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尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは日本において「地蔵王菩薩祈福法会」を主法なさり法会は円満となった

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは2014年12月28日、日本京都寶吉祥仏法センターで殊勝なるチベット仏教直貢噶舉派「地蔵王菩薩祈福法会」を主法くださった。密法を修持し、地蔵王菩薩に壇城へお越しくださるよう祈請し、さらに午後には参会者を率いて「地蔵菩薩本願経」を特別に念誦くださった。その加持力は極めて殊勝で、参会者は地蔵王菩薩と深い縁を結ぶことができたばかりか、地蔵王菩薩の身、口、意の殊勝なる利益と加持を得て、未来において輪迴苦海を解脱する機会を得ることができた。参会者は日本、中国、インド、オーストラリア、台湾の信衆20人と日本、中国、米国、台湾の弟子194人、合わせて214人で、法会は殊勝かつ円満となった。

法会当日、空は厚く雲に覆われていたが、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座に登られると、太陽が突然雲を破って現れ、まぶしい光芒が八方を照らした。法会が円満となった際には、涼やかな甘露妙雨が天空に散り、蒼穹はどこまでも清浄となった。法会の最中における極めて殊勝なる天気の変化は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが今回、京都寶吉祥仏法センターにおいて主法なさった「地蔵王菩薩祈福法会」が、清浄な仏法で一切の衆生に利益し、加持と撮受が広大な有情に及び、衆生を離苦得楽させてくださったことを、諸天菩薩がおいでになって礼敬賛歎なさっていることを示している。

午前9時、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に登り「地蔵王菩薩法会」を主法なさり、地蔵王菩薩が加持になられた甘露水を皆にくださり、法会の参加者に菩提心を明確にお示しになった。さらに、「大、菩薩」及び「地、蔵、王、菩薩」名号の意義について分かり易く順序だって開示くださり、「地蔵王菩薩」から賜る教導と救いについて正しく理解させてくださった。並びに、修法の開始に際し、法会参加時の発心の重要性と諸仏菩薩に対して恭敬心と信心を持つ重要性について特に開示くださり、法会参加にあたっては正しい発心を持たなければならず、そうでなければ諸仏菩薩の加持と功徳を頂戴することはできないと教導くださった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは先ず「大菩薩」の意義について開示くださった。リンチェンドルジェ・リンポチェは「経典では八大菩薩という。この『大』とは大小をいうのではなく、果位をいうのだ。釋迦牟尼仏は『菩薩は初地から十地まで、化身、報身を経る。十地の後は法身菩薩となる。つまり十地の後の菩薩を初めて大菩薩と呼ぶ』と開示くださった。菩薩は覚有情であられ、また菩薩道を修めるのは必ず有情衆生だ。菩薩と仏は共に有情衆生から修行して成るのであり、人が修行して成るのが基本中の基本だ。『菩薩』とは既に、六道で輪廻する衆生の痛苦を悟られ、人の世は苦が多く楽が少ないことを悟られ、輪迴苦海を離れさせるよう有情衆生を助けることを悟られており、このような方をこそ菩薩と呼ぶのだ。『寶積経』や多くの経典では、菩薩となるに必要な条件を挙げている。思想、言語、動作等を含む条件をやり遂げて、初めて菩薩と呼ばれる資格を得るのだ。

菩薩の定義が理解できたところで、次に大願地蔵王菩薩について紹介する。『大』とは広大なことであり、宇宙の一切の事情を含まなければ大と呼ぶことはできない。地蔵王菩薩が発する願は、単純に、何か一つの事のためではない。菩薩が発する大願は、自己満足のためではなく、苦難の中にいる一切の衆生に利益するためで、大願は一切の六道有情衆生を含み、しかも彼らを救うものである。

地蔵菩薩が発する願は『地獄が空でないなら、成仏しないことを誓う』である。地蔵菩薩は、地獄にいる鬼だけを済度させると誤解している信衆が多いが、このような理解は間違っている。いわゆる『地獄が空でないなら、成仏しないことを誓う』とは、苦しんでいる衆生が地獄にいるかぎり、地蔵菩薩は、ご自分を仏の果位まで進ませないということである。『地獄が空でない』とは、衆生が地獄に堕ちないよう範を示し教導するということである。我々が一生で行う事、発する言葉の99%は、我々を地獄へ堕とすものである。多くの人が『自分は悪い事をしていない。殺人や強盗を犯してもいない』と思っているだろうが、『地蔵経』に基づけば、肉を食べたことがあるだけで、地獄に堕ちる可能性があるのだ。

