは非常に自然に行うものだ。わざわざ行うと考えるものではなく、何かの報いのために行うものでもない。「不住相」で最も重要なのは、名や感覚の面を含む報いの準備をしないことだ。子供に勉強させるための寄付が好きな人がいる。その子が卒業する時、卒業式に出席し卒業を見届ける。これこそそうだ。そなたがその子供の勉強のために寄付しても、その子が卒業しなかったらどうだ?金を取り戻すのか?それともその子を殴り倒すのか?貧しい子供の勉学をサポートしている人が多いが、その子がしっかり勉強するよう願っているのでサポートするのだ。これは行菩薩道ではない。なぜか?それはこのように「住相」でのサポートだからだ。この子供はそなたに借りを作ってしまう。そなたに借りがあるので、次の一世では必ず返さなくてはならない。その子がそなたに返済すれば、次の一世でそなたは再来してその子に返済しなければならない。これこそ輪迴だ。

つまり、今アルバイトする人が、雇用主によくやっていると思われたいなら、アルバイトしない方が良いということだ。雇用主は給与をくれるのだから、よくやるのは当たり前だ。雇用主によくやっていると思われたいのは、どこかで何かを間違っていると言うことだ。これらを覆い隠したくて、雇用主によくやっていると言われたいのだ。それなら、アルバイトなどするな。これも「住相」だ。自分はこれをやったことがあると言って、ひたすらそれを考え、結果が目に見えることを願ってはならない。報いがあるとは限らないのだ。目に見えるものは全て過ちだ。だが世間人は、この子供をサポートし貧困から抜け出させてやりたい、あの子は楽しく暮らしているだろうか、などと関心を払う。これこそ「住相」だ。他人を助けた後、よかろうと悪かろうと、それは相手の事だ。そなたが助けるのは当たり前だ。それは我々が菩薩道を行っているからだ。例えば、前回の福島の天災で、私は500万円を寄付したが、私は500万円をどう使ったか?などとは聞いていない。そなた達は、相手がどう使ったか聞きに行く。私は問わない。私の念頭が起き、彼らは受け取った。政府がどのように使おうと私には関係がない。うまく使おうと誤った使い方をしようと、それは相手の責任だ。私が責任を負うのではない。

布施で最も重要な観念とは理解だ。学仏であろうと人としてであろうと、布施は行うべきものだ!布施する気がないなら、晚年は孤独になるだろう。現在このような現象をたくさん目にする。若い時には自分のために、何もかもお構いなしで、何一つ構わない。手に入れられればそれで良いと思っている。だが、老いて、何もないことに気づくだろう。未来世がどうだと言わなくとも、今のこの年齢で自分が老いた時のために準備をするべきだ。老いた時に、誰かがそなたに近づき、親切にしてくれるかどうか。自分に言ってみよ。自分は若い時にいくらか良いことをしたなら、今老いていて、病気にかかっていても心配する必要はない。少なくともそなたの存在を知っている人がいる。それは、この一生でいくらかの布施、いくらかの良い事を行ったということだ。我々はしばしば若い時が最も重要だと考える。そうではない。誰でも老いるのだ。老いた時にどのように暮らすのだ?みな考えたことがないだろう。金があれば良い暮らしが送れると思っているだろう。金があっても、良い暮らしを送れるとは限らない。多くの金持ちが金を銀行に預け、毎日孤独に日々を過ごしている。この種の人が非常に多い。

学仏するかどうかはまた別の話題だ。だが人として人道の面で、衆人を助ける心を持てているか。衆人を助ける心を持てているなら、老いた時、誰かがそなたを助けてくれる。これこそ因果だ。幼い時から大人になるまで全く他人を助けたことがなく、他人から受け取るばかりで、自分は金があるので良い暮らしを送れると思っているなら、それは過ちだ。金も逃げ出してしまう。例えば、今年日本の消費税は8%から10%になる。すべての日本人の財産が2%少なくなるのだ。金を使わない限りはそうだ。自分は銀行に預けているのだ。取られたりしていない、と言うかもしれない。だが金を使いさえすれば、取られるのだ。若い時布施したなら、今政府が税率を2%上げたとしても、他人が2%分をくれるかもしれない。これは発生し得るのだ。経典ではいう。財富はそなたのものではなく、五賊が共に管理するものだ、と。その内の一つが政府だ。消費税を10%取られ、他にも税がある。100円稼いでも、ポケットに入る時には40円しかないかもしれない。60円が取られてしまったのだ。どうせ取られてしまうなら、財団法人に寄付するなど、なぜ布施しないのだ?我々宗教団体に寄付すれば税金の控除が受けられ、少なくともそなたはいくらか功徳を積むことになる。

布施を嫌がる人が多い。仏法を聞きに来たのは仏法を聞きに来たので、説法する人は説法するべきだと思っている。「べき」という二文字はない。私はこの一生でこの願を発したので、説法しているに過ぎない。

「福徳不可思量」。我々が相布施すると、善の業力が発生するが、この一生では使えず、次の一世でなければ使えない。例えば、中国の梁武帝は非常に多くの善事を行なった。すべての出家人が菜食するのは、彼が命令したのだ。また非常に多くの寺を建立し、非常に多くの経典を印刷し、非常に多くの法会を開催して、非常に多くの論を書いた。だが最後には餓死してしまったのだ。それは梁武帝は「相布施」だったからだ。累世に為した悪業は功徳に変わらず、功徳がなければ、生生世世に為した悪業を転じられず、転じられなければ、次の一世でしか使えない。現在非常に多くの信衆が仏法を聞きに来ているが、この一世では使えないのだ。それは言いつけに従わないからだ。だが次の一世では必ず有用だ。だがそれは、人または天、さらには畜生道の福報となるだろう。達摩祖師は、梁武帝には功徳がないと仰せになった。それは、梁武帝は無相布施を修めていないという意味だ。自分は皇帝なので、なんでもokだと思っていたのだ。さらに達摩祖師に「私には功徳があるか?」と訊ねた。達摩祖師は「ない」と答えた。達摩祖師は大修行者、大成就者だ。その方がないというなら、ないのだ。彼がないと言ったので、「面壁九年」した。私はひたすら彼のこの点を真似ている。そのため、しばしば金持ちを怒らせる。