将来地獄に堕ちるかどうかは、如何にすれば分かるのか?死を前にしての苦しみ、病苦を見れば、地獄へ堕ちるかどうかが分かるのだ。地獄に堕ちない人は、死を前にしても一切苦しまず、時が至れば事切れてこの世を去る。地蔵菩薩の大願とは、六道衆生が地獄へ堕ちないよう阻止することである。

『地蔵王』の『地』は、万物の成長に必要な肥沃な大地であり、つまり慈悲とは肥沃な土地のことで、こうして初めて菩提樹、菩提心等成仏の方法を育てることができるのだ。地蔵王菩薩が修める大慈大悲とは、あたかも土地のようである。お教えくださる方法に従って行うだけで、地蔵王菩薩は肥沃な大地のように、我々が良い果実を実らせられるようお育てくださるのだ。

『蔵』とは宝蔵(宝物)ではなく、誰もが有する如来蔵だと仏はかつて説かれた。如来蔵とはなんだろうか?成仏の仏性と条件を備えているということである。すなわち、地蔵王菩薩は成仏の条件を備えておられ、衆生が将来成仏できるよう、衆生の成仏の条件開発を助けることがおできなのだ。

経典でいう『王』とは唯一の方法であり、そなた達は服従しなければならない。我々は国家の枠組みにあっては法を守らなければならない。かつては総統などおらず国王だけだった。国民であれば、国王が発する令に従わなければならなかった。法を守らなければ懲罰を受けなければならない。そのため『地蔵経』が説くすべてに従い、その通りに行わなければならない。けれども地蔵菩薩はそなたを罰したりなさらない。なぜなら、それがそなたの因果であるからだ。

大願地蔵王菩薩は諸仏菩薩の思想と考え方を含む。我々は『地蔵経』中の因縁、因果法則に従い、深く信じて疑わず、自己の貪念のためではなく、自分で確実に行えば良いのだ。『最初にちょっとやっても大丈夫だろう。今後改めればいいだろう』と考えているのでは、間に合わない。なぜなら、一つの悪を為すだけで、それがどんどん加わっていくからだ。悪を停止し善を行えば、それもどんどん加わっていく。妥協はないのだ。悪を一つ為しても善を一つ為せば相殺できるということはない。相殺できないのだ。なぜなら悪には悪の果報があり、善には善の果報があるからだ」と開示なさった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは「今日は特別に日本で地蔵王菩薩を修める。なぜなら日本というこの国は、歷史的に殺業が非常に重いからだ。あらゆる藩は権力を得るために多くの人を殺し、多くの戦爭を起こし、多くの動物と魚を殺して自己の口腹の欲を満たしている。そのため、天災、地震、水害が特に多い。

法本では先ず最初に上師と諸仏菩薩に頂礼せよとある。釋迦牟尼仏のすべての弟子の前で我々は発心し、菩提心、慈悲心を発しなければならない。そなた達は今日は福徳因縁があって法会に参加している。それは過去の一世で仏法を学んだことがあり、地蔵王菩薩の聖号を聞いたことがあるということで、だからこそこの一生が巡ってきたのだ。過去世で仏を学んだことはあるが、何が何だか分からないために、この一世で悪を為したので、発心しなければならないのだ。

先ず懺悔心を起こさなければならない。そなたが、この一生で過ちを犯していないなら、こんなに辛いはずはないのだ。この一生で過ちを犯していないなら、自己の未来をはっきり知っているはずだ。なぜ未来をはっきり知ることができないのか?それは業力に主宰されており、自己の未来が見えないからで、どんなに努力し、どんなに勉強し、どれだけ学習しようと、やはり迷いは晴れていない。それは未来がどのように現われるかが分からないからだ。けれども、学仏人は自己の未来がどのように現われるかをはっきり知っている。それは正に現在の一切の行いだからだ。いわゆる発心とは懺悔の心を発することで、自分が生生世世で多くの衆生を傷つけたことを心の底からはっきりと理解するということである。衆生の肉を食べたことで自分が病気になっても気づかず、『好きだから。食べたいから。食べない訳にはいかないから』などと言っている。あとで『地蔵経』を念誦すれば、衆生の肉を食べるのがどんなに恐ろしいことかが分かるだろう。

二つ目に発しなければならないのは慈悲心である。今日の法会は、ここにいる200人余りのためだけではなく、虛空無辺無際の一切の衆生のためでもある。彼らに縁があり、耳にし、通り掛かるだけで、救いがもたらされるのだ。よって、今日縁がありこの法会に参加することで、我々と同様、有情衆生が仏菩薩の救いを得られるよう願うのだ。この二種の発心を以て法会に参加しなければ、仏法が役に立つことはない。

発心すれば、心は十五夜の満月のように明るく円満となる。それは、このような心を発すれば、本来清浄な仏性が法会において露顕するという意味だ。我々は地蔵王菩薩に対して真誠に極端に恭敬でなければならない。地蔵王菩薩が説かれることは、すべて我々の救いになると信じ、それに対して少しの懐疑心も持ってはならず、そうでなければ真誠ということはできない。地獄は見られないが、行者には能力があり地獄を見せてくれるという人がたくさんいるが、実はわざわざ見られるようにする必要などないのだ。それは地球にも地獄があるからだ。多くの人が地獄のような生活を送っている。『死んでから目にするのではなく、生きている時にも見ることができる』と経典にも書かれている。

法本でいう『極致』とは、別の考え方が一切念頭に混じっておらず、地蔵菩薩に対して絕対に恭敬であることである。恭敬とは供養のことで、供養心がなければ福報は起こらず、福報がなければ学習し仏法を聞いて、未来を変えることはできない。法本には『一般にこのタイプは普通ではない』という非常に微妙な言葉がある。それは『発心し法会に参加し、自己の心を月のように光明とし、非常に真誠で極めて恭敬な人は多くなく、普通ではない』ということである。この条件を満たすことができなければ、真の仏子とは言えず、他はすべて偽者で、来ない人に比べれば少しマシという程度で、ほんの少しの加持は得られるだろうというくらいなのだ。

さらに、重要なのは信心だ。信とはなんだろうか?盲目に信じることではない。台湾、中国、日本では、盲目に信じ、日本では神社へ行き、台湾では廟へ行き、中国では仏寺へ行き、『参拝すれば加護が得られ、これで信心がある』と考えている人が多いが、そうではない。これは賄賂だ。信心とは、諸仏菩薩成仏の方法を自分もいつか必ず為し遂げられると信じることで、その期間は10年や20年や30年ではなく、生生世世にわたりどの一世かで必ず為し遂げられると信じることである。

諸仏菩薩のお言葉は、すべて我々に利益をもたらすもので、懲罰や奨励の方法ではないと信じなければならない。聞くだけで行わなくても、諸仏菩薩はそなたを罰したりしない。聞いた末に滅茶苦茶に行っても、諸仏菩薩はそなたを罰したりしない。それはできないだけなのだ。仏菩薩が仏法を学ばれた方法を信じ、今日仏菩薩が教導くだされば、その通りに行わなければならない。学習する時、小学一年生が先生のいうことを聞き、いう通りにするように、従順でなければならない。仏法を聞く際には小学生の心持が必要で、教師を信じ、自己流の考え方を持ってはならない。そのため、これは最も重要だ。信心がなければ、どんな事であっても役には立たない。

以上に述べたような条件を満たして法会に参加しているなら、功徳の一切を備えている。殊勝無差別とは、そなたが今日法会に参加したことによる功徳は、地蔵王菩薩の功徳と差がないということである。なぜなら地蔵王菩薩はこのような心で仏法を学び修行なさったからだ」と開示くださった。

続いて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法を始められ、儀軌修法の間、各段階の修法の儀軌と意義について分かり易く開示くださった。これにより参会者は正知正信の仏法と、仏法が人々に真実の救いをもたらしてくれることを理解した。リンチェンドルジェ・リンポチェは修法時の前行、正行の意義と重要性について順番に開示くださり、皆を率いて禅定し、地蔵王菩薩咒語を口伝し、地蔵王菩薩法門の殊勝なる伝承について開示くださった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは一切の本尊に代わり、出家弟子、日本と中国の信衆の代表衆生が行う献マンダ請法を慈悲深くもお受取りになり、速く福報を累積できる殊勝なる因縁を皆にくださった。今回、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法の過程において、法座を下りられ、自ら法器を用いて210人余りの参会者を一人一人加持くださった。参会者は皆、大成就者の殊勝なる加持を跪いて頂戴し、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに衷心より感謝申し上げた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは「法本では『仏法僧の三宝に』という。仏は皆も知っておろう。では正法とは何だろうか?輪迴の解脱を助けてくださるもの一切が正法である。輪迴を解脱すると決心すれば、世間における多くの事が変化を始める。これこそが仏が説かれる事である。聖衆会とは、過去、現在、未来のすべての成就者が壇城前におられる、ということだ。

我々は必ず菩提を得るまで皈依し続けなければならない。これは顕教の皈依方法とは異なる。顕教の皈依は一世のものだ。密法の皈依は、この一生で今日この法会に参加し、地蔵王菩薩に対して皈依の誓いを行えば、成仏するまで消滅してしまうことはない。