『寶積経』でも言う。官僚の傲慢な心をひたすら強化してはならない。先日、ある高官が会いに来た。私は、役人風を吹かせるな、と言ったが、付いてきていた友人は顔が真っ青になっていた。その人は高官だ。私はなぜはっきり言うのか?それは『寶積経』の教えだからだ。官僚を傲慢にさせてはならない。彼が私に構わないのは、むこうの勝手だ。どうしたって私は法を犯していない。何を恐れることがあるのか?もしそなたが無相布施なら、そなたの学仏修行の力量、修仏の功徳に変わる。この種の福徳の量は仏であってもどれだけあるか考えつかないほどだ。なぜ我々はこうする必要があるのか?それはそなたには大福報、大功徳がないので、学仏では必ず障礙があり、必ず非常にたくさんの問題があるからだ。この子供が彼女を障礙するように。福徳があれば、障礙が消える。消えた後でなければ、修行できない。

修行は学仏人が行わなければならない事だと言うだろう。なぜ我々に構うのだ?在家衆が仏法を聞きに来るのは、商売がうまく行くように、健康になるように、老化が早くならないように、だ。もし私のように修行できれば、老化は遅くなる。私の老化は非常にゆっくりだ。これこそ福徳を修めたからだ。もし仏法の福徳を修められれば、世間の福報は付いてくる。世間の福報を修めても、それは有限で、しかも不可思議ではない。100元稼いで、その後はお金を稼がなければ、100元は使い切ってしまう。我々は絶えず金を稼がなければならない。福徳功徳は絶えず行う必要がある。それは我々は衆生に利益するために、絶えず行う必要があるからだ。だがこの福徳功徳は使い終わることはない。不可思議だ。そなたがひたすら修めれば、ひたすら増加する。求める必要はない。わざわざ考えなくとも、ひたすら増加する。よって福徳は非常に重要だ。修められない、ではダメなのだ。

福は一切の無上布施で、徳は五戒十善と禅定だ。福徳を修めれば有る。仏は不可思量と仰せだ。この量は人の頭で、どれだけだと考えられるものではない。

経典︰「須菩提。於意云何」

そなたの考えはどうだ?釈迦牟尼仏は非常に悪戯好きだ。こんなにも多くを仰せの後、どう思う?とお尋ねだ

経典︰「東方虚空。可思量不。不也。世尊」

東方の虚空とは宇宙だ。宇宙はこんなにも大きい。その量を考えられるか?須菩提は釈迦牟尼仏に「この量がどれだけか考えることはできない」と答えた。

経典︰「須菩提。南西北方。四維上下虚空。可思量不。不也。世尊」

釈迦牟尼仏は「須菩提、東南西北上下すべてが虚空でも、いったい不住相布施の量がどれだけかを考え出すことはできない」と仰せになった。

経典︰「須菩提。菩薩無住相布施。福徳亦復如是不可思量。須菩提。菩薩但応如所教住」

もし菩薩が無住相布施をできれば、福徳もこのようになる。仏は再び「須菩提、すべての菩薩は私が講じ教えたものを、その心に住まわさなければならない」と仰せになった。何を教えたのか?四相を破り、住相布施をしないことだ。私の話を聞き、私が教えた方法を用いて、そなたの心をその上に住まわせなければ、菩薩道修行はできない。

如理実見分第五
経典︰「須菩提。於意云何。可以身相見如来不。不也。世尊。不可以身相得見如来」

仏はまた「須菩提、そなたの考え方はどうだ?身で如来に会えたか?」とお尋ねになった。須菩提は「できません。我々は肉体で仏に会うことはできません。相を用いて仏に会うこともできません」と答えた。ここで言うのは、肉眼で見るのではなく、天眼で仏性、仏本来のお姿を見るのだ。その意味は、もし今日そなたが仏像を見る。それは仏なのか?と言うことだ。仏ではない。以前そなたは釈迦牟尼仏が前に立っているのを見た。それは仏なのか?仏ではない。ただの肉体だ。我々はどうして仏の本性を見ることができるのか?仏の本質を見たか?後で言おう。

経典︰「何以故。如来所説身相。即非身相」

仏はまた「如来は言った。身体と相はすべて嘘だ。変化する。もし今日そなたが夢の中で仏を見ても、それも嘘なのだ。夢の中観世音菩薩を見るのは、すべて嘘なのだ。もしそなたが虚空内に仏がおられるのを見ても、それも嘘だ」と仰せになった。ここで言う道理は、一切の衆生は皆仏と同じ清浄な仏性を具備している。我々は目に見えない。当然目に見えない。仏の清浄な仏性をどうして目に見ることができるだろうか?見えないのだから、仏を見たいと願うのは、嘘だ。自分が自分の清浄な本性まで証できるなら別だが。そうすれば当然仏の本性を目にすることができる。いわゆる明心見性だ。非常に多くの人が明心見性とは自分がはっきり理解し、目に見えることだと考えている。そうではない。そなたの清浄な本性を回復させなければ、心の作用がどうなのかを真に理解することはできない。そうでなければ、自分の清浄な本性と仏の清浄な本性が無二無別であると真に理解することはできない。そうでなければ、修行を開始し、成菩薩成仏することはできない。明心見性とは開悟だと思ってはならない。非常に多くの人が、明心見性とは成仏だと思っている。誤りだ!

六祖慧能は『金剛経』内の「無所住而生其心」を聞いて開悟した。非常に多くの人が、六祖開悟とは菩薩になることだと考えている。開悟とは開悟修行の道のことだ。開悟とはいかにして修行するか、いかにして菩薩道を修めるかを知ることだ。もし開悟が成仏なら、五祖は衣缽を伝える必要はなく、夜間に心法を口伝する必要もない。一言聞いただけで開悟できるなら、狩人の家に篭って十数年も修行する必要はない。よって開悟とは層、次第に分かれているのだ。理解とは開悟だと思ってはならない。開悟は非常に多くの層に分かれている。開悟とは成仏だと思ってはならない。明心見性とは禅定を修めることだと思ってはならない。あまりにも早すぎる!軽安の後でなければ明心見性であることはなく、そうでなければ禅定に入ることはできないし、そうでなければ自我を反観することはできない。自我を反観できなければ、いかにして止観するか知ることはできず、止観の後でなければ、空性とはなんであるかを知ることはできない。