『六波羅蜜の功徳を積み』とは、今日法会に参加することで、すべての法を一切の有情衆生に布施するということである。布施の功徳は、無量無際の衆生を救うことで成仏を願うものだ。成仏を願うとは、自分が苦を離れるためではなく、より多くの力と智慧で衆生に利益するためなのだ。簡単に言えば、学仏では必ず先に皈依しなければならない。どうして学仏するのか?それは衆生を救うためである。この言葉は非常に重要だ。

皆が先ほど飲んだ甘露水は地蔵王菩薩が加持くださったもので、法会に参加したすべての衆生が心中に菩提心を明らかに顕現し、発することを願うものだ。前半で上師は先に地蔵王菩薩と無二無別を観想した後、甘露水に加持したので、それを飲めば、菩提心が心中に明らかに顕現するだろう。菩提心とは、一切の仏法を学習し、一切の有情衆生を救うものである。

甘露水を飲ませた後、皆を率いて禅定を行ったが、これにより心中で菩提心を明らかに顕現し、発することができる。いわゆる『明らかに顕現』とは、何かを故意に考えるのではない。なぜなら加持を経れば善の念は自然に出現するからだ。『菩提心を発する』とはそなた達が発願するのではない。菩提心とは生生世世に仏法を学習し、苦しむ一切の有情衆生を救うと誓い、願うものである」と開示なさった。

続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは皆に、腰を曲げて猫背にならず、後に寄りかかったりせず、姿勢を正してできるだけ真っ直ぐ座るよう求められた。「目を閉じる必要はない。なぜなら目を閉じれば幻覚が現われるかもしれないからだ。念頭が多いと感じたなら、上師と仏像を見ると良い。これで集中できるだろう」と仰せになり、リンチェンドルジェ・リンポチェは参会者を率いて禅定を行われた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて「普段肉食し、喫煙している人は禅定しにくいだろう。なぜなら肉をたくさん食べていると、細胞内は魚、エビ、タコ等でいっぱいだからだ。魚やエビは止まることを知らない。そのため、そなたの心も止まることを知らないのだ。喫煙は循環器系統に影響を及ぼす。呼吸がスムーズでないなら、心を静めるのは難しい。そのため、経典では、衆生の肉を食べず、喫煙せず、禁止薬物を吸引せず、と勧めている。なぜなら身体に良くないからだ。肉食、喫煙は必ず病気の原因になり、必ず短命をもたらし、運も必ず徐々に悪くなる。

先ほどの禅定で、そなた達が心中から明らかに菩提心を発することができるよう願う。仏法で説く八大菩薩とは実は仏と同じで、行われる事と本質は同じである。つまり、八大菩薩はすべて既に成仏なされているが、衆生を済度させるために、絶えず戻って来られているということだ。この八大菩薩は偉大な菩提心を発し衆生を済度させられている。そのため、一切の虛空衆生がここに集まるのだ。

今日修める法門の内の一つは、本尊ヴァジュラヴァーラーヒが、インド南方にかつておられた成就者に自ら伝授なされたものである。ヴァジュラヴァーラーヒが自ら伝授くださった法門は108種もあるが、至尊救度怙主阿闍黎布拉班札は、その内の24種の八大菩薩の方便法門を受け取られた。そのため、今日修める地蔵王菩薩法門はヴァジュラヴァーラーヒを経てインド南方に伝わり、さらにチベットに伝わったものなので、この法門は中国、日本にはない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、この法は、ヴァジュラヴァーラーヒが行者に伝え、さらに修法上師に伝えた完璧な伝承であると特に強調したい。金剛乗すべての真言と法本は、上師の口伝、灌頂を経なければ、伝承を得ることはできない。

密法と顕教とはいくらか異なる。顕教は理論で、上師が口伝しさえすれば経典を念じることができる。しかし、密法では必ず上師が灌頂を授け、しかも順序に従い修行と学習を行わなければならない。今日は、皆が将来、密法と有縁となるよう、リンチェンドルジェ・リンポチェが口伝するが、口伝したと言っても、既に修めることができるということではなく、皆に縁を与えるというだけだ。法会参加は、上師に対して感謝し、観想しなければならない。皆この点をはっきりさせるように。仏法が聞けるだけでも非常に有り難いことで、その上さらに密法を聞けるとはこの上もなく有り難いことなのだ。密法を講釈してくださる上師がおられることに、我々は感謝しなければならない。このような感謝は内心からのもので、今日学べ、聞けるのは、自分の能力によるのではないとはっきり自覚しなければならない。このような方法は、経験豊かな上師でなければ授けられるものではない。よって我々は心から感謝しなければならないのだ。上師の真言を唱える加持することにより、そなたの心中には歓喜心が起き、聞き難い仏法を今日聞けたこと、会い難い上師に今日会えたことに心から歓喜する。歓喜心が起きなければ、仏法は有用とはならない」と開示くださった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは真言を口伝くださった後「リンチェンドルジェ・リンポチェが開示する観想方法に従い、この真言を念じれば加持が得られる。自分が念じていると考えるようでは、役には立たない。なぜなら真言を用いるところを知らないからで、それならレコーダーと同じで音声を発しているだけだ。

先ほど修めたのは前行だ。続いては正行を行う。前行とは、あらゆる物事で必要な準備作業で、準備作業をうまく行えれば、物事も自然にうまく行くものだ。地蔵菩薩法門を修めるには特別な指定がある。必ず非常に清潔な土地と建物、つまり墳墓、食肉処理場、火葬場、レストラン、風俗営業店、酒を出す店になっていない場所でなければならないというものだ。

清浄円満後に席に着き、仏像等を一つ一つ並べる。正行を修める時には、修法者であろうと法会に参加する人であろうと、清浄な発心が必要である。いわゆる清浄とは何も求めないということだ。我々の本性は本来は少しの汚れもなく、非常に清浄なのだ。けれども累世で貪嗔痴慢疑等を起こすため、本性が汚れてしまう。だが、これは本性が清浄でないということではなく、黒雲が太陽を遮るように、もともとの光が見えないだけなのだ。法会に参加するなら、必ず清浄な発心が必要で、先ほどいったように清浄な菩提心と四皈依等を備えなければならない。こうして法会に参加することで、初めて加持が得られるのだ。

法本では『吉祥殊勝なる地蔵菩薩真言を念誦すれば、累世の業障が清浄となる』とある。つまり、学仏の障礙が消えて無くなり吉祥となるということだ。この咒を念じると、『心想一切(心で思うことはすべて)』は実現するという。いわゆる『心想一切』とは、行わなければならない仏法の事を含む心で思う修行した一切の仏法のことである。この咒語は、我々の内心に非常に大きな信心を芽生えさせる。そのため、この咒語はとても大きな功徳があるのだ。法本では『だれであれ誠意を以てこの咒語を念じれば、必ず生死を解脱でき、輪迴痛苦を離れることができる』とある。

経典は仏がかつて説かれた仏法であり、また仏が修行なされた経験である。経を念じるのは、この一世で身口意の過ちを再び犯さないよう、仏の絶え間ないご指摘を頂戴するということである。学仏を始めたばかりの人は誰でも、経を念じるというこのステップを経る必要がある。経を念じることで、仏菩薩の絶え間ないご指摘を頂戴できるばかりか、累世の冤親債主が学仏の邪魔をしないよう、自身の心をはっきりと見詰めることができる。これが最大の用途なのだ。

『地蔵菩薩本願経』は釋迦牟尼仏がトウリテン天宮で母上のために説かれた法である。母上は釋迦牟尼仏をお生みになった後往生され、トウリテンに生まれられた。天界に生きていようと、福報を使い切ってしまえば、やはり六道中で輪迴を続けることとなる。仏法の考え方では、天界に生まれることは終点でも円満でもなく、やはり痛苦に苛まれ続けるのだ。釋迦牟尼仏は母上がトウリテンにおられることをご存知だったので、母上が二度と再び輪迴せず、天界で新たに修行できるよう望まれ、トウリテンへ赴き母上に説法されたのだ。

釋迦牟尼仏は天界で地蔵王菩薩を紹介なさっている。これにより、地蔵王菩薩はこの一世で、地球上で菩薩と成られたのではないということが分かる。経典の記載によれば、地球では続けて七人が成仏なされたという。釋迦牟尼仏は五人目の仏であられ、未来には彌勒菩薩が成仏なさる。七人の仏が地球へおいでになった後、地球は滅びるのだ。そのため、釋迦牟尼仏は、この一世で修めなければならないと常に諌めておられる。なぜなら、どの一世において地球が滅びるかは、そなたには分からないからだ。

地球は現在どんな状況だろうか?仏法では、星の成立には『成(誕生)、住(衆生がその上で生活できる)、壊(壊れ始める)、空(滅びる、無くなる)』の四段階があるとする。現在地球は『住』の終りと『壊』の始めの段階にある。どうして壊れてしまうのか?それは衆生が悪業を為すからだ。地球の人類はあまりにも多くの悪業を為している。自己の口腹の欲のため、魚を殺し、命あるものを殺し、自己の利益のために鉱物を掘り、これら様々なことが、地球の滅びを速めているのだ。