大体のところは話した。これ以上話しても、そなた達にはさっぱり分からないだろう。「即非身相」我々が見える世間、人の世間を言うのではなく、天界も含む。非常に多くの宗教が、天界へ行けばとても幸せだと思っている。そうではない。天界へ行っても、やはり輪迴するのだ。我々が六道内で目にする一切の相はすべて偽物だ。すべて変化する、無常なのだ。永遠に不変ではない。もし我々が仏はこの相だと考えるなら、それも嘘だ。なぜか?釈迦牟尼仏から現在まで、すべての釈迦牟尼仏の仏像は皆違うからだ。

晉朝以前に作られた仏像と現在の仏像とは違う。いったいどの仏像が釈迦牟尼仏なのか?すべて違う。仏像とは、我々が拝仏するための像に過ぎない。仏像とはこの相だと考えるなら、それは過ちだ。すべての声、すべての相はすべて空性で、すべて偽物だ。そなたは面前のあの仏像こそが釈迦牟尼仏だと思う。他人はそれは違うと思う。それなら、徹底的に過ちだ。私のこの仏像の方が荘厳で、向こうのあの仏像は荘厳でないと思う。我々は、この仏像が如法であるかないか、三十二相八十随好があるかどうかを見ることができる。如法であれば如法だ。私の仏像は荘厳だ。私が毎日拝んでいるので、仏像が非常に荘厳になったと言うのではない。それなら、そなたこそ仏だ。そなたが仏像を荘厳にしたと言うなら、そなたこそ仏だ。だがそなたは仏か?菩薩でさえない。天人でさえない。自分で自分を騙しているのだ。

『金剛経』はここで特別に講じる。後世の人が仏の存在を誤信しないよう予防する。ある人が、自分は仏だと言うなら、それは絕対に誤りだ。それは仏は非常にはっきりと仰せだからだ。もしそなたが、彼こそ仏だと思うなら、それは過ちだ。外見は一つの相に過ぎない。業力因縁に基づき現れているもので、清浄な本質ではなく、実在する一つの相ではない。もう少し深く言えば、我々の目に見えるのは、我々の肉体が見ているのではなく、天眼が見ているのでもなく、法眼が見ているのだ。だがみな法眼を知らない。簡単に言えば、夢を見るのだ。目をそっと瞑る、目を大きく開ける、突然起こされて目に見えるもの、これら目にするものはすべて嘘だ。仏と言わなくとも、そなた達が愛する人でもそうだ。若い時には、彼はすごくカッコいいと言っても、数年過ぎれば、すっかり変わってしまう。いったいどれが真実なのだ?そなたは年をとったので変わった、と言うだろう。そうではない。それは福報が変わり、業力が変わり、相もそれに従い変わったのだ。永遠不変ということはない。

『金剛経』 は菩薩道修行に有用であるばかりか、日常の人としての行いにも有用だ。自分が執著している事はすべて変化すると我々に理解させてくれる。仏法は非常に消極的なのか?変化するのだから、構わなくていいのか?変化するのだから、構うようになるかもしれない。これも変わる。仏が講じる執著してはならない、とは我々がこの事について、自分が分かる方法を用いて、他人のために良い方法を用いて行うことだ。結果は、そなた一人で決定するのではない。物事全体の過程内には非常に多くの因縁があり、非常に多くの人が関わっているので、一人一人が力を出しているからだ。一つ一つの事が成功するかどうかは一人の力によるのではなく、そなたが決定したとしても、そなた一人の功績ではなく、すべての人の功績でこの事を成し遂げたのだ。どんなことでも、一つの事は非常に多くの人が関わっていると、知ったなら、自分の得失にこだわることはなくなる。

弁説を振るう人もいる。自分でしっかり勉強したのだから、試験の成績がいいのは当たり前だ。だがそれが問題だ。良い教師に教わらなければ、試験で良い成績を出せるだろうか?良い同級生がいなければ、しっかり勉強できるだろうか?勉強する機会がないなら、しっかり勉強できるだろうか?私はとても貧乏で辛い環境で勉強した、という人もいるだろう。だが少なくとも勉強する場所はあったのだ。落ち着いて勉強する場所さえない人もいる。これも非常に多くの因縁があるのだ。この一生でよく勉強できたとしても、それはそなたがすごいということではない。過去世で経典を念じたことがあったので、少し頭が良いだけだ。だが経典を念じたことがあったとしても、成仏できるということではない。経典を念じたことがあれば、未来世で少しは頭が良くなり、記憶力が少しは良くなる。この一生で経典を聞いたことがあるが修行しない人は、次の一世で勉強が少しは良くできる。ガリ勉になるのはこのタイプの人だ。今日の午前中の開示はここまでにする。続いては迴向文と菩提心を念じる。

午前の法会は円満に終了した。リンポチェは修法し天馬旗に加持なさった。曇り空は晴天になり、陽の光が降り注いだ。

施身法法会

午後1時50分、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは再び法座に上られ、自ら殊勝なる施身法法会を主法なされ、参会者全員に貴重な仏法の開示を下された。

元々の計画では一日中『金剛経』を開示する予定だった。だが参会者の中に、半日しか時間が許さないという人がいる。半日しか経典を聞けないというなら、このような意義は円満とはならない。よって、今日の午後は密教内の八大成就法の一つである「施身法」を修めるよう変更することとする。チベット密教には八種の大きな成就法がある。この八大成就法は、一つの法であれ、一生でそれを専ら修めることができれば、必ずこの一生で成就が得られる。成就とは、自分は生死を解脱でき、この一生でこの法を用いて一切の有情衆生に利益し助けられるということだ。

今日修めるこの法は、チベット語では「断」という。漢語では施身法と訳される。身体を布施するのだ。断とはどういう意味だろうか?智慧を用いるのだ。この法はどこから来たのか?かつてチベットに一人の在家女性瑜伽士がいた。結婚して子も設けていたが、釈迦牟尼仏の開示なさる『大般若経』の精神に基づき、この法を書かれたのだ。これは顕教の部分だ。密法は四つの修行の次第に分けられる。それは事部、行部、瑜伽部、無上瑜伽部だ。この法は、密法内では、事部、行部、瑜伽部を含み、無上瑜伽部を含まない。

密法はさらに四種に分けられる。息(息災)、増(福報、権勢等が増加)、懐(そなたに対する敵の嗔恨の心を柔らかくし、報復させないようにする)、誅(殺の意味。前半の三つの法を用いても救えない衆生がいる。仏菩薩は誅法を用いて、慈悲の念頭を用いて、その衆生を度化し、悪行を断ち切らせる)の四種だ。この断法は息法、増法、懐法を含む。断とは、智慧と般若を用い、凡夫のすべての煩悩障と所知障を切断することだ。午前中すでに煩悩障とはなんであるか、所知障とはなんであるかを、少し説明した。

もし行者、修行人が絶えずこの法を修めるなら、自分自身の福報と智慧を迅速に累積できる。そのため「断法二資糧速成法」とも呼ぶ。一生でこの法を専ら修めるなら、非常に速く自分の智慧と福報を累積できるのだ。なぜ漢語では施身法というのか?それは行者は密法と咒語等の観想を通して、自分の身体を全部、諸仏菩薩と護法に供養し、勇父と空行母に供養するからだ。供養の後の福報を通して、行者は自分の身体を六道の一切の衆生、特に鬼道、龍族、魔鬼、地獄道、餓鬼道の衆生に布施して食べさせることを観想する。

密法では規定している。この法を学ぶ前には、必ず不共四加行を修める必要がある。不共四加行は11万遍大礼拝、11万遍百字明咒(金剛薩埵の咒語)、11万遍献マンダ(供養)、11万遍上師相応法を含む。不共四加行が円満となった後、上師が施身法を学ぶ資格があると認めたなら、上師は本尊関を閉関するよう求める。通常は観世音菩薩だ。関房内で3ヶ月閉関し出てくることは許されない。百万遍観世音菩薩の心咒を念じ終わらなければならない。上師はこの人に、この法を学ぶ根器があるかどうかを観察し、その後に灌頂を授ける。灌頂の後、この法を学んだ人は毎日施身法を修めなければならない。

施身法の法本には二冊ある。一冊は自分で修めるもので、自分に利益する法本だ。もう一冊は衆生のために修めるものだ。今日は衆生のために修める法本だ。長期的に施身法法会に参加し、この一生で学仏すると決めたなら、その人の煩悩障礙は非常に速く消えてしまうだろう。学仏修行を決心しておらず、一般の信衆に過ぎなくとも、継続して不殺生、菜食を守り、悪事を行わないなら、世間の事情はゆっくりと好転するだろう。病気の人がこの法会に参加したなら、病はゆっくりと良くなるだろう。ガンは特にそうだ。

午前中言った。20年前私は皮膚癌にかかったが、自分のために特別に修法せず、医者にも掛からず、仏菩薩に病を治してくれるよう求めもしなかった。だが私は毎日施身法を修めたので、病は完全に良くなってしまった。非常に多くの皈依弟子が癌を患っている。ひたすらこの法会に参加しさえすれば、一切の手術をしなくとも、一切の抗がん剤治療を受けなくとも、この法会に参加すれば、癌細胞は小さくなり、さらには無くなってしまう。信心が十分でなくとも、この法会に長期間参加していれば、癌が良くなることはなくとも、一般的な癌の苦痛と比べ、苦痛が減り、さらには苦痛が無くなってしまう。信衆の中には、因果を信じず、医者が癌を治してくれると考えているものがいる。実は私の弟子の中にはたくさんの医者がいる。医者は癌を治せないと、彼らは非常にはっきり知っている。非常に多くの人が多くの時間と金銭を浪費している。最後には別の病を得て死んでしまうのだ。

抗がん剤治療を受けて、手術したとしても、懺悔の心を起こして、三寶に対して突然信心を起こし、この法会に参加しさえすれば、死の前の癌の苦痛は絕対に消失してしまう。癌患者の多くは、最後の息をひきとるまで痛みを訴える。どれだけの痛み止めを飲んだとしても、役には立たない。この法本は特別に鬼衆、そなたに傷害された衆生に対して、非常に大きい救いを与えるため、これら衆生のそなたに対する怨恨の心が消失してしまい、そなたの苦痛は自然に減少してしまうのだ。この法は修法人自身に対しても、修行の面で非常に大きい助けになる。

現在チベットで施身法を修める人は多くない。それはこの法を理解するには、非常に長く、非常に複雑な要素を経過しなければならないからだ。しかもこの法を修行するには、自分本自身の禅定の功夫が必ず非常に良くなければならず、 必ず菩薩道を行い、菩薩道を学び、菩薩道を修める人でなければこの法を修めることはできない。捨てられないなら、この法を修めることはできない。しかもこの法の修行には、特別な法器が必要だ。この種の法器は人が作り出せるものではなく、必ずある種の因縁条件が必要だ。持咒、読経によればこの法を修められるというものではない。現在この法を得られる人はますます少なくなっている。将来この法を修められる人もやはり多くないだろう。それはこの密法を修める人自身が、衆生を救おうという非常に大きい願力を有し、自分自身が菩薩道を学び、菩薩道を行われなければならないからだ。

あとで修法の前に、すでに亡くなり、この世界にいない、そなたと関係がある衆生について考えるように。そなたが彼らを思いさえすれば、今日私が修めるこの法は、彼らを地獄、餓鬼、畜生道から離れさせることができる。もしそなたが在世の人を救いたいと思うなら、その人のことを思い、その人の名前を念じるが良い。

修法の過程で、参会者は必ず恭敬の心を用いなければならない。恭敬とは三寶を信じ、行う一切すべては衆生を救うのだ。理解する必要はない。なぜか?仏はかつて仰せになった。仏の境界は不可思議で文字で表せない、と。仏の境界に到達するまでは、説明されても、やはり理解できないということだ。博士課程で学んでいる人が、自分が学んでいる学問の内容を小学生に聞かせたところで、小学生は理解できないようなものだ。簡単な方法は信じることだ。諸仏菩薩が行う一切すべてが衆生に対する利益だと信じることだ。だが、そなたの欲望を満たすのではない。そなたの欲望はそなたが自分で考え出したものだ。