『地蔵菩薩本願経』は因果に関するたくさんの事に触れている。この一生で経典の説く通りに行わなければ、地獄に堕ちる可能性が高い。よって、学仏したいと考えるすべての人が、最もよく学習し、また知っておかなければならないのは、『地蔵菩薩本願経』である。因果を信じないなら、努力さえ不要だ。努力して働かなければ給料がもらえないと我々は知っている。これが因果だ。努力して働かないなら、クビになり、給料はもらえないのだ。喫煙者は心臓、肺が良くなく、他人にも影響を及ぼすと知っている。それなのに、なおたくさんの人が喫煙している。毎日自分の健康のことを考えていながら、なお喫煙しているのだ。

現代医学でも、魚や肉を食べる人はガン、高血脂症、心臓病に罹り易いと明らかになっている。それなのに、それを信じずたくさん食べ、病気になったら医者に掛かれば良いと思っている。医者は一時的な短い期間の治療はできるだろう。けれども、完治させることはできない。なぜなら医者は、因果から救うのではないからだ。『商売するなら殺生せざるを得ず、殺生しないではおられない。魚を売らなければ商売にならない』と考えている人が多い。

『地蔵菩薩本願経』では、肉食の結果について触れている。経中の古代梵語の『閻浮提』とは地球を指す。つまり、この経は天と地球上の人類に聞かせるために説くもので、何かを行えばそれ相応の結果があると教えている。経典の内容を信じないなら、自分の身には起こらないと考えるなら、今後は法会に参加しなければ良い。仏を拝む必要さえない。なぜならそなたは因果を信じないのだから。経典では『因果を信じない人は皆邪見である』とはっきり説いている。誰でも目前の事しか見ず、未来がどうなるかを考えない。身体に問題があるなら、それは100%殺生が原因だ。この一生で衆生を殺したことがないなら、健康に問題が出るはずがない。

日本の信衆もこの経を唱えられるよう、今日は特別に皆を率いて『地蔵菩薩本願経』を唱える」と仰せになった。二人の出家弟子がそれぞれ同時に衆生を率いて、中国語と日本語の『地蔵菩薩本願経』を念じた。リンチェンドルジェ・リンポチェは「日本では、寺で衆生を率いて『地蔵菩薩本願経』を念じるということがない。寶吉祥仏法センターだけだ。今日は皆修行の日だ。心をこめて念じるように。

日本の信衆では初めて経を念じる者もおろうし、かつて経を念じたことがある者もおろう。着いて来られないなら、それにはたくさんの原因がある。一つ目は、出家弟子の発音が正確ではないので、はっきり聞き取れない。二つ目は、仏法に対する信心が充分ではないので、集中して経典を見ていない。三つ目は、健康に不安が出だしており、血脈も血気も良くないので、精神を集中させて経典を見ることができない。四つ目は、仏法に対して恭敬でない。経典の念誦は仏法修行においいて最も簡単で容易な法門だ。経を念じることにさえ着いて来られないなら、普段どんなに素晴らしくとも役には立たない。最後のポイントは、福報が足りないということだ」と開示くださった。

午後2時15分尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは再び法座に登られ主法くださり、出家弟子が引き続き皆を率いて中国語、日本語で『地蔵菩薩本願経』を念じた。

中国語での『地蔵菩薩本願経』が完了すると、リンチェンドルジェ・リンポチェは「日本の信衆は上巻と中巻だけを唱えたが、次の機会に残りを唱える。今日の法会に参加した人が、この一生で再び殺生せず、肉食せず、喫煙せず、皈依していない者は飲酒を控え目にし、今日の法会を記憶し、地蔵菩薩と上師に対して充分な信心を抱き、死を前にしてなお今日の事を覚えているなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは保証しよう。また、地蔵菩薩に代わり保証しよう。この一生では決して地獄に堕ちることはない。よって、もし日本の信衆がリンチェンドルジェ・リンポチェに祈求するなら、皆が『地蔵菩薩本願経』の下巻を円満とできるよう、なるべく早く機会を作るようにしよう。

仏法は重要でないと思ってはならない。もし仏法がないなら、この世界はとっくに存在していないのだ。地球上にはさまざまな宗教があるが、人類の問題を解決できる宗教はない。先ほどそなた達が念じた『地蔵菩薩本願経』の上、中巻において、仏が言われた『人類は非常に頑強で、従わせるのは難しい』というお言葉には、少なくとも納得することができるだろう。それなのに、仏菩薩は決して我々をお見捨てになろうとはせず、輪迴を解脱できるよう、常に種々の方法で我々を助けてくださる。

どんな仏法を学ぶにしても、伝法者の伝承がいかにして得られたか、その本身はいかにして修行されたのか、その教授する仏法は仏が説かれた仏法に背いていないかを明確に確認しなければならない。自分は修行人だと考えながら、修行の背景と歷史がなく、しかも似て非なりな仏法を用いて教導する人がいるなら、このような人には注意しなければならない。例えば、最近ある禅定の方法が流行している。それはいくらかは仏法を採用しているが、実は全く仏法ではない。結婚している夫婦に寝床を分けろという人がいるが、これも間違っている。『寶積経』には、この一生で親族の縁があるなら、それは決して拒絕することはできない、とある。そなたが出家人なら、生まれた時から結婚の機会はない。けれども、修行のために夫婦に離婚を勧めるようなら、それは絕対に間違った考え方だ。

経典中では戒欲についても触れているが、これはある特定の対象についてのものだ。この一生で比丘、比丘尼の相が現れたなら、必ず戒男女欲しなければならない。経典には、出家は非常に殊勝だとあるが、これは、親族縁のない人たちについて言っているのだ。特にもし、この一生で禅宗を修めたいと考えるなら、戒欲しなければ修めることはできない。これは顕教の言い方だ。今日の話のポイントは、学仏はそなたの現在のライフスタイルを変えるものではなく、そなたの心構えを変えるものだということだ。学仏するなら、あれもこれもできないというのではなく、根拠があるものなのだ。『地蔵菩薩本願経』中にはっきりと書かれているように、『地蔵菩薩本願経』を修めるなら、必ず戒五辛、戒殺生、守五戒しなければならないが、『地蔵菩薩本願経』は夫婦が寝床を分けろとは説いていない。

修行人は仏法を学ぶ前に、先ずは人の縁を結ばなければならない。人の縁とは、他人が良くなければその人に対して良くしない、というのではなく、自己が為した何らかの事が原因で他人に煩悩を起こさせてはならない、ということだ。 リンチェンドルジェ・リンポチェはリンポチェだが、外出しても他人に知らせることはない。なぜなら自己の修行のために、他人に煩悩を起こさせては良くないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分は今でも凡夫だと思うが、修法時には当然諸仏菩薩を代表する。そなた達が今日の法会を覚えてさえおり、上師の名号を覚えてさえおり、地蔵王菩薩を覚えてさえおり、この一生で二度と再び肉食せず、殺生しないなら、いくらか小さな悪業を為したとしても、今日の事を覚えてさえいれば、地獄の入口まで行ったとしても、リンチェンドルジェ・リンポチェは、そなたが地獄に堕ちないことを保証する。この保証は、適当にするものではない。リンチェンドルジェ・リンポチェが責任を持つものだ。特に、法座にいる時には一字たりとも言い間違ってはならないのだ。なぜなら、言い間違いの果報は非常に重いからだ。

皆は商業社会におり、心はいつも急いている。何事もすぐに終わらせようと考えている。けれども、すぐに終わらせられる事は多くなく、いくらか時間が必要なものだ。日本の信衆は経典の念誦に慣れていない。日本では、衆生を率いて経を念じることが少なく、ただ少しの写経をさせて、誰かが念じているのを座って聞くだけで、これが法会だとしているが、実はそうではないのだ。法会は皆が参加しなければならないものだ。密法の中には、そなた達ではできないものもあるが、そなた達は顕教の部分は唱えなければならない。そうでなければ、印象が残らず、上師が言っているのは何のためかがわからないだろう。

念誦したことで、経典中の一言でも一文でも、そなた達にとって役に立つなら、それで充分だ。自身の口で唱えず、自身の耳で聞かず、自身の目で見ていないなら、印象がないだろう。そのため、今日法会に参加した日本の信衆が下巻を円満としたいなら、祈求に来るがよい。リンチェンドルジェ・リンポチェはスケジュールを調整し、いつか皆がすべてを念誦し終われるようにしよう。仏法で円満というのは、少しでも欠けてはならないのだ。少し欠ければ、それは少し足りないということだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは時間と困難を一切考慮に入れない。衆生が仏法を必要としており、それを祈求するなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ずスケジュールを調整し、皆を助けに来るだろう。

仏法の決まりは非常に厳格だ。衆生を率いて経を念じるのは、上師か清浄な出家衆でなければならない。清浄な出家衆とはどういうことだろうか? リンチェンドルジェ・リンポチェはリンチェンドルジェ・リンポチェの出家弟子に、信衆から供養を受け取ることを許していない。そして、 リンチェンドルジェ・リンポチェが彼らの生活を支えている。彼らは出家したのだから、あれこれ考えたり、信衆にへつらったりせず、この一生でしっかり修行して欲しいからだ。つまり、彼らは清浄な出家人であるので、そなた達を率いて経を念じることができるのだ。