正に午前中『金剛経』で言ったように、仏は、菩薩道を修める一切の菩薩を世話し保護くださる。菩薩道を修めるなら、仏が必ずそなたを思い、世話し、保護してくださるということだ。菩薩道を行わないなら、一般の信衆として仏に求め、自分の欲望を満たすだけなら、この可能性は低い。だがそなたに苦があり、仏菩薩と上師がそなたの苦を軽減してくれることを願っているなら、これは可能性がある。だがそなた自身が信じなければならない。

第二には懺悔心がなくてはならない。我々は数十年生きている間に、過ちを犯さないなどとはあり得ない。過ちを犯すとは、衆生の生命を害したことがあるということだ。盗みを働いたことがあるということだ。金銭、物を盗むとは限らない。海賊版を使用する、コピー商品を使用するのも盗みだ。耳障りなことをいい、他人を罵ったことがあり、邪淫を犯したことがある等なら、懺悔の心を起こさなければならない。最後の一つは、悲憫の心を起こさなければならない。悲憫の心は非常に多層面に分けられる。我々と関係があり、地獄道で苦しんでいる眷属に対して悲憫の心を起こさなければならない。我々に害された衆生に対して悲憫の心を起こさなければならない。三つの心を合わせて初めて、諸仏菩薩と上師に真に供養する事になる。供養がなければ福報もない。福報があって初めて自分と衆生に利益できる。これは非常に重要だ。非常に多くの人が、供養するには必ず非常に多額の金銭を出さなければならない、と思っている。最も重要なのは、心を出しているかだ。心を出していないなら、どれだけの金銭を出しても役には立たない。心を出せば、少しのお金でも有用だ。仏菩薩供養に有用だ。あとで私が修法している時、先ほど教えて方法で考えるように。

この法にはもう一つ特別なところがある。第一に、修法する人自身は、自分を保護するためのものを一切身につけない。密法を学ぶ時には、通常は身体に何かの聖物を身に着ける。だがこの法を修める前は、これらのものはすべて取り外さなければならない。全く自分を保護してはならないのだ。この法を修める前に、壇城を結界しない。壇城を保護しない。あとで私がこの法器を吹くと、縁を経過したすべての衆生が入ってくる。そなた達には見えないものも入ってくる。これら衆生に満願させるため、この道場を保護しないのだ。

この法を修めるには非常に多くの法器が必要だ。あとで人の腿骨で作った法器を目にすることになる。片手で鼓を揺らす。さらに鈴と杵がなければ、この法を修めることはできない。この一生でこれら法器を得られるのは、過去世でこの法を得たことがあるからだ。現在吹く人の腿骨のこの法器は私の根本上師であられる尊勝なるチェ・ツァン法王が前の一世で法王であられた時に用いておられた法器だ。この一世で法王が私にこの法を伝えてくださり、法器を私に伝えてくださった。それは法王がこの伝承を私に伝えてくださったということだ。

今日は特別にみなにこの法を修める。新しい一年が始まったので、そなた達が過去に為した種々の悪業を停止して、そなた達を傷害し続けることがないよう希望する。だが、これら悪業がすぐに消失してしまうということではない。そなた達が継続して衆生の肉を食べ、悪を行うなら、いつか業報がやはり出現する。今日この法を修めるので、そなたに傷害された衆生は必ず済度を得る。よって彼らのそなたに対する怨恨の心は減少するだろう。だが彼らが済度されたとしても、そなた達がかつて病に罹ったことがあるように、病の問題が取り去られたとしても、身体はやはり虚弱で、やはり健康のために努力し続けなければ、健康になることはできない。学仏もこのようなものだ。根本的な問題を処理してやるが、そなたは自分で変わり、行善しなければならない。仏法の重点は、諸仏菩薩はそなたを救ってくださる。だがそなたが為した一切の果報を消し去れるということではない。これは仏が仰せなのだ。仏は我々に自分でどうやって自分の悪果を変えるかをお教えくださるだけだ。私はまさに明確な見本だ。

私はもともとこの一生で海鮮を好んで食べていた。皮膚癌に罹ったので寿命は短いはずだった。四十歲代で死ぬはずだったのだ。だが学仏修行等で、私の後半世の運命が変わってしまった。仏法は人の運命を変えられるということだ。だがそなたが受け入れたか、信じたか、行う気持ちがあるか次第だ。すべてを法に従い行えば、当然必ずいくらかの変化を見ることができるだろう。

リンポチェは修法を始められた。

リンポチェは修法の終了後に開示くださった。:今日施身法を修め円満となった。通常この法を修めるには二、三時間必要だ。だが私は禅定中で修法するので、呼吸の回数が普通の人より少ない。例えば、そなた達が五回呼吸する間に、私は一回で大丈夫だ。よって時間も減るのだ。この法は前の方に非常に多くの密法がある。みなに教えることはできないが、後ろの方で修法が終わった後、修行人は自分、さらに衆生を代表して非常に多くの事を祈願する。最も重要なのは、上師に加持を求めることだ。この法本には特色がある。すべての加持はすべて上師で、仏菩薩の加持は求めない。密宗では、上師は非常に重要なのだ。それは上師の伝法がなければ、法を得られないからだ。法が得られないなら、自分、衆生のために問題を解決することはできない。

現在『大蔵経』を含むすべての経典を我々は顕教と呼ぶ。顕教とは、釈迦牟尼仏が49年弘法なさった際の開示で、最も根本的で重要な基礎の理論だ。およそ二大部分に分けられる。一部分は小乗阿羅漢修行だ。例えば、『阿含経』、『雑阿含経』などで、これらはすべて阿羅漢小乗修行のためだ。スリランカ、タイ、ミャンマーなどの地方では、小乗仏法を修める人の方が多い。もう一つの部分は菩薩乗を修める。釈迦牟尼仏が49年講法なさった対象は、一般には信衆で、すべて弟子と菩薩道を修めた人に向かって説法なさっていた。よって根本の理論、心構えだけを仰せだ。

顕教で最も重要なのは、我々に自分の思想をどうやって改めるか教えることだ。思想が修正されなければ、正しい行為を生じることはできない。チベットで、密法を学ぶなら、まずは10年の顕教の基礎が必要だ。基礎が安定しなければ、仏法学習に対して正しい理念を生じ、密法を伝えられることはない。密法は、自分、衆生を救うために用いることができる。菩薩道修行でも言う。我々は五つの道を修めなければならない。一つ目は智慧と福報を修めることだ。二つ目の道は加行道を修めることだ。どうにかして修行を強化、加重する法門で、自分と衆生に利益する。一つ目の道は顕教と密法を修め、両方修められる。二つ目は加行道だ。顕教の一部分は修められる。密法は非常に速く修めることができる。

三つ目は道を見ることだ。空性の道理を見る。我々は経典の理論中から理論だけを知る。仏が講じる空性般若の含意がどこにあるのか、確実に、真に体得することはできない。我々が見道したなら、後ろの方では真に道を修められる。菩薩道を修められる。もし一切の修行人が見道しないなら、前半の二つの道、加行道と資糧道だけだ。この二つは良いのか?もちろん良い。だが真に衆生の問題を解決し、衆生を済度させてやる等は、加行道と資糧道だけでは不十分だ。必ず見道がなければならない。体悟できず、空性を掌握できないなら、修めた後には傲慢になり、傲慢になれば非常に多くの悪い事が起きる。空性を見た後でなければ、我々は真に修道—修菩薩道を行うことはできない。空性を証するまでは、菩薩道修行は非常に難しい。それは我々が非常に容易に自分の一切の事情に執着し、自分が理解できる事を掌握するからだ。だが見道の後は違う。捨てて取らないことを知る。菩薩道を修めればひたすら捨てると言うことだ。中国には「有捨有得」と言う言い方がある。捨てられないなら、得られない。

見道の後でなければ修道できない。修道の後の最後は無修道だ。修めなくとも良いと言うのではなく、最後まで修め、一切の煩悩、所知障、無明がすべて清浄な本性を回復した後、世間のいかなる法であろうと修めることができる。その時、まさに仏果まで証したのだ。今日この法では前の方の三つの道はすべて非常に重要だ。見道の後でなければ、この法門を修める衆生に利益することはできない。縁起性空を理解せず、因果法則を理解せずに、この法を学ぶのは非常に難しい。修められない。自分が別のものに変わったのをどれほど観想しようと、衆生は受け入れるだろうか?これは必ず空性内でなければ、世間の物質に転化し、仏が受け入れられる甘露に変わり、そうでなければ衆生が食べたいと思う食物に転化することはできない。

施身法の後には重要な一段がある。行者は自分の肉、骨、血をすべての一切の衆生に無限に布施し、食べさせることを観想する。鬼道、畜生道、地獄道に堕ちるのはすべて、生前衆生の肉を好んで食べていたからだ。衆生の肉を好んで食べる習性のため、自然にこの三道に堕ちるのだ。地獄、餓鬼、畜生のこの三道に堕ちた彼らの考えは、菜食できず、肉を食べたがる。行者は自分の肉を彼らに食べさせる。だが彼らが食べた後は腹の中で甘露に変わる。清浄な甘露は、彼らの貪嗔痴慢疑の悪性を消してしまい、彼らに菩提心を発しさせ、仏法を聞けば得度できる。言い換えれば、そなたが肉を一切れ切って前に投げてやれば、彼らは食べるのではない。そなた自身が空性まで修め、菩提心を発し、功徳がないなら、肉を一切れ切り出してやったところで、彼らは食べない。食べてもいい、と思わなければ食べない。食べた後、累世の業力は消えてしまう。

この法内にはいくつかの祈禱文がある。顕教のものだ。語って聞かせよう。行った悪業及びその業障が非常に多くの邪魔、一切の鬼部の衆生を引き起こし、そなたに病、苦痛をもたらす。それは長期的にこの法を修め、上師の加持を希望すれば、直ちに息滅してしまう。これら衆生の乱そうとする力も息滅してしまう。別に貪念、嗔念、因果不信の、そなた達がしばしば有する煩悩も自然に息滅する。上師に加持を求めれば、そなたが得た病も、上師の加持を求めれば自然に息滅する。魔が来てそなたを乱そうとする、誰かが法を使って魔を来させそなたを害しようとする等も含む。ここですべて講じている。

加持を求めれば無病で幸せな若さを得られる。若いが病気だ、では役には立たない。病がなく、老いても幸せではない。私が老いないと言う人がいる。私はすでに71歲だ。私は毎回念じていない。修法が終わった際にいくらか念じているだけだ。事実法本の後ろの方では、我々の非常に多くの事の願いを叶えてくれる。例えば、加持祈求は一切の鬼神に利益でき、加持で長寿を得られる等だ。これらはすべてこの一生で修行する時間を十分にするためだ。これによって、我々は十分な時間で仏法の事業を完成できる。福を享受するためではない。そなたは修行人で、非常に多くの事を行い、衆生に利益しようとしていると言うだけだ。そなたが修行人でなく一般の信衆に過ぎないなら、このように祈求しても叶えられないだろう。若さを取り戻したいなら、化粧品でも買えば良い。

今日はなぜ特別に午後施身法を修めるように変えたのか?それは今日、ある信衆は午前中しか時間がなく、午後は時間がないと言うからだ。午前中は時間がなく、午後しか時間がないと言う人もいる。もしこの因縁を用いて『金剛経』を講じればおかしくなってしまう。経を講じるには必ず縁起が必要だ。今日午前中私は『金剛経』の縁起を語り、日本にこの種子を植えつけた。今後この因縁が継続し、『金剛経』を日本の信衆に開示する機会があるかどうかだ。この因縁は私が作るのではない。みなの決定だ。

もう一度言おう。そなた達は在家衆だ。私も在家衆だ。我々は日本人で、あなた達は外国から来た人だ、生活が我々とは違う、などと分けてはならない。実はすべて同じだ。私は食事し就寝し仕事をして金を稼ぐ。同じだ。唯一違うのは心だ。仏法が私にとって重要だと、私が知っていることだ。仏法がなければ、私は今日まで生きて来られなかった。そなたにとっては世間の事が最も重要だ。だが世間の事は、そなたの病を取り除き、長生きさせてはくれない。世間の事はすべて因縁法だ。我々はできるだけ行う。するな、構うな、家庭などいらない、と言っているのではない。仏はこのようなことは仰せでない。私が開示した『寶積経』を見てみよ。釈迦牟尼仏はどのように開示しておられるか。重点は心持ちだ。心持ちが正しいなら、自然に学仏も非常に容易だ。心持ちが正しくないなら、仏法はそなたにとって時間があれば来ると言うだけの事だ。もしこのような心持ちでいるなら、永遠に仏法を学ぶことはできない。