先ほどの『地蔵菩薩本願経』中では『地球の人類は悪を為す者が多く、善を為す者が少ない。善を為したとしても、ほんの少しの小さな善に過ぎず、しかも善を為す考えがあったとしても、悪である人や事に出会えば、引き摺られてしまう』とあった。悪である人や事とは何だろうか?例えば、日本では秋はカニの季節だ。台湾でもそうで、多くの人が『カニの季節だ。秋のカニはおいしいね。早くカニを食べに行こう』と言う。そして食べに行き、一度にたくさんの命を食べてしまう。

気をつけて見てみるが良い。手指の関節が腫れている老人が多く、湾曲して伸ばせない人もいる。これこそ肉食殺生から来ているのだ。40歲代で既に手指の関節が腫れ始めている人もいる。この症状は医学的には尿酸が過多だという。皮膚病の多くもカニ、海鮮を食べることと関係がある。胃腸の病気、感染し易い体質もそうだ。東洋医学では、海鮮は寒毒といわれる。現代医学でも証明されている。魚をたくさん食べる人が毒に当たる確率は非常に高い。よって、もう一度言おう。『地蔵菩薩本願経』で説く事はすべて事実だ。そなた達は感服しなければならない。釋迦牟尼仏はトウリテンで法を説かれているが、地蔵菩薩が説かれているのはすべて地球の事なのだ。

これらは絶対に神話などではない。なぜなら釋迦牟尼仏は『学仏人は必ず一つの戒—嘘をついてはならない、を守らなければならない』と教導されているからだ。存在しない事実を言っては絶対にならないのだ。経典中の一文字一文字はすべて真実なのだ。『地蔵菩薩本願経』中では『地球の人類は非常に頑固で他人の意見に耳を貸さず、因果を信じない。どんなに言っても聞き入れず、聞き入れたかと思えば、踵を返しただけでもう忘れ、自分は素晴らしいと思っている』とある。本物の能力があるなら、死を恐れてはならない。修行人は死を恐れない。なぜなら、死とはどんなものかを知っているからだ。自分はどのように死ぬかを知っており、絶えず準備しているからだ。毎日、每分、每秒行うことのすべては仏法に関し、すべてはその日に備えての準備なのだ。

この場にいる者は『自分はまだ若いので、まだ死なないだろう。死ぬのは恐くない。だれでもそうやって死んでいくのだ』などと思っているかもしれないが、それは誤まりだ。死の痛苦は変えることができる。仏法を修行することで、変えることができるのだ。地球上の医学がこんなにも発達し、研究もこんなに進んでも、人の死の過程と死後どこへ行くかを研究する学問は一つもない。死ぬ時の心理と生理の状態について研究する学問もない。仏法だけなのだ。しかも非常にはっきりと説いている。どうして仏法は特にはっきりと説くことができるのか?なぜならこれは不可避な事だからだ。死についてはっきり知っており、しかもそれを把握できるなら、将来どんな事があろうとそれで悩んだり恐れたりすることはなくなり、精一杯心をこめて、この一生で負うべき責任を果せるようになり、過ちを犯すことなく、自分を傷つけ、他人を傷つけることもなくなるのだ。

この世界はますます乱れている。もし、悪業を為し続けるなら、ちょっとした不注意で悪業の中に巻き込まれてしまうだろう。よって、皆用心しなければならない。仏法は世間の学問よりずっと有効で、我々に対してずっと有益だ」と開示くださった。

法会が円満となり、弟子達は声を揃えて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる修法と殊勝なる開示に感謝申し上げ、起立合掌して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を下りられるのを恭しくお送り申し上げた。そして、殊勝なる密法の修持と貴重な仏法の教導を、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げた。参会者に正知正信の仏法の開示をくださり、学仏時に備えるべき懺悔心、菩提心、真誠極恭敬の心を教導くださり、仏法により衆生に利益する際の広大無辺な心量を明確に理解させてくださった。そして、参会者に、諸仏菩薩と深い善縁を結ばせてくださり、地蔵王菩薩の身、口、意の殊勝なる利益と加持を得させ、未来において輪迴苦海を解脱することができる貴重で得難い機会をお授けくださったのだ。

2008年5月の京都寶吉祥仏法センターの開光以来、リンチェンドルジェ・リンポチェは每年年末か年始に、京都寶吉祥仏法センターで殊勝なる法会を開催し、清浄な仏法で一切の衆生に利益し、無数の六道衆生が離苦得楽できるよう救っておられる。これにより、直貢噶舉の伝承法脈は日本でも永続し、清浄な教法は広く弘法及び発揚され、無量無辺の一切有情に利益することができているのだ。

2015 年 01 月 30 日 更新