釈迦牟尼仏は仏法を49年弘揚なさった。現在まで二千五百年余り続いている。現在でも仏法がなお存在しているのは、必ずその存在価値があるからだ。ただ人は疑惑の心が非常に重い。こんなに言ってできるのか?と信じていない。私こそ見本だ。そなた達は、私が行い始め、少しは成し遂げたのを目にできる。できないと言うことはない。ただそなた達が行おうとするかしないかだ。私はしばしば、在家の信衆に、私ができるのだ、そなた達だってできる、と励ます。そなた達ができないのは、ただ一つの原因のためだ。不信だ。そなた達は金を信じ、世間の事を信じるが、仏法が説くことを誰もができると信じない。

釈迦牟尼仏はかつて仰せになった。なぜ四相を破るのか?それは衆生は皆仏性を有しているからだ。そなたの学問的背景がどうであろうと、皆成仏の条件を具備している。だが、読経し、法会に参加し、線香を上げれば成仏できると言うものではない。必ずある過程を経なければならない。この過程がどれだけか、どんなに困難か、どんなに容易かは、一人一人の衆生で皆違う。最も重要なのは、始めることだ。行う決心をすることだ。時間ができたら、と非常に多くの人が言う。それならその時はすでに死んでいるだろう。私はしばしば言う。ここにいる誰かで、私より忙しい人はいない。私よりやるべき事が多い人はいない。なぜ私はできるのか?非常に簡単だ。私は言い訳しないからだ。そなたは自分には家庭がある、子供がいる、これらが必要だと思っているだろう。だが、これらは私にもある。だがなぜ私はできるのか?非常に簡単だ。仏の仰せを信じ、上師の教えを信じ、諸仏菩薩の衆生への救いを信じ、上師の我々への利益を信じているからだ。この信心があるなら、始めるのだ。

ただ聞きに来ているだけなら、聞いても行わないなら役には立たない。たくさん聞けば福報があると思っている人が非常に多い。だが、この一生では絶対に使えない。私は確信を持って告げる。この一生で仏法を聞いた福報は、次の一世でしか使えない。そなたは言うだろう。このような話なら、聞きには来ない、と。だが聞きに来たので、私の福報が少しは付着したのだ。私がいくらか水を撒き、そなた達にも少し付着したと言うことだ。少しは付着したのだから、この一生の小さな問題は解決されるだろう。だが生死の大事は、解決されない。生死の大事を処理するには、上師の救いが必要だ。もし上師が助けてくれないなら、誰もがある日死に直面した時、自分には何の力もないことをはっきりと知るだろう。人はなぜ迷い、死を恐れるのか?それはどのようにして死ぬかを知らないからだ。死ねばどうなるかを知らないからだ。そのため迷っているのだ。どのように死に、死んだ後どうなるかを、修行人ははっきり知っている。当然迷ったりしない。恐れもない。我々はただひたすら行うだけだ。

毎日就寝前に私は死ぬと思う。毎日目覚めると新しい生の開始だと考える。毎回の修法を、私は最後の修法だと考える。明日もう一度修法できるとは考えない。よって毎回の修法を命の限り行う。明日がある、明日もう少しやろう、もう少し累積しよう、とは考えない。考えない!すべてだ!今回は最後の一回だ。それは学仏人は無常-随時変化する、を深く信じているからだ。そんなことはない、と言うだろうか。そんなことはある!誰でも、年とともに外見が大きく変わる。信じない者は、帰宅して、昔の写真と今の写真を比べてみよ。自分だと全くわからないほどだ。これこそ無常だ。変わるのだ。

一切の事は変化するのだ。急いでしっかり学仏し、自分の無常が訪れた時の準備をしなければならない。学仏しても事が変化しなくなるのではない。変化に直面した時、どのようにそれに対するのか、どのように受け入れるのかの準備をするのだ。これにより自分の未来の人生を希望で満たすのだ。人生の希望とは金銭、権勢、家庭、欲望、財富ではない。仏菩薩が我々にくださる未来の希望だ。「くださる」と言っても、そなたが受け入れ、言いつけを守らなければ、くださることはない。

新しい一年だ。私はたくさんの話をした。みなの役に立つことを願う。今後も縁があれば、日本というこの土地で『金剛経』を開解できるだろう。続いては護法を修める。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子達を率いてアキ護法と迴向儀軌を修められた。法を修めた後、リンポチェは続けて開示された:

この法を修めるのに、なぜこの冠を被るのか、と非常に多くの人は好奇心を抱いている。前の方では黒い簾子が前面にあったのに、なぜだ?これには多くの理由がある。黒い簾子が行者の目の前を隠すのは、私が鬼を目にするのを恐れているのではなく、鬼が私を見るのを恐れているからだ。経典に説明されている。中陰身とは、死んだもの、身体を失ったものを中陰身という。夢を見ている時は、夢の中の中陰身という。毎日寝て起きたのは、分段の中陰身という。人が死んだ後は中陰身という。我々は生まれ変わるまでは、六道のどの道にいようと、途中の段を中陰身という。

リンポチェは施身法を修める時に法冠を被られた

経典では説く。中陰身は諸仏菩薩の光を見て、畏懼退卻の心を起こす。これは簡単に説明できる。例えば、日常生活である種の権貴をもつ人に接触することがなかったが、突然会いに来いと言われたら、必ず先ず問うだろう。「なぜですか?」と。そして、会いに行っても、普段友人に会うように堂々と入って行ったりすることはあり得ないだろう。必ず入り口に立ち、そして少し後ずさる。なぜこのようになるのか?それは我々が中陰身である時、智慧が業力に覆い隠されているからだ。仏菩薩の智慧の光を目にした時、第一の感覚は火だ。火の光のようだ。第二の感覚は、近寄り難さだ。

私自身においては、顕教に皈依した夜、夢を見た。私は寺の入り口に立っている。入り口が開いた。中央には釈迦牟尼仏がおられた。非常に強烈の金色の光を放っている。私は入ろうと思ったが、入るのがためらわれた。私が皈依した師が横で入れ、と仰せになったので、私は入って行った。そして釈迦牟尼仏に頂礼申し上げた。この夢は、後に経典を見た時に証明された。我々が死んで49日の内に、7日毎に仏菩薩が接引に来てくださる。かつて仏号を聞いたことがあり、仏菩薩に近づいたことがあり、さらには智慧を見たことがあるなら、仏菩薩を目にすれば、喜んで近づくだろう。学仏したことがなく、皈依しておらず、この種の法会に参加したこともなく、仏法を信じず、仏法を受け入れていないなら、仏菩薩が出現なさった時、そなたは仏菩薩が放つ光を恐れ、近づくことができない。七七四十九日、7日毎に違った色の光が出てくる。例えば、強烈な赤い光を放つ。そなたは近寄れない。だが、快適だと感じる赤い光の方に行けば、三悪道へ堕ちてしまう。

なぜ法会に参加するのか?法会に参加するのは、仏菩薩と上師の智慧の光を目にすることはできないが、少なくともそなた自身の神識はそれを感じることができるからだ。ある道場に行き、非常に荘厳だと感じることがあるだろう。それは智慧の光があるからだ。この法帽を被るのは、修法時に、行者は入定するので、入定する時に目が智慧の光を放つからだ。鬼道の衆生はそれを見ると、近寄ってこない。よって行者は自分の光を遮り、彼らに近寄らせる。そうしなければ、彼らは入って来ようとしない。

この冠の上には、なぜ五つの骸骨があるのか?第一に、お前はこうなんだ、と衆生に知らせるのだ。天道におろうと、阿修羅、畜生道、人道におろうと、死後は骸骨が残るだけだ。皆同じだ。比べることなどない。第二に、人生は無常だと衆生に知らせるのだ。衆生に、お前は鬼道の衆生だ、安心して来られる場所だ、ここはお前が慣れている場所だ、と知らせるのだ。施身法を修める際に、非常に荘厳な仏像を前に置いておけば、衆生は寄ってこない。そのため、衆生のような様子をするのだ。

日本ではこの法はないかもしれない。台湾顕教には水陸大法会がある。その中のある法は鬼衆を済度するものだ。観世音菩薩は鬼衆の様子をご覧になり鬼衆を済度させた。仏法では、どの道の衆生を済度させるかによって、その道のような様子をする。釈迦牟尼仏はかつて仰せになった。過去世のある一世で自分は鹿王、サル、熊、孔雀だったと。それはこれら衆生を済度させるためだったのだ。真にそうなったのではなく、一部の神識がその様子に化身し衆生を済度させたのだ。今日は人を済度させる。当然私は人の様子をする。鬼衆を済度させるなら、彼らと同じような様子をしなければならない。私は鬼ではない。私が鬼なら、そなた達は皆逃げ出してしまうだろう。そなた達は鬼を恐れるからだ。

空性の慈悲心がなければ、この法を修めることはできない。今日は新年が明けたばかりなので、そなた達のためにこの法を修める。これにより、過去数年で食べた肉のそなたに対する怨恨を減らすことができる。新しい一年、みな肉を食べないように。每年私に面倒をかけないように。食べてもどうということはない、リンポチェになんとかしてもらえばいい、などと言わないことだ。私もいつか必ず死を迎える。私が死ねば、誰がそなた達を救うのだ?衆生の肉を食べれば地獄へ堕ちるということを信じなければならない。

日本では地蔵菩薩を拝むことがこんなにも流行している。地蔵菩薩は、墓の中の死人を専ら済度するのではない。六道衆生を専ら済度させるのだ。『地蔵菩薩本願経』にはっきりと説いている。衆生を傷つけてはならない。衆生の肉を食べてはならない。地蔵菩薩をこんなにも信じているのに、地蔵菩薩講の言葉は信じない。拝んで何をしているのか?教えに従わないなら、拝んだところでなんの役にも立たない。心が安心を得られ、心の中で慰めが得られるだけだ。地蔵菩薩は六道衆生が苦しまないようにお救いになる。福報と縁分があり、この法会に参加しているのだ。仏と菩薩のお言葉を、皆が聞き入れることを願う。真に聞き入れたなら、諸仏菩薩が護持してくださる。いくらか保護してくださる。聞き入れないなら、いくらかの良いことを持って帰りたい、と思っているだけなら、そなたに対する作用はほんの少しだ。これは私の修行の経験であり、また心から誠意を持ってみなに伝えるのだ。必ず私を信じよ、というのではない。だが仏の仰せを信じてほしい。今日私が講じた一切はすべて、経典から出たものだし、私が上師に従い学んだものだ。私が自分で発明したものではない。私にはそんな資格はないし、宗教を作り出すなどとんでもない。そんなことをすれば地獄に堕ちる。

今日講じた一切すべては釈迦牟尼仏が仰せなのだ。そして、上師の教えだ。みな帰宅してよく思惟し、考え、この一生を無駄にしないよう願う。この一生は非常に速く過ぎてしまう。一年一年と過ぎていく。そなた達も一人一人と老いていく。ある日本の弟子が以前私に皈依した時、彼のヒゲはまだ白くなかったが、今はすっかり白くなってしまった。老いたのだ。一年一年と非常に速く過ぎ去っていく。時間を無駄にしてはならない。みな新年おめでとう!

法会は円満となり、弟子達は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの開示に感謝を申し上げ、起立して、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を降りられるのを恭しくお送り致した。

後記:
リンチェンドルジェ・リンポチェは法座を下りた後、城崎温泉寺の小川祐章住職の方へと微笑んで歩み寄られた。これまで同様、リンポチェは親しげに住職に健康について尋ねられ、住職の父上の近況に関心を払われ、金剛杵で住職の頭頂と心間に加持をくださり、慈悲深くも、貴重な甘露丸を授け、使い方について説明なさった。

リンポチェは住職に「この甘露丸を寺の特別な信衆に与えるが良い」と仰せになった。この甘露丸は、リンポチェの長きに渡る護持に感謝するため、チベット仏寺から特別にリンポチェに供養されたもので、リンポチェだけが有している、極めて貴重で得難いものだ。住職は、このような機会を賜ったことに感激し、リンポチェを恭送した後、壇城の諸仏菩薩に対して心から三拝頂礼した。

2019 年 01 月 16 日 更